「もう一度、話を聞かせてほしい」
二度目の来訪では、沙代も狡噛の顔を覚えていた。
宜野座にも挨拶をして、二人を居間へ通す。
片づけるほど散らかってはいなかったけれど、沙代は卓上の本を一冊、棚へ戻した。
狡噛は椅子に座る前に、部屋を見渡した。
窓際の椅子。
二つ並んだカップ。
ソファの背に掛かった、沙代には大きすぎる上着。
「一人暮らしじゃないのか?」
沙代の手が、本棚の前で止まった。
「……一人暮らしです」
狡噛が上着へ目を向ける。
沙代はその視線を追ってから、静かに付け足した。
「時々、来る人がいるので」
「そうか」
彼はそれ以上聞かず、椅子へ座った。
宜野座が端末を開き、前回確認した日時を読み上げる。
新たに分かった犯人の行動について、もう一度確かめたいことがあるらしい。
沙代は向かいに腰を下ろした。
質問に答えている間も、上着が目に入った。
昨夜、聖護がそこへ掛けたものだった。
忘れ物をしたと連絡したら、次まで置いておいて、と返ってきた。
いつもなら嬉しい、その一言が、今は落ち着かなかった。
「倉橋さん」
宜野座に呼ばれ、沙代は顔を上げる。
「男が現れた方向は、こちらで間違いありませんか」
表示された周辺図を見た。
「……はい。こっちから、声がしたと思います」
「姿を見る前に、声が聞こえた?」
狡噛が尋ねる。
「はい」
「その時、君はどこにいた?」
沙代は図の上に指を置いた。
自分が立っていた場所。
その隣に、聖護がいた場所。
「この辺です」
狡噛は頷き、少し位置を変えて図を見た。
「そこから、どちらへ逃げた?」
沙代は指を動かす。
聖護に導かれて歩いた道を、ゆっくり辿った。
「途中で、誰かと一緒になったか?」
「……いいえ」
答えると、狡噛は顔を上げた。
沙代は彼を見返す。
目を逸らしたくなったけれど、そうしたら何か分かってしまう気がした。
「分かった」
彼は図へ視線を戻した。
沙代は膝の上で、片方の手をもう片方の手で包む。
*
確認が終わると、宜野座が端末を閉じた。
「ご協力ありがとうございました」
沙代が立ち上がる。
狡噛も席を立ったが、ふと本棚へ目を向けた。
「前にあった本、読み終えたのか」
「はい」
「どうだった?」
思いがけない質問に、沙代は少し瞬いた。
「……最後が、寂しかったです」
「そうか。俺もそう思った」
短い返事だった。
沙代は、本についてならもう少し話せたかもしれないと思った。
けれど、玄関へ向かう宜野座を見て、そのまま二人を見送った。
扉が閉まってから、居間へ戻る。
沙代はソファに掛かった上着へ手を伸ばした。
畳んでしまおうとして、やめる。
聖護が戻ってきた時、いつもの場所にある方がいい。
上着の袖を整え、端末を開いた。
『今日、もう一度お話を聞きに来たよ』
少し迷ってから、続ける。
『一人暮らしかって聞かれた』
送信すると、沙代は上着の隣に座った。
*
建物を出た二人はそのまま歩き出す。ふと、宜野座が口を開いた。
「何か気になったのか」
「一緒にいた人間について、話したくないように見えた」
「一人だったという証言を疑っているのか?」
「可能性の話だ。裏付けはない」
宜野座は眼鏡を押し上げた。
「怯えている参考人だ。必要以上に圧をかけるな」
「分かってる」
狡噛は振り返らずに歩いた。
事件の話になると、沙代は膝の上で手を固く組んでいた。
声を思い出す時には、視線が図から外れる。
恐怖が残っているのだろう。
答えは前回と大きく変わらなかった。
ただ、逃げた経路を指で辿る時だけ、彼女の動きは迷わなかった。
誰といたのか。
誰かに声をかけられたのか。
同じ箇所で、わずかに言葉が詰まる。
男の凶行そのものについて話す時とは、違う緊張に見えた。
恐ろしい場面を思い出している人間の沈黙と、話す内容を選んでいる人間の沈黙。
似ていて、簡単には分けられない。
彼女が一人で逃げたことを疑う、はっきりした材料はなかった。
訪ねてくる男がいるからといって、その日も一緒だったとは限らない。
それでも、ソファに掛かった上着が頭に残った。
客用のカップだけなら、珍しくもない。
だが、あの上着は、この部屋に置いておくことを許されているように見えた。
恋人かもしれない。
名前を聞かなかったのは、今の捜査に必要な質問ではなかったからだ。
だが、彼女の話と事実が食い違った時には、聞くことになる。
狡噛は車へ乗り込み、聞き取りの記録を開いた。
「単独で現場から離脱、か…」
その一文を、もう一度読んだ。
*
「はぁ……緊張した」
沙代はソファにもたれ、ようやく肩を落とした。
一人になった居間が、いつもより静かに感じる。
何か飲もうと立ち上がった時、椅子の脇に小さな黒いものが落ちているのに気づいた。
拾うと、ライターだった。
狡噛が座っていた場所だ。
ポケットから落ちたのだろうか。
「……どうしよう」
手のひらに載せて眺める。
わざわざ連絡するほどのものなのか、沙代には分からなかった。
でも、誰かにもらったものだったら。
長く使っていて、大切にしているものだったら。
本を失くした時のことを考えると、そのままにもできなかった。
前回渡された連絡先を開く。
もう一度、あの声を聞くと思うと緊張した。
さっき答えたことについて、また何か聞かれるかもしれない。
沙代は少し迷ってから、発信した。
『狡噛です』
思ったより早く繋がり、背筋が伸びる。
「あ、倉橋です。先ほどは……」
『どうした?』
「忘れ物、されたみたいで」
狡噛が黙った。
衣擦れのような音が聞こえる。
『ライターか?』
「はい。黒い……」
『ああ、俺のだ。悪い』
声が、さっきより少しくだけた。
沙代もようやく息を吐く。
「よかったです。大事なものだったらと思って」
『預かっておいてもらえるか。受け取りは、改めて連絡する』
「はい、分かりました」
それで終わるはずなのに、何か言い忘れている気がした。
沙代が黙っていると、狡噛の方から声をかけてくる。
『それだけか?』
「……はい。それだけです」
『ありがとう。助かった』
短い礼を言われて、沙代は手元のライターを見た。
「あの」
『ん?』
「もう、帰られたあとだったので。電話していいのか、ちょっと迷って」
『忘れ物なら、連絡してくれて構わない』
当たり前の返事だった。
けれど、それを聞いて少し安心する。
「……はい」
『今日は二度も時間を取らせたな』
「いえ。私、うまくお話できなくて」
『答えられることは答えてもらった。今すぐ、何か思い出そうとしなくていい』
沙代は頷きかけて、電話だったと思い出した。
「分かりました」
通話が終わると、ライターを卓上の小さな皿に置いた。
張りつめていた気持ちが、ほんの少し緩んでいた。
さっきまで、答えを確かめる人だった狡噛が、今は忘れ物をして困っている人でもあると分かったからかもしれない。
沙代はもう一度端末を開く。
聖護へ送ったメッセージには、まだ返信がなかった。
*
お茶を淹れ終えた頃、聖護から電話が来た。
沙代はカップを置き、すぐに出る。
「もしもし」
『沙代。遅くなって悪いね』
聞き慣れた声に、肩の力が抜けた。
「ううん。今、お茶淹れてた」
『もう落ち着いた?』
「うん。今日は前より、ちゃんと話せたと思う」
槙島は、再び聞かれた内容を一つずつ確かめた。
沙代が答え終えると、少し間を置いて尋ねる。
『一人暮らしかと聞かれたんだね』
「そう。聖護の上着、掛けてあったからかな」
『何と答えたの?』
「一人暮らしだけど、時々来る人がいるって。……それ以上は聞かれなかった」
『そうか』
責める響きはなかった。
それでも沙代は、カップの取っ手へ指を添えたまま、彼の次の言葉を待つ。
『ほかには?』
「あ。狡噛さん、ライター忘れていったの」
電話の向こうが静かになった。
『ライター?』
「椅子のところに落ちてて。連絡したら、預かっておいてほしいって」
『彼に電話したんだね』
「うん。大事なものだったら、困るかなと思って」
『取りに来ると言っていた?』
「改めて連絡するって」
沙代はカップへ目を落とした。
「……何か、まずかった?」
『いや。忘れ物を知らせたんだろう?』
「そうだけど」
彼女は少し迷ってから続ける。
「聖護、狡噛さんのこと知ってる?」
すぐには返事がなかった。
『どうして?』
「名前を言った時、いつも少し静かになるから」
向こうで、小さく息を吐く音がした。
『名前は知っているよ』
「そっか」
沙代はそれ以上聞かなかった。
その沈黙を、槙島もすぐには埋めなかった。
やがて彼女の方から、控えめに声をかける。
「……今日、来る?」
『来てほしい?』
「うん」
今度は迷わずに答えた。
「なんか、疲れちゃった」
『では、行くよ。少し遅くなるけど』
「待ってる」
*
通話を終えたあと、槙島はしばらく画面を見ていた。
沙代の部屋に、狡噛の持ち物がある。
忘れ物にすぎない。
彼女が連絡した理由も分かる。
けれど、受け取りのためにもう一度訪ねる理由ができた。
グソンが向かいから声をかける。
「また狡噛ですか」
「うん。彼女のところに忘れ物をしたそうだ」
「……それで?」
「沙代が連絡して、預かっている」
グソンは眉を寄せた。
「何度も接点ができるのは、困りますね」
「そうだね」
槙島は立ち上がる。
「今日は行くよ」
「彼女が心配だからですか?」
コートを取る手が、一瞬止まった。
「それもある」
グソンへ顔を向けると、槙島は薄く笑う。
「彼女の家に、彼のものがあるのが気に入らない、というのもね」
「ライター一つでしょう」
「分かっているよ」
分かっていても、穏やかな気持ちにはなれなかった。