絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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30.両立

 

 

 

約束の日、槙島は夕方に沙代を迎えに来た。

二人でしばらく歩き、大通りから広場へ出る。

 

「美術館じゃないんですね」

 

沙代が顔を上げた。

建物の間を、光の枝が伸びている。

薄青い葉が風に揺れるように動き、歩道には淡い模様が落ちていた。

 

「こういうものは、嫌い?」

「いえ。綺麗です」

 

沙代は繋いだ手を軽く引いた。

 

「見てください。あそこ、色が変わってます」

 

槙島もそちらを見る。

光が移り変わる、その中心にあるものを、彼は知っていた。

 

藤間が残した、人の身体。

 

今はホロに覆われ、通り過ぎる者には見えない。

沙代も、薄青い枝の向こうに何があるのかは知らなかった。

 

槙島は立ち位置を少し変え、周囲へ目を向けた。

人々は見上げて、写真を撮り、連れと笑っている。

 

隣の沙代も同じだった。

 

「近くまで行けますかね」

「ここからの方が、全体が見えるよ」

 

そう言って、彼女を自分のそばへ寄せた。

沙代は素直に立ち止まる。

肩が触れるほどの距離になって、光より先に槙島を見上げてしまった。

 

「どうしたの?」

「……なんでもないです」

「光を見るんじゃなかったかな」

「見てますよ」

 

槙島は笑った。

彼女をここへ連れてくる必要はなかった。

別の日に、一人で確認すればよかった。あるいは、沙代を家へ送ってからでも。

 

けれど、この広場を通れば光が見られる。

沙代は喜ぶだろうし、自分の用事も済む。

来る前には、その程度に考えていた。

 

今も、彼女の手を離そうとは思わなかった。

 

 

*

 

端末が震え、槙島は短く画面を確かめた。

 

『どうです?』

『問題なさそうだ。戻ってから話そう』

 

返信を終えると、沙代がこちらを見ていた。

 

「お仕事ですか?」

「少しね。もう済んだよ」

 

彼女の手を握り直した。

 

「待たせたかな」

「全然。今、あの上のところが金色になって、すごく綺麗でした」

「それは見逃したな」

「もう一回なるかもしれません。待ちます?」

 

槙島は彼女の顔を見た。

確認は終わっていた。

 

ここに留まる必要は、もうない。

 

「うん。もう少し見ていこう」

 

沙代は嬉しそうに頷き、再び光へ顔を向けた。

槙島も、その先を見た。

ホロの下にある身体を思い浮かべる。

 

藤間があの形を選んだ理由について、まだ聞きたいことがあった。

 

沙代の指が、掌の中で動く。

 

「聖護さん、手、冷たくないですか」

「君の方が冷たいね」

 

両手で包むと、彼女が笑った。

 

「外、ずっと歩いてたので」

「もう少し見たら、温かいものを飲もうか」

「はい」

 

その返事を聞きながら、槙島は親指で彼女の指先を撫でた。

彼女が寒くないかは気になった。

 

光の向こうにあるものを知られたくもなかった。

知れば、今のようには笑わないだろう。

 

だから、このまま見せておけばいい。

彼女が綺麗だと言った光を、彼女と一緒に眺める。

 

それを隔てているホロについても、槙島は先ほど問題がないと返したばかりだった。

 

「あ」

 

沙代の声が明るくなる。

 

「金色になりました。今です」

 

枝の先から光が広がり、二人の顔を淡く照らした。

槙島は光を見て、それから沙代へ目を向ける。

 

「綺麗だね」

 

沙代が頷いた。

 

その横顔を眺めながら、彼は彼女の指の間に自分の指を絡めた。

藤間にも、この場所を見せて話を聞こう。

 

そう考えたすぐ後で、沙代の頬へ口づけた。

彼女が驚いて振り向く。

 

「……今、見てたのに」

 

「うん」

 

槙島は笑った。

 

「君が嬉しそうだったから」

 

それも、嘘ではなかった。

 

*

 

温かいお茶を飲んでから、槙島は沙代を家へ送った。

玄関で手を離すと、彼女は鍵を取り出しながら、少しだけ動きを遅くした。

 

「……聖護さん」

「うん?」

「もう少し、いてくれませんか」

 

槙島は彼女を見た。

広場では、光が変わるたびにこちらを向いていた。今は鍵を握ったまま、返事を待っている。

 

「僕も、まだ帰りたくないと思っていたよ」

 

沙代が笑った。

扉を開け、彼を迎え入れる。

 

 

 

部屋に入ってからも、沙代は広場の話をした。

青い葉が金色に変わったこと。歩道の模様が、足元まで伸びてきたこと。

槙島が頬へ口づけた時、ちょうど見逃した光があったこと。

 

「また変わると思って、待ってたんです」

「それは悪いことをしたね」

 

言いながら笑うので、沙代も笑ってしまった。

 

「思ってないですよね」

「君がこちらを向いてくれたからね」

 

隣に座った彼へ、沙代は軽く肩を寄せた。

広場で見たものを、槙島は彼女と同じようには思い出さなかった。

けれど、沙代がどこで笑ったのかは覚えている。冷たかった指も、口づけた後の顔も。

 

彼女が話し終えると、槙島はその手を取った。

 

「今日は、楽しかった?」

「はい」

 

沙代が顔を上げる。

 

「聖護さんは?」

「ああ。また君と出かけたいよ」

 

彼女の笑みが深くなる。

槙島は頬に触れ、その顔へ身を寄せた。

今度は沙代も、すぐに目を閉じた。

 

 

 

*

 

一度離れると、沙代は彼の袖を掴んだ。

その手を見て、槙島が尋ねる。

 

「もう一度?」

 

彼女は小さく頷いた。

口づけを重ねるうちに、沙代の手が彼の肩へ回る。

槙島は背を支え、少し身体を離して顔を見た。

 

「沙代。今夜も、ここにいていいかな」

「……はい」

 

返事のあと、彼女は彼の手を握り直した。

 

「私も、もう少し近くにいたいです」

 

槙島はその言葉を聞き、もう一度、静かに口づけた。

 

*

 

 

 

寝室へ移ると、沙代はベッドの端に腰を下ろした。

槙島が隣へ座る。

肩に触れられた時は、彼のほうへ身体を寄せた。けれど、膝にかけた布が少しずれると、沙代の手が急いでそこへ動いた。

 

布を引き寄せ、太ももを覆う。

何気ない動作に見せようとしていたけれど、指先に力が入っていた。

 

槙島は彼女の顔へ視線を戻す。

 

「沙代?」

「……ここ、綺麗じゃないんです」

 

言ってから、さらに布を握り込む。

 

「昔の火傷で。大きいから、びっくりすると思います」

 

槙島はすぐには答えなかった。

彼女は俯いていたが、こちらの反応を待っているのが分かった。

そっと頬へ触れると、沙代が顔を上げた。

 

「見せたくない?」

 

彼女は小さく頷く。

 

「でも、隠してるのも変ですよね」

「変じゃないよ。今は、そのままでいい」

 

布を押さえる手には触れず、額に短く口づけた。

沙代は目を閉じる。

 

顔を上げると、今度は頬へ。

それから、もう片方の頬にも触れる。

 

「……聖護さん」

「うん」

「そんなに、しなくても」

「嫌だった?」

 

沙代は首を横に振った。

槙島が笑う。

 

「では、もう少し」

 

今度は唇へ、短く口づけた。

沙代も少し笑ったが、布を握る手には、まだ力が残っていた。

 

「……気になりませんか」

「君が気にしていることは、気になる」

 

その答えに、彼女の目が揺れる。

 

「でも、それで君に触れたい気持ちが変わることはないよ」

「本当に?」

「うん」

 

彼は彼女の髪を耳にかけた。

 

「僕の顔を見て。無理をしているように見えるかな」

 

沙代はおずおずと見つめ返した。

いつもの、少し笑った顔だった。

それから、ゆっくり首を横に振る。

 

「……見えないです」

「そうだろう?」

 

槙島は彼女を腕の中へ迎えた。

布は、そのまま膝に残した。

 

「傷を見せられない君も、こうして僕に話してくれる君も、愛おしいよ」

 

沙代は彼の肩へ額を寄せた。

しばらくして、布を握っていた手がほどける。

 

その手を彼の背へ回し、少しだけ強く抱きついた。

槙島は髪へ口づけ、彼女が顔を上げるのを待った。

 

「……いつかは、見せられると思います」

「うん」

「今日は、まだ」

「分かったよ」

 

彼はそれ以上、布へ目を向けなかった。

沙代が自分から近づいてくる。

 

槙島はその頬を撫で、もう一度口づけた。

 

今度は彼女も、彼の肩を引き寄せた。

広場の光について、もう話すことは残っていなかった。

 

その夜、沙代が隠していたものを、すべて差し出す必要もなかった。

槙島は彼女が自分から近づいてくるのを待って、もう一度、額に口づけた。

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