19.恋
二日後。
三時まで、あと二十分あった。
沙代は鏡の前で、髪の横をもう一度整えた。
服は、さっき着替えた。
最初に選んだものと、どちらがよかったのか、今も少し迷っている。
ただ家でお茶を飲むだけなのに。そう思っても、あの日の声が浮かんだ。
――僕が男には見えないかい?
思い出すだけで、顔が熱くなる。沙代は鏡から離れ、台所へ向かった。
カップを二つ並べる。今日は、本をテーブルに置いていない。
読んだものはあるけれど、話すためのメモも用意しなかった。
それが、かえって落ち着かなかった。
呼び鈴が鳴る。
時計を見ると、ちょうど三時だった。
*
「こんにちは」
扉を開けると、槙島が立っていた。
「こんにちは。どうぞ」
いつもどおりに言えた。そのことに安心して、沙代は一歩下がる。
彼が入ってきた時、目が合った。
すぐに、近づいた顔を思い出してしまう。沙代は先に廊下へ向き直った。
「お茶、すぐ淹れますね」
「うん」
背後で、靴を揃える音がする。
「今日は、髪がきれいにまとまっているね」
沙代は振り返った。
槙島が笑っていた。
「……まだ覚えてるんですか」
「忘れる約束は、していなかったからね」
「もう、あれは朝だったので」
「今日は、昼だから?」
沙代は返事をせず、台所へ向かった。
後ろで、小さく笑う声がした。
お茶を運ぶと、槙島はテーブルの上を見た。
「本がないね」
沙代はカップを置きながら頷いた。
「なくてもいいって、言ってくれたので」
「そうだった」
「……本当に、何も用意してないです」
彼が顔を上げた。
「君はいるだろう?」
カップから手を離すのが、少し遅れた。
沙代は自分の席へ座り、膝の上で指を重ねる。
「そういう言い方……」
「何かな」
「いえ」
槙島は彼女を見ていた。
沙代は目を伏せたまま、返事を探した。
お茶もあります、と付け足そうとして、やめる。
彼はカップへ手を伸ばした。
「最近、どうしていた?」
普通の問いに、沙代はようやく顔を上げた。
「買い物に行ったり、部屋を片づけたり。あとは、本を読んでました」
「結局、本の話になるね」
「……だって、ほかにあまり」
言いながら、沙代は笑った。少しずつ、いつもの調子が戻ってくる。
棚の位置を変えようとして、結局戻したこと。
前に買った本に、猫がもう一匹隠れていたこと。
見つけたのが夜で、そのまま連絡しようか迷ったこと。
「送ってくれればよかったのに」
「遅かったので」
「朝でもよかった」
「……はい」
その返事を聞いてから、槙島は尋ねた。
「何を書こうとした?」
沙代の視線が泳いだ。
「猫、いましたって」
「それだけ?」
「写真も、送ろうかと思って」
彼女はカップを持ち上げる。
実際には、文章を打つところまで進んでいた。
けれど会話の履歴を開くと、『君がいてくれれば』という返事が目に
入り、そこで手が止まってしまったのだ。
そのことまでは、言えなかった。
*
お茶を半分ほど飲んだ頃、沙代は棚から例の本を取った。
「ここです」
ページを開き、テーブルへ置く。
槙島が、絵へ目を落とした。
「木の後ろ?」
「そっちにもいるんですけど。こっちの窓にも」
沙代は指で示した。
向かいからでは見にくい位置だった。
槙島が立ち上がる。
「隣で見てもいいかな」
「あ……はい」
彼が横へ座る。
椅子の間隔は、狭すぎるわけではなかった。
でも肩の向こうから聞こえる声は、いつもより近い。
「どの窓?」
沙代はもう一度指を置いた。
「ここです」
白い髪が、視界の端へ入る。
目を上げれば顔があると分かって、上げられなくなった。
「本当だ」
槙島が言った。沙代は頷く。
彼は絵を見た後、彼女の横顔へ視線を移した。
「倉橋さん」
「はい?」
顔を向けてしまった。
近い。
今度は彼が身を寄せたのではない。
自分が振り向いただけなのに、沙代は慌てて本へ視線を戻した。
槙島が小さく笑う。
「今日は、よく目を逸らすね」
「……気のせいです」
「そうかな」
沙代はページの端を押さえた。
文字も絵も、今はうまく目に入らない。
「この前、変なこと言うから」
「僕が男には見えないかと聞いたこと?」
口にされると、余計に恥ずかしかった。
沙代は黙って頷く。
槙島の視線が、熱くなった耳元へ動いた。
沙代は、顔を伏せかけて踏みとどまった。
「では、見えるようになった?」
沙代がこちらを見る。
「前から、見えてます」
声は小さいのに、そこだけははっきりしていた。
槙島は笑った。
「そうだったね」
「……楽しんでますよね」
「うん」
あまりにも素直な返事だったので、沙代は言葉を失った。
彼は続ける。
「君が、いつもと違う顔をするから」
「そんなに見ないでください」
その声に、槙島は少し身体を引いた。
「からかいすぎたかな」
沙代は彼を見た。
「……ちょっと」
「分かった。もうやめるよ」
彼は向かいの席へ戻ろうとした。
その動きに、沙代が口を開く。
「そこは……別に、いいです」
槙島の手が、椅子の背で止まった。
沙代は顔を伏せたまま続ける。
「隣にいるのが嫌なわけじゃないので」
彼は、少しの間黙っていた。
今度は沙代が、返事を待った。
「そう」
槙島は椅子へ座り直した。
「では、ここにいよう」
しばらくは、二人とも本を見ていた。
猫のいる窓。
庭の木。
何度も見たはずの、小さな絵。
沙代の指が、次のページへ動く。
「……こっちは、まだ探してないです」
「じゃあ、探そうか」
声は穏やかだった。
もう、先ほどのことには触れない。
沙代は少しずつ、絵の中を見られるようになった。
槙島も視線を落とした。
けれど彼には、猫の場所より、さっきの言葉のほうが残っていた。
隣にいるのが嫌なわけじゃない。
困らせたと分かって、一度離れようとした。その自分を、沙代が引き止めた。
彼は本の端へ手を添えた。
「ここに、尻尾がある」
「……あ、本当だ」
沙代が顔を上げる。
今度は目が合っても、すぐには逸らさなかった。
槙島は、その短い間を楽しんだ。今日はもう、からかわない。
ただ、帰る時にはきっと、この顔を思い出すだろうと思った。
からかうのが楽しかったんだ