「沙代さん、どうするんです?」
グソンに聞かれて、槙島は資料から目を上げた。
「どうする、とは?」
「今までどおり通うつもりじゃないでしょうね。ダンナを追って、あの家まで辿られたら」
槙島は小さく笑った。
「辿られるようなことはしていないよ」
「今は、でしょう」
「彼女にも、何もさせていない。本を読んで、お茶を飲んでいるだけだ」
「それで向こうが納得するとは限りませんけどね」
「沙代は、何も悪いことをしていないだろう?」
穏やかな問いだった。
グソンは彼を見た。
「ダンナがそう思っていても、疑われたら困るんですよ」
「君は、随分彼女を心配するようになったね」
「会っちまいましたからね。何も知らずに礼を言われて、気にしない方が難しいですよ」
槙島の口元が緩んだ。
「そうか」
「そうか、じゃありません。彼女、ダンナが来れば普通に扉を開けるでしょう。誰に見られているかなんて、考えもしない」
「だから、僕が気をつけている」
「それでも、もしもの話です」
槙島は椅子の背へ身体を預けた。
「その時は、全て終わらせるよ」
笑っていた。
グソンはすぐには答えなかった。
「……何をです?」
「彼女のところまで来てしまったものを」
槙島は卓上の資料へ指を置いた。
「僕を追っていたのなら、僕のところで終わればいい。彼女にまで用事を作らせる必要はないだろう」
グソンは、その笑みを見ていた。
冗談ではない。
誰が来るのかも、何人になるのかも分からないうちから、この男は自分が終わらせる側にいるつもりだった。
「簡単に言いますね」
「まだ起きてもいないことで、君と深刻な顔をする必要があるかな」
「起きてからでは遅いと言ってるんです」
槙島は笑みを残したまま、彼を見た。
グソンは小さく息を吐く。
「せめて、しばらく離れてください。今、わざわざ会う理由を増やさなくてもいいでしょう」
「会いたいという理由はあるよ」
「それは分かってます」
その返事に、槙島は少し楽しそうに目を細めた。
しばらくして、資料から手を離す。
「分かった。彼女のところへは行かない。外で会うのも控えよう」
「本人には?」
「忙しくなると伝えるよ」
「いつまで、って聞かれたら?」
槙島は手元の端末を見た。
沙代から、読み終えた本の感想が届いている。
最後に一行、今度来た時に話したいです、とあった。
「分からないことは、約束できないね」
「それで待たせるんですか」
「……待っていてほしいとは思っている」
グソンが顔を上げた。
槙島は画面を閉じずに、言葉を続ける。
「彼女が寂しがらずに済む答えは、今は持っていないよ」
「寂しがるのは分かってるんですね」
「ああ」
「それでも、理由は話さない」
「話せば、彼女は知ってしまう」
「だったら、待たなくていいと言うこともできるでしょう」
槙島の指が止まった。
しばらくして、彼はグソンへ目を向ける。
「そう言って、本当に待つのをやめられたら困るね」
穏やかな声だった。
グソンは椅子の背にもたれた。
「……随分、勝手ですね」
「そうだね」
否定はしなかった。
沙代の棚には、自分の本が残っている。
白いカップも、いつも座る場所も。
次に扉を開けた時、彼女にはそこにいてほしかった。
今までと同じように名前を呼び、少し笑って、自分を迎えてほしい。
その間、彼女が何日待つことになるのかは、まだ分からない。
「彼女が納得する理由も、戻る日も渡さずに?」
グソンが尋ねた。
「君は、何を言わせたいんだい」
「彼女にも選ぶ権利がある、って話ですよ」
「あるよ」
返事は早かった。
「会いたくないと言われたら、無理に会うつもりはない」
「言われるまでは?」
槙島は端末へ視線を戻した。
「僕から、終わりにするつもりはないね」
グソンが黙る。
槙島は沙代の文章を、もう一度読んだ。
今度来た時に話したいです。
その「今度」を、自分の都合で遠ざける。
けれど、なくしてしまうのは嫌だった。
「沙代さんは、忙しいと言われたら、邪魔しないようにしますよ」
「知っている」
「前にも、連絡を控えてたでしょう」
「ああ」
「ダンナが嫌になったのかもしれないと考えても、自分からは聞かないかもしれません」
槙島は一度、目を伏せた。
その顔は覚えている。
久しぶりに会った時、沙代は笑って、ちょっとだけそれも考えたと言った。
「そこは、伝えるよ」
「何を?」
「会いたくなくなったわけではないと」
グソンは短く息を吐いた。
「それを言われたら、余計に待つでしょうね」
槙島は答えなかった。
返信欄を開く。
『しばらく、そちらへ行けなくなりそうなんだ』
続けて、もう一文を打った。
『君と会いたくなくなったわけではないよ。本の話も、また聞きたい』
読み返す。
沙代はきっと、分かりましたと返すだろう。
忙しいなら仕方がないと、自分に言い聞かせるかもしれない。
槙島は、それでも文章を消さなかった。
「彼女を危険から遠ざけるためだけなら、もっと簡単に済むんですがね」
グソンが言った。
「そうだね」
槙島は送信した。
「でも、僕はまた、あの部屋へ帰りたいんだ」
*
どんなことをしている人でも、私は――聖護さんに、会いたかった。
知らないことがあるのは、分かっていた。
聞いたら、今までみたいにはいられなくなる気がして、聞けなかった。
怖くなかったわけじゃない。
ニュースを見るたびに、あの真剣な横顔を思い出した。
画面の向こうで起きていることと、私の隣にいた人が、どこかで繋がっているのかもしれない。
それでも、会いたかった。
熱を出した日に聞こえた声も、私の感想を面白そうに聞いてくれた顔も、初めて名前を呼んだ時の笑い方も、覚えている。
あの人の本が、ここにある。
白いカップがある。
一緒に探した絵本がある。
会えない日が続いても、暮らしのあちこちに聖護さんがいた。
端末を開く。
最後に届いた『おやすみ、沙代』を、もう一度読んだ。
聞きたいことは、いっぱいあった。
今、どこにいるの。
ちゃんと眠れているの。
どうして、来られないの。
でも、書いたのは一つだけだった。
『会いたいです』
送ってから、端末を胸に伏せる。
いい子に待っていようと思っていたのに。
困らせたくなかったのに。今日は、寂しかった。
少しして、手の中で端末が震えた。
文字の返事ではなく、着信だった。
慌てて出ると、聞きたかった声がする。
「沙代」
「……はい」
「今、話せる?」
頷いてから、見えないことに気づいた。
「話せます」
向こうが、少し静かになる。
「僕も、君に会いたいよ」
その一言で涙が出た。
大丈夫です、と言うつもりだった。
待ってます、と、いつもみたいに。
でも、声にならなかった。
「沙代?」
「……ちゃんと、帰ってきてくださいね」
答えが来るまで、少し時間がかかった。
私は端末を耳に押し当てたまま、待った。
それでも返事がなくて、もう一つ、言葉がこぼれた。
「……生きててほしいです」
電話の向こうで、聖護さんが黙った。
言ってしまった、と思った。
仕事が忙しいだけだと言われれば、それ以上は聞かないつもりだったのに。
「沙代」
いつもより静かな声だった。
「何か、あった?」
「何も」
私は首を横に振った。
「何も知らないです。でも……聖護さん、時々、もう会えなくなるみたいな話し方をするから」
次に会う約束をしなくなった。
またね、と言えば、うん、と答えてくれる。
それだけになった。
「帰ってくる日が、まだ分からなくてもいいです」
息を吸ったら、うまく続かなかった。
「でも、生きててください。会えなくても、どこかにいてください」
*
槙島は端末を耳に当てたまま、目を伏せた。
隣の部屋から、グソンが何かを動かす音がする。
卓上には、明日のための資料が開かれていた。
「……会えなくても?」
「会いたいですよ」
沙代の声が震えた。
「すごく。でも、会えなくなるのと、いなくなっちゃうのは、違います」
彼は返事を探した。
安心させる言葉なら、今も思いつく。
心配しなくていい、と言えば、彼女は信じようとしてくれるだろう。
けれど、沙代が何を恐れているのかは、もう聞いてしまった。
「君のところへ帰りたいと思っているよ」
ようやく、そう答えた。
沙代が小さく息を吐く。
「……はい」
「だから、君に会うために、生きて帰るつもりでいる」
「本当ですか」
「本当だよ」
帰ったら、何を話そう。
槙島は沙代の部屋を思い浮かべた。
読んだ本の感想を聞く。お茶を飲む。
眠る前に、もう少し話したいと言われる。
翌朝、彼女が起きるのを待つ。
今していることをやめるつもりはなかった。
それでも、その先にある時間を、自分も望んでいた。
「沙代。今日は、もう少し話していようか」
「お仕事は?」
槙島は開いた資料を閉じた。
「あとでいい」
電話の向こうで、彼女が鼻をすすった。
「……何を話しましょう」
「今日のことを聞かせて」
槙島は椅子に深く座り直した。
「朝、起きてから。まだ、何も聞いていないからね」