絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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35.恋する男

 

 

 

「ここだけ見たら、普通の恋する男って感じですね」

 

端末を見ながら口元を緩めている槙島に、グソンが言った。

 

「ここだけ見なくても、普通の恋する男さ」

 

槙島は顔も上げずに答える。

 

「普通の男は、恋人に会いに行くのに、俺の仕事をこんなに増やしませんよ」

「その点は感謝しているよ」

「感謝より、もう少し慎重にお願いしますよ」

 

そこでようやく、槙島が彼を見た。

 

「昨日は何も問題なかっただろう?」

「結果としてはね」

 

グソンは椅子にもたれた。

 

槙島の視線は、もう端末に戻っている。

 

「……何がそんなに嬉しいんです?」

「沙代が、今朝のお茶をおいしく淹れられたと言っている」

「そりゃ結構なことで」

「僕が淹れた時と、同じ味になったそうだよ」

 

グソンはしばらく黙った。

それだけで、あの顔になるのか。

卓上には、次の打ち合わせに使う資料が置かれていた。

 

つい数分前まで、それを読みながら話していた男が、今はお茶の話に夢中になっている。

 

「で、何て返すんです?」

「次に行った時、飲ませてほしいと」

「もう次の約束ですか」

「会えるうちに会っておきたいからね」

 

その言い方に、グソンは少しだけ表情を変えた。

槙島は返信を送ると、端末を伏せて資料を引き寄せる。

 

「続きを聞かせてくれるかな」

 

グソンが説明を再開した。

槙島は途中で質問を挟み、先方の提案について短く意見を返す。

話は滞りなく進んだ。

端末が震えたのは、ちょうどひと区切りついた時だった。

 

槙島は画面を開く。

 

『うん。今度は私が淹れるね』

 

その下に、少し遅れてもう一通。

 

『早く飲んでほしいな』

 

彼の口元が、また緩んだ。

グソンはそれを見て、諦めたように息を吐く。

 

「……確かに、恋はしてますね」

「そう言っただろう?」

 

槙島は楽しそうに答えた。

 

 

「全く、いつまでこんなことをするつもりです?」

 

グソンが呆れたように続けた。

 

「ずっと隠し通しておけるわけでもないし、最悪の場合、沙代さんを一人にする可能性も……」

「いつからそんなに過保護になったんだい、君は」

「はは、すみません」

 

グソンは笑ったが、言葉を引っ込めはしなかった。

 

「でも、ダンナが大事にしろって言ったんですよ」

 

槙島の指が、資料の端で止まる。

 

「言われなくても、何度も顔を合わせりゃ気にはなりますけどね。あの子、ダンナが来ると本当に嬉しそうなんで」

「うん」

「帰る時も、笑って見送るでしょう。あれで寂しくないわけじゃない」

 

槙島はグソンを見た。

 

「……よく見ているね」

「ダンナほどじゃありませんよ」

 

部屋が静かになった。

グソンは声を少し落とす。

 

「今すぐ全部話せとは言いません。ただ、ダンナが戻らなかった時、彼女は何も分からないまま待つことになる」

 

伏せられた端末へ、槙島の視線が落ちた。

白いカップも、空けてくれた棚も、あの読書灯も、そのまま残るのだろう。

 

「分かっているよ」

「なら、どうするんです?」

 

槙島はしばらく答えなかった。

帰りたいとは思っている。

彼女を一人にしたくないとも。

けれど、その願いだけで、今後のすべてを約束できるわけではなかった。

 

「君の言うとおり、いつまでも同じではいられないだろうね」

「ええ」

「ただ、今の僕には、彼女を手放すつもりもない」

 

グソンは小さく息を吐いた。

 

「そこは、はっきりしてるんですね」

「そこだけはね」

 

槙島が微笑む。

グソンは笑わなかった。

その反応を見て、槙島も笑みを薄くした。

 

「……もし僕に何かあったら」

 

言いかけて、止まる。

 

「沙代さんのことを頼む、ですか?」

 

先に言われ、槙島は口を閉じた。

 

「それは引き受けますよ。でも、俺が行ったって、彼女が待ってる人にはなれませんからね」

 

槙島は目を伏せる。

沙代が玄関で顔を上げた時のことを思い出した。

ちゃんと来てくれた。

あの言葉に、自分はどれほど満たされたのだろう。

 

「……そうだね」

 

今度の返事には、からかう響きがなかった。

端末が震えた。

槙島はすぐには手を伸ばさず、しばらく伏せた画面を見ていた。

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