絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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32.待っていて欲しい

 

 

 

 

「沙代さん、どうするんです?」

 

グソンに聞かれて、槙島は資料から目を上げた。

 

「どうする、とは?」

「今までどおり通うつもりじゃないでしょうね。ダンナを追って、あの家まで辿られたら」

 

槙島は小さく笑った。

 

「辿られるようなことはしていないよ」

「今は、でしょう」

「彼女にも、何もさせていない。本を読んで、お茶を飲んでいるだけだ」

「それで向こうが納得するとは限りませんけどね」

「沙代は、何も悪いことをしていないだろう?」

 

穏やかな問いだった。

グソンは彼を見た。

 

「ダンナがそう思っていても、疑われたら困るんですよ」

「君は、随分彼女を心配するようになったね」

「会っちまいましたからね。何も知らずに礼を言われて、気にしない方が難しいですよ」

 

槙島の口元が緩んだ。

 

「そうか」

「そうか、じゃありません。彼女、ダンナが来れば普通に扉を開けるでしょう。誰に見られているかなんて、考えもしない」

「だから、僕が気をつけている」

「それでも、もしもの話です」

 

槙島は椅子の背へ身体を預けた。

 

「その時は、全て終わらせるよ」

 

笑っていた。

グソンはすぐには答えなかった。

 

「……何をです?」

「彼女のところまで来てしまったものを」

 

槙島は卓上の資料へ指を置いた。

 

「僕を追っていたのなら、僕のところで終わればいい。彼女にまで用事を作らせる必要はないだろう」

 

グソンは、その笑みを見ていた。

冗談ではない。

誰が来るのかも、何人になるのかも分からないうちから、この男は自分が終わらせる側にいるつもりだった。

 

「簡単に言いますね」

「まだ起きてもいないことで、君と深刻な顔をする必要があるかな」

「起きてからでは遅いと言ってるんです」

 

槙島は笑みを残したまま、彼を見た。

グソンは小さく息を吐く。

 

「せめて、しばらく離れてください。今、わざわざ会う理由を増やさなくてもいいでしょう」

「会いたいという理由はあるよ」

「それは分かってます」

 

その返事に、槙島は少し楽しそうに目を細めた。

しばらくして、資料から手を離す。

 

「分かった。彼女のところへは行かない。外で会うのも控えよう」

「本人には?」

「忙しくなると伝えるよ」

「いつまで、って聞かれたら?」

 

槙島は手元の端末を見た。

沙代から、読み終えた本の感想が届いている。

最後に一行、今度来た時に話したいです、とあった。

 

「分からないことは、約束できないね」

「それで待たせるんですか」

「……待っていてほしいとは思っている」

 

グソンが顔を上げた。

槙島は画面を閉じずに、言葉を続ける。

 

「彼女が寂しがらずに済む答えは、今は持っていないよ」

「寂しがるのは分かってるんですね」

「ああ」

「それでも、理由は話さない」

「話せば、彼女は知ってしまう」

「だったら、待たなくていいと言うこともできるでしょう」

 

槙島の指が止まった。

しばらくして、彼はグソンへ目を向ける。

 

「そう言って、本当に待つのをやめられたら困るね」

 

穏やかな声だった。

グソンは椅子の背にもたれた。

 

「……随分、勝手ですね」

「そうだね」

 

否定はしなかった。

沙代の棚には、自分の本が残っている。

白いカップも、いつも座る場所も。

 

次に扉を開けた時、彼女にはそこにいてほしかった。

今までと同じように名前を呼び、少し笑って、自分を迎えてほしい。

その間、彼女が何日待つことになるのかは、まだ分からない。

 

「彼女が納得する理由も、戻る日も渡さずに?」

 

グソンが尋ねた。

 

「君は、何を言わせたいんだい」

「彼女にも選ぶ権利がある、って話ですよ」

「あるよ」

 

返事は早かった。

 

「会いたくないと言われたら、無理に会うつもりはない」

「言われるまでは?」

 

槙島は端末へ視線を戻した。

 

「僕から、終わりにするつもりはないね」

 

グソンが黙る。

槙島は沙代の文章を、もう一度読んだ。

 

今度来た時に話したいです。

その「今度」を、自分の都合で遠ざける。

けれど、なくしてしまうのは嫌だった。

 

「沙代さんは、忙しいと言われたら、邪魔しないようにしますよ」

「知っている」

「前にも、連絡を控えてたでしょう」

「ああ」

「ダンナが嫌になったのかもしれないと考えても、自分からは聞かないかもしれません」

 

槙島は一度、目を伏せた。

その顔は覚えている。

久しぶりに会った時、沙代は笑って、ちょっとだけそれも考えたと言った。

 

「そこは、伝えるよ」

「何を?」

「会いたくなくなったわけではないと」

 

グソンは短く息を吐いた。

 

「それを言われたら、余計に待つでしょうね」

 

槙島は答えなかった。

返信欄を開く。

 

『しばらく、そちらへ行けなくなりそうなんだ』

 

続けて、もう一文を打った。

 

『君と会いたくなくなったわけではないよ。本の話も、また聞きたい』

 

読み返す。

沙代はきっと、分かりましたと返すだろう。

忙しいなら仕方がないと、自分に言い聞かせるかもしれない。

 

槙島は、それでも文章を消さなかった。

 

「彼女を危険から遠ざけるためだけなら、もっと簡単に済むんですがね」

 

グソンが言った。

 

「そうだね」

 

槙島は送信した。

 

「でも、僕はまた、あの部屋へ帰りたいんだ」

 

 

 

*

 

 

 

 

どんなことをしている人でも、私は――聖護さんに、会いたかった。

知らないことがあるのは、分かっていた。

聞いたら、今までみたいにはいられなくなる気がして、聞けなかった。

 

怖くなかったわけじゃない。

 

ニュースを見るたびに、あの真剣な横顔を思い出した。

画面の向こうで起きていることと、私の隣にいた人が、どこかで繋がっているのかもしれない。

 

それでも、会いたかった。

熱を出した日に聞こえた声も、私の感想を面白そうに聞いてくれた顔も、初めて名前を呼んだ時の笑い方も、覚えている。

 

あの人の本が、ここにある。

 

白いカップがある。

 

一緒に探した絵本がある。

会えない日が続いても、暮らしのあちこちに聖護さんがいた。

 

端末を開く。

 

最後に届いた『おやすみ、沙代』を、もう一度読んだ。

 

聞きたいことは、いっぱいあった。

 

今、どこにいるの。

ちゃんと眠れているの。

 

どうして、来られないの。

でも、書いたのは一つだけだった。

 

『会いたいです』

 

送ってから、端末を胸に伏せる。

 

いい子に待っていようと思っていたのに。

困らせたくなかったのに。今日は、寂しかった。

少しして、手の中で端末が震えた。

 

文字の返事ではなく、着信だった。

慌てて出ると、聞きたかった声がする。

 

「沙代」

「……はい」

「今、話せる?」

 

頷いてから、見えないことに気づいた。

 

「話せます」

 

向こうが、少し静かになる。

 

「僕も、君に会いたいよ」

 

その一言で涙が出た。

大丈夫です、と言うつもりだった。

待ってます、と、いつもみたいに。

 

でも、声にならなかった。

 

「沙代?」

「……ちゃんと、帰ってきてくださいね」

 

答えが来るまで、少し時間がかかった。

私は端末を耳に押し当てたまま、待った。

それでも返事がなくて、もう一つ、言葉がこぼれた。

 

「……生きててほしいです」

 

電話の向こうで、聖護さんが黙った。

言ってしまった、と思った。

仕事が忙しいだけだと言われれば、それ以上は聞かないつもりだったのに。

 

「沙代」

 

いつもより静かな声だった。

 

「何か、あった?」

「何も」

 

私は首を横に振った。

 

「何も知らないです。でも……聖護さん、時々、もう会えなくなるみたいな話し方をするから」

 

次に会う約束をしなくなった。

またね、と言えば、うん、と答えてくれる。

それだけになった。

 

「帰ってくる日が、まだ分からなくてもいいです」

 

息を吸ったら、うまく続かなかった。

 

「でも、生きててください。会えなくても、どこかにいてください」

 

 

 

*

 

 

 

槙島は端末を耳に当てたまま、目を伏せた。

隣の部屋から、グソンが何かを動かす音がする。

卓上には、明日のための資料が開かれていた。

 

「……会えなくても?」

「会いたいですよ」

 

沙代の声が震えた。

 

「すごく。でも、会えなくなるのと、いなくなっちゃうのは、違います」

 

彼は返事を探した。

安心させる言葉なら、今も思いつく。

心配しなくていい、と言えば、彼女は信じようとしてくれるだろう。

 

けれど、沙代が何を恐れているのかは、もう聞いてしまった。

 

「君のところへ帰りたいと思っているよ」

 

ようやく、そう答えた。

沙代が小さく息を吐く。

 

「……はい」

「だから、君に会うために、生きて帰るつもりでいる」

「本当ですか」

「本当だよ」

 

帰ったら、何を話そう。

 

槙島は沙代の部屋を思い浮かべた。

読んだ本の感想を聞く。お茶を飲む。

 

眠る前に、もう少し話したいと言われる。

翌朝、彼女が起きるのを待つ。

今していることをやめるつもりはなかった。

 

それでも、その先にある時間を、自分も望んでいた。

 

「沙代。今日は、もう少し話していようか」

「お仕事は?」

 

槙島は開いた資料を閉じた。

 

「あとでいい」

 

電話の向こうで、彼女が鼻をすすった。

 

「……何を話しましょう」

「今日のことを聞かせて」

 

槙島は椅子に深く座り直した。

 

「朝、起きてから。まだ、何も聞いていないからね」

 

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