絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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24.何故だろう

 

 

 

 

翌日、沙代の家から戻ると、グソンは画面から顔を上げた。

 

「お帰りなさい」

「ああ」

 

槙島はコートを脱ぎ、椅子の背へかけた。

 

鞄から本を出す。

昨日、沙代の部屋で開いたところに、しおりが挟まっていた。

 

「……今回は、長かったですね」

 

グソンの声に、槙島が顔を向ける。

 

「うん。もう少し、一緒にいたくなってね」

「彼女と?」

「ああ」

 

槙島は本を机へ置いた。

 

「沙代と、付き合うことになったよ」

 

グソンの手が止まる。

 

「……とうとう」

「彼女が、僕を好きだと言ってくれた」

「ダンナは?」

「恋人になってもいいかと聞いたよ」

 

槙島は、机に置いた本へ目を落とした。

 

「よく、決めましたね」

 

グソンが言う。

 

「決めるまで、随分かかったと思うけれど」

「そういう意味じゃありませんよ」

 

槙島が顔を上げる。

グソンは端末を脇へ寄せた。

 

「彼女を好きだと、認めたんでしょう」

「ああ」

「その手のことは、もっと疑う人かと思ってました」

 

槙島は少し笑った。

 

「言葉を疑うことと、自分に起きていることを認めないことは、違う

だろう」

 

椅子へ座り、机の本へ指を置く。

 

「恋愛という名前をつければ、何か分かった気にはなれるね。会いたくなるのも、触れたくなるのも、それで説明したことにできる」

「説明じゃ、足りませんか」

「彼女である理由までは、分からないよ」

 

グソンは槙島を見た。

 

「そこを、聞きたいんですがね」

 

槙島は、少しの間黙っていた。

最初に覚えていたのは、絵本の表紙を撫でる手だった。

見つけたことが嬉しくて、まだ会計も済ませていないのに、何度も同じところに触れていた。

それを見ている時間に、退屈はしなかった。

 

ただ、その時はまだ、次に会えなくても困るとは思っていなかった。

 

「僕が勧めた本を、彼女は気に入らないことがある」

 

槙島が言った。

グソンは片眉を上げる。

 

「それが理由ですか」

「最初は、謝っていたよ。勧めてもらったのに、こんな感想で申し訳ないとね」

「遠慮するでしょう。普通は」

「それでも、感想のほうは変えなかった」

 

槙島は本の角を指で辿った。

 

「主人公には謝ってほしかったと言う。僕はその先が気になったと言う。彼女は、そうですかと聞いてから、でも、と続ける」

 

あの時の声を思い出して、口元が緩んだ。

 

「僕に同意するために、読んでいるわけではないんだ」

「ダンナに、反対するためでもない」

「そうだね」

 

槙島は頷いた。

 

「考え直したら、意見が変わったとも言う。前に違うことを言ったのを、隠そうとしない」

「素直な人なんですね」

「君は、そうまとめるんだね」

 

グソンが小さく肩をすくめる。

 

「ダンナは違うと?」

「彼女は、そんなに簡単に話せる人ではないよ。返事をする前に、随分考えることもある」

 

槙島は背もたれへ身体を預けた。

 

「僕が何を言えば喜ぶか、考えている時もあるのかもしれない。けれど、いつもそのとおりにはしてくれない」

「お望みどおりの人なら、飽きますか」

「僕が望んだものしか返ってこないなら、僕一人で考えていれば済む

だろう」

 

グソンは、少しだけ笑った。

 

「でも、それだけなら、面白い話し相手でよかったんじゃありません?」

 

槙島は顔を向けた。

 

「ほかにもいるでしょう。本を読んで、自分の意見を言う人くらい」

「いるね」

「彼女でなければ、いけない理由にはならない」

「そのとおりだよ」

 

あっさり認めたので、グソンのほうが黙った。

槙島は机の本を開いた。

しおりの位置は、出かける前と変わっていない。

 

「昨日から、ほとんど読めなかった」

「彼女の話を聞いていたから?」

「話していない時間にも、気になっていた」

 

沙代は隣で、同じ行を何度も読んでいた。

自分がページをめくると、指先へ目を向ける。

名前を呼ぶと、慌ててこちらを見る。何を考えているのか知りたかった。

本の感想を聞く時とは、違う気持ちで。

 

「あの部屋で別々の本を読んでいると、たまに彼女が顔を上げるんだ」

 

槙島は続けた。

 

「何か言うのかと思えば、また戻る。そのまま何も話さないこともある」

「それでも、いいんですね」

「うん」

 

返事は、すぐに出た。

 

「続きを聞きたくて会いに行ったはずなのに、何も聞けなくても、また行きたくなる」

 

槙島は本を閉じた。

 

「そこが、少し厄介だった」

 

グソンの笑みが薄くなる。

 

「だった?」

「彼女がいなくなれば、気にならなくなると思ったことがあるよ」

 

部屋が静かになった。

グソンは、机へ置いていた手を動かさなかった。

 

「……考えただけですか」

 

槙島は彼を見た。

 

「眠っているところまで、行った」

 

その声は、変わらなかった。

 

「君には手を出すなと言っておきながらね」

 

グソンは短く息を吐いた。

 

「それで?」

「やめた」

「なぜ」

 

槙島はすぐには答えなかった。あの夜、沙代は眠っていた。

こちらの考えを変えるようなことは、何一つしていない。

 

「その後の朝に、彼女がいなくなる」

 

グソンの目が、わずかに細くなる。

 

「それが、嫌だったんだよ」

 

槙島は口元を緩めた

 

「ずいぶん簡単な答えだろう」

 

グソンは笑わなかった。

 

「彼女には、言わないんでしょうね」

「言わないよ」

「知らないまま、昨日も信用していた」

「ああ」

 

槙島は、その言葉を受け取った。

 

「昨日、彼女は自分から好きだと言った」

 

しばらくして、槙島が口を開いた。

 

「隣で本を読めなくなるほど考えて、それでも、言おうとしたんだ」

「勇気が要ったでしょうね」

「僕の顔を見ていたよ。返事を聞くまで、目を逸らさなかった」

 

あの時、からかう言葉は浮かばなかった。

彼女が何を感じているか、もう分かった。

その先を試すために黙っているのは、自分がしたかったことではない。

自分の返事を、聞いてほしかった。

 

「だから、答えた」

 

グソンは槙島を見ていた。

 

「彼女は、自分で選んだわけですね。彼女が知っているダンナを」

 

最後の言葉に、槙島の指が止まる。

 

「そうだね」

「全部知っても、同じことを言うと思いますか」

「分からないよ」

「確かめたくは?」

 

槙島は、机の上の端末を見た。

 

「知りたいとは思う」

「でも、話さない」

「今はね」

 

グソンが椅子へ座り直した。

 

「相手の反応を見るために、何でも試してきた人が」

「今までと同じように扱うなら、恋人になりたいとは言わなかったよ」

 

槙島は顔を上げた。

穏やかな声だったが、笑ってはいなかった。

 

「彼女が僕をどう見るかは、彼女にしか決められない。僕が気に入る答えを、言わせることはできるかもしれないけれど」

 

少し間を置く。

 

「それを聞きたいわけではないんだ」

 

グソンは、その顔をしばらく見ていた。

 

「本当に嫌われたら?」

 

槙島は答えを探した。会いたくないと言われる。

あの玄関で、扉が閉まる。

その先を考えかけて、やめた。

 

「今、平気だと言えば、嘘になるね」

 

グソンは頷かなかった。

ただ、それ以上の返事を求めなかった。

 

「彼女のために、こっちをやめる気は?」

 

資料を引き寄せながら、グソンが尋ねた。

 

「ないよ」

 

槙島の返事は、短かった。

 

「即答ですか」

「君は、その答えを知っていたんじゃない?」

「ええ。まあ」

 

グソンは画面を向けた。槙島は資料へ目を通す。

必要な箇所を確かめ、相手へ何を伝えるか決める。

それが済む頃、端末が光った。

 

沙代からだった。

 

『昨日から、ありがとうございました』

 

少し間を置いて、もう一通届いた。

 

『ちゃんと帰れましたか?』

 

槙島は画面を開いた。

 

『うん。もう戻ったよ』

 

送ってから、少し考える。

 

『まだ、どきどきしている?』

 

グソンが横目で見た。

 

「……また、からかってるんですか」

「聞きたいんだよ」

 

しばらくして、返事が届いた。

 

『してます。思い出すので』

 

槙島は、自分の手を見下ろした。彼女が本を置き、重ねてきた手。

握り返すと、指先に少し力が入った。

もう一度、触れたかった。

 

『僕も、君のことを考えていた』

 

送信する。

今度は、返事がなかなか来なかった。

槙島は本を開いた。

けれど、端末を伏せることはしなかった。

 

「一度、彼女とも話してみたいですね」

 

グソンが言った。

槙島は顔を上げる。

 

「前に会っただろう?」

「あの時は、挨拶だけでしょう。ダンナから聞く話ばかりじゃ、どうも」

「僕の話では、足りない?」

「十分すぎるくらい聞いてますよ」

 

グソンは椅子の背にもたれた。

 

「ただ、彼女はどう思ってるのか。自分で聞いてみたくなったんです」

 

槙島は、しばらく彼を見た。沙代はグソンへ礼を言った。

助けてもらった時のことを覚えていないからと、もう一度頭を下げた。

あの時、自分には彼女との付き合いを尋ね、彼女には何も尋ねなかった男だった。

 

「君も、彼女に興味があるんだね」

「ダンナほどじゃありませんが」

 

槙島は笑った。

 

「では、三人でお茶でも飲もうか」

 

グソンが頷く。

 

「彼女がよければ、ですがね」

「もちろん。聞いてみるよ」

 

端末へ目を戻す。

沙代から、返事が届いていた。

 

『そういうこと、文字でも恥ずかしいです』

 

その下に、もう一通。

 

『でも、嬉しいです』

 

槙島は少しの間、その二つを眺めた。

 

「会ったら、何と紹介されるんです?」

 

グソンの声に顔を上げる。

 

「君のことを?」

「彼女のことです。今さら知人とは言わないでしょう」

 

槙島は、沙代が頷いた時の顔を思い出した。

声に出して、もう一度返事をした。

そのあとでようやく、笑ってくれた。

 

「僕の恋人だよ」

 

そう答えると、グソンは小さく笑った。

 

「ええ。さっき聞きました」

「こんな事でいじられるとはね」

 

槙島も笑い、本を手に取った。

次は、彼女がいるところで言える。

その時、沙代はどんな顔をするだろう。

彼はページを開いた。

今はもう、すぐに読み進められない理由を、ほかに探す必要はなかった。

 

 

 

 

 




知れば知るほど、心というものは面白い。
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