1.名前
「あ、あった……!」
店が開くと、沙代は目当ての絵本を探した。見つけると胸がいっぱいになり、何度も表紙を撫でた。
「良かったね」
「はい、ありがとうございます。本当に欲しかったんです、これ……」
ぎゅ、と握った手に力が入る
「子供の頃に持っていたのと、同じ版だと思います。ここも……」
表紙を開き、見返しに描かれた小さな花を指さす。
「お話が始まる前に、いつもこの花を数えてたんです」
彼が隣から覗き込んだ。
長い白髪が肩から滑り落ちる。少しだけ距離が近くなったけれど、今はそれよりも、目の前の絵に夢中だった。
「毎回?」
「はい。何度数えても、同じなのに」
自分で言って、少し笑ってしまう。
「おばあちゃんも、答えを知ってるのに待ってくれて。数え終わるまで、次のページには行かないんです」
ページの端に指をかける。
この先にどんな絵があるか、まだ覚えている。
それでも、めくった瞬間に胸がいっぱいになった。
「……これです」
懐かしい部屋。窓辺の花瓶。
小さい頃、絵の中に指を入れられたらいいのに、と思っていた場所。
彼は急かさず、沙代が本から顔を上げるのを待っていた。
「すみません。一人で盛り上がっちゃって」
「構わないよ。君が何を探しに来たのか、少し分かった気がする」
その言葉が嬉しくて、絵本をそっと閉じた。
「買ってきます」
「ああ」
会計を済ませる間、彼は別の棚に目を向けていた。
本を手に取る横顔を見て、ようやく、自分が彼について何も知らない
ことに気づく。
「あの」
彼が振り向く。
「私、名前も聞かずに……。こんなにお世話になったのに」
「槙島だよ」
差し出された名前を、心の中で繰り返した。
「私は
沙代も名乗ると、槙島は確かめるように一度、その名前を口にした。
「このお店、よく来るんですか?」
「時々ね。君は?」
「また来たいです。ほかの本も、見てみたくなったので」
袋の中の絵本に目を落とす。
今日はこれだけを、早く家で読みたかった。
「じゃあ、また会うかもしれないね」
「……はい」
そうなったらいいな、と思った。
店を出る前に振り返ると、槙島はまだこちらを見ていた。
「その本の話、今度聞かせてくれるかい?」
沙代は袋を持つ手に少し力を込めて、頷いた。
「はい。ぜひ」
*
家に帰ると、上着を脱ぐのもそこそこに、袋から絵本を取り出した。
部屋の明かりの下で見る表紙は、店で見た時よりも少し鮮やかだっ
た。
赤い屋根を指でなぞって、それから、ゆっくりと開く。
見返しの小さな花を数えた。
全部で七つ。
昔と同じだった。
「……ちゃんと覚えてた」
誰に聞かせるでもなく呟いて、次のページをめくった。
読み進めるうちに、ところどころ、おばあちゃんの声が浮かんでき
た。
この台詞は少し高い声。ここでは、わざと長く間を空ける。その続きを待ちきれなくて、沙代が先に言ってしまうと、おばあちゃんは笑っ
た。
文字を目で追いながら、小さな声で読んでみる。
けれど、あの読み方はうまく真似できなかった。
最後のページまで読み終えても、すぐには閉じられなかった。
膝の上に置いたまま、もう一度、最初に戻った。
今度は絵をゆっくり眺めた。
窓辺の花瓶の模様。主人公の靴の色。子供の頃には気にしていなかったものが、いくつも目に入る。
ページを押さえていた指を、そっと動かした。
紙は思っていたより厚くて、少しざらざらしている。
めくると小さな音がして、指先に次の一枚が引っかかった。端末なら指を滑らせるだけの動作を、何度も確かめたくなる。
本を鼻に近づけてみた。
知らない人が見たら、きっと変な顔をされる。
それでも、紙とインクの匂いがしたのが嬉しかった。
三度目は、好きだった場面だけを開いた。
四度目は、寝る支度を済ませてから、ベッドの上で読んだ。
枕元に置こうとして、ほかの物に埋もれない場所を探す。
水の入ったグラスを遠ざけて、表紙が見えるように置いた。
これからは、読みたくなったらいつでも読める。
そう思うと安心して、もう一度だけ表紙を撫でた。
ふと、店で会った人の手元を思い出す。
槙島が読んでいたのは、絵のない、文字の詰まった本だった。
難しそうだと思った。
でも、どんな話なのだろうとも思っていた。
絵本以外の本を、あんなふうに紙で読んだことはほとんどない。
知らない物語でも、ページをめくるうちに、こんなふうに好きな場所ができるのだろうか。
端末を手に取って、今日訪ねた店の営業時間をもう一度調べた。
次は何を探せばいいのか、まだ分からなかった。
もし、また槙島に会えたら。
初めて読むならどんな本がいいか、聞いてみよう。
そう決めて端末を置くと、枕元の絵本に手を伸ばした。
寝る前に、もう一回だけ。
「……連絡先、聞いとけばよかったな」
絵本を閉じてから、ぽつりと呟いた。
お礼は言った。でも、読み返してどうだったかは、まだ話せていない。
本当に昔と同じだったことも、花の数まで覚えていたことも。
槙島は、聞かせてほしいと言ってくれたのに。
端末を手に取って、意味もなく連絡先の一覧を開く。
名前を知っているだけでは、どうにもならなかった。
そもそも、聞いたら教えてくれただろうか。
少し話しただけの相手に、連絡先を尋ねるのは馴れ馴れしいと思われたかもしれない。
「……本のこと、聞きたいだけだし」
口にしてから、誰に言い訳しているんだろうと思った。
あの店には、時々来るらしい。
なら、また会えるかもしれない。
けれど「時々」が明日なのか、一か月後なのかも分からないのだ。
端末を伏せ、枕元の絵本に目を向ける。
今度会えたら、おすすめの本を聞く。
それから、連絡先も。
聞く時の言葉まで考え始めていたことに気づいて、少し恥ずかしく
なった。
まだ、会えると決まったわけでもないのに。