毛布を取りに立った沙代が、寝室の前で足を止めた。
振り返ると、槙島はソファの端を空けている。
「……今日は、そっちじゃなくても」
彼が顔を上げた。
沙代は扉の縁へ指をかける。
「ベッドで、一緒に寝ませんか」
槙島は少し黙った。
前に泊まった時、彼女はここでおやすみと言い、扉を閉じた。
今は、その扉を開けたまま待っている。
「君の隣で?」
沙代は頷いた。
「もう、恋人なので」
言ってから、顔が赤くなる。
「……嫌じゃなければ」
槙島は立ち上がった。
「嫌なわけがないよ」
彼女の前まで来て、頬へそっと触れる。
「一緒に眠ろう」
沙代はほっとしたように笑った。
*
寝る支度を済ませ、明かりを落とすと、部屋には窓から入る淡い光だけが残った。
隣へ横になる気配に、沙代は少し身体を固くする。
ソファで寄り添うのとは、また違った。
「緊張している?」
「……少し」
「僕を誘ったのに?」
「誘った時と、今は違います」
槙島が笑った。
沙代も笑い、枕の上で彼のほうを向く。
近くに顔があった。
今度は、目を逸らさなかった。
彼が腕を開く。
「こちらへおいで」
沙代は少しずつ近づき、胸元へ頬を寄せた。
背へ腕が回る。
温かくて、先ほどまでの落ち着かなさがゆっくりほどけた。
「……ソファより、いいですか」
「ずっと」
即答され、沙代は笑った。
槙島はその髪へ唇を触れさせる。
「ただ、朝になっても起きたくなくなるかもしれないね」
「私もです」
声が、胸元から聞こえた。
彼は彼女を抱いたまま、少し笑った。
「では、少し早く目を覚まさないと」
「どうして?」
「起きなくていい時間を、長く取れるだろう」
沙代が顔を上げる。
「……それ、好きです」
「何が?」
「その考え方」
彼は頷き、額へ短く口づけた。
「おやすみ、沙代」
「おやすみなさい、聖護さん」
彼女が再び頬を預ける。
槙島は背に添えた手を、そのままにした。
今夜は、朝に扉が開くのを待たなくていい。
目を覚ませば、もう隣にいる。
彼は目を閉じた。
*
それでも、槙島はなかなか眠れなかった。
腕の中で、沙代が小さく動く。
肩のあたりへ頬を寄せ、落ち着く場所を探しているらしかった。
ようやく静かになったと思うと、今度は彼の服を指で軽く掴む。
「……聖護さん」
「うん」
「一緒に寝るの、嬉しいです」
声が、すぐ近くから聞こえた。
槙島は目を開け、天井を見た。
それから、ゆっくり息を吐く。
「僕も、嬉しいよ」
嘘ではなかった。
ただ、嬉しいだけでは済まない。
彼女を抱き寄せたのは自分だった。夕方、何を望んで、どこでやめたのかも忘れていない。
沙代が顔を上げた。
「眠くないですか?」
「……今は、あまり」
「私、邪魔してます?」
「そういう意味ではないよ」
彼は彼女の背から手を離し、枕の上で顔を向けた。
「沙代。少しだけ離れてくれる?」
沙代の身体が止まる。
「狭いですか?」
「いや」
槙島は彼女を見た。
「僕が、さっき何を我慢したか、覚えているかな」
一拍置いて、沙代の顔が熱くなった。
「あ……」
掴んでいた服を離す。
慌てて後ろへ動こうとすると、槙島が肩へ手を添えた。
「そんなに急がなくていい」
「すみません」
「謝らなくても。こちらへおいでと言ったのは、僕だからね」
彼は少し笑った。
二人の間に、わずかな隙間ができる。
沙代はそこを見てから、布団を引き上げた。
「……一緒に寝るだけでも、なんですね」
「君が好きだからね」
言われると、また困ってしまった。
沙代は目を伏せる。
「私も、好きです」
槙島が黙った。
その沈黙に気づき、顔を上げる。
「……今、言わないほうがよかった?」
彼はとうとう笑った。
「そんなことまで、我慢しなくていいよ」
*
少し離れて横になっても、沙代は彼のほうを向いていた。
目が慣れると、顔が見える。
近いのに触れていないのが、妙な感じだった。
槙島も、こちらを見ている。
「……手は、繋いでもいいですか」
彼の視線が、布団の上へ落ちた。
沙代は片手を出していた。
「それなら」
指先が触れる。
今度は、身体を寄せずに握った。
沙代は安心したように息を吐く。
槙島はその音を聞いて、彼女の手を少し握り直した。
「今日は、ずいぶん僕を試すね」
「試してないです」
「知っているよ」
だからこそ、返す言葉が難しかった。
彼女は、一緒にいたくて誘った。近づくのが嬉しくて、寄り添った。
自分を信じて、そうしている。
槙島は繋いだ手へ目を落とした。
「……僕も、思っていたほど器用ではないらしい」
沙代が少し笑う。
「聖護さんでも?」
「僕でも」
その答えに、彼女の表情が和らいだ。
いつも余裕がある人が、自分と同じように落ち着かなくなっている。
それを知るのは、恥ずかしいけれど嬉しかった。
「じゃあ、今日は手だけ」
沙代が言った。
槙島は頷く。
「そうしよう」
*
しばらくすると、沙代のまばたきがゆっくりになった。
繋いだ手にも、力が入らなくなる。
「……おやすみなさい」
「おやすみ、沙代」
彼女は目を閉じた。
槙島は、すぐには閉じなかった。
眠りに落ちる顔を見ていると、近づきたくなる。
けれど今度は、その気持ちのまま動かなかった。
指先だけが、温かい。
やがて沙代の呼吸が落ち着いた頃、槙島もようやく枕へ頭を預け直した。
少し離れた場所で、沙代が眠っている。
手は繋がっている。
今夜は、それで十分だと決めた。
十分だと感じられるまでには、もう少し時間がかかった。