槙島が戻ると、グソンは画面から顔を上げた。
「今日は、お帰りで」
「泊まらずに戻ったよ」
「見れば分かります」
槙島はコートを脱いだ。
そのまま席へ向かうかと思ったが、グソンの机の前で足を止める。
「少し、話してもいいかな」
グソンは彼を見た。
「……何かありました?」
「沙代がね、今日も泊まっていかないかと言ったんだ」
仕事の話ではなかった。
グソンは手を止め、椅子の背にもたれた。
「断ったんですか」
「ああ」
「それはまた、どうして」
槙島は少し笑った。
「僕が男には見えないかと聞いてみた」
「……ほう」
「顔を近づけたら、真っ赤になってね。前に泊まってくれたじゃないか、と」
彼は、その時の声を思い出したように目を細めた。
「僕を信用しているから誘ったんだろうけれど、意識していないわけでもなかったらしい」
グソンは黙って聞いた。
聞かなくても、話は続きそうだった。
「それが、可愛かった」
槙島は率直に言った。
グソンの視線が、一瞬だけ画面へ逃げる。何の報告を受けているのだろう。
「……それで、帰ってきたんですね」
「そう。今日は、そのほうがいいと思った」
「彼女は?」
「少し残念そうだったから、本の話がなくても会いに来ていいかと聞いたよ」
「何と?」
「もちろん、と」
すぐに返ってきた。
その返事の速さに、グソンはもう尋ねなくても結果を察したが、槙島は続けた。
「何も話さなくても、僕が来たいなら来てほしいと言っていた」
彼は机の端へ軽く手を置いた。
グソンは、ゆっくり頷いた。
「……なるほど」
槙島は笑っていた。
いつもの、相手の答えを待つ笑みとは少し違う。
今は自分から話したくて、話している。
「これが恋なのか、愛なのかは、まだ分からないけれど」
そこで一度、言葉を切る。
「今は、すごく楽しいんだ」
グソンは彼の顔を見た。
面白い計画を思いついた時の顔は知っている。
本の一節について話し始める時も。
けれど、女性が赤くなったことを、こんなに楽しそうに報告されるのは初めてだった。
――中学生か、この人は。
口には出さなかった。
「良かったですね」
代わりに、そう答えた。
槙島は頷く。
「ああ」
皮肉として受け取るつもりもないらしい。
グソンはカップを持ち上げた。
中身はもう空だった。
「だから、来たいから聞いているんだと答えた」
「次は、いつ会うんです?」
「来週。三時に」
「決まってるんですね」
「彼女が予定に入れていたからね」
槙島の声に、また笑いが混じる。
グソンはカップを置いた。
以前なら、次にどうするかを尋ね、危険について念を押した。
今も、それが消えたわけではない。
ただ、目の前の男は、何が起きたかを話すために帰ってきていた。
今夜くらいは、聞いておいてもいいだろう。
「その時間は、空けておきますよ」
槙島が顔を上げる。
「ありがとう」
「ええ。後から予定をずらされるより、助かりますんで」
彼は画面を開き直した。
槙島も自分の席へ向かう。
鞄から本を出して、机へ置いた。
けれど、すぐには開かなかった。
『今日はありがとうございました』
沙代からのメッセージが届いていた。
少し遅れて、もう一通。
『次は、本を用意してなくてもいいんですよね』
槙島は画面を見て笑った。
その声に、グソンが横目を向ける。
「……また、何か?」
「彼女が確認している」
「今度は、ダンナの番ですね」
「何が?」
「顔に出ていますよ」
槙島は一度グソンを見た後、否定せずに入力した。
『うん。君がいてくれれば』
送信して、端末を置く。
グソンはその短い動作を見届けてから、静かに仕事へ戻った。