絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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この時に始まったんだ__


21.棚に残る本

 

 

それから、槙島が来る日のために、本を読み終えておくことはなくなった。

途中なら、途中のままでよかった。

話すことがなければ、それぞれの本を開く。

 

同じ部屋で別々のページをめくっている時間も、沙代は好きになっていた。

その日も、呼び鈴が鳴った時には、ソファで本を読んでいた。

しおりを挟み、玄関へ向かう。

 

「こんにちは、沙代」

「こんにちは」

 

呼ばれた名前には、少し慣れた。

それでも、扉を開けた途端にその声を聞くと、嬉しくなる。

槙島の手には、小さな袋があった。

 

「これ、切れそうだっただろう」

 

受け取ると、いつも飲んでいる茶葉だった。

沙代は袋と彼の顔を見比べる。

 

「……いつ見たんですか?」

「前に淹れた時。君は気づいていなかった?」

「まだあると思ってました」

「一回分くらいはね」

 

彼が靴を脱ぐ。

沙代は台所へ歩きながら、袋をもう一度見た。

 

「私より詳しいですね」

「使った時に見えただけだよ」

 

お湯を沸かそうとすると、後ろから槙島が来た。

 

「僕が淹れよう。続きを読んでいたんじゃない?」

「あ、はい。でも——」

 

彼は戸棚を開けた。

白いカップと、沙代が使うカップを取り出す。茶葉の缶は、その隣。

迷いのない手つきに、沙代は少し笑った。

 

「もう、案内いらないですね」

「変えたところがあれば教えて」

「変えてないです」

「では、大丈夫」

 

彼はカップを並べた。沙代はソファへ戻る。

座って本を開いたものの、文字より台所の音が気になった。

缶の蓋を開ける音。スプーンが触れる音。湯を注ぐ音。

 

一人で暮らしていた部屋に、自分ではない人の動きがある。

もう、珍しくはなくなってきた。

でも、嬉しくなくなったわけではなかった。

 

「どこまで読んだ?」

 

カップを運んできた槙島が尋ねる。

沙代は本を見せた。

 

「ここです。あと少しなんですけど、終わるのが惜しくて」

「ゆっくり読んでいればいいよ」

 

彼は隣へ座り、自分の鞄から本を出した。

二人とも、しばらく何も話さなかった。

 

 

 

 

*

 

 

沙代が一つの章を読み終えて顔を上げると、槙島はまだ読んでいた。

俯いた顔に、白い髪が落ちている。

邪魔ではないのだろうかと思ったけれど、本人は気にしていないようだった。

 

指が、ページの端を滑る。

そのまま見ていると、彼が顔を上げた。

 

「何かな?」

 

沙代は慌てて本へ目を落とした。

 

「……いえ」

 

少し遅れ、笑う気配がした。

 

「僕の本が気になる?」

「本は、見えてなかったです」

 

答えてから、顔が熱くなる。槙島は黙った。

その間が気になって、沙代はもう一度彼を見た。

彼は笑っていた。

 

「そう」

 

それだけだった。

沙代は膝の上の本を閉じる。

 

「……何を読んでるのかなって、思っただけです」

「見えていなかったのに?」

「気になったのは、その後です」

「なるほど」

 

からかわれている。分かっていても、うまく言い返せなかった。

彼は表紙をこちらへ向けた。

沙代が前に、難しそうだと言った本だった。

 

「それ、また読んでるんですか?」

「ああ。前に読んだ時と、気になるところが変わってね」

 

沙代は少し安心して、表紙へ顔を近づけた。

題名を確かめていると、槙島が本を下げる。

 

「近いね」

 

顔を上げると、彼がすぐそこにいた。

沙代は肩を引いた。

 

「本を見てたんです」

「うん。今は分かったよ」

 

彼が笑う。

沙代は膝の上で自分の本を持ち直した。

 

「……もう」

 

けれど、席を離れる気にはならなかった。

 

 

 

*

 

 

 

夕方、槙島が鞄を持った。

 

「今日は、そろそろ戻るよ」

 

沙代は頷く。

来た時から帰る時刻を聞いていたので、慌てずに済んだ。

それでも、彼が本をしまい始めると、もう少し話したいことを探してしまう。

 

「その本、持って帰るんですか?」

「まだ読んでいるからね」

「こっちにも、二冊あります」

 

棚を指さす。

彼はそちらを見て、笑った。

 

「置いたままだったね」

「忘れてました?」

「ここにあるのは、覚えていたよ」

 

沙代は棚へ歩き、二冊を少し寄せた。

隣に、自分の本が並んでいる。

 

「置く場所、分けたほうがいいかな」

 

槙島が立ち上がり、彼女のそばへ来た。

 

「困っている?」

「いえ。どれが槙島さんのか、分かるので」

「では、そのままでいいんじゃないかな」

 

沙代は頷いた。

彼の本を置いた場所が、棚からなくなるのは、少し寂しい気がした。

 

 

*

 

玄関で、槙島が靴を履いた沙代は扉の近くに立ち、出発を待つ。

ふと、その肩に細い糸がついていた。ソファの膝掛けから移ったらしい。

 

「ちょっと待って」

 

彼がこちらを向く。

沙代は手を伸ばし、指先で糸を取った。

 

「ついてました」

 

掌に乗せて見せる。

大したものではなかった。

槙島はそれを見てから、彼女の顔へ視線を戻した。

 

「ありがとう」

 

沙代は手を下ろす。

彼へ自然に触れたことに、今さら気づいた。

 

「……いえ」

 

彼はすぐ扉を開けず、少しだけそこにいた。

 

「沙代」

 

顔が上がる。

 

「次は、その本の終わりを聞けるかな」

「まだ分からないです。読んじゃうの、惜しいので」

「では、終わっていなくても」

 

沙代は笑った。

 

「はい」

 

彼が扉を開ける。

沙代はいつものように見送った。

 

 

 

 

 

帰り道、槙島は肩へ目を向けた。

糸はもう、ついていない。彼女が少し背を伸ばして、そこへ手を伸ばした。

自分を見る時とは違って、触れる前には迷わなかった。

 

気づいた後で、照れていた。

槙島は小さく笑い、前を向いた。

部屋には、自分の本が二冊残っている。

茶葉も、しばらくは足りる。

 

次に行った時、沙代は今日の本を読み終えているかもしれない。

まだ同じところで止まっているかもしれない。

どちらでもよかった。

玄関の向こうから、彼女が出てきてくれれば。

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