絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

20 / 28
第3章
19.恋


二日後。

三時まで、あと二十分あった。

沙代は鏡の前で、髪の横をもう一度整えた。

服は、さっき着替えた。

最初に選んだものと、どちらがよかったのか、今も少し迷っている。

ただ家でお茶を飲むだけなのに。そう思っても、あの日の声が浮かんだ。

 

――僕が男には見えないかい?

 

思い出すだけで、顔が熱くなる。沙代は鏡から離れ、台所へ向かった。

カップを二つ並べる。今日は、本をテーブルに置いていない。

読んだものはあるけれど、話すためのメモも用意しなかった。

それが、かえって落ち着かなかった。

 

呼び鈴が鳴る。

 

時計を見ると、ちょうど三時だった。

 

 

*

 

 

「こんにちは」

 

扉を開けると、槙島が立っていた。

 

「こんにちは。どうぞ」

 

いつもどおりに言えた。そのことに安心して、沙代は一歩下がる。

彼が入ってきた時、目が合った。

すぐに、近づいた顔を思い出してしまう。沙代は先に廊下へ向き直った。

 

「お茶、すぐ淹れますね」

「うん」

 

背後で、靴を揃える音がする。

 

「今日は、髪がきれいにまとまっているね」

 

沙代は振り返った。

槙島が笑っていた。

 

「……まだ覚えてるんですか」

「忘れる約束は、していなかったからね」

「もう、あれは朝だったので」

「今日は、昼だから?」

 

沙代は返事をせず、台所へ向かった。

後ろで、小さく笑う声がした。

 

 

お茶を運ぶと、槙島はテーブルの上を見た。

 

 

「本がないね」

 

沙代はカップを置きながら頷いた。

 

「なくてもいいって、言ってくれたので」

「そうだった」

「……本当に、何も用意してないです」

 

彼が顔を上げた。

 

「君はいるだろう?」

 

カップから手を離すのが、少し遅れた。

沙代は自分の席へ座り、膝の上で指を重ねる。

 

「そういう言い方……」

「何かな」

「いえ」

 

槙島は彼女を見ていた。

沙代は目を伏せたまま、返事を探した。

お茶もあります、と付け足そうとして、やめる。

彼はカップへ手を伸ばした。

 

「最近、どうしていた?」

 

普通の問いに、沙代はようやく顔を上げた。

 

「買い物に行ったり、部屋を片づけたり。あとは、本を読んでました」

「結局、本の話になるね」

「……だって、ほかにあまり」

 

言いながら、沙代は笑った。少しずつ、いつもの調子が戻ってくる。

棚の位置を変えようとして、結局戻したこと。

前に買った本に、猫がもう一匹隠れていたこと。

見つけたのが夜で、そのまま連絡しようか迷ったこと。

 

「送ってくれればよかったのに」

「遅かったので」

「朝でもよかった」

「……はい」

 

その返事を聞いてから、槙島は尋ねた。

 

「何を書こうとした?」

 

沙代の視線が泳いだ。

 

「猫、いましたって」

「それだけ?」

「写真も、送ろうかと思って」

 

彼女はカップを持ち上げる。

実際には、文章を打つところまで進んでいた。

けれど会話の履歴を開くと、『君がいてくれれば』という返事が目に

入り、そこで手が止まってしまったのだ。

そのことまでは、言えなかった。

 

*

 

お茶を半分ほど飲んだ頃、沙代は棚から例の本を取った。

 

「ここです」

 

ページを開き、テーブルへ置く。

槙島が、絵へ目を落とした。

 

「木の後ろ?」

「そっちにもいるんですけど。こっちの窓にも」

 

沙代は指で示した。

向かいからでは見にくい位置だった。

槙島が立ち上がる。

 

「隣で見てもいいかな」

「あ……はい」

 

彼が横へ座る。

椅子の間隔は、狭すぎるわけではなかった。

でも肩の向こうから聞こえる声は、いつもより近い。

 

「どの窓?」

 

沙代はもう一度指を置いた。

 

「ここです」

 

白い髪が、視界の端へ入る。

目を上げれば顔があると分かって、上げられなくなった。

 

「本当だ」

 

槙島が言った。沙代は頷く。

彼は絵を見た後、彼女の横顔へ視線を移した。

 

「倉橋さん」

「はい?」

 

顔を向けてしまった。

 

近い。

 

今度は彼が身を寄せたのではない。

自分が振り向いただけなのに、沙代は慌てて本へ視線を戻した。

槙島が小さく笑う。

 

「今日は、よく目を逸らすね」

「……気のせいです」

「そうかな」

 

沙代はページの端を押さえた。

文字も絵も、今はうまく目に入らない。

 

「この前、変なこと言うから」

「僕が男には見えないかと聞いたこと?」

 

口にされると、余計に恥ずかしかった。

沙代は黙って頷く。

槙島の視線が、熱くなった耳元へ動いた。

沙代は、顔を伏せかけて踏みとどまった。

 

「では、見えるようになった?」

 

沙代がこちらを見る。

 

「前から、見えてます」

 

声は小さいのに、そこだけははっきりしていた。

 

槙島は笑った。

 

「そうだったね」

「……楽しんでますよね」

「うん」

 

あまりにも素直な返事だったので、沙代は言葉を失った。

彼は続ける。

 

「君が、いつもと違う顔をするから」

「そんなに見ないでください」

 

その声に、槙島は少し身体を引いた。

 

「からかいすぎたかな」

 

沙代は彼を見た。

 

「……ちょっと」

「分かった。もうやめるよ」

 

彼は向かいの席へ戻ろうとした。

その動きに、沙代が口を開く。

 

「そこは……別に、いいです」

 

槙島の手が、椅子の背で止まった。

沙代は顔を伏せたまま続ける。

 

「隣にいるのが嫌なわけじゃないので」

 

彼は、少しの間黙っていた。

今度は沙代が、返事を待った。

 

「そう」

 

槙島は椅子へ座り直した。

 

「では、ここにいよう」

 

 

 

しばらくは、二人とも本を見ていた。

猫のいる窓。

庭の木。

何度も見たはずの、小さな絵。

沙代の指が、次のページへ動く。

 

「……こっちは、まだ探してないです」

「じゃあ、探そうか」

 

声は穏やかだった。

もう、先ほどのことには触れない。

沙代は少しずつ、絵の中を見られるようになった。

 

 

槙島も視線を落とした。

けれど彼には、猫の場所より、さっきの言葉のほうが残っていた。

隣にいるのが嫌なわけじゃない。

困らせたと分かって、一度離れようとした。その自分を、沙代が引き止めた。

 

 

 

彼は本の端へ手を添えた。

 

「ここに、尻尾がある」

「……あ、本当だ」

 

沙代が顔を上げる。

今度は目が合っても、すぐには逸らさなかった。

槙島は、その短い間を楽しんだ。今日はもう、からかわない。

ただ、帰る時にはきっと、この顔を思い出すだろうと思った。

 




からかうのが楽しかったんだ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。