絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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幸せだったよ


34.愛おしい

 

 

 

 

 

 

『明日、会いに行ってもいいかな』

 

沙代からの返信は、すぐに届いた。

 

『はい』

『何時でも大丈夫です』

 

槙島はその二通を見て、電話をかけた。

 

「もしもし」

 

声が少し弾んでいた。

 

「明日の午後はどう?」

「はい。います」

「……まだ、何時か言っていないけど」

「ずっといます」

 

言い切ってから、沙代が小さく笑う。

槙島も笑った。

明日の予定を決めるだけの電話を、なかなか終えられなかった。

 

 

 

*

 

 

 

翌日、槙島が呼び鈴へ手を伸ばすより早く、玄関の扉が開いた。

 

「……こんにちは」

 

沙代はそこで立ち止まった。

昨日まで、会ったら何を言おうか考えていた。

読んだ本のことも、最近買ったお茶のことも、聞いてほしいことはたくさんあった。

 

けれど、目の前にいる彼を見たら、どれも出てこなくなった。

 

「こんにちは、沙代」

 

槙島も、すぐには中へ入らなかった。

髪が少し伸びている。

声は電話で何度も聞いたけれど、こうして自分を見上げる顔は久しぶりだった。

 

「入ってもいい?」

「あ、はい。どうぞ」

 

沙代が脇へ寄る。

扉が閉まると、槙島は持っていた本を玄関の棚に置いた。

 

「沙代」

 

振り向いた彼女へ、両腕を広げる。

沙代は一歩近づき、それから、もう一歩。

彼の胸に額が触れたところで、ようやく息を吐いた。

 

「……会いたかったです」

「うん」

 

槙島の腕が背中に回る。

電話越しには分からなかった温かさがあった。

沙代が服を掴む力も、顔を上げられずにいることも、今は全部分かる。

 

「僕も、会いたかった」

 

彼女を抱く腕に、少し力が入った。

沙代は黙って頷く。

頷くたび、額が彼の胸に擦れた。

 

「顔を見せてくれるかい」

「ちょっと待ってください」

「どうして?」

「……変な顔してるので」

 

槙島は急かさず、そのまま髪を撫でた。

しばらくして顔を上げた沙代は、目が赤かった。

笑おうとして、うまくいかなかったらしい。

彼は頬に触れる。

 

「待たせたね」

 

その言葉で、沙代の目から涙が落ちた。

 

「ちゃんと……来てくれた」

「うん」

 

彼女の頬を親指で拭う。

ここへ戻るまでに起きたことを、沙代に話すつもりはなかった。

 

彼女が待っていた時間と、自分が過ごした時間は、今日も同じにはならない。

それでも、あの電話で伝えたことは果たせた。

 

生きて、彼女の前に立っている。

沙代が両手で彼の顔に触れた。

 

少し戸惑うような、確かめるような手つきだった。

 

「……聖護さん」

「何?」

「呼びたかっただけです」

 

槙島は目を細めた。

 

「もう一度、呼んで」

 

沙代が照れながら名前を呼ぶと、彼はその額に口づけた。

それから、頬にも。

彼女が小さく笑って、肩の力を抜く。

 

「お茶、淹れますね」

 

離れようとした沙代を、槙島はもう一度抱き寄せた。

 

「あとでいいよ」

「でも」

「もう少し、こうしていたい」

 

沙代の手が、ゆっくり彼の背中に回った。

 

白いカップも、本棚も、あとで見ればよかった。

今は彼女がここにいて、自分もここにいる。

 

そのことを、腕の中で確かめていたかった。

 

*

 

玄関の棚に、本を置いたままだった。

 

お茶を淹れることも忘れ、二人は寝室へ移った。

沙代が名前を呼ぶたび、槙島は顔を上げた。

その近さを確かめるように、彼女も彼の頬へ触れる。

 

会えなかった間に伝えたかったことは、まだほとんど話せていなかった。

 

 

 

 

抱き合った後、ようやく呼吸が落ち着いても、沙代は彼のそばを離れなかった。

 

椅子には、脱いだ服が重なっている。

槙島が引き上げた掛け布団の下で、彼女は少し身体を寄せ直した。

素肌に触れる腕の温かさに、目を伏せて笑う。

 

彼が頬にかかった髪を払った。

 

「大丈夫?」

 

沙代は頷き、彼の胸元へ額を寄せる。

しばらく、そのままでいた。

 

「……お茶、結局淹れてないですね」

 

沙代が呟くと、隣で槙島が笑った。

 

「そうだったね」

「喉、渇きませんか」

「少し」

 

それでも、彼女の肩に回した腕はほどかれなかった。

沙代は彼を見上げて、小さく笑う。

 

「取りに行けないです」

「もう少ししたら、僕が行くよ」

 

窓から差す午後の光が、少しずつ傾いていた。

沙代は掛け布団の端を整え、彼の胸元に頬を寄せる。

 

「今日、何時までいられます?」

 

槙島は彼女の髪を撫でた。

 

「今日は帰らないつもりだけど。泊めてくれる?」

「……はい」

 

返事をしたあと、沙代は目を閉じた。

ほっとしたように、肩から力が抜ける。

槙島はその顔を見て、髪を撫でる手を止めずにいた。

 

「沙代」

「はい?」

「会えない間、どうしていた?」

「電話で話しましたよ」

「話してくれなかったことも、あるだろう?」

 

沙代は少し黙った。

引き止めるために何かを掴む必要は、今はない。

それでも指先が、彼の胸元へそっと触れた。

 

「……本、声に出して読んでみたりしました」

「声に?」

「聖護さん、読んでくれたことがあったから。同じところを」

 

槙島の手が止まる。

 

「でも、自分の声だと全然違って」

 

沙代は困ったように笑った。

 

「余計に会いたくなっちゃいました」

「それは、聞いていなかったね」

「言ったら困るかなって」

 

彼は彼女の手を取り、指を絡めた。

しばらく、何も言わなかった。

 

「僕は、君から届いた文章を何度も読んでいたよ」

 

沙代が顔を上げる。

 

「同じのを?」

「うん。もう覚えているのにね」

「……聖護さんも?」

「僕も」

 

彼女はその答えを聞いて、ゆっくり笑った。

 

「じゃあ、今日はいっぱい話せますね」

「何から聞かせてくれる?」

 

沙代が考え始めると、槙島はようやく腕をほどいた。

 

「その前に、水を持ってこよう」

「帰ってきてくださいね」

 

寝床を離れるだけなのに、口から出てしまったらしい。

沙代自身が照れた顔をした。

槙島は身を屈め、彼女の額に口づける。

 

「すぐ戻るよ」

 

服を身につけて台所へ向かった彼が戻ると、沙代は身体を起こして待っていた。

肩まで掛け布団を引き上げ、彼の分の枕を隣に置き直してある。

槙島は水を渡し、そこへ座った。

 

「それで?」

 

沙代は一口飲んでから、話し始めた。

今度は、電話を切る時間を気にしなくてよかった。

 

 

*

 

 

「そういえば、会わない間に随分部屋の雰囲気が変わったね」

 

沙代の話がひと区切りついたところで、槙島が言った。

 

「気づきました? 聖護さんと過ごすために色々揃えたんですよ、ふふん」

 

沙代は得意そうに笑う。

槙島は改めて部屋を見渡した。

ベッドのそばには、小さな読書灯が増えている。

窓際の椅子には柔らかそうなクッション。

 

部屋の向こうに見える本棚にも、一段分の余裕ができていた。その端に、彼の置いていった本が収まっている。

 

「この棚も?」

「はい。持ってきてくれる本、置くところがあった方がいいかなって」

「僕が持ち帰らないことを、見越しているんだね」

「もう三冊ありますから」

 

そう言ってから、沙代は彼の手に触れた。

 

「持って帰ってほしいわけじゃないですよ」

「分かっているよ」

 

槙島は微笑んだ。

枕元の灯りに目を向けると、沙代が身を乗り出してスイッチを入れる。

暖かな光が、二人の間に落ちた。

 

「これ、眩しくないんです。夜に読んでも疲れなさそうで」

「試してみた?」

「何回か」

「気に入った?」

「はい。でも、二人で使うのは今日が初めてです」

 

槙島は灯りを眺めていたが、やがて彼女へ視線を戻した。

 

「いつ頃、買ったの?」

「会えなくなって、少ししてからです」

 

沙代は何気なく答える。

 

「お店で見かけて、いいなって。それから、クッションもあった方がいいかなって思って。……ちょっとずつ増えました」

 

いつ帰れるか、彼自身にも分からなかった。

その間、沙代はこの部屋に彼の居場所を作っていた。

いつか使うつもりで灯りを買い、本のために棚を空けて。

 

「……どうしました?」

 

黙った彼を、沙代が覗き込む。

 

「好みじゃなかったですか」

「いや」

 

槙島は彼女の腰へ腕を回し、そばに寄せた。

 

「気に入ったよ。とても」

 

沙代が安心したように笑う。

 

「よかった。あと、お茶もあります。聖護さんが前においしいって言ってたやつ」

「ずいぶん準備がいいね」

「いつ来ても大丈夫なようにしてましたから」

 

彼女は少し照れて、目を伏せた。

 

「……待つだけだと、寂しかったので」

 

槙島はその頬に触れる。

新しいものを選んでいる時、沙代は自分がここにいるところを想像していたのだろう。

彼には何も言わずに。

 

「今度、何か買う時は僕も誘ってくれる?」

「一緒に選んでくれるんですか?」

「うん。僕が使うものなら、僕にも選ばせてほしいな」

 

沙代の顔が明るくなった。

 

「じゃあ、次は大きいカップが欲しいです」

「今のでは足りない?」

「聖護さん、すぐ飲み終わっちゃうから」

 

彼は笑った。

 

自分がいない間にも、彼女が覚えていたことが嬉しかった。

 

*

 

夕食を済ませ、寝る支度を整えてから、二人は再びベッドに腰を下ろした。

沙代が読書灯を消そうとすると、槙島はその手に軽く触れる。

 

「そのままでいいよ」

 

枕元に置いていた本を取った。

 

「せっかくだから、使ってみよう」

 

沙代は枕を引き寄せ、彼の隣に座り直す。

ページを開く前に、槙島は彼女の髪に口づけた。

 

「待っていてくれて、ありがとう」

 

沙代は少しだけ目を丸くして、それから彼の肩にもたれた。

槙島がページをめくろうとした時、沙代がその端に指を添えた。

 

「あのね……あ」

 

彼が顔を向けると、沙代は二人の膝に開かれた本を持ち上げた。

鼻先まで隠れて、目だけが出ている。

それも、彼と目が合うとすぐに伏せられた。

 

「どうしたの?」

「……なんでもないです」

「何か言いかけたようだけど」

「なんでもない、です」

 

槙島は少し首を傾げ、それから笑った。

 

「続けてくれないの?」

 

本の向こうで、沙代が小さく息を吸う。

 

「いつも、聖護さんには敬語だから」

「うん」

「もう少し、普通に話せたらいいなって……思って」

「今のは、普通に話してくれたんじゃないかな」

「そうだけど」

 

答えた瞬間、沙代はまた本を引き上げた。

今度は目まで隠れる。

槙島は声を立てずに笑った。

 

「沙代。それでは話せないよ」

「聞こえるでしょ」

「顔を見たいんだけど」

 

本の端が少し下がった。

頬が赤い。

槙島は本を取り上げず、彼女がもう少し下げるのを待った。

 

「……笑わないで」

「ごめん。嬉しかったんだ」

「嬉しい?」

「君が僕とどう話そうか、考えてくれていたことがね」

 

沙代は本の背を撫でながら、彼を見た。

 

「変じゃない?」

「変じゃないよ」

「急に馴れ馴れしくなったって、思わない?」

「恋人に?」

 

そう返されて、沙代は口をつぐんだ。

槙島は彼女の手に指先を重ねる。

 

「さっきは、何を言おうとしたの?」

「あのね……」

 

今度は途中で止めなかった。

 

けれど、その先を忘れてしまったらしく、沙代は眉を寄せる。

槙島が笑いを堪えているのを見て、彼女もとうとう笑った。

 

「……忘れちゃった」

「それは困ったね」

「聖護さんが見てくるから」

「君が話しかけたんだろう?」

「そうだけど」

 

小さな言い返しが、今は嬉しかった。

沙代は本を膝に置き、もう一度彼の肩へもたれる。

槙島が読みかけのページを開くと、彼女も覗き込んだ。

 

少しして、袖が引かれる。

 

「聖護さん」

「何?」

「……読んで」

 

彼は彼女を見た。

沙代は照れたまま、それでも今度は隠れなかった。

 

「うん」

 

槙島は本へ目を戻す。

最初の一文を読むまで、少し間が空いた。

 

*

 

 

 

読みかけていた話を終える頃には、沙代の返事はほとんどなくなっていた。

 

「沙代。もう寝ようか」

「……うん」

 

槙島が本を閉じて枕元へ置くと、彼女はゆっくり横になった。

掛け布団を引き上げ、隣の空いたところを眠そうな目で見る。

彼もそこへ横になると、沙代が近づいてきた。

 

「灯り、消すよ」

 

小さく頷いたのを確かめて、読書灯を消す。

暗くなってから、彼女の手が腕に触れた。

 

「……しょうご」

 

槙島は動きを止めた。

顔を覗き込んでも、沙代の目は閉じている。

 

「何?」

「……いる?」

「いるよ」

 

答えると、沙代は安心したように息を吐いた。

彼の腕に添えた手から、力が抜けていく。

 

槙島はその手を取った。

少し前には「あのね」と言うだけで、本の後ろへ隠れていた。

名前を呼ぶ時も、まだ必ず「さん」をつけていたのに。

 

「沙代」

「……ん」

「今、何て呼んだか分かっている?」

 

返事はなかった。

もう眠ってしまったらしい。

 

槙島は小さく笑って、彼女の額に唇を寄せた。

明日の朝、言ったらどんな顔をするだろう。

 

覚えていないと言って、また布団に隠れるかもしれない。

少し見てみたかったけれど、今は起こす気になれなかった。

沙代の手を握ったまま、彼も目を閉じる。

 

眠りに落ちる前の声が、まだ耳に残っていた。

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