「彼女の方は、今のところ問題ありません」
グソンが言うと、槙島は小さく頷いた。
「ありがとう」
「だからって、会いに行っていいという話じゃありませんよ」
「分かっているよ」
返事は穏やかだった。
けれど、机に置いた端末へ、また視線が落ちる。
グソンはそれを見て、椅子にもたれた。
「……そんなに会いたいんです?」
槙島は少し笑った。
「感情が止められないのは、初めてだよ」
グソンが黙る。
「連絡が来れば嬉しい。声を聞けば、顔が見たくなる。話し終わる頃には、どうして僕はここにいるんだろうと思っている」
槙島は端末を手に取ったが、画面を開かずに置き直した。
「会わない方がいい理由は、いくらでも説明できるんだけどね」
「それで納得はできない、と」
「判断は変わっていないよ。ただ、会いたい気持ちも変わらない」
グソンはしばらく彼を見ていた。
「電話、すればいいじゃないですか」
「さっきしたところだ」
「……それは重症ですね」
槙島が声を出して笑った。
その時、端末が震える。
『さっき声が聞けて嬉しかったです。今日はよく眠れそう』
槙島は読み終えても、しばらく画面を見ていた。
「彼女ですか」
「うん。眠れそうだって」
「なら、今日は寝かせてやってください」
「そうだね」
返信を打つ。
『おやすみ、沙代。また明日、話そう』
送信して、端末を伏せた。
もう一度声を聞きたかった。
けれど今夜は、彼女が安心して眠れる方を選んだ。
「生きててほしい、だってさ。全く、察しがいい子だよ」
槙島は伏せた端末を眺めながら言った。
グソンが顔を上げる。
「何か知られたんですか?」
「いや。何をしているのかは知らない。ただ、僕がもう会えなくなるような話し方をする、と言われた」
「……そういう話し方、してたんです?」
「していたんだろうね。気づかないうちに」
槙島は椅子の背にもたれた。
沙代には、仕事が忙しいとしか伝えていない。
彼女もそれ以上は尋ねなかった。だから、理由を聞かずに待っていてくれると思っていた。
「帰ってくる日が分からなくてもいい。会えなくても、どこかにいてほしい、と」
グソンはしばらく黙ってから、尋ねた。
「ダンナは、何て?」
「帰りたいと思っていると答えたよ」
「彼女のところへ?」
「うん」
その返事に迷いはなかった。
槙島は小さく笑う。
「会いたいと言われた方が、まだ答えやすかった。僕もそうだと言えるからね」
「生きててほしい、は?」
「……簡単に安心させる気にはなれなかったな」
あの声を思い出す。
泣くのを堪えながら、それでも自分の願いを伝えようとしていた。
沙代は、彼が何をしているか知らないまま、その先にある別れを怖がっていた。
「僕と会うことより、僕が生きていることを選ぶんだね、あの子は」
「そりゃ、好きならそうでしょう」
槙島がグソンを見た。
あまりに当然のこととして言われて、少しだけ目を細める。
「そうか」
机の上の端末へ、手を伸ばしかけた。
けれど、もう眠っているかもしれないと思い直す。
「明日は?」
グソンに聞かれ、槙島は予定の開かれた画面を見た。
「予定どおりでいい」
それから、付け足す。
「夜は、少し時間を空けておいてくれるかな」
「また電話ですか」
「約束したからね」
グソンは頷いた。
*
作業中の画面を切り替え、グソンが口を開いた。
「ダンナ。もう一つ、確認しておきたいことが」
槙島は顔を上げる。
「何かな」
「公安の佐々山です。こっちまで辿りついたかもしれません」
画面に、一人の男の顔が表示された。
槙島はそれを見て、わずかに目を細めた。
「佐々山……ああ。最近、あちこち嗅ぎ回っていた男か」
「ご存じで?」
「名前までは覚えていなかったよ。少し鬱陶しいとは思っていたけれど」
声は穏やかだった。
グソンが別の画像を開く。
「ダンナらしい人物の写真を手に入れたようです。まだ、どこまで分かっているかは確認中ですが」
槙島はしばらく眺めた。
遠くから捉えられた姿だった。
白い髪は分かるが、顔は鮮明ではない。写り込んだ背景にも、居場所を示すものはなかった。
「これだけなら、僕だと特定するのは難しいね」
「ええ。ただ、これを探すまでに何を掴んだのか、そこが気になります」
「そうだね」
槙島は佐々山の顔へ視線を戻した。
「鬱陶しいだけで済ませておくには、少し近づきすぎたかな」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
グソンはその顔を見てから、言った。
「一旦、沙代さんから離れて正解でしたね」
「この件と、彼女との繋がりは?」
「今のところ、何も。名前も住所も、向こうの捜査には出てきていません」
「なら、いい」
槙島はもう一度、写真を見た。鮮明ではないが、沙代と歩いていた時のものではない。
彼女の部屋も、通っていた本屋も、そこには写っていなかった。
「念のため、今のままでいてくださいよ」
「分かっているよ」
返事は、先ほどと変わらず穏やかだった。
「こちらが落ち着いたら、会いに行くよ」
「……まだ、何も片づいてませんが」
「片づけるつもりで話しているんだけれど」
槙島は小さく笑った。
グソンは笑わなかった。
「佐々山が、ほかにも持っているかもしれません」
「それは確かめよう」
「ダンナを見つけたら、次は周りを調べますよ」
「なら、その前に彼と話すことになるかもしれないね」
槙島は画面に残った男の顔を見た。
どこから辿ってきたのか。
誰の言葉を拾い、何を見つけたのか。
聞いてみたいことはあった。
ただ、それを沙代のところまで持っていかせるつもりはなかった。
「沙代さんに会う前に、そっちを済ませてください」
「ああ」
槙島は自分の端末を取り、彼女とのやり取りを開いた。
最後に送った言葉は、まだ同じだった。
おやすみ、沙代。また明日、話そう。
「彼女には、何か言うんです?」
「明日の夜、電話するよ。約束したからね」
「会えるとは、まだ言わないでくださいよ」
「日が決まるまでは言わない」
槙島は画面を閉じた。
会いに行けるようになったら、先に連絡しよう。
沙代はきっと、何時ですかと尋ねる。
自分は三時と答えるかもしれない。
彼女が白いカップを出し、お湯を沸かして待てるように。
そこまで考えてから、槙島は佐々山の資料を引き寄せた。
「続きを見せてくれるかな。彼がどこまで知ってしまったのか、確かめよう」
声には、もう仕事を進める時の落ち着きが戻っていた。