『明日、会いに行ってもいいかな』
沙代からの返信は、すぐに届いた。
『はい』
『何時でも大丈夫です』
槙島はその二通を見て、電話をかけた。
「もしもし」
声が少し弾んでいた。
「明日の午後はどう?」
「はい。います」
「……まだ、何時か言っていないけど」
「ずっといます」
言い切ってから、沙代が小さく笑う。
槙島も笑った。
明日の予定を決めるだけの電話を、なかなか終えられなかった。
*
翌日、槙島が呼び鈴へ手を伸ばすより早く、玄関の扉が開いた。
「……こんにちは」
沙代はそこで立ち止まった。
昨日まで、会ったら何を言おうか考えていた。
読んだ本のことも、最近買ったお茶のことも、聞いてほしいことはたくさんあった。
けれど、目の前にいる彼を見たら、どれも出てこなくなった。
「こんにちは、沙代」
槙島も、すぐには中へ入らなかった。
髪が少し伸びている。
声は電話で何度も聞いたけれど、こうして自分を見上げる顔は久しぶりだった。
「入ってもいい?」
「あ、はい。どうぞ」
沙代が脇へ寄る。
扉が閉まると、槙島は持っていた本を玄関の棚に置いた。
「沙代」
振り向いた彼女へ、両腕を広げる。
沙代は一歩近づき、それから、もう一歩。
彼の胸に額が触れたところで、ようやく息を吐いた。
「……会いたかったです」
「うん」
槙島の腕が背中に回る。
電話越しには分からなかった温かさがあった。
沙代が服を掴む力も、顔を上げられずにいることも、今は全部分かる。
「僕も、会いたかった」
彼女を抱く腕に、少し力が入った。
沙代は黙って頷く。
頷くたび、額が彼の胸に擦れた。
「顔を見せてくれるかい」
「ちょっと待ってください」
「どうして?」
「……変な顔してるので」
槙島は急かさず、そのまま髪を撫でた。
しばらくして顔を上げた沙代は、目が赤かった。
笑おうとして、うまくいかなかったらしい。
彼は頬に触れる。
「待たせたね」
その言葉で、沙代の目から涙が落ちた。
「ちゃんと……来てくれた」
「うん」
彼女の頬を親指で拭う。
ここへ戻るまでに起きたことを、沙代に話すつもりはなかった。
彼女が待っていた時間と、自分が過ごした時間は、今日も同じにはならない。
それでも、あの電話で伝えたことは果たせた。
生きて、彼女の前に立っている。
沙代が両手で彼の顔に触れた。
少し戸惑うような、確かめるような手つきだった。
「……聖護さん」
「何?」
「呼びたかっただけです」
槙島は目を細めた。
「もう一度、呼んで」
沙代が照れながら名前を呼ぶと、彼はその額に口づけた。
それから、頬にも。
彼女が小さく笑って、肩の力を抜く。
「お茶、淹れますね」
離れようとした沙代を、槙島はもう一度抱き寄せた。
「あとでいいよ」
「でも」
「もう少し、こうしていたい」
沙代の手が、ゆっくり彼の背中に回った。
白いカップも、本棚も、あとで見ればよかった。
今は彼女がここにいて、自分もここにいる。
そのことを、腕の中で確かめていたかった。
*
玄関の棚に、本を置いたままだった。
お茶を淹れることも忘れ、二人は寝室へ移った。
沙代が名前を呼ぶたび、槙島は顔を上げた。
その近さを確かめるように、彼女も彼の頬へ触れる。
会えなかった間に伝えたかったことは、まだほとんど話せていなかった。
抱き合った後、ようやく呼吸が落ち着いても、沙代は彼のそばを離れなかった。
椅子には、脱いだ服が重なっている。
槙島が引き上げた掛け布団の下で、彼女は少し身体を寄せ直した。
素肌に触れる腕の温かさに、目を伏せて笑う。
彼が頬にかかった髪を払った。
「大丈夫?」
沙代は頷き、彼の胸元へ額を寄せる。
しばらく、そのままでいた。
「……お茶、結局淹れてないですね」
沙代が呟くと、隣で槙島が笑った。
「そうだったね」
「喉、渇きませんか」
「少し」
それでも、彼女の肩に回した腕はほどかれなかった。
沙代は彼を見上げて、小さく笑う。
「取りに行けないです」
「もう少ししたら、僕が行くよ」
窓から差す午後の光が、少しずつ傾いていた。
沙代は掛け布団の端を整え、彼の胸元に頬を寄せる。
「今日、何時までいられます?」
槙島は彼女の髪を撫でた。
「今日は帰らないつもりだけど。泊めてくれる?」
「……はい」
返事をしたあと、沙代は目を閉じた。
ほっとしたように、肩から力が抜ける。
槙島はその顔を見て、髪を撫でる手を止めずにいた。
「沙代」
「はい?」
「会えない間、どうしていた?」
「電話で話しましたよ」
「話してくれなかったことも、あるだろう?」
沙代は少し黙った。
引き止めるために何かを掴む必要は、今はない。
それでも指先が、彼の胸元へそっと触れた。
「……本、声に出して読んでみたりしました」
「声に?」
「聖護さん、読んでくれたことがあったから。同じところを」
槙島の手が止まる。
「でも、自分の声だと全然違って」
沙代は困ったように笑った。
「余計に会いたくなっちゃいました」
「それは、聞いていなかったね」
「言ったら困るかなって」
彼は彼女の手を取り、指を絡めた。
しばらく、何も言わなかった。
「僕は、君から届いた文章を何度も読んでいたよ」
沙代が顔を上げる。
「同じのを?」
「うん。もう覚えているのにね」
「……聖護さんも?」
「僕も」
彼女はその答えを聞いて、ゆっくり笑った。
「じゃあ、今日はいっぱい話せますね」
「何から聞かせてくれる?」
沙代が考え始めると、槙島はようやく腕をほどいた。
「その前に、水を持ってこよう」
「帰ってきてくださいね」
寝床を離れるだけなのに、口から出てしまったらしい。
沙代自身が照れた顔をした。
槙島は身を屈め、彼女の額に口づける。
「すぐ戻るよ」
服を身につけて台所へ向かった彼が戻ると、沙代は身体を起こして待っていた。
肩まで掛け布団を引き上げ、彼の分の枕を隣に置き直してある。
槙島は水を渡し、そこへ座った。
「それで?」
沙代は一口飲んでから、話し始めた。
今度は、電話を切る時間を気にしなくてよかった。
*
「そういえば、会わない間に随分部屋の雰囲気が変わったね」
沙代の話がひと区切りついたところで、槙島が言った。
「気づきました? 聖護さんと過ごすために色々揃えたんですよ、ふふん」
沙代は得意そうに笑う。
槙島は改めて部屋を見渡した。
ベッドのそばには、小さな読書灯が増えている。
窓際の椅子には柔らかそうなクッション。
部屋の向こうに見える本棚にも、一段分の余裕ができていた。その端に、彼の置いていった本が収まっている。
「この棚も?」
「はい。持ってきてくれる本、置くところがあった方がいいかなって」
「僕が持ち帰らないことを、見越しているんだね」
「もう三冊ありますから」
そう言ってから、沙代は彼の手に触れた。
「持って帰ってほしいわけじゃないですよ」
「分かっているよ」
槙島は微笑んだ。
枕元の灯りに目を向けると、沙代が身を乗り出してスイッチを入れる。
暖かな光が、二人の間に落ちた。
「これ、眩しくないんです。夜に読んでも疲れなさそうで」
「試してみた?」
「何回か」
「気に入った?」
「はい。でも、二人で使うのは今日が初めてです」
槙島は灯りを眺めていたが、やがて彼女へ視線を戻した。
「いつ頃、買ったの?」
「会えなくなって、少ししてからです」
沙代は何気なく答える。
「お店で見かけて、いいなって。それから、クッションもあった方がいいかなって思って。……ちょっとずつ増えました」
いつ帰れるか、彼自身にも分からなかった。
その間、沙代はこの部屋に彼の居場所を作っていた。
いつか使うつもりで灯りを買い、本のために棚を空けて。
「……どうしました?」
黙った彼を、沙代が覗き込む。
「好みじゃなかったですか」
「いや」
槙島は彼女の腰へ腕を回し、そばに寄せた。
「気に入ったよ。とても」
沙代が安心したように笑う。
「よかった。あと、お茶もあります。聖護さんが前においしいって言ってたやつ」
「ずいぶん準備がいいね」
「いつ来ても大丈夫なようにしてましたから」
彼女は少し照れて、目を伏せた。
「……待つだけだと、寂しかったので」
槙島はその頬に触れる。
新しいものを選んでいる時、沙代は自分がここにいるところを想像していたのだろう。
彼には何も言わずに。
「今度、何か買う時は僕も誘ってくれる?」
「一緒に選んでくれるんですか?」
「うん。僕が使うものなら、僕にも選ばせてほしいな」
沙代の顔が明るくなった。
「じゃあ、次は大きいカップが欲しいです」
「今のでは足りない?」
「聖護さん、すぐ飲み終わっちゃうから」
彼は笑った。
自分がいない間にも、彼女が覚えていたことが嬉しかった。
*
夕食を済ませ、寝る支度を整えてから、二人は再びベッドに腰を下ろした。
沙代が読書灯を消そうとすると、槙島はその手に軽く触れる。
「そのままでいいよ」
枕元に置いていた本を取った。
「せっかくだから、使ってみよう」
沙代は枕を引き寄せ、彼の隣に座り直す。
ページを開く前に、槙島は彼女の髪に口づけた。
「待っていてくれて、ありがとう」
沙代は少しだけ目を丸くして、それから彼の肩にもたれた。
槙島がページをめくろうとした時、沙代がその端に指を添えた。
「あのね……あ」
彼が顔を向けると、沙代は二人の膝に開かれた本を持ち上げた。
鼻先まで隠れて、目だけが出ている。
それも、彼と目が合うとすぐに伏せられた。
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
「何か言いかけたようだけど」
「なんでもない、です」
槙島は少し首を傾げ、それから笑った。
「続けてくれないの?」
本の向こうで、沙代が小さく息を吸う。
「いつも、聖護さんには敬語だから」
「うん」
「もう少し、普通に話せたらいいなって……思って」
「今のは、普通に話してくれたんじゃないかな」
「そうだけど」
答えた瞬間、沙代はまた本を引き上げた。
今度は目まで隠れる。
槙島は声を立てずに笑った。
「沙代。それでは話せないよ」
「聞こえるでしょ」
「顔を見たいんだけど」
本の端が少し下がった。
頬が赤い。
槙島は本を取り上げず、彼女がもう少し下げるのを待った。
「……笑わないで」
「ごめん。嬉しかったんだ」
「嬉しい?」
「君が僕とどう話そうか、考えてくれていたことがね」
沙代は本の背を撫でながら、彼を見た。
「変じゃない?」
「変じゃないよ」
「急に馴れ馴れしくなったって、思わない?」
「恋人に?」
そう返されて、沙代は口をつぐんだ。
槙島は彼女の手に指先を重ねる。
「さっきは、何を言おうとしたの?」
「あのね……」
今度は途中で止めなかった。
けれど、その先を忘れてしまったらしく、沙代は眉を寄せる。
槙島が笑いを堪えているのを見て、彼女もとうとう笑った。
「……忘れちゃった」
「それは困ったね」
「聖護さんが見てくるから」
「君が話しかけたんだろう?」
「そうだけど」
小さな言い返しが、今は嬉しかった。
沙代は本を膝に置き、もう一度彼の肩へもたれる。
槙島が読みかけのページを開くと、彼女も覗き込んだ。
少しして、袖が引かれる。
「聖護さん」
「何?」
「……読んで」
彼は彼女を見た。
沙代は照れたまま、それでも今度は隠れなかった。
「うん」
槙島は本へ目を戻す。
最初の一文を読むまで、少し間が空いた。
*
読みかけていた話を終える頃には、沙代の返事はほとんどなくなっていた。
「沙代。もう寝ようか」
「……うん」
槙島が本を閉じて枕元へ置くと、彼女はゆっくり横になった。
掛け布団を引き上げ、隣の空いたところを眠そうな目で見る。
彼もそこへ横になると、沙代が近づいてきた。
「灯り、消すよ」
小さく頷いたのを確かめて、読書灯を消す。
暗くなってから、彼女の手が腕に触れた。
「……しょうご」
槙島は動きを止めた。
顔を覗き込んでも、沙代の目は閉じている。
「何?」
「……いる?」
「いるよ」
答えると、沙代は安心したように息を吐いた。
彼の腕に添えた手から、力が抜けていく。
槙島はその手を取った。
少し前には「あのね」と言うだけで、本の後ろへ隠れていた。
名前を呼ぶ時も、まだ必ず「さん」をつけていたのに。
「沙代」
「……ん」
「今、何て呼んだか分かっている?」
返事はなかった。
もう眠ってしまったらしい。
槙島は小さく笑って、彼女の額に唇を寄せた。
明日の朝、言ったらどんな顔をするだろう。
覚えていないと言って、また布団に隠れるかもしれない。
少し見てみたかったけれど、今は起こす気になれなかった。
沙代の手を握ったまま、彼も目を閉じる。
眠りに落ちる前の声が、まだ耳に残っていた。