約束の日、槙島は夕方に沙代を迎えに来た。
二人でしばらく歩き、大通りから広場へ出る。
「美術館じゃないんですね」
沙代が顔を上げた。
建物の間を、光の枝が伸びている。
薄青い葉が風に揺れるように動き、歩道には淡い模様が落ちていた。
「こういうものは、嫌い?」
「いえ。綺麗です」
沙代は繋いだ手を軽く引いた。
「見てください。あそこ、色が変わってます」
槙島もそちらを見る。
光が移り変わる、その中心にあるものを、彼は知っていた。
藤間が残した、人の身体。
今はホロに覆われ、通り過ぎる者には見えない。
沙代も、薄青い枝の向こうに何があるのかは知らなかった。
槙島は立ち位置を少し変え、周囲へ目を向けた。
人々は見上げて、写真を撮り、連れと笑っている。
隣の沙代も同じだった。
「近くまで行けますかね」
「ここからの方が、全体が見えるよ」
そう言って、彼女を自分のそばへ寄せた。
沙代は素直に立ち止まる。
肩が触れるほどの距離になって、光より先に槙島を見上げてしまった。
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
「光を見るんじゃなかったかな」
「見てますよ」
槙島は笑った。
彼女をここへ連れてくる必要はなかった。
別の日に、一人で確認すればよかった。あるいは、沙代を家へ送ってからでも。
けれど、この広場を通れば光が見られる。
沙代は喜ぶだろうし、自分の用事も済む。
来る前には、その程度に考えていた。
今も、彼女の手を離そうとは思わなかった。
*
端末が震え、槙島は短く画面を確かめた。
『どうです?』
『問題なさそうだ。戻ってから話そう』
返信を終えると、沙代がこちらを見ていた。
「お仕事ですか?」
「少しね。もう済んだよ」
彼女の手を握り直した。
「待たせたかな」
「全然。今、あの上のところが金色になって、すごく綺麗でした」
「それは見逃したな」
「もう一回なるかもしれません。待ちます?」
槙島は彼女の顔を見た。
確認は終わっていた。
ここに留まる必要は、もうない。
「うん。もう少し見ていこう」
沙代は嬉しそうに頷き、再び光へ顔を向けた。
槙島も、その先を見た。
ホロの下にある身体を思い浮かべる。
藤間があの形を選んだ理由について、まだ聞きたいことがあった。
沙代の指が、掌の中で動く。
「聖護さん、手、冷たくないですか」
「君の方が冷たいね」
両手で包むと、彼女が笑った。
「外、ずっと歩いてたので」
「もう少し見たら、温かいものを飲もうか」
「はい」
その返事を聞きながら、槙島は親指で彼女の指先を撫でた。
彼女が寒くないかは気になった。
光の向こうにあるものを知られたくもなかった。
知れば、今のようには笑わないだろう。
だから、このまま見せておけばいい。
彼女が綺麗だと言った光を、彼女と一緒に眺める。
それを隔てているホロについても、槙島は先ほど問題がないと返したばかりだった。
「あ」
沙代の声が明るくなる。
「金色になりました。今です」
枝の先から光が広がり、二人の顔を淡く照らした。
槙島は光を見て、それから沙代へ目を向ける。
「綺麗だね」
沙代が頷いた。
その横顔を眺めながら、彼は彼女の指の間に自分の指を絡めた。
藤間にも、この場所を見せて話を聞こう。
そう考えたすぐ後で、沙代の頬へ口づけた。
彼女が驚いて振り向く。
「……今、見てたのに」
「うん」
槙島は笑った。
「君が嬉しそうだったから」
それも、嘘ではなかった。
*
温かいお茶を飲んでから、槙島は沙代を家へ送った。
玄関で手を離すと、彼女は鍵を取り出しながら、少しだけ動きを遅くした。
「……聖護さん」
「うん?」
「もう少し、いてくれませんか」
槙島は彼女を見た。
広場では、光が変わるたびにこちらを向いていた。今は鍵を握ったまま、返事を待っている。
「僕も、まだ帰りたくないと思っていたよ」
沙代が笑った。
扉を開け、彼を迎え入れる。
部屋に入ってからも、沙代は広場の話をした。
青い葉が金色に変わったこと。歩道の模様が、足元まで伸びてきたこと。
槙島が頬へ口づけた時、ちょうど見逃した光があったこと。
「また変わると思って、待ってたんです」
「それは悪いことをしたね」
言いながら笑うので、沙代も笑ってしまった。
「思ってないですよね」
「君がこちらを向いてくれたからね」
隣に座った彼へ、沙代は軽く肩を寄せた。
広場で見たものを、槙島は彼女と同じようには思い出さなかった。
けれど、沙代がどこで笑ったのかは覚えている。冷たかった指も、口づけた後の顔も。
彼女が話し終えると、槙島はその手を取った。
「今日は、楽しかった?」
「はい」
沙代が顔を上げる。
「聖護さんは?」
「ああ。また君と出かけたいよ」
彼女の笑みが深くなる。
槙島は頬に触れ、その顔へ身を寄せた。
今度は沙代も、すぐに目を閉じた。
*
一度離れると、沙代は彼の袖を掴んだ。
その手を見て、槙島が尋ねる。
「もう一度?」
彼女は小さく頷いた。
口づけを重ねるうちに、沙代の手が彼の肩へ回る。
槙島は背を支え、少し身体を離して顔を見た。
「沙代。今夜も、ここにいていいかな」
「……はい」
返事のあと、彼女は彼の手を握り直した。
「私も、もう少し近くにいたいです」
槙島はその言葉を聞き、もう一度、静かに口づけた。
*
寝室へ移ると、沙代はベッドの端に腰を下ろした。
槙島が隣へ座る。
肩に触れられた時は、彼のほうへ身体を寄せた。けれど、膝にかけた布が少しずれると、沙代の手が急いでそこへ動いた。
布を引き寄せ、太ももを覆う。
何気ない動作に見せようとしていたけれど、指先に力が入っていた。
槙島は彼女の顔へ視線を戻す。
「沙代?」
「……ここ、綺麗じゃないんです」
言ってから、さらに布を握り込む。
「昔の火傷で。大きいから、びっくりすると思います」
槙島はすぐには答えなかった。
彼女は俯いていたが、こちらの反応を待っているのが分かった。
そっと頬へ触れると、沙代が顔を上げた。
「見せたくない?」
彼女は小さく頷く。
「でも、隠してるのも変ですよね」
「変じゃないよ。今は、そのままでいい」
布を押さえる手には触れず、額に短く口づけた。
沙代は目を閉じる。
顔を上げると、今度は頬へ。
それから、もう片方の頬にも触れる。
「……聖護さん」
「うん」
「そんなに、しなくても」
「嫌だった?」
沙代は首を横に振った。
槙島が笑う。
「では、もう少し」
今度は唇へ、短く口づけた。
沙代も少し笑ったが、布を握る手には、まだ力が残っていた。
「……気になりませんか」
「君が気にしていることは、気になる」
その答えに、彼女の目が揺れる。
「でも、それで君に触れたい気持ちが変わることはないよ」
「本当に?」
「うん」
彼は彼女の髪を耳にかけた。
「僕の顔を見て。無理をしているように見えるかな」
沙代はおずおずと見つめ返した。
いつもの、少し笑った顔だった。
それから、ゆっくり首を横に振る。
「……見えないです」
「そうだろう?」
槙島は彼女を腕の中へ迎えた。
布は、そのまま膝に残した。
「傷を見せられない君も、こうして僕に話してくれる君も、愛おしいよ」
沙代は彼の肩へ額を寄せた。
しばらくして、布を握っていた手がほどける。
その手を彼の背へ回し、少しだけ強く抱きついた。
槙島は髪へ口づけ、彼女が顔を上げるのを待った。
「……いつかは、見せられると思います」
「うん」
「今日は、まだ」
「分かったよ」
彼はそれ以上、布へ目を向けなかった。
沙代が自分から近づいてくる。
槙島はその頬を撫で、もう一度口づけた。
今度は彼女も、彼の肩を引き寄せた。
広場の光について、もう話すことは残っていなかった。
その夜、沙代が隠していたものを、すべて差し出す必要もなかった。
槙島は彼女が自分から近づいてくるのを待って、もう一度、額に口づけた。