戻ると、グソンは机の前に座っていた。
「お帰りなさい」
「ああ」
槙島はコートを脱ぎ、本を置いた。
グソンの視線が、その手元を追う。
「彼女は帰りましたか」
「家まで送ったよ」
「そうですか」
短い返事の後、グソンは作業中の画面を閉じた。
「それで。どうするつもりなんです?」
槙島は顔を上げた。
「彼女とのこと?」
「ほかに何があります」
椅子の向きを変え、グソンは続けた。
「遊びじゃないなら……深い関係になるつもりなら___」
槙島は黙って聞いていた。
「隠し通すにしても、いつか話すにしても、彼女の生活まで変わる。今みたいに、本の話だけして帰るわけにはいかなくなる」
「今日は、本の話をして帰ってきたよ」
「昨夜は帰ってこなかったでしょう」
槙島の口元がわずかに動いた。
グソンは笑わなかった。
「彼女には、初めてのことだったそうだよ」
「何がです?」
「友人に泊まってもらうことも、こんなふうに何度も出かけることも」
グソンは少し間を置いた。
「はは、なおさらじゃないですか」
槙島は椅子へ座った。
「何が言いたいかは分かる」
「分かっていて、続けるんですね」
「ああ」
返事は、今度はすぐだった。グソンが眉を寄せる。
「気が済んだら終わり、では済まないですよ。彼女は、ダンナが来るのを待つようになる」
「もう、待っていた」
部屋が静かになった。
槙島は机の本へ目を落とす。
テーブルに重ねられていたメモ。
返事が遅くなってからも、彼女が書いていたものだった。
「僕も、彼女からの連絡を待っていたよ」
グソンは何も言わなかった。
「面白い話が届くのを待っていたのだと思っていたけれど、それだけではなかった」
「では、何だったんです」
槙島は少し考えた。
沙代が話す前に、自分の顔を見る。
答えを聞いて笑い、納得できなければ問い返す。
今日も本を見つけると、まずこちらを向いた。
「彼女と、過ごしたかった」
グソンは背もたれへ身体を預けた。
「……そうですか」
それから、低い声で続けた。
「だったら、彼女が知らずに受け入れていることまで、承知したと思わないでくださいよ」
槙島の視線が上がる。
「泊まってほしいと言ったのは、彼女の知っているダンナにです」
穏やかに本を勧める。
具合が悪ければ来てくれる。一緒にいると楽しい。
沙代が知っているのは、その男だった。
槙島はしばらく、グソンを見ていた。
「そうだね」
「今後、近づくなら、そこは忘れないでください」
「ああ」
グソンは机へ向き直りかけ、もう一度口を開いた。
「彼女を大事にするつもりなら、秘密を守るだけでは済みませんからね」
槙島は、その言葉にも頷いた。
「覚えておくよ。……君も言うようになったね」
「女性は大事にしないといけませんからね」
*
話が終わると、グソンは資料を開いた。
槙島も、必要な確認を始めた。
二人とも、しばらく沙代の名前を口にしなかった。
ひと区切りついた頃、端末が光った。
『買った本、棚に入れました。猫がいたページには、しおりを挟んであります』
槙島は画面を読んだ。
今日の時間が、彼女の部屋に残っている。
『また開く時、すぐ見つけられるね』
返事を打ち、少し考えてから、もう一文添えた。
『今日は、ありがとう』
沙代の返事は早かった。
『私こそ。楽しかったです』
その後に、もう一通。
『また来てくださいね』
槙島は、グソンの言葉を思い返した。
彼女を大事にするつもりなら。自分が会いたいから会う。
それだけでは、もう十分ではない。
彼女が待っていることも、自分の返事で安心することも、知ってしまった。
『また行くよ。日が決まったら、連絡する』
送信して、端末を置く。
グソンはその様子を横目で見たが、何も尋ねなかった。
槙島は机の資料へ戻った。
次に沙代の部屋へ入る時も、彼女はきっと笑って迎える。
その信頼を、軽く受け取るつもりはなかった。
*
数日後、槙島は再び沙代の部屋を訪れた。
本を開いて話しているうちに、窓の外が暗くなっていた。
帰り支度をする前に、さらに次の約束を決めた。
沙代は端末の予定表に書き込んだ。
「その日は、午後から大丈夫です」
「では、三時頃に」
「はい」
顔を上げた沙代が、壁の時計へ目を向ける。
今日も、思っていたより時間が経っていた。
槙島が本を鞄へしまい始めると、彼女が口を開いた。
「……今日は、泊まりませんか?」
彼の手が止まった。沙代はソファを指さす。
「この前より、足を伸ばせるようにしてみたんです。そこの台、動かせるので」
槙島はソファを見た。前に短かったと言ったことを、覚えていたらしい。
それから、彼女へ視線を戻す。
「君は、無防備すぎるね」
小さく笑うと、沙代は首を傾けた。
「……そうですか?」
「僕が男には見えないかい?」
テーブルへ手をつき、少し身を寄せた。
声を張る必要のない距離だった。沙代の視線が彼の目へ止まる。
それから、急に行き場をなくしたように揺れた。
「……見えてます」
「それなら?」
彼女は椅子の背へわずかに寄り、膝の上で指を握った。
頬が赤くなる。
耳のあたりまで、色が変わっていた。
「だって……前、泊まってくれたじゃないですか」
さっきまで自然に誘っていた声が、小さくなっている。
槙島は、続きを促しかけた。
けれど、言葉が出るより先に、沙代がもう一度こちらを見た。
困っている。
それでも、目を逸らしきらずにいる。
その顔が、思いがけず可愛かった。槙島は一拍遅れて身体を戻した。
「そうだったね」
沙代が、ようやく息を吐く。
「……急に、近いです」
「悪かったよ」
笑いを含んだまま答えたが、もう一度近づく気にはならなかった。
彼女がどんな反応をするかは、今、分かった。
そして、自分がその反応をどう感じるかも。
「今日は、泊まるのをやめておくよ」
沙代は顔を上げた。
「あ……はい」
すぐに頷いたものの、少しだけ表情が曇った。
槙島はそれを見て、言葉を続けた。
「でも、本の話がなくても来ていいかい?」
沙代は瞬きをした。
「……もちろん」
今度は、迷わない返事だった。
「本がないと、来ちゃ駄目だと思ってたんですか?」
「君には、そういう用事で来ることが多かったからね」
「なくても、いいです」
まだ頬は赤かった。
それでも声は、少しずついつもの調子へ戻っている。
「お茶飲むだけでも。何も話さなくても……槙島さんが、来たいなら」
彼は沙代を見た。
「来たいから、聞いているんだよ」
沙代の唇がわずかに開き、また閉じた。
それから、目を伏せて笑った。
「……じゃあ、来てください」
玄関まで見送る間、沙代はいつもより静かだった。
槙島が靴を履くと、彼女は壁際に立ち、鞄へ目を向けている。
「倉橋さん」
顔が上がる。
頬の赤みは、まだ少し残っていた。
「三時に」
「はい。待ってます」
彼は頷き、扉を開けた。
外へ出てから振り返ると、沙代はもう普通に笑っていた。
それを見て、先ほどの顔がまた浮かぶ。だって、前に泊まってくれた。
信用されているのは、分かっていた。
その信用の中に、自分を男として意識した戸惑いが混ざった途端、目を離しにくくなった。
槙島は短く別れを告げ、扉が閉まるのを待った。
歩き出してから、鞄の持ち手を握り直す。今日は泊まらない。
沙代の無防備さだけが、理由ではなかった。
さっきの距離で、もう少し彼女を見ていたいと思った。
その顔を、もう一度自分の言葉で赤くしてみたいとも。
彼は階段の前で足を止め、わずかに笑った。
次に来る時、話す本を選ぶ必要はない。
それを確かめられたことが、今は嬉しかった。
この気持ちがなんなのか、分からなかったんだ。