絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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2.気まぐれ

 

 

数日後に、もう一度行こう。

店の営業時間を確かめてから、端末を置いた。

今度は、絵本以外の本も見てみたい。

槙島に会えなくても、店主に聞けばいいのだ。

そう思っていたはずなのに、その日が来ると、前と同じ時間に家を出ていた。

 

あの路地に入る。

 

温かい油の匂いも、頭上で絡まった配線も、見覚えがあるだけで少し安心した。

 

細い階段の下に、人影はなかった。

二階へ上がると、店の扉は開いていた。

中を覗き、棚の間まで目を走らせる。

 

「いらっしゃい」

 

店主の声に、慌てて頭を下げた。

 

「こんにちは」

 

今日は、本を探しに来た。

それなのに、白い髪を見つけられなかったことが、思ったよりも残念だった。

絵本の棚を通り過ぎ、小説の並ぶ棚の前に立つ。

背表紙には知らない題名ばかりが並んでいて、どれから手に取ればいいのか分からない。

 

一冊抜き出して、最初のページを開いた。

文字が、びっしり。

 

数行読んではみたものの、内容より先に、これを最後まで読めるだろうかと考えてしまった。

 

そっと棚へ戻そうとすると、背後で扉が開く音がした。

振り向いた。

 

「ああ、倉橋さん」

 

槙島が、入口に立っていた。

 

「……こんにちは」

 

声が少し弾んだのが、自分でも分かった。

彼は沙代の手元に目を向ける。

 

「今日は、その本を?」

「まだ決めていなくて。絵本じゃないものも、読んでみたくなったん

です」

 

彼が近づいてくる。

沙代は持っていた本を、表紙が見えるように向けた。

 

「でも、どれがいいのか分からなくて」

 

槙島は題名を見てから、沙代に視線を戻した。

 

「その前に、聞いてもいいかな」

「はい?」

「あの絵本は、どうだった?」

 

覚えていてくれた。用意していたはずの話が、嬉しさで少しだけつかえた。

 

「……何回も、読みました」

 

彼は棚へ伸ばしかけていた手を下ろした。

 

「うん」

 

その返事に促されて、沙代は続きを話し始めた。

 

 

 

*

 

 

 

「昔は、お話を聞くのに夢中だったんですけど。今読むと、絵の中に

知らなかったものがたくさんあって」

 

手に持った小説を胸元に寄せる。

 

「窓の外に鳥がいたり、最初のページに出てきた花が、最後にも描い

てあったり……。何度も読んでもらってたのに、全然気づいてなかった

んです」

 

槙島は、時折頷きながら聞いていた。

 

「それで、また最初から見たくなって。結局、寝るまでずっと読んで

ました」

 

話し終えてから、少し恥ずかしくなる。

感想を聞かれたのに、ただ嬉しかったことばかり話してしまった。

 

「……すみません。こんな話で」

「どうして謝るんだい?」

「もっと、ちゃんとした感想を言えたらよかったんですけど」

 

彼はわずかに首を傾けた。

 

 

「僕は、君がどう読んだのかを聞きたかったんだ。十分、答えてくれ

ているよ」

 

その言い方があまりにも自然で、用意していた言い訳がなくなった。

 

「それに、気づかなかったものを見つけて、もう一度読みたくなった

んだろう?」

「はい」

「いい読書だったんじゃないかな」

 

沙代は手元の本に目を落とした。

知らない文字の並びが、さっきよりも少し親しみやすく見える。

 

「……ほかの本でも、そうなるでしょうか」

「なるかもしれないね。ただ、全部の本を好きになる必要はないよ」

 

彼は沙代が持っていた小説の背表紙に目を向けた。

 

「それは、どうして選んだの?」

「題名が気になって。でも、開いたら難しそうで……」

「少し読んでみた?」

「最初だけ。知らない言葉があって、そこで止まっちゃいました」

「それなら、今日は別のものにしてみようか」

 

槙島は棚の前へ移り、背表紙を指で辿った。

 

すぐに一冊を抜き出すのかと思ったけれど、その手は途中で止まる。

 

「どんな話が読みたい?」

「どんな……」

 

考えても、うまく答えが出てこなかった。

普段なら、端末に表示されるおすすめの中から選んでいた。好きそう

なものは、先に並べてもらえていたから。

 

「……分からないです」

 

正直に言うと、彼はこちらを向いた。

 

「じゃあ、何が気になる?」

 

さっきとは少し違う問いだった。

棚を見渡す。

冒険も、恋愛も、歴史も、どれも知らない場所に見える。

 

「知らない人が、何を考えて生きてるのか、とか」

 

言いながら、自分でもそんなことを考えていたのかと驚いた。

 

「絵本を読んでたら、おばあちゃんはどうしてこの本を選んだんだろうって思ったんです。好きだったのかな、とか。私が大きくなってか

ら、そういう話も聞いておけばよかったなって」

 

そこで言葉が途切れた。

 

槙島は、沙代が抱えていた本を見て、それから棚へ視線を戻した。

 

「……短い話がいくつか入っているものなら、色々な人に会えるね」

 

一冊の、薄い本を差し出される。

 

「まずは、これを開いてみて」

 

表紙は深い緑色で、端に小さな擦れがあった。

受け取ると、絵本より軽い。

最初の話を開いた。

数行読んで、続きを目で追う。

 

主人公が、知らない街で道を尋ねようとしている。

声をかける相手を決められずに、同じ場所をうろうろしていた。

 

「……ちょっと、私みたいです」

「本屋が見つからなかった時?」

 

顔を上げると、彼の口元がわずかに緩んでいた。

 

「そんなに困って見えました?」

「端末と建物を、何度も見比べていたからね」

 

見られていたのだと思うと、急に頬が熱くなる。

 

「声をかけてもらわなかったら、帰ってたかもしれません」

「それは惜しいことになっていた」

 

彼の視線が、沙代の手の中の本へ落ちた。

 

「続きは、気になる?」

 

もう一度、ページを見た。

この人は誰に話しかけるのだろう。ちゃんと目的地に着けるのだろう

か。

「……はい」

「じゃあ、それでいいと思うよ」

 

 

*

 

会計を済ませて店を出ると、槙島も少し遅れて階段を下りてきた。

今度こそ聞こう、と決めていた。

なのに、彼が隣に立った途端、頭の中で練習した言葉が不自然に思えてくる。

 

「あの」

「何かな?」

「また、読んだら……お話ししたいんですけど」

 

彼は沙代を見た。

返事を待つ一瞬が、ひどく長く感じられた。

 

「このお店で会えるか、分からないので」

 

袋の持ち手を握り直す。

 

「もしよかったら、連絡先を教えていただけませんか」

 

言い終えてから、急いで付け足した。

 

「本のことで、聞きたいこともあると思うので……」

 

槙島は少しだけ目を細めた。

 

「読み終わる前でも、構わないよ」

 

そう言って、端末を取り出した。

沙代は一拍遅れて、自分の端末を鞄から探す。

さっきまで何度も位置を確かめていたのに、こういう時に限って指に引っかからなかった。

ようやく画面を開き、連絡先を受け取る。

表示された名前は、短く『槙島』とだけあった。

 

「……ありがとうございます」

「こちらこそ」

 

意外な返事に顔を上げると、彼はもう端末をしまっていた。

 

「次は、いつ会えるか分からないと思っていたからね」

 

沙代も、と言いかけて、声にならなかった。

彼は路地の向こうへ視線を向ける。

 

「駅は、あちらだったかな」

「はい」

「途中まで一緒に行こう」

 

沙代は頷いて、彼の隣を歩き始めた。

歩幅が大きそうな人なのに、急がなくてもついていけた。

本の入った袋が足元で小さく揺れる。

 

「さっきの話の人、ちゃんと道を聞けるんでしょうか」

「知りたい?」

「……家で読みます」

「うん。そのほうがいい」

 

彼が少し笑った。

沙代は鞄の中の端末を、上からそっと押さえた。

今度は読み終わっても、感想を伝える相手を探しに来なくていい。

それが嬉しくて、帰る方向が同じであることまで、少し得をしたように思えた。

 

*

 

 

駅の入口で、槙島と別れた。

 

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ。気をつけて」

 

軽く頭を下げてから、改札へ向かう。

振り返る頃には、白い髪は人の流れの向こうに見えなくなっていた。

帰りの電車で、袋から本を取り出した。

 

深い緑色の表紙。

 

角の擦れたところを親指で確かめてから、さっきの続きを開く。

知らない街で道に迷っていた主人公は、ようやく一人の老人に声を

かけた。

 

けれど、その老人も同じ場所を探しているらしかった。

 

思わず、小さく笑った。

 

それなら、二人で迷ってしまう。

窓の外を見る間もなく読んでいると、降りる駅の案内が聞こえた。

慌てて本を閉じ、袋へ戻す。

 

もっと読んでいたかった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

家に着いて、まず端末を開いた。

 

『今日はありがとうございました。帰りの電車で少し読みました。最初のお話、道を聞いた相手も迷っていて笑ってしまいました』

 

文章を見直す。

 

もう一行、付け足した。

 

『続きを読んでみます』

 

送信すると、上着を脱いでお湯を沸かした。

カップを持ってソファへ戻った頃、端末に返信が届いていた。

 

 

『こちらこそ。あの二人は、なかなか目的地に着かないね。続きも楽しんで』

 

 

その短い返事を読んでから、本を膝に置く。

読む前から、誰かと同じ登場人物を知っている。

それが少し不思議だった。

 

 

 

*

 

 

短い話だから、すぐ読み終わると思っていた。

けれど、実際には何度も前のページへ戻った。

 

分からない言葉を端末で調べ、会話の意味を考え、途中でお茶を淹れ直した。

 

主人公と老人は結局、探していた店が取り壊されていたことを知る。

それでも二人はすぐには別れず、近くの店で食事をしてから帰った。

 

最後の一文まで読んで、しばらく本を開いたままにしていた。

会いに行くはずだった人には会えなかった。

 

用事も済んでいない。

 

なのに、寂しいだけの終わり方ではなかった。

端末を手に取った。

 

 

『一つ目のお話を読み終わりました』

 

 

そこまで打って、指を止める。面白かった。

けれど、それだけでは、さっき感じたことがうまく伝わらない気がし

た。

 

『探していたものがなくなっていたのに、最後にちゃんとご飯を食べ

るところが好きでした。私だったら、そのまま帰ってしまうと思いま

す』

 

送信してから、自分の文章をもう一度読んだ。

取り留めがない。

でも、槙島はそれでも構わないと言っていた。

今度の返信は、しばらく経ってから届いた。

 

『二人で歩いているうちに、最初とは違う用事ができたのかもしれないね』

 

沙代は最後の数ページを開き直した。

食事の場面。

老人は、自分の子供の話をしている。

主人公は、料理が冷めるまで聞いていた。

 

『もう少し話していたかったんでしょうか』

『君には、そう見えた?』

『はい』

 

返してから、もう一度文章を辿る。

 

『老人の話は、探していた店とは全然関係ないのに、聞いているので』

『なるほど。僕は主人公が、一人で帰りたくなくなったようにも読んだよ』

 

少し考えた。

 

同じ場面なのに、違うことを考えていた。

どちらが正しいのか尋ねかけて、その文章を消す。

代わりに、本へ目を戻した。

 

一人で帰りたくなかった。

 

そう思って読むと、主人公が食事に誘うまでの短い沈黙が、さっきとは違って見えた。

 

『そう言われると、そうかもしれません。もう一回読んでみます』

『読み終えたばかりなのに?』

『気になったので』

 

返信には、少し間があった。

 

『それなら、僕も読み返してみようかな』

 

沙代は端末を置いた。窓の外では、もう街の灯りが点いていた。

昼間に帰ってきたはずなのに、ずいぶん時間が経っている。

夕食は、家にあるもので簡単に済ませよう。

そう決めて立ち上がりかけたところで、もう一通届いた。

 

『次に会った時、その話をしよう』

 

沙代は予定表を開いた。

通院の予定が一つあるだけで、ほかの日は空いている。

 

『私は、来週ならいつでも大丈夫です』

 

返事はすぐには来なかった。

 

その間に冷蔵庫を開け、食べられそうなものを取り出す。

電子レンジの前で待っていると、端末が鳴った。

 

『では、水曜日の午後はどうかな。あの店の近くに、落ち着いて話せ

る場所がある』

『大丈夫です』

 

集合場所が送られてきた。

本屋から歩いて数分の、喫茶店だった。

予定表に場所と時間を入れる。

持っていくものを忘れないよう、欄の下に「本」と書き添えた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

「ダンナ」

 

呼ばれて、槙島は端末から顔を上げた。

グソンが作業用の画面をこちらへ向けている。

 

「こっちはひと通り終わりましたよ。確認しますか」

「ああ」

 

端末を伏せ、差し出された資料に目を通す。

グソンは椅子の背にもたれた。

 

「何か面白いものでも?」

「本の感想だよ」

「感想?」

「最近、紙の本を読み始めた人がいてね」

 

槙島は資料を一枚進めた。

グソンがこちらを見ていることには気づいていたが、説明を続ける必要は感じなかった。

 

「そいつは、ダンナのおすすめを?」

「一冊だけ」

「最初から難しいのを渡したんじゃないでしょうね」

「続きが気になるものを選んでもらったよ」

 

 

グソンは小さく肩をすくめ、自分の画面へ向き直った。

 

確認を終えた槙島は、端末を手に取る。

水曜日の約束を確かめてから、本棚へ歩いた。

緑色の背表紙を見つけ、抜き出す。

 

あの短編について、これまで人と話した時には、主人公が最後に何

を得たのかという話になることが多かった。

 

彼女は、食事をする場面を挙げた。

失望した後にも食べること。

相手の話を聞くこと。

槙島は椅子へ戻り、最初のページを開いた。

今度は、食事の場面まで急がずに読んでみることにした。

 

 

 

「……珍しいですね、他人に構うイメージなかったですけど」

 

槙島は本から目を上げた。

 

「そうかな。君とはよく話しているだろう」

「俺とは仕事の話があるでしょう。その人も、何か使い道が?」

「本の話をするのに、必要かい?」

 

穏やかな問い返しに、グソンは片眉を上げた。

 

「いや、必要ってことはないですがね」

 

槙島は開いたページへ視線を戻した。

けれど、グソンはまだ話を終えるつもりがないらしかった。

 

「どんな人なんです?」

 

「本屋を探して、道に迷っていた女性だよ。昔読んでいた絵本が欲しかったらしい」

「それを手伝って、今は読書案内ですか」

「彼女が、ほかの本も読んでみたいと言ったからね」

 

指先でページの端を押さえる。

 

「詳しくはないけれど、読んでいて気になったところを、自分の言葉で話してくれる。それを聞くのは面白いよ」

「素直な感想が新鮮だと?」

「素直なら何でもいいわけじゃない」

 

槙島は少し考えてから、続けた。

 

「僕が選んだ本だからといって、僕と同じ読み方をする必要はないだろう。彼女にも、そういうつもりで渡した」

「違うことを言ってきましたか」

「ああ。僕が気に留めていなかった場面をね」

 

グソンの視線が、槙島の手元へ落ちる。

 

「それで、わざわざ読み直してるんですね」

「確かめてみたくなったんだ」

 

それだけ答えて、槙島はページをめくった。

しばらくして、キーボードを叩く音が再開する。

今度こそ話は終わったらしい。

 

文字を追いながら、彼女のメッセージを思い出す。

 

――私だったら、そのまま帰ってしまうと思います。

 

なぜ、そう思ったのだろう。

主人公と自分を比べながら、どんなことを考えていたのか。

次に会った時、覚えていたら聞いてみよう。

槙島はそう考え、静かに続きを読んだ。

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