絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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覚えてる?忘れちゃったかな


16.本の話をしよう

 

 

戻ると、グソンは机の前に座っていた。

 

「お帰りなさい」

「ああ」

 

槙島はコートを脱ぎ、本を置いた。

グソンの視線が、その手元を追う。

 

「彼女は帰りましたか」

「家まで送ったよ」

「そうですか」

 

短い返事の後、グソンは作業中の画面を閉じた。

 

「それで。どうするつもりなんです?」

 

槙島は顔を上げた。

 

「彼女とのこと?」

「ほかに何があります」

 

椅子の向きを変え、グソンは続けた。

 

「遊びじゃないなら……深い関係になるつもりなら___」

 

槙島は黙って聞いていた。

 

「隠し通すにしても、いつか話すにしても、彼女の生活まで変わる。今みたいに、本の話だけして帰るわけにはいかなくなる」

「今日は、本の話をして帰ってきたよ」

「昨夜は帰ってこなかったでしょう」

 

槙島の口元がわずかに動いた。

グソンは笑わなかった。

 

「彼女には、初めてのことだったそうだよ」

「何がです?」

「友人に泊まってもらうことも、こんなふうに何度も出かけることも」

 

グソンは少し間を置いた。

 

「はは、なおさらじゃないですか」

 

槙島は椅子へ座った。

 

「何が言いたいかは分かる」

「分かっていて、続けるんですね」

「ああ」

 

返事は、今度はすぐだった。グソンが眉を寄せる。

 

「気が済んだら終わり、では済まないですよ。彼女は、ダンナが来るのを待つようになる」

「もう、待っていた」

 

部屋が静かになった。

槙島は机の本へ目を落とす。

テーブルに重ねられていたメモ。

返事が遅くなってからも、彼女が書いていたものだった。

 

「僕も、彼女からの連絡を待っていたよ」

 

グソンは何も言わなかった。

 

「面白い話が届くのを待っていたのだと思っていたけれど、それだけではなかった」

「では、何だったんです」

 

槙島は少し考えた。

沙代が話す前に、自分の顔を見る。

答えを聞いて笑い、納得できなければ問い返す。

今日も本を見つけると、まずこちらを向いた。

 

「彼女と、過ごしたかった」

 

グソンは背もたれへ身体を預けた。

 

「……そうですか」

 

それから、低い声で続けた。

 

「だったら、彼女が知らずに受け入れていることまで、承知したと思わないでくださいよ」

 

槙島の視線が上がる。

 

「泊まってほしいと言ったのは、彼女の知っているダンナにです」

 

穏やかに本を勧める。

具合が悪ければ来てくれる。一緒にいると楽しい。

沙代が知っているのは、その男だった。

槙島はしばらく、グソンを見ていた。

 

「そうだね」

「今後、近づくなら、そこは忘れないでください」

「ああ」

 

グソンは机へ向き直りかけ、もう一度口を開いた。

 

「彼女を大事にするつもりなら、秘密を守るだけでは済みませんからね」

 

槙島は、その言葉にも頷いた。

 

「覚えておくよ。……君も言うようになったね」

「女性は大事にしないといけませんからね」

 

 

*

 

 

 

話が終わると、グソンは資料を開いた。

槙島も、必要な確認を始めた。

二人とも、しばらく沙代の名前を口にしなかった。

ひと区切りついた頃、端末が光った。

 

『買った本、棚に入れました。猫がいたページには、しおりを挟んであります』

 

槙島は画面を読んだ。

今日の時間が、彼女の部屋に残っている。

 

『また開く時、すぐ見つけられるね』

 

返事を打ち、少し考えてから、もう一文添えた。

 

『今日は、ありがとう』

 

沙代の返事は早かった。

 

『私こそ。楽しかったです』

 

その後に、もう一通。

 

『また来てくださいね』

 

槙島は、グソンの言葉を思い返した。

彼女を大事にするつもりなら。自分が会いたいから会う。

それだけでは、もう十分ではない。

彼女が待っていることも、自分の返事で安心することも、知ってしまった。

 

『また行くよ。日が決まったら、連絡する』

 

送信して、端末を置く。

グソンはその様子を横目で見たが、何も尋ねなかった。

槙島は机の資料へ戻った。

次に沙代の部屋へ入る時も、彼女はきっと笑って迎える。

その信頼を、軽く受け取るつもりはなかった。

 

*

 

数日後、槙島は再び沙代の部屋を訪れた。

本を開いて話しているうちに、窓の外が暗くなっていた。

帰り支度をする前に、さらに次の約束を決めた。

沙代は端末の予定表に書き込んだ。

 

「その日は、午後から大丈夫です」

「では、三時頃に」

「はい」

 

顔を上げた沙代が、壁の時計へ目を向ける。

今日も、思っていたより時間が経っていた。

槙島が本を鞄へしまい始めると、彼女が口を開いた。

 

「……今日は、泊まりませんか?」

 

彼の手が止まった。沙代はソファを指さす。

 

「この前より、足を伸ばせるようにしてみたんです。そこの台、動かせるので」

 

槙島はソファを見た。前に短かったと言ったことを、覚えていたらしい。

それから、彼女へ視線を戻す。

 

「君は、無防備すぎるね」

 

小さく笑うと、沙代は首を傾けた。

 

「……そうですか?」

「僕が男には見えないかい?」

 

テーブルへ手をつき、少し身を寄せた。

声を張る必要のない距離だった。沙代の視線が彼の目へ止まる。

それから、急に行き場をなくしたように揺れた。

 

「……見えてます」

「それなら?」

 

彼女は椅子の背へわずかに寄り、膝の上で指を握った。

頬が赤くなる。

耳のあたりまで、色が変わっていた。

 

「だって……前、泊まってくれたじゃないですか」

 

さっきまで自然に誘っていた声が、小さくなっている。

槙島は、続きを促しかけた。

けれど、言葉が出るより先に、沙代がもう一度こちらを見た。

困っている。

 

それでも、目を逸らしきらずにいる。

その顔が、思いがけず可愛かった。槙島は一拍遅れて身体を戻した。

 

「そうだったね」

 

沙代が、ようやく息を吐く。

 

「……急に、近いです」

「悪かったよ」

 

笑いを含んだまま答えたが、もう一度近づく気にはならなかった。

彼女がどんな反応をするかは、今、分かった。

そして、自分がその反応をどう感じるかも。

 

「今日は、泊まるのをやめておくよ」

 

沙代は顔を上げた。

 

「あ……はい」

 

すぐに頷いたものの、少しだけ表情が曇った。

槙島はそれを見て、言葉を続けた。

 

「でも、本の話がなくても来ていいかい?」

 

沙代は瞬きをした。

 

「……もちろん」

 

今度は、迷わない返事だった。

 

「本がないと、来ちゃ駄目だと思ってたんですか?」

「君には、そういう用事で来ることが多かったからね」

「なくても、いいです」

 

まだ頬は赤かった。

それでも声は、少しずついつもの調子へ戻っている。

 

「お茶飲むだけでも。何も話さなくても……槙島さんが、来たいなら」

 

彼は沙代を見た。

 

「来たいから、聞いているんだよ」

 

沙代の唇がわずかに開き、また閉じた。

それから、目を伏せて笑った。

 

「……じゃあ、来てください」

 

玄関まで見送る間、沙代はいつもより静かだった。

槙島が靴を履くと、彼女は壁際に立ち、鞄へ目を向けている。

 

「倉橋さん」

 

顔が上がる。

頬の赤みは、まだ少し残っていた。

 

「三時に」

「はい。待ってます」

 

彼は頷き、扉を開けた。

外へ出てから振り返ると、沙代はもう普通に笑っていた。

それを見て、先ほどの顔がまた浮かぶ。だって、前に泊まってくれた。

 

信用されているのは、分かっていた。

その信用の中に、自分を男として意識した戸惑いが混ざった途端、目を離しにくくなった。

 

槙島は短く別れを告げ、扉が閉まるのを待った。

歩き出してから、鞄の持ち手を握り直す。今日は泊まらない。

沙代の無防備さだけが、理由ではなかった。

 

さっきの距離で、もう少し彼女を見ていたいと思った。

その顔を、もう一度自分の言葉で赤くしてみたいとも。

彼は階段の前で足を止め、わずかに笑った。

次に来る時、話す本を選ぶ必要はない。

それを確かめられたことが、今は嬉しかった。

 

 




この気持ちがなんなのか、分からなかったんだ。
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