「ここだけ見たら、普通の恋する男って感じですね」
端末を見ながら口元を緩めている槙島に、グソンが言った。
「ここだけ見なくても、普通の恋する男さ」
槙島は顔も上げずに答える。
「普通の男は、恋人に会いに行くのに、俺の仕事をこんなに増やしませんよ」
「その点は感謝しているよ」
「感謝より、もう少し慎重にお願いしますよ」
そこでようやく、槙島が彼を見た。
「昨日は何も問題なかっただろう?」
「結果としてはね」
グソンは椅子にもたれた。
槙島の視線は、もう端末に戻っている。
「……何がそんなに嬉しいんです?」
「沙代が、今朝のお茶をおいしく淹れられたと言っている」
「そりゃ結構なことで」
「僕が淹れた時と、同じ味になったそうだよ」
グソンはしばらく黙った。
それだけで、あの顔になるのか。
卓上には、次の打ち合わせに使う資料が置かれていた。
つい数分前まで、それを読みながら話していた男が、今はお茶の話に夢中になっている。
「で、何て返すんです?」
「次に行った時、飲ませてほしいと」
「もう次の約束ですか」
「会えるうちに会っておきたいからね」
その言い方に、グソンは少しだけ表情を変えた。
槙島は返信を送ると、端末を伏せて資料を引き寄せる。
「続きを聞かせてくれるかな」
グソンが説明を再開した。
槙島は途中で質問を挟み、先方の提案について短く意見を返す。
話は滞りなく進んだ。
端末が震えたのは、ちょうどひと区切りついた時だった。
槙島は画面を開く。
『うん。今度は私が淹れるね』
その下に、少し遅れてもう一通。
『早く飲んでほしいな』
彼の口元が、また緩んだ。
グソンはそれを見て、諦めたように息を吐く。
「……確かに、恋はしてますね」
「そう言っただろう?」
槙島は楽しそうに答えた。
「全く、いつまでこんなことをするつもりです?」
グソンが呆れたように続けた。
「ずっと隠し通しておけるわけでもないし、最悪の場合、沙代さんを一人にする可能性も……」
「いつからそんなに過保護になったんだい、君は」
「はは、すみません」
グソンは笑ったが、言葉を引っ込めはしなかった。
「でも、ダンナが大事にしろって言ったんですよ」
槙島の指が、資料の端で止まる。
「言われなくても、何度も顔を合わせりゃ気にはなりますけどね。あの子、ダンナが来ると本当に嬉しそうなんで」
「うん」
「帰る時も、笑って見送るでしょう。あれで寂しくないわけじゃない」
槙島はグソンを見た。
「……よく見ているね」
「ダンナほどじゃありませんよ」
部屋が静かになった。
グソンは声を少し落とす。
「今すぐ全部話せとは言いません。ただ、ダンナが戻らなかった時、彼女は何も分からないまま待つことになる」
伏せられた端末へ、槙島の視線が落ちた。
白いカップも、空けてくれた棚も、あの読書灯も、そのまま残るのだろう。
「分かっているよ」
「なら、どうするんです?」
槙島はしばらく答えなかった。
帰りたいとは思っている。
彼女を一人にしたくないとも。
けれど、その願いだけで、今後のすべてを約束できるわけではなかった。
「君の言うとおり、いつまでも同じではいられないだろうね」
「ええ」
「ただ、今の僕には、彼女を手放すつもりもない」
グソンは小さく息を吐いた。
「そこは、はっきりしてるんですね」
「そこだけはね」
槙島が微笑む。
グソンは笑わなかった。
その反応を見て、槙島も笑みを薄くした。
「……もし僕に何かあったら」
言いかけて、止まる。
「沙代さんのことを頼む、ですか?」
先に言われ、槙島は口を閉じた。
「それは引き受けますよ。でも、俺が行ったって、彼女が待ってる人にはなれませんからね」
槙島は目を伏せる。
沙代が玄関で顔を上げた時のことを思い出した。
ちゃんと来てくれた。
あの言葉に、自分はどれほど満たされたのだろう。
「……そうだね」
今度の返事には、からかう響きがなかった。
端末が震えた。
槙島はすぐには手を伸ばさず、しばらく伏せた画面を見ていた。