戻ると、グソンは先に机へ向かっていた。
「お帰りなさい」
「ああ」
槙島はコートを脱ぎ、椅子の背へかけた。
「彼女、無事に帰りましたか」
「家まで送ったよ」
「そうですか」
グソンは画面を閉じた。
「真面目な人ですね」
槙島が顔を上げる。
「沙代?」
「ええ。俺が話に入れるように、何度もこっちを見てたでしょう。二人で話しててもよかったのに」
「ああ。君にも聞いてほしかったんだろうね」
「救急の件も、また礼を言われましたよ」
「覚えていると思う。してもらったことは」
グソンは頷いた。
しばらくして、口元を少し緩める。
「ダンナの本、三冊でしたっけ」
「今度、一冊持ち帰るよ」
「彼女は、邪魔じゃないと言ってましたね」
「聞いていただろう?」
「ええ。しっかり」
槙島は机の前に座った。
グソンが、こちらを見る。
「大事にされてますね」
その言葉には、すぐに返せなかった。本を置いていていい。
話すことがなくても来ていい。帰る時には、次に会う日を知りたがる。
沙代の部屋に入るたび、彼女は自分のいる場所を空けてくれる。
「……そうだね」
槙島は静かに答えた。
グソンはそれ以上からかわなかった。
「今日、恋人だと紹介した時も、嬉しそうでしたよ」
「見ていたよ」
「でしょうね。ダンナ、ずっと彼女を見てましたから」
槙島が少し笑う。
「そうだったかな」
「本の話を聞いてる時より、分かりやすかったです」
彼は否定しなかった。
グソンが立ち上がり、新しい飲み物を用意した。
槙島の前へカップを置いてから、尋ねる。
「名前は、まだ槙島さんなんですね」
「ああ」
「下の名前、知らないんですか?」
槙島の指が、取っ手にかかったまま止まる。
「……教えていなかったね」
グソンが顔を向けた。
「恋人になってからも?」
「聞かれなかったから」
「ダンナも、気づいてなかったんでしょう」
槙島は小さく笑った。
初めて会った時には、名字を名乗った。
沙代はずっと、その名前で自分を呼んでいる。
何度も聞いているうちに、彼女の声で呼ばれる「槙島」が、馴染んでいた。
「次に会ったら、教えるよ」
「ええ。さすがに」
グソンは自分の席へ戻った。
仕事の話へ戻ると、グソンは別の資料を開いた。
「そういえば、例の薬剤ですが」
槙島が顔を上げる。
「プラスティネーション?」
「ええ。手に入りそうです」
「……本当かい」
取っ手へ伸ばしかけていた手が、止まった。
グソンは画面をこちらへ向ける。
「まだ確約は取れてません。ただ、今回は話が進みそうで」
槙島は資料へ目を落とした。上から順に読み、途中で一度、前の項目へ戻る。
口元が、わずかに緩んだ。
「ずっと欲しかったんだ」
「知ってますよ。何度も聞いてますから」
「待った甲斐があったね」
「まだ、手元にはありませんよ」
「うん。分かっている」
そう返しながらも、槙島はもう一度資料を読んでいた。
「これがあれば、試せることがある」
グソンは、その顔を見た。
先ほどまで、沙代について話していた男だった。
今は薬剤の名前を確かめ、まだ手元にないものの使い道を考えている。
「入手の見通しが立ったら、すぐ知らせます」
「頼むよ」
槙島は顔を上げた。
「楽しみだね」
穏やかな声だった。グソンは短く応じ、次の資料へ切り替えた。
槙島も必要な確認を続ける。ひと区切りつくと、机に置いた端末が光った。
沙代から、写真が届いていた。棚に並ぶ本。
自分の三冊と、彼女が買った本が写っていた。
『今日はありがとうございました。グソンさんにも、よろしくお伝え
ください』
槙島は隣へ顔を向けた。
「沙代から、君によろしくと」
「こちらこそ、と返しておいてください」
「ああ」
返事を入力していると、もう一通届いた。
『恋人って言ってもらったの、まだちょっと嬉しいです』
槙島はその文章を読んだ。
向かいで、グソンが短く息を吐く。
「また、その顔ですか」
「どんな顔?」
「……良かったですね」
槙島は笑った。
「うん」
それから、沙代へ返事を送った。
『僕は、まだちょっとではないよ』
グソンは、端末を置いた槙島を見ていた。
彼女を調べた時には、経歴を確認するつもりだった。
会えば、槙島が興味を持つ理由も分かるかもしれないと思った。
今日会って、分かったことはある。
けれど、今の槙島の顔まで、あの記録から予想することはできなかった。
「ダンナ」
「ああ」
「彼女をこちらの話に巻き込まないことは、俺も気をつけます」
槙島の表情が、静かに変わった。
「ありがとう」
「ただ、彼女の前で何も知らない顔をするのも、案外気を使いますね」
「君には頼むことになる」
「分かってますよ」
グソンは画面を開いた。
「次に会う時は、読んだ本くらい教えておいてください。少しは話せるようにしておきますから」
槙島は彼を見た後、机の端から一冊を取った。
「これが、彼女の好きな話だよ」
グソンは差し出された本を受け取る。
「……まず、そこからですか」
「君も、感想を聞かれるかもしれない」
「ダンナみたいな答えは出ませんよ」
槙島は穏やかに笑った。
「それを、彼女は聞きたいと思うよ」