絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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幸せって、こういうことを言うんだね


27.聖護

 

 

次に槙島が来た時、沙代は台所でお湯を沸かしていた。

玄関で受け取った本をテーブルへ置き、棚からカップを出す。

振り返ると、彼はソファの前に立って、鞄からもう一冊取り出していた。

 

「今日は二冊ですか?」

「一冊は、途中まで読んでいたものだよ」

「じゃあ、それも棚に置いていくかもしれませんね」

 

槙島が笑った。

 

「君は、よく数えている」

「増えてるのが分かるので」

 

湯が沸き、沙代は火元へ向き直った。

茶葉を量っていると、背後から声がする。

 

「沙代」

「はい?」

「君に、まだ教えていなかったことがあるね」

 

手を止めて振り返る。

槙島は、こちらを見ていた。

 

「僕の名前」

「……槙島さん?」

「それは名字だね」

 

沙代は一度瞬きをした。

そういえば、下の名前を知らない。

何度も連絡をして、家にも来てもらって、恋人にまでなったのに。

ずっと呼んでいた名前が、あまりにも自然だった。

 

「聖護だよ」

 

ゆっくりと、聞かせるように言われた。

 

「……しょうご」

 

小さく繰り返す。

彼が頷く。

 

「聖なる、の聖に、守護の護」

 

沙代は、その字を頭の中に並べた。

 

槙島聖護。

 

初めて知った名前なのに、目の前の人によく似合う気がした。

 

「きれいな名前ですね」

 

槙島は少し黙ってから、笑った。

 

「ありがとう」

 

お茶を運んで隣へ座ると、沙代は彼の顔を見た。

 

「私、聞いてなかったんですね」

「僕も、教えていなかった」

「何だか、不思議です。こんなに会ってるのに」

「呼ぶ時には、困らなかったからかな」

 

沙代は頷いた。

槙島さん。

そう呼べば、いつも振り向いてくれた。

名前を知らなかったというより、まだその先を知らなかったのだ。

 

「グソンに言われて、気づいたんだ」

「グソンさんに?」

「ああ。君が、まだ名字で呼んでいると」

 

沙代は少し笑った。

 

「私たちより、よく気づいてますね」

「そういうところは、助けられるよ」

 

彼はカップを持ち上げた。

沙代も紅茶を飲もうとして、やめる。

代わりに、膝の上で手を重ねた。

 

「……名前で、呼んでもいいですか」

 

槙島が顔を向けた。

 

「そのために教えたんだよ」

 

また、そういう言い方をする。

沙代は頬が熱くなるのを感じながら、彼を見た。

 

「聖護さん」

 

声にすると、思っていたより緊張した。

彼はカップを置いた。

返事がないので、沙代は少し不安になる。

 

「……変ですか?」

「いや」

 

槙島は、沙代から目を逸らさなかった。

 

「もう一度、呼んでくれる?」

 

沙代は口元を押さえかけた。

 

「今、呼びました」

「聞こえていたよ」

「じゃあ……」

「君が呼ぶと、少し違って聞こえるんだ」

 

沙代は黙った。

彼の表情は、からかう時ほど楽しげではなかった。

静かに、待っている。膝の上の指を握り直す。

 

「……聖護さん」

 

今度は、少し近くで呼んだ。

彼が笑った。

 

「うん」

 

その返事に、沙代も笑ってしまった。

 

「名前を呼んだだけなのに」

「そうだね」

 

槙島は彼女の手元へ目を落とし、掌を差し出した。

沙代が手を重ねると、指がゆっくり絡む。

 

「まだ、槙島さんって呼んじゃうと思います」

「どちらでも、君が呼べば分かるよ」

「……はい」

 

沙代は繋いだ手を見た。

名字を呼んでいた頃から、この手は知っている。

本をめくる指も、お茶を淹れる動作も。

けれど今日は、新しく知った名前と一緒に、もう少し近く感じられた。

 

 

 

しばらくして、沙代が本へ手を伸ばそうとした。

片手は繋いだままだったので、少し不便だった。

槙島が本を取って、彼女の膝へ置く。

 

「これ?」

「はい。ありがとうございます、槙島……」

 

言いかけて止まる。

隣で、笑う気配がした。

 

「……聖護さん」

「言い直さなくてもいいのに」

「練習です」

 

彼女は表紙へ目を落とした。

槙島は、その横顔を眺める。何度も人に名乗ってきた名前だった。

呼ばれること自体を待ったことは、ほとんどない。

今は、次に彼女がどちらの名前を使うかまで、気になっていた。

沙代がページを開く。

 

「この話、聖護さんは読みました?」

 

彼は、すぐには本を見なかった。

 

「……ああ」

 

その短い間に気づいて、沙代が顔を上げる。

 

「今度は、そっちが慣れてないんですね」

 

槙島は小さく笑った。

 

「そうかもしれないね」

 

繋いだ手に、少し力がこもる。

沙代は嬉しそうに、彼の手を握り返した。

槙島は空いている手で、沙代の膝に置かれた本を閉じた。

 

「……聖護さん?」

 

「少し、こちらを向いて」

 

沙代が顔を上げる。

彼の指先が頬に触れた。さっきまで笑っていた口元が、静かになる。

 

「キスしてもいい?」

 

沙代の目が大きくなった。

槙島は動かず、返事を待った。

 

少しして、彼女が頷く。

 

「……はい」

 

槙島が身を寄せた。

沙代は繋いだ手に力を込め、目を閉じる。唇が触れたのは、ほんの短い間だった。

離れても、すぐには目を開けられなかった。

 

「沙代」

 

近くで呼ばれ、そっと瞼を上げる。

槙島は笑っていた。見慣れたはずの顔が、今日は少し違って見えた。

 

「……今、何か言おうとした?」

 

沙代は首を横に振った。

言いたいことはある。

嬉しいし、恥ずかしいし、もう一度してほしい。

 

どれから言えばいいのか、分からなかった。

槙島の親指が、頬を軽く撫でる。

 

「そんな顔をされると、帰りにくくなるね」

「……まだ、帰る時間じゃないです」

 

小さく返すと、彼が笑った。

 

「そうだった」

 

沙代は空いている手で、彼の袖をそっと掴んだ。

 

「聖護さん」

「うん」

 

目を合わせてから、また少し伏せる。

 

「……もう一回、してほしいです」

 

槙島は一瞬黙った。

それから、彼女のほうへ近づいた。

 

「それは、嬉しいな」

 

今度は沙代も、顔を上げたまま待っていた。

 

*

 

二度目の口づけの後も、沙代は彼の袖を掴んでいた。

ゆっくり目を開け、その近さのまま、少し恥ずかしそうに笑う。

 

「……嬉しいです」

 

槙島は返事をしようとして、やめた。

代わりに、もう一度唇へ触れる。

 

沙代が驚いたように息を吸った。けれど袖を離さず、彼のほうへ少し身体を寄せた。

その動きに応えて、槙島の手が彼女の背へ回る。繋いでいた手をほどき、もう片方の腕も添えると、沙代は腕の中へ収まった。

 

彼女は何も言わなかった。

彼の肩に手を置き、顔を上げている。

 

槙島は、その顔を見た。

 

赤い頬と、こちらを待つ目。

もう少し近づきたいと思った。口づけを返してくれたことが嬉しくて、次も求めたくなる。

 

彼は一度、静かに息を吐いた。

背に添えた手を止め、額を軽く寄せる。

 

「……今日は、ここまでにしようか」

 

沙代が瞬きをした。

 

「嫌だったわけじゃないよ」

 

彼女が言葉を探す前に伝えると、小さく頷いた。

槙島は身体を少し離した。それでも、彼女の手は取り直した。

 

「君が可愛くて、もう少し近づきたくなったんだ」

 

沙代の頬が、また赤くなる。

 

「……それで、やめるんですか?」

「うん。今の僕は、君が頷けば、その先まで都合よく受け取りそうだからね」

 

沙代は繋いだ手を見た。

しばらくして、その指を握り直す。

 

「私も、くっついていたいです」

 

槙島の口元が緩んだ。

 

「では、そうしよう」

 

隣へ座り直すと、沙代が少しずつ肩を寄せてきた。

彼は腕を広げ、彼女を迎えた。

本は閉じられたまま。紅茶も、すっかり冷めている。

 

沙代が肩へ頬を預けた。

 

「……落ち着かないです」

「離れようか?」

 

すぐに首が横へ動いた。

槙島は笑った。

 

「僕も、今は落ち着かないよ」

「そうなんですか?」

「ああ」

 

彼女の髪に頬を寄せる。

それだけで、また続きを望んでしまう。

 

槙島は抱いている腕の力を、少し緩めた。

沙代はここにいる。次に会う約束もできる。

 

今すぐ、その先まで確かめる必要はなかった。

 

 

*

 

 

しばらくして、沙代が彼の肩から顔を上げた。

 

「……重くないですか」

「何が?」

「私です」

 

槙島は腕の中の彼女を見た。

 

「自分から抱き寄せたんだけれど」

「でも、ずっとなので」

「君は、ずっと気にしていた?」

「今、気になりました」

 

彼が笑うと、沙代も少し笑った。

まだ近い。

さっきなら顔を伏せていた距離で、今は彼の表情を見ていられた。

 

「聖護さん」

「うん」

 

呼んだだけで、続きを言えなくなる。

彼は待っていた。

 

沙代は彼の服へ目を落とし、小さく息を吸った。

 

「好きです」

 

槙島の手が、彼女の背で止まった。

一度聞いた言葉だった。恋人になる時にも、確かに。

 

けれど今は、何かを決めるためではない。

ただ、腕の中から伝えられた。

 

「……今、言いたくなった?」

 

沙代は頷いた。

 

「はい」

「そうか」

 

彼は笑い、沙代の額へ唇を触れさせた。

彼女が目を閉じる。

その短い仕草を見て、槙島はもう一度、その顔に触れたくなった。

 

「僕も、好きだよ。沙代」

 

目を開けた彼女が、少し驚いた顔をする。

 

「……そんな顔をすること?」

 

沙代は首を横に振った。

 

「分かってたんですけど。聞くと、また嬉しいです」

「では、また言おう」

「今?」

 

槙島は小さく笑った。

 

「君が聞きたいなら」

 

沙代は迷ってから、頷いた。

彼は頬にかかった髪を、指でそっと避ける。

 

「好きだよ」

 

今度は目を見て言った。

沙代が笑う。

その顔を隠すように、彼の肩へ頬を寄せた。

 

「……ありがとうございます」

「お礼なんだね」

「何て返せばいいか、分からなくなったので」

 

槙島は彼女を抱いたまま、笑った。

自分も、たいして違わないのかもしれない。

嬉しいと言われると、もう一度言いたくなる。抱きつかれると、離しがたくなる。

言葉の意味は知っていた。

 

それを口にして、相手の顔が変わることを、こんなふうに待ったことはなかった。

 

*

 

 

 

窓の光が薄くなり、沙代が時計を見た。

彼女の動きにつられて、槙島も顔を向ける

 

「もう、こんな時間ですね」

「ああ」

 

腕は、すぐには解かなかった。

沙代が少し身体を起こす。

 

「今日は……」

 

そこで言葉が止まった。

槙島は彼女を見た。

 

「泊まっていかないか、という話?」

 

沙代の頬が赤くなる。

 

「……分かりました?」

 

「前にも、その顔を見たからね」

 

彼女は笑いかけ、それから少し真面目な顔になった。

 

「でも、今日は聞いていいのか、分からなくて」

 

槙島は頷いた。

さっき、自分が途中でやめた。

その後で泊まってほしいと言うことを、彼女も気にしているらしかった。

 

「一緒にいたい、ということなら分かるよ」

 

沙代は彼を見た。

 

「……はい。それです」

 

彼はテーブルの端末へ目を向けた。

今夜の予定を思い返す。戻って済ませるつもりだった確認が、一つあった。

 

「少し、連絡してもいいかな」

「はい」

 

腕を解くと、沙代は隣へ座り直した。

彼が立ち上がった後、膝の上で自分の手を握っている。

槙島は窓際で短い連絡を済ませた。

 

『明日の午前に回せます。資料は揃えておきます』

 

グソンの返事を読み、端末をしまう。

沙代のもとへ戻った。

 

「毛布を借りるよ」

 

彼女の顔が、明るくなる。

 

「はい」

 

立ち上がりかけた沙代を、槙島が呼び止めた。

 

「沙代」

「何ですか?」

 

彼はもう一度、手を差し出した。

 

「その前に、もう少し」

 

沙代はその手を取った。

笑いながら隣へ戻り、今度は自分から彼の肩へ寄り添う。

 

槙島はその身体を抱き寄せた。

帰らないと決めた途端、時計を見る必要がなくなった。

 

それが、思っていた以上に心地よかった。

 

 

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