絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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36.突然の訪問

 

 

 

玄関の向こうにいたのは、知らない男が二人だった。

公安局の者だと名乗られ、沙代は扉を開いたまま固まった。

 

「以前、付近で起きた傷害事件の件で、確認したいことがあります」

 

眼鏡の男が日時と場所を告げる。

あの日の路地。

怒鳴る声と、逃げる人たち。

沙代は無意識に扉の縁を握った。

 

「……あの、通り魔の?」

「そうです。確保した男に、別件への関与が疑われています。当時その場にいた方に、改めて話を伺っています」

 

隣の男は何も言わず、沙代の顔を見ていた。

鋭い目だったが、急かす様子はなかった。

 

「少し、お時間をいただけますか」

 

沙代は頷いた。

 

 

*

 

 

お茶を出そうとすると、眼鏡の男は短く断った。

 

「お気遣いなく」

 

沙代は向かいへ座る。

膝の上で両手を重ねた。

質問は、男を見た場所や、事件が起きる直前の様子から始まった。

 

「何か、誰かと話しているところは見ましたか」

「いえ。気づいた時には、もう……大きな声がしていて」

「声の内容は?」

 

思い出そうとすると、別の声まで耳の奥に蘇りそうになった。

沙代の返事が途切れる。

そこで、隣の男が口を開いた。

 

「叫んでいた言葉まで、無理に思い出さなくていい」

 

低く、落ち着いた声だった。

 

「見えたことを聞かせてくれ。服装でも、立っていた場所でも」

 

沙代は顔を上げた。

 

「……手に、刃物を持っていました。それで、近くの人が走って」

「男はその人を追ったか?」

「分からないです。私も、その時は……」

「逃げた?」

「はい」

 

男は頷いた。

 

逃げたことについて、それ以上何も言わなかった。

沙代は少しだけ息をしやすくなる。

 

「あの場へは、一人で?」

 

今度は眼鏡の男が尋ねた。

 

「……はい。一人でした」

 

答えると、男は手元の記録へ目を落とした。

沙代は膝の上で手を重ねたまま、次の質問を待つ。

 

「騒ぎに気づいてから、どうしました?」

「怖くなって、その場を離れました」

 

あの時、自分を支えてくれた腕のことは言わなかった。

落ち着いた声で呼びかけてくれた人のことも。

 

「誰かに声をかけられたりは?」

「……覚えていません」

 

隣にいた男が、沙代を見た。

 

「かなり怖かったんだな」

 

沙代は頷いた。

それは嘘ではなかった。

 

「無理に思い出そうとしなくていい。あとから思い出すこともある」

 

その声を聞いて、沙代は少し顔を上げる。

男は卓上の紙の本へ目を向けていた。

 

「本を読むのか」

「はい」

「俺も読む」

 

彼はそれだけ言い、眼鏡の男へ視線を向けた。

ひと通りの確認を終えると、二人は立ち上がる。

帰り際、男が連絡先を置いた。

 

「狡噛だ。何か思い出したら、ここへ」

「ありがとうございます」

「今日はありがとう。邪魔をしたな」

 

沙代は玄関まで二人を見送った。

 

 

*

 

 

扉を閉めると、沙代はしばらくそこに立っていた。

 

一人でした。

 

言った時は、声が震えていなかったと思う。

けれど今になって、指先が冷たくなっていた。

嘘をつくつもりで迎えたわけではなかった。

 

ただ、あの人たちの口から槙島聖護の名前が出るのを、聞きたくなかった。

沙代は部屋へ戻り、端末を手に取る。

 

『今日、前の通り魔のことで、公安の人が来たよ』

 

一度読み返してから、送った。

 

彼が何を聞かれたのか気にするかもしれないと思い、もう一通だけ付け足す。

 

『一人でいたって話した』

 

送信したあと、画面を見つめた。

彼には、聞いてほしかった。

 

どうしてそう答えたのか、自分でもまだうまく説明できなかったけれど。

 

 

 

*

 

 

 

 

二通目のメッセージを読み、槙島は端末を持ち直した。

 

『一人でいたって話した』

 

沙代に、そんなことを頼んだ覚えはなかった。

すぐに電話をかけると、数回の呼び出しで繋がる。

 

「……もしもし」

「沙代。今、話せる?」

「うん」

 

いつもより声が小さい。

槙島は椅子を離れ、グソンのいる部屋から廊下へ出た。

 

「通り魔について、何を聞かれたの?」

 

沙代は質問された内容を、思い出しながら話した。

見た場所、男の様子、逃げた時のこと。

槙島は途中で遮らずに聞く。

 

「怖いことを思い出させてしまったね」

「大丈夫。無理に思い出さなくていいって、言ってくれたから」

「そうか」

 

少し間を置いた。

 

「……どうして、一人だったと答えたの?」

 

電話の向こうが静かになる。

沙代は答えようとして、口を閉じたらしい。

小さな息だけが聞こえた。

 

「沙代。怒っているわけじゃないよ」

「うん」

「理由を聞いてもいいかな」

「……聖護の話を、したくなかった」

 

槙島は廊下の壁へ視線を向けた。

 

「私を助けてくれたんだから、言ってもいいはずなのに。でも、名前を聞かれたら嫌だなって思って」

 

彼女は少し急いで続ける。

 

「ごめん。変なことしちゃったかな」

「謝らなくていい」

 

返事はすぐに出た。

沙代はまた黙った。

 

彼女が何も気づいていないとは、もう思っていなかった。

 

それでも、曖昧な不安を抱えているだけだと考えていた。

今、その不安を理由に、彼女は自分から嘘をついた。

 

「聖護?」

「聞いているよ」

「……来られなくなる?」

 

槙島は目を閉じた。

彼女がいちばん気にしていたのは、それだった。

 

「今日すぐに、何か決める必要はないよ」

「うん」

「ただ、訪ねてきた人の名前は覚えている?」

「一人は、狡噛さん。帰る時に連絡先をくれた」

 

槙島は静かに息を吸った。

その変化は、沙代には聞こえなかったらしい。

 

「紙の本、読むんだって。本を見て、そう言ってた」

「……そう」

 

短い返事のあと、槙島は声を和らげた。

 

「今は、少し落ち着いた?」

「聖護の声、聞けたから」

「うん」

 

彼はしばらく、そのまま彼女の話を聞いていた。

公安が帰ったあと、お茶を淹れようとして忘れていたこと。

まだ昼食を食べていないこと。

 

「何か食べようか、沙代」

「電話、切る?」

「食べるものを用意する間くらい、繋いでいていいよ」

 

沙代が小さく笑った。

その声を聞いてから、槙島は廊下の先に立つグソンへ目を向ける。

グソンは何も言わず、彼が電話を終えるのを待っていた。

 

 

*

 

 

「狡噛慎也が、彼女の家に来た」

 

部屋へ戻ると、槙島は告げた。

グソンの表情が変わる。

 

「ダンナとの繋がりを?」

「以前の通り魔事件についてだそうだ。僕のことを聞かれたわけじゃない」

「なら――」

「彼女は一人でいたと答えた」

 

グソンが口を閉じた。

槙島は端末を机に置く。

 

「僕を庇ったんだよ。頼んでもいないのに」

 

その声には、喜びよりも戸惑いがあった。

沙代が自分を好きだということは、知っていた。

けれど彼女が、その気持ちを守るために何をするのかまでは、知らなかった。

 

「本当に、どうしようね。これが愛なのかな」

 

槙島は机に置いた端末を見ながら呟いた。

グソンは、すぐには答えなかった。

 

「沙代さんの方ですか。ダンナの方ですか」

「……両方かな」

 

槙島が薄く笑う。

 

「僕は、彼女に何も知らせなければ、それで済むと思っていたんだよ。知らないことには関われないからね」

「でも、本人は何かあると感じてる」

「うん。それでも僕の名前を出さなかった」

 

彼は椅子に座り、背にもたれた。

沙代の声が耳に残っている。

 

ーー来られなくなる?

 

嘘をついたことより、その結果、自分と会えなくなることを怖がっていた。

 

「嬉しくなかったと言えば、嘘になるね」

「でしょうね」

「ただ、喜んでいいことでもない」

「それは、彼女が嘘をついたから?」

 

槙島は少し考えた。

 

「僕の知らないところで、僕のために怖い思いをした。そのうえ、電話で謝るんだよ」

 

グソンが視線を落とす。

 

「ダンナを困らせたくなかったんでしょう」

「僕が彼女を困らせているのにね」

 

言ってから、槙島は黙った。

普段なら簡単に言葉にできることが、沙代については途中で止まる。

 

嬉しい。

 

そばに置いておきたい。

けれど、そのために彼女が不安になっていると知れば、落ち着かない。

 

「今までどおり、何も知らない顔で迎えてくれればいいとは、もう思えないな」

「じゃあ、話すんですか」

「いずれはね。……まだ、何を話せるのか分からない」

 

グソンは小さく息を吐いた。

 

「なら、まず彼女の話を聞いてやってください。ダンナが思ってるより、考えてることがあるんでしょうから」

 

槙島は頷く。

端末を取り、沙代との画面を開いた。

 

『さっきは電話ありがとう。ごはん食べたよ』

 

写真が一枚添えられている。

食卓の端には、彼の白いカップも置かれていた。

 

槙島の口元が緩む。

 

「やっぱり、会いたいな」

「そこに戻るんですね」

「うん」

 

今度は否定も、言い訳もしなかった。

返信欄を開き、少し考える。

 

『教えてくれてありがとう。謝ることはないよ』

 

そのあと、もう一文を書いた。

 

『次に会った時、君の考えていることを聞かせてくれるかな』

 

送信してからも、端末は手に持ったままだった。

何も聞かずにいてくれる沙代を、好きになったわけではない。

彼女が話せば、自分に都合の悪いことも聞くことになるだろう。

 

それでも、聞きたいと思っていた。

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