朝、沙代より先に目を覚ました槙島は、しばらく繋いだ手を眺めていた。
眠っている間に握り直したらしい。彼女の指が、昨夜より少し深く絡んでいる。
枕元の端末が短く震えた。
グソンからだった。
『例の件、先方から返事が来てます。今日、時間取れますか』
槙島は片手で内容を確認した。昨夜、翌日に回した打ち合わせだった。
『午後に。場所は任せるよ』
送信すると、隣で沙代が身じろぎした。
「……聖護さん?」
「おはよう。起こしてしまったかな」
彼女は首を横に振った。
それから繋がった手に気づき、眠そうな顔のまま笑う。
「まだ、繋いでたんですね」
「君が離してくれなかったからね」
「……聖護さんも、離してないです」
「そうだね」
端末を伏せ、空いた手で彼女の頬にかかった髪を払った。
沙代はその手に少し頬を寄せる。それから、照れたように目を伏せた。
「今日は、お仕事ですか?」
「午後から少し」
「じゃあ、朝ごはんは一緒に食べられます?」
「もちろん」
その返事だけで嬉しそうにする彼女を見て、槙島も笑った。
午後の予定を取りやめる気はなかった。そこへ沙代を連れていく気も、話して聞かせる気もない。
「何か食べたいもの、あります?」
「君と同じものでいいよ」
沙代が起き上がるまで、もう少しだけ手を握っていた。
*
「遅かったですね、ダンナ」
部屋に入った槙島を見て、グソンは端末から顔を上げた。
「約束の時間には間に合っていると思うけど」
「ええ。朝には戻ってくるかと思ってただけです」
槙島は微笑んだまま、向かいの椅子に腰を下ろした。
卓上の画面には、プラスティネーションに関する資料が開かれている。
保存された人体の写真と、藤間から届いた構想。
グソンが必要な箇所を順に表示すると、槙島の視線がその上を辿った。
「技術の方は、問題なさそうです。ただ、見せ方に随分こだわってるようで」
「そこを省いたら、彼がやる意味がなくなるだろうね」
「手間は増えますよ」
「構わない。本人の話を聞いてみよう」
槙島は資料の一枚を戻させ、しばらく眺めた。
「人の身体を残して、何を表現したいのか。そこは聞いておきたいな」
グソンが頷き、面会の候補日時を開く。
その間に、槙島の端末が震えた。
画面を見た彼の口元が、わずかに緩む。
『本、忘れてますよ。枕元にありました』
続けて、もう一通。
『預かっておきますね』
「……何か?」
グソンに声をかけられ、槙島は顔を上げた。
「沙代だよ。本を置いてきてしまった」
「ダンナが忘れ物とは」
「そういうこともあるさ」
返信を打つ手は止まらなかった。
『ありがとう。また取りに行くよ』
少し考え、付け足す。
『昨夜はよく眠れた?』
グソンはその様子を黙って見ていたが、とうとう椅子の背にもたれた。
「楽しかったようで」
「うん」
あまりに素直な返事だった。
「朝食も一緒に食べてきたんだ。彼女、僕が帰る時間を気にして、何度も時計を見ていてね」
「急かされたんですか?」
「逆だよ。まだ大丈夫ですか、って」
槙島は思い出したように笑った。
「もう少しいてほしかったらしい」
「それで、ぎりぎりまでいたと」
「間に合っただろう?」
「ええ、間に合ってますとも」
端末が再び震えた。
『すごく。聖護さんは?』
槙島は画面を見たまま、数秒黙った。
昨夜、先に眠った沙代の顔と、なかなか眠れなかった自分を思い出す。
『君よりは、少し遅く寝たかな』
「今度は何です」
「よく眠れたか、聞かれた」
「……そうですか」
グソンは卓上の資料へ視線を戻した。
「こっちの話、続けていいですかね」
「もちろん」
槙島は端末を伏せた。
「面会は明日の夕方で調整してくれ。作品だけでは分からないこともある」
「分かりました。例の資料も、その時までに揃えます」
そこからの話は早かった。
先方の要望、接触の段取り、まだ確認の取れていない事項。
槙島は必要なところで質問を挟み、グソンが懸念を示すと、すぐに検討を返した。
ひと通り終えたところで、槙島がふと言った。
「グソン。明日の昼は空けておいてくれるかな」
「何かあるんです?」
「本を取りに行こうと思って」
グソンは彼を見た。
「取りに行くだけで済みます?」
「お茶くらいは飲むかもしれないね」
「……夕方には間に合ってくださいよ」
「分かっているよ」
今度はグソンの方が、少しだけ笑った。
槙島は伏せていた端末を取り上げる。
沙代からの返信が届いていた。
『次はちゃんと寝ましょうね』
彼はしばらくその一文を眺め、それから短く返した。
『そうしよう。また明日、会えるかな』
*
翌日の昼、槙島は置いてきた本を取りに、沙代の部屋を訪れた。
受け取った本は、まだテーブルの端にある。
沙代が淹れたお茶を飲みながら、槙島は彼女へ目を向けた。
「美しいものを見たあとは、どんな気持ちになる?」
槙島は足を組み、重ねた指を止めて言う。
「んー、満たされる、ですかね。……どうして急に?」
「いや、美術的なものにも興味があるのかなと思ってね」
「デートのお誘いですか?」
「ふふ。そうだとしたら、来てくれるかい」
「行きます」
沙代はほとんど間を置かずに答えた。
そのあとで、少し照れたようにカップへ目を落とす。
「……どこに行くかも聞かないんだね」
「それは、これから聞こうと思ってました」
「本当に?」
「本当です」
槙島が笑うと、沙代もつられて笑った。
「絵を見るのは好きかい」
「詳しくはないですけど、好きですよ。絵本も、文章を読まないで絵だけ眺めたりします」
「どんなところを?」
「小さく描いてあるものとか。同じページなのに、前に気づかなかったものが見つかると嬉しいです」
槙島は頷き、彼女の後ろの本棚へ目を向けた。
あの絵本の背表紙が見える。
「美術館でも、君は長く立ち止まりそうだね」
「聖護さんを待たせちゃうかも」
「僕も見るから、構わないよ」
沙代は嬉しそうに口元を緩めた。
昨日、目を通した構想にも、美しさについての言葉が並んでいた。
人の身体を素材として、自分の見たい姿を作ろうとする者の言葉だった。
目の前の沙代は、カップを両手で包みながら、行ったことのない場所を楽しみにしている。
「満たされる、か」
槙島が繰り返すと、彼女は首を傾げた。
「変ですか?」
「いや。そのあと、どうするのかなと思って」
「そのあと?」
「美しいものを見て、満たされたあと」
沙代は少し考えた。
「……誰かに話したくなるかもしれません。こんなの見たよ、って」
「誰かに」
「今なら、聖護さんですね」
彼は彼女へ視線を戻した。
沙代は言ってから照れたらしく、カップを持ち上げる。
けれど、飲む前にまた口を開いた。
「でも、一緒に行ったら話せますね。その場で」
「うん。聞かせてほしいな」
「聖護さんの感想も聞きたいです。私が気づかないところ、いっぱい見てそうなので」
「同じところを見ているかもしれないよ」
「それも嬉しいです」
槙島は手を伸ばし、カップの取っ手にかかっていた彼女の指に軽く触れた。
沙代が顔を上げる。
「来週、空いているかな」
「はい」
「では、迎えに来るよ」
「ちゃんとデートなんですね」
「そのつもりで誘ったんだけど」
「……確認です」
彼女の頬が赤くなるのを見て、槙島は小さく笑った。
そこは、まだ一人で行くつもりだった。
今は、沙代がどこで足を止めるのか、早く見てみたかった。