それから、槙島が来る日のために、本を読み終えておくことはなくなった。
途中なら、途中のままでよかった。
話すことがなければ、それぞれの本を開く。
同じ部屋で別々のページをめくっている時間も、沙代は好きになっていた。
その日も、呼び鈴が鳴った時には、ソファで本を読んでいた。
しおりを挟み、玄関へ向かう。
「こんにちは、沙代」
「こんにちは」
呼ばれた名前には、少し慣れた。
それでも、扉を開けた途端にその声を聞くと、嬉しくなる。
槙島の手には、小さな袋があった。
「これ、切れそうだっただろう」
受け取ると、いつも飲んでいる茶葉だった。
沙代は袋と彼の顔を見比べる。
「……いつ見たんですか?」
「前に淹れた時。君は気づいていなかった?」
「まだあると思ってました」
「一回分くらいはね」
彼が靴を脱ぐ。
沙代は台所へ歩きながら、袋をもう一度見た。
「私より詳しいですね」
「使った時に見えただけだよ」
お湯を沸かそうとすると、後ろから槙島が来た。
「僕が淹れよう。続きを読んでいたんじゃない?」
「あ、はい。でも——」
彼は戸棚を開けた。
白いカップと、沙代が使うカップを取り出す。茶葉の缶は、その隣。
迷いのない手つきに、沙代は少し笑った。
「もう、案内いらないですね」
「変えたところがあれば教えて」
「変えてないです」
「では、大丈夫」
彼はカップを並べた。沙代はソファへ戻る。
座って本を開いたものの、文字より台所の音が気になった。
缶の蓋を開ける音。スプーンが触れる音。湯を注ぐ音。
一人で暮らしていた部屋に、自分ではない人の動きがある。
もう、珍しくはなくなってきた。
でも、嬉しくなくなったわけではなかった。
「どこまで読んだ?」
カップを運んできた槙島が尋ねる。
沙代は本を見せた。
「ここです。あと少しなんですけど、終わるのが惜しくて」
「ゆっくり読んでいればいいよ」
彼は隣へ座り、自分の鞄から本を出した。
二人とも、しばらく何も話さなかった。
*
沙代が一つの章を読み終えて顔を上げると、槙島はまだ読んでいた。
俯いた顔に、白い髪が落ちている。
邪魔ではないのだろうかと思ったけれど、本人は気にしていないようだった。
指が、ページの端を滑る。
そのまま見ていると、彼が顔を上げた。
「何かな?」
沙代は慌てて本へ目を落とした。
「……いえ」
少し遅れ、笑う気配がした。
「僕の本が気になる?」
「本は、見えてなかったです」
答えてから、顔が熱くなる。槙島は黙った。
その間が気になって、沙代はもう一度彼を見た。
彼は笑っていた。
「そう」
それだけだった。
沙代は膝の上の本を閉じる。
「……何を読んでるのかなって、思っただけです」
「見えていなかったのに?」
「気になったのは、その後です」
「なるほど」
からかわれている。分かっていても、うまく言い返せなかった。
彼は表紙をこちらへ向けた。
沙代が前に、難しそうだと言った本だった。
「それ、また読んでるんですか?」
「ああ。前に読んだ時と、気になるところが変わってね」
沙代は少し安心して、表紙へ顔を近づけた。
題名を確かめていると、槙島が本を下げる。
「近いね」
顔を上げると、彼がすぐそこにいた。
沙代は肩を引いた。
「本を見てたんです」
「うん。今は分かったよ」
彼が笑う。
沙代は膝の上で自分の本を持ち直した。
「……もう」
けれど、席を離れる気にはならなかった。
*
夕方、槙島が鞄を持った。
「今日は、そろそろ戻るよ」
沙代は頷く。
来た時から帰る時刻を聞いていたので、慌てずに済んだ。
それでも、彼が本をしまい始めると、もう少し話したいことを探してしまう。
「その本、持って帰るんですか?」
「まだ読んでいるからね」
「こっちにも、二冊あります」
棚を指さす。
彼はそちらを見て、笑った。
「置いたままだったね」
「忘れてました?」
「ここにあるのは、覚えていたよ」
沙代は棚へ歩き、二冊を少し寄せた。
隣に、自分の本が並んでいる。
「置く場所、分けたほうがいいかな」
槙島が立ち上がり、彼女のそばへ来た。
「困っている?」
「いえ。どれが槙島さんのか、分かるので」
「では、そのままでいいんじゃないかな」
沙代は頷いた。
彼の本を置いた場所が、棚からなくなるのは、少し寂しい気がした。
*
玄関で、槙島が靴を履いた沙代は扉の近くに立ち、出発を待つ。
ふと、その肩に細い糸がついていた。ソファの膝掛けから移ったらしい。
「ちょっと待って」
彼がこちらを向く。
沙代は手を伸ばし、指先で糸を取った。
「ついてました」
掌に乗せて見せる。
大したものではなかった。
槙島はそれを見てから、彼女の顔へ視線を戻した。
「ありがとう」
沙代は手を下ろす。
彼へ自然に触れたことに、今さら気づいた。
「……いえ」
彼はすぐ扉を開けず、少しだけそこにいた。
「沙代」
顔が上がる。
「次は、その本の終わりを聞けるかな」
「まだ分からないです。読んじゃうの、惜しいので」
「では、終わっていなくても」
沙代は笑った。
「はい」
彼が扉を開ける。
沙代はいつものように見送った。
帰り道、槙島は肩へ目を向けた。
糸はもう、ついていない。彼女が少し背を伸ばして、そこへ手を伸ばした。
自分を見る時とは違って、触れる前には迷わなかった。
気づいた後で、照れていた。
槙島は小さく笑い、前を向いた。
部屋には、自分の本が二冊残っている。
茶葉も、しばらくは足りる。
次に行った時、沙代は今日の本を読み終えているかもしれない。
まだ同じところで止まっているかもしれない。
どちらでもよかった。
玄関の向こうから、彼女が出てきてくれれば。