絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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38.彼には気を付けて

 

 

 

槙島が訪ねてくると、沙代は玄関でほっとしたように笑った。

 

「来てくれた」

 

その顔を見た途端、電話で聞いた狡噛の名前が、また頭をよぎる。

槙島は彼女の頬に触れた。

 

「会いたかったよ」

 

沙代が何か答えるより先に、口づける。

いつもより長い口づけに、彼女の手がコートの袖を掴んだ。

一度離れて顔を見ると、沙代は少し息を整え、それでも自分から彼へ近づいてくる。

 

「私も」

 

槙島はその身体を抱き寄せた。

今夜は、穏やかに本を開くところから始める気にはなれなかった。

 

 

 

 

 

寝室の明かりを落としたあとも、沙代の呼吸はしばらく落ち着かなかった。

乱れた髪を頬から払うと、彼女が薄く目を開ける。

椅子に掛けた彼のコートは、片方の袖が床へ落ちていた。

 

槙島は掛け布団を直し、沙代の肩を覆った。

 

「……大丈夫?」

 

彼女は頷く。

けれど、すぐには言葉が出てこないらしく、彼の胸元へ額を寄せた。

 

今夜は、いつもより激しく求めてしまった。

自分へ伸ばされる手も、名前を呼ぶ声も、確かめれば確かめるほど、また欲しくなった。

槙島は背を撫でる手をゆっくり動かす。

 

「少し、余裕がなかったね」

 

沙代が顔を上げた。

 

「……今日は、どうしたの?」

 

彼はすぐには答えなかった。

頬へ触れ、髪へ口づける。

 

沙代はその手に顔を寄せた。

しばらくして呼吸が落ち着くと、彼女は彼の腕の中で、ようやく小さく笑う。

 

「もう少し、このままでいたい」

「うん」

 

槙島は抱く腕を緩めず、彼女の額に頬を寄せた。

 

 

 

 

*

 

 

「狡噛慎也には気をつけて」

 

沙代を抱いていた槙島が、ふと言った。

彼女は胸元から顔を上げる。

 

「……狡噛さん?」

「うん」

「怖い人なの?」

 

槙島は少し考えてから、首を横に振った。

 

「君に乱暴をするような人ではないと思うよ。ただ、よく人を見ている」

 

沙代は黙って続きを待つ。

 

「何気なく聞かれたことでも、君の答えから色々なことを考えるだろうね」

「……聖護みたいに?」

 

彼の手が、髪の上で止まった。

それから、笑う。

 

「そうかもしれない」

 

沙代は彼の顔を見つめていた。

 

「私、何か変なこと言ったかな」

「君を責めているんじゃないよ」

 

頬に触れると、彼女は少しだけ眉を下げる。

 

「でも、気をつけてって」

 

槙島は、居間の小皿に置かれた黒いライターを思い浮かべた。

来た時、すぐに目に入った。

自分の本やカップがある部屋に、狡噛の持ち物も置かれている。

 

「彼に聞かれたからといって、何でも答えようとしなくていい。困ったら、そう言っていいんだ」

「うん」

「それから……」

 

言いかけて、やめた。沙代が首を傾げる。

 

「それから?」

「いや」

 

彼女は少し彼を見ていた。

 

「……あのライター、気になるの?」

「少しね」

「返すまで預かってるだけだよ」

「分かっているよ」

「狡噛さんと話したいから、電話したんじゃないよ」

 

槙島は彼女へ視線を戻した。

沙代の頬が、少し赤くなっている。

 

「……私が来てほしいって思ってたのは、聖護だから」

 

彼はしばらく黙ったあと、彼女を抱き寄せた。

 

「それは、嬉しいな」

「分かってると思ってた」

「分かっていても、聞きたいことはあるよ」

 

沙代が小さく笑い、背中へ腕を回す。

槙島はその温かさに目を細めた。

それでも、狡噛についての警戒は消えなかった。

彼女が自分を好きでいてくれることと、彼女の言葉から狡噛が何を見つけるかは、別の話だった。

 

「……聖護は、やっぱり危ないことしてるの?」

 

彼の背中に回していた手は、離れなかった。

槙島は沙代を見る。

 

「やっぱり、と思っていたんだね」

 

沙代は小さく頷いた。

 

「会えなくなった時も、仕事が忙しいだけじゃないんだろうなって。今日も、狡噛さんには気をつけてって言うから」

 

槙島は腕を緩める。

顔を見て話せる距離になっても、沙代はそばにいた。

 

「うん。危険なことには関わっているよ」

 

彼女の指が、彼の肩に触れたまま止まる。

分かっていたつもりでも、本人の口から聞くと違った。

 

「……捕まるようなこと?」

 

槙島は目を逸らさなかった。

 

「そうだね」

 

部屋が静かになる。

沙代は俯き、しばらく何も言わなかった。

槙島も、その沈黙を急かさなかった。

 

「怖い?」

 

聞かれると、彼女は頷く。

 

「…聖護が、帰ってこなくなるのが」

 

彼の口元がわずかに動いた。

けれど、笑みにはならなかった。

 

「僕が何をしているかより?」

 

沙代はゆっくり顔を上げる。

 

「何してても平気、って言えるほど、知らないよ」

 

槙島は黙って聞いた。

 

「聞いたら怖くなるかもしれない。でも、今、聖護がいなくなっても平気になるわけじゃない」

 

彼女は肩に添えていた手を下ろし、彼の手を取る。

 

「好きだから」

 

槙島は彼女の指を見た。

握り返す前に、少し間があった。

 

「沙代。僕は今、君に全部を話すつもりはない」

「……うん」

「君が安心できる答えも、出せないと思う」

 

沙代は目を伏せた。

それでも、手は離さなかった。

 

「じゃあ、安心させるためだけに、大丈夫って言わないで」

 

槙島が顔を上げる。

 

「何もないって言われたら、私、それ以上聞けないから」

「……分かった」

 

彼はようやく、彼女の手を握り返した。

沙代はその手に、もう片方の手も重ねる。

何かを言おうとして、結局、小さく息を吐いた。

 

槙島は彼女を抱き寄せる前に尋ねる。

 

「そばにいてもいいかい」

 

沙代は頷き、自分から彼の肩へ額を寄せた。

疑っていたことを、本人の口から初めて聞いた。

 

何をしているのかは、まだ分からない。

それでもその夜、沙代は彼が危険なことに関わっていると知ったうえで、その腕の中にいた。

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