玄関の向こうにいたのは、知らない男が二人だった。
公安局の者だと名乗られ、沙代は扉を開いたまま固まった。
「以前、付近で起きた傷害事件の件で、確認したいことがあります」
眼鏡の男が日時と場所を告げる。
あの日の路地。
怒鳴る声と、逃げる人たち。
沙代は無意識に扉の縁を握った。
「……あの、通り魔の?」
「そうです。確保した男に、別件への関与が疑われています。当時その場にいた方に、改めて話を伺っています」
隣の男は何も言わず、沙代の顔を見ていた。
鋭い目だったが、急かす様子はなかった。
「少し、お時間をいただけますか」
沙代は頷いた。
*
お茶を出そうとすると、眼鏡の男は短く断った。
「お気遣いなく」
沙代は向かいへ座る。
膝の上で両手を重ねた。
質問は、男を見た場所や、事件が起きる直前の様子から始まった。
「何か、誰かと話しているところは見ましたか」
「いえ。気づいた時には、もう……大きな声がしていて」
「声の内容は?」
思い出そうとすると、別の声まで耳の奥に蘇りそうになった。
沙代の返事が途切れる。
そこで、隣の男が口を開いた。
「叫んでいた言葉まで、無理に思い出さなくていい」
低く、落ち着いた声だった。
「見えたことを聞かせてくれ。服装でも、立っていた場所でも」
沙代は顔を上げた。
「……手に、刃物を持っていました。それで、近くの人が走って」
「男はその人を追ったか?」
「分からないです。私も、その時は……」
「逃げた?」
「はい」
男は頷いた。
逃げたことについて、それ以上何も言わなかった。
沙代は少しだけ息をしやすくなる。
「あの場へは、一人で?」
今度は眼鏡の男が尋ねた。
「……はい。一人でした」
答えると、男は手元の記録へ目を落とした。
沙代は膝の上で手を重ねたまま、次の質問を待つ。
「騒ぎに気づいてから、どうしました?」
「怖くなって、その場を離れました」
あの時、自分を支えてくれた腕のことは言わなかった。
落ち着いた声で呼びかけてくれた人のことも。
「誰かに声をかけられたりは?」
「……覚えていません」
隣にいた男が、沙代を見た。
「かなり怖かったんだな」
沙代は頷いた。
それは嘘ではなかった。
「無理に思い出そうとしなくていい。あとから思い出すこともある」
その声を聞いて、沙代は少し顔を上げる。
男は卓上の紙の本へ目を向けていた。
「本を読むのか」
「はい」
「俺も読む」
彼はそれだけ言い、眼鏡の男へ視線を向けた。
ひと通りの確認を終えると、二人は立ち上がる。
帰り際、男が連絡先を置いた。
「狡噛だ。何か思い出したら、ここへ」
「ありがとうございます」
「今日はありがとう。邪魔をしたな」
沙代は玄関まで二人を見送った。
*
扉を閉めると、沙代はしばらくそこに立っていた。
一人でした。
言った時は、声が震えていなかったと思う。
けれど今になって、指先が冷たくなっていた。
嘘をつくつもりで迎えたわけではなかった。
ただ、あの人たちの口から槙島聖護の名前が出るのを、聞きたくなかった。
沙代は部屋へ戻り、端末を手に取る。
『今日、前の通り魔のことで、公安の人が来たよ』
一度読み返してから、送った。
彼が何を聞かれたのか気にするかもしれないと思い、もう一通だけ付け足す。
『一人でいたって話した』
送信したあと、画面を見つめた。
彼には、聞いてほしかった。
どうしてそう答えたのか、自分でもまだうまく説明できなかったけれど。
*
二通目のメッセージを読み、槙島は端末を持ち直した。
『一人でいたって話した』
沙代に、そんなことを頼んだ覚えはなかった。
すぐに電話をかけると、数回の呼び出しで繋がる。
「……もしもし」
「沙代。今、話せる?」
「うん」
いつもより声が小さい。
槙島は椅子を離れ、グソンのいる部屋から廊下へ出た。
「通り魔について、何を聞かれたの?」
沙代は質問された内容を、思い出しながら話した。
見た場所、男の様子、逃げた時のこと。
槙島は途中で遮らずに聞く。
「怖いことを思い出させてしまったね」
「大丈夫。無理に思い出さなくていいって、言ってくれたから」
「そうか」
少し間を置いた。
「……どうして、一人だったと答えたの?」
電話の向こうが静かになる。
沙代は答えようとして、口を閉じたらしい。
小さな息だけが聞こえた。
「沙代。怒っているわけじゃないよ」
「うん」
「理由を聞いてもいいかな」
「……聖護の話を、したくなかった」
槙島は廊下の壁へ視線を向けた。
「私を助けてくれたんだから、言ってもいいはずなのに。でも、名前を聞かれたら嫌だなって思って」
彼女は少し急いで続ける。
「ごめん。変なことしちゃったかな」
「謝らなくていい」
返事はすぐに出た。
沙代はまた黙った。
彼女が何も気づいていないとは、もう思っていなかった。
それでも、曖昧な不安を抱えているだけだと考えていた。
今、その不安を理由に、彼女は自分から嘘をついた。
「聖護?」
「聞いているよ」
「……来られなくなる?」
槙島は目を閉じた。
彼女がいちばん気にしていたのは、それだった。
「今日すぐに、何か決める必要はないよ」
「うん」
「ただ、訪ねてきた人の名前は覚えている?」
「一人は、狡噛さん。帰る時に連絡先をくれた」
槙島は静かに息を吸った。
その変化は、沙代には聞こえなかったらしい。
「紙の本、読むんだって。本を見て、そう言ってた」
「……そう」
短い返事のあと、槙島は声を和らげた。
「今は、少し落ち着いた?」
「聖護の声、聞けたから」
「うん」
彼はしばらく、そのまま彼女の話を聞いていた。
公安が帰ったあと、お茶を淹れようとして忘れていたこと。
まだ昼食を食べていないこと。
「何か食べようか、沙代」
「電話、切る?」
「食べるものを用意する間くらい、繋いでいていいよ」
沙代が小さく笑った。
その声を聞いてから、槙島は廊下の先に立つグソンへ目を向ける。
グソンは何も言わず、彼が電話を終えるのを待っていた。
*
「狡噛慎也が、彼女の家に来た」
部屋へ戻ると、槙島は告げた。
グソンの表情が変わる。
「ダンナとの繋がりを?」
「以前の通り魔事件についてだそうだ。僕のことを聞かれたわけじゃない」
「なら――」
「彼女は一人でいたと答えた」
グソンが口を閉じた。
槙島は端末を机に置く。
「僕を庇ったんだよ。頼んでもいないのに」
その声には、喜びよりも戸惑いがあった。
沙代が自分を好きだということは、知っていた。
けれど彼女が、その気持ちを守るために何をするのかまでは、知らなかった。
「本当に、どうしようね。これが愛なのかな」
槙島は机に置いた端末を見ながら呟いた。
グソンは、すぐには答えなかった。
「沙代さんの方ですか。ダンナの方ですか」
「……両方かな」
槙島が薄く笑う。
「僕は、彼女に何も知らせなければ、それで済むと思っていたんだよ。知らないことには関われないからね」
「でも、本人は何かあると感じてる」
「うん。それでも僕の名前を出さなかった」
彼は椅子に座り、背にもたれた。
沙代の声が耳に残っている。
ーー来られなくなる?
嘘をついたことより、その結果、自分と会えなくなることを怖がっていた。
「嬉しくなかったと言えば、嘘になるね」
「でしょうね」
「ただ、喜んでいいことでもない」
「それは、彼女が嘘をついたから?」
槙島は少し考えた。
「僕の知らないところで、僕のために怖い思いをした。そのうえ、電話で謝るんだよ」
グソンが視線を落とす。
「ダンナを困らせたくなかったんでしょう」
「僕が彼女を困らせているのにね」
言ってから、槙島は黙った。
普段なら簡単に言葉にできることが、沙代については途中で止まる。
嬉しい。
そばに置いておきたい。
けれど、そのために彼女が不安になっていると知れば、落ち着かない。
「今までどおり、何も知らない顔で迎えてくれればいいとは、もう思えないな」
「じゃあ、話すんですか」
「いずれはね。……まだ、何を話せるのか分からない」
グソンは小さく息を吐いた。
「なら、まず彼女の話を聞いてやってください。ダンナが思ってるより、考えてることがあるんでしょうから」
槙島は頷く。
端末を取り、沙代との画面を開いた。
『さっきは電話ありがとう。ごはん食べたよ』
写真が一枚添えられている。
食卓の端には、彼の白いカップも置かれていた。
槙島の口元が緩む。
「やっぱり、会いたいな」
「そこに戻るんですね」
「うん」
今度は否定も、言い訳もしなかった。
返信欄を開き、少し考える。
『教えてくれてありがとう。謝ることはないよ』
そのあと、もう一文を書いた。
『次に会った時、君の考えていることを聞かせてくれるかな』
送信してからも、端末は手に持ったままだった。
何も聞かずにいてくれる沙代を、好きになったわけではない。
彼女が話せば、自分に都合の悪いことも聞くことになるだろう。
それでも、聞きたいと思っていた。