絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

30 / 38
29.忘れ物

 

 

 

 

朝、沙代より先に目を覚ました槙島は、しばらく繋いだ手を眺めていた。

眠っている間に握り直したらしい。彼女の指が、昨夜より少し深く絡んでいる。

 

枕元の端末が短く震えた。

グソンからだった。

 

『例の件、先方から返事が来てます。今日、時間取れますか』

 

槙島は片手で内容を確認した。昨夜、翌日に回した打ち合わせだった。

 

『午後に。場所は任せるよ』

 

送信すると、隣で沙代が身じろぎした。

 

「……聖護さん?」

「おはよう。起こしてしまったかな」

 

彼女は首を横に振った。

それから繋がった手に気づき、眠そうな顔のまま笑う。

 

「まだ、繋いでたんですね」

「君が離してくれなかったからね」

「……聖護さんも、離してないです」

「そうだね」

 

端末を伏せ、空いた手で彼女の頬にかかった髪を払った。

沙代はその手に少し頬を寄せる。それから、照れたように目を伏せた。

 

「今日は、お仕事ですか?」

「午後から少し」

「じゃあ、朝ごはんは一緒に食べられます?」

「もちろん」

 

その返事だけで嬉しそうにする彼女を見て、槙島も笑った。

午後の予定を取りやめる気はなかった。そこへ沙代を連れていく気も、話して聞かせる気もない。

 

「何か食べたいもの、あります?」

「君と同じものでいいよ」

 

沙代が起き上がるまで、もう少しだけ手を握っていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

「遅かったですね、ダンナ」

 

部屋に入った槙島を見て、グソンは端末から顔を上げた。

 

「約束の時間には間に合っていると思うけど」

「ええ。朝には戻ってくるかと思ってただけです」

 

槙島は微笑んだまま、向かいの椅子に腰を下ろした。

卓上の画面には、プラスティネーションに関する資料が開かれている。

保存された人体の写真と、藤間から届いた構想。

グソンが必要な箇所を順に表示すると、槙島の視線がその上を辿った。

 

「技術の方は、問題なさそうです。ただ、見せ方に随分こだわってるようで」

「そこを省いたら、彼がやる意味がなくなるだろうね」

「手間は増えますよ」

「構わない。本人の話を聞いてみよう」

 

槙島は資料の一枚を戻させ、しばらく眺めた。

 

「人の身体を残して、何を表現したいのか。そこは聞いておきたいな」

 

グソンが頷き、面会の候補日時を開く。

その間に、槙島の端末が震えた。

画面を見た彼の口元が、わずかに緩む。

 

『本、忘れてますよ。枕元にありました』

 

続けて、もう一通。

 

『預かっておきますね』

 

「……何か?」

 

グソンに声をかけられ、槙島は顔を上げた。

 

「沙代だよ。本を置いてきてしまった」

「ダンナが忘れ物とは」

「そういうこともあるさ」

 

返信を打つ手は止まらなかった。

 

『ありがとう。また取りに行くよ』

 

少し考え、付け足す。

 

『昨夜はよく眠れた?』

 

グソンはその様子を黙って見ていたが、とうとう椅子の背にもたれた。

 

「楽しかったようで」

「うん」

 

あまりに素直な返事だった。

 

「朝食も一緒に食べてきたんだ。彼女、僕が帰る時間を気にして、何度も時計を見ていてね」

「急かされたんですか?」

「逆だよ。まだ大丈夫ですか、って」

 

槙島は思い出したように笑った。

 

「もう少しいてほしかったらしい」

「それで、ぎりぎりまでいたと」

「間に合っただろう?」

「ええ、間に合ってますとも」

 

端末が再び震えた。

 

『すごく。聖護さんは?』

 

槙島は画面を見たまま、数秒黙った。

昨夜、先に眠った沙代の顔と、なかなか眠れなかった自分を思い出す。

 

『君よりは、少し遅く寝たかな』

 

「今度は何です」

「よく眠れたか、聞かれた」

「……そうですか」

 

グソンは卓上の資料へ視線を戻した。

 

「こっちの話、続けていいですかね」

「もちろん」

 

槙島は端末を伏せた。

 

「面会は明日の夕方で調整してくれ。作品だけでは分からないこともある」

「分かりました。例の資料も、その時までに揃えます」

 

そこからの話は早かった。

先方の要望、接触の段取り、まだ確認の取れていない事項。

槙島は必要なところで質問を挟み、グソンが懸念を示すと、すぐに検討を返した。

 

ひと通り終えたところで、槙島がふと言った。

 

「グソン。明日の昼は空けておいてくれるかな」

「何かあるんです?」

「本を取りに行こうと思って」

 

グソンは彼を見た。

 

「取りに行くだけで済みます?」

「お茶くらいは飲むかもしれないね」

「……夕方には間に合ってくださいよ」

「分かっているよ」

 

今度はグソンの方が、少しだけ笑った。

槙島は伏せていた端末を取り上げる。

沙代からの返信が届いていた。

 

『次はちゃんと寝ましょうね』

 

彼はしばらくその一文を眺め、それから短く返した。

 

『そうしよう。また明日、会えるかな』

 

 

 

 

*

 

 

 

翌日の昼、槙島は置いてきた本を取りに、沙代の部屋を訪れた。

受け取った本は、まだテーブルの端にある。

沙代が淹れたお茶を飲みながら、槙島は彼女へ目を向けた。

 

「美しいものを見たあとは、どんな気持ちになる?」

 

槙島は足を組み、重ねた指を止めて言う。

 

「んー、満たされる、ですかね。……どうして急に?」

「いや、美術的なものにも興味があるのかなと思ってね」

「デートのお誘いですか?」

「ふふ。そうだとしたら、来てくれるかい」

「行きます」

 

沙代はほとんど間を置かずに答えた。

そのあとで、少し照れたようにカップへ目を落とす。

 

「……どこに行くかも聞かないんだね」

「それは、これから聞こうと思ってました」

「本当に?」

「本当です」

 

槙島が笑うと、沙代もつられて笑った。

 

「絵を見るのは好きかい」

「詳しくはないですけど、好きですよ。絵本も、文章を読まないで絵だけ眺めたりします」

「どんなところを?」

「小さく描いてあるものとか。同じページなのに、前に気づかなかったものが見つかると嬉しいです」

 

槙島は頷き、彼女の後ろの本棚へ目を向けた。

あの絵本の背表紙が見える。

 

「美術館でも、君は長く立ち止まりそうだね」

「聖護さんを待たせちゃうかも」

「僕も見るから、構わないよ」

 

沙代は嬉しそうに口元を緩めた。

昨日、目を通した構想にも、美しさについての言葉が並んでいた。

人の身体を素材として、自分の見たい姿を作ろうとする者の言葉だった。

目の前の沙代は、カップを両手で包みながら、行ったことのない場所を楽しみにしている。

 

「満たされる、か」

 

槙島が繰り返すと、彼女は首を傾げた。

 

「変ですか?」

「いや。そのあと、どうするのかなと思って」

「そのあと?」

「美しいものを見て、満たされたあと」

 

沙代は少し考えた。

 

「……誰かに話したくなるかもしれません。こんなの見たよ、って」

「誰かに」

「今なら、聖護さんですね」

 

彼は彼女へ視線を戻した。

沙代は言ってから照れたらしく、カップを持ち上げる。

けれど、飲む前にまた口を開いた。

 

「でも、一緒に行ったら話せますね。その場で」

「うん。聞かせてほしいな」

「聖護さんの感想も聞きたいです。私が気づかないところ、いっぱい見てそうなので」

「同じところを見ているかもしれないよ」

「それも嬉しいです」

 

槙島は手を伸ばし、カップの取っ手にかかっていた彼女の指に軽く触れた。

沙代が顔を上げる。

 

「来週、空いているかな」

「はい」

「では、迎えに来るよ」

「ちゃんとデートなんですね」

「そのつもりで誘ったんだけど」

「……確認です」

 

彼女の頬が赤くなるのを見て、槙島は小さく笑った。

そこは、まだ一人で行くつもりだった。

 

今は、沙代がどこで足を止めるのか、早く見てみたかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。