沙代と会う約束をした日の二日前、槙島は一人の男と向かい合って
いた。
男は、もう関わりたくないと言った。
引き受けた仕事を途中で投げ出し、預けていたものも持ち出していた。
「それなら、最初にそう言ってくれればよかった」
槙島が答えると、男は何度も頷いた。
「返します。全部。だから――」
「もう、ほかの人に渡したんだろう?」
男の口が閉じる。
槙島はその顔を眺めた。
謝っていた時より、今のほうがよく分かった。こちらが何を知っているかを探りながら、次の言葉を選んでいる。
「君がどうするか、聞きたかったんだよ」
「……言わない。誰にも」
「今度は、それを約束するんだね」
男が後ずさった。
さっきまで、机を挟んで話していた。
今は、その机を自分の前へ置こうとしている。
槙島は小さく笑った。
*
男が動かなくなってから、部屋は静かになった。
槙島は袖口を見下ろした。
血がついている。
「これ、お気に入りだったんだけどな」
槙島は上着を取り、椅子の背に残っていた折り皺を伸ばした。
机の端で、男の端末が光った。
『何時頃、帰る?』
槙島は一度その文字を見て、床へ視線を移した。
男は、もう答えない。
画面はしばらく点いていたが、やがて暗くなった。
家族、恋人、友人。相手は誰だって良かったが、今日はやけにそれが気になった。
今しがた命を奪われたこの男にも待っている人がいたのかもしれない。
槙島は手を伸ばさず、自分の端末を取り出した。
沙代とのやり取りを開く。
『うん。君がいてくれれば』
自分が送った言葉の下に、彼女の返事が残っていた。
『いますよ。私の家なので』
読み返して、口元が緩む。
あのあと、もう一通届いた。
『そういう意味じゃないですね。待ってます』
声に出して聞きたかった。
最初の返事をしたあと、どんな顔で言い直したのだろう。
「うん、彼女への気持ちが再確認出来たよ。ありがとう、と言ってももう聞こえてないか」
槙島は床に転がる男見て微笑んだ。
ーー早く会いたいな
槙島は、沙代の顔を思い浮かべた。
前に身を寄せた時には、耳まで赤くなった。今度も近づけば、そうなるだろうか。
ただ、また困らせればいいというものでもない。
何も話さなくても来ていいと、彼女は言った。隣で本を読むだけの午後も、悪くなかった。
端末をしまいかけ、もう一度画面へ目を落とす。
『早く会えるように、仕事を頑張るよ』
送信したメッセージは、完全に勢いだったが、取り消そうとは思わなかった。
部屋を出る前に、男から取り戻したものを確かめる。
ここへ来た用事は済んでいた。扉に手をかけたところで、返事が届いた。
『嬉しいです。待ってます』
槙島は足を止めた。
その短い返事を、もう一度読む。
待っている。
彼女は、二日後に自分が玄関へ来ると思っている。それが楽しみだから、待ってくれる。
槙島は笑った。
背後の部屋には、その笑い声を聞く者がいなかった。
端末をしまい、扉を閉める。
グソンに連絡を入れた。
「終わったよ。預けていたものも、回収した」
必要なことを伝える声は、先ほど男と話していた時と変わらなかっ
た。
通話を終えると、槙島は袖口をもう一度確かめた。
帰ったら、着替えよう。
このシャツは、もう処分すればいい。
沙代の部屋へ行く時には、別のものを着る。
あの白いカップを手に取り、隣に座って、彼女が何を話すか聞こう。
本は用意しなくてもいい。
そのことを思い出すと、また少し笑いたくなった。