槙島が訪ねてくると、沙代は玄関でほっとしたように笑った。
「来てくれた」
その顔を見た途端、電話で聞いた狡噛の名前が、また頭をよぎる。
槙島は彼女の頬に触れた。
「会いたかったよ」
沙代が何か答えるより先に、口づける。
いつもより長い口づけに、彼女の手がコートの袖を掴んだ。
一度離れて顔を見ると、沙代は少し息を整え、それでも自分から彼へ近づいてくる。
「私も」
槙島はその身体を抱き寄せた。
今夜は、穏やかに本を開くところから始める気にはなれなかった。
寝室の明かりを落としたあとも、沙代の呼吸はしばらく落ち着かなかった。
乱れた髪を頬から払うと、彼女が薄く目を開ける。
椅子に掛けた彼のコートは、片方の袖が床へ落ちていた。
槙島は掛け布団を直し、沙代の肩を覆った。
「……大丈夫?」
彼女は頷く。
けれど、すぐには言葉が出てこないらしく、彼の胸元へ額を寄せた。
今夜は、いつもより激しく求めてしまった。
自分へ伸ばされる手も、名前を呼ぶ声も、確かめれば確かめるほど、また欲しくなった。
槙島は背を撫でる手をゆっくり動かす。
「少し、余裕がなかったね」
沙代が顔を上げた。
「……今日は、どうしたの?」
彼はすぐには答えなかった。
頬へ触れ、髪へ口づける。
沙代はその手に顔を寄せた。
しばらくして呼吸が落ち着くと、彼女は彼の腕の中で、ようやく小さく笑う。
「もう少し、このままでいたい」
「うん」
槙島は抱く腕を緩めず、彼女の額に頬を寄せた。
*
「狡噛慎也には気をつけて」
沙代を抱いていた槙島が、ふと言った。
彼女は胸元から顔を上げる。
「……狡噛さん?」
「うん」
「怖い人なの?」
槙島は少し考えてから、首を横に振った。
「君に乱暴をするような人ではないと思うよ。ただ、よく人を見ている」
沙代は黙って続きを待つ。
「何気なく聞かれたことでも、君の答えから色々なことを考えるだろうね」
「……聖護みたいに?」
彼の手が、髪の上で止まった。
それから、笑う。
「そうかもしれない」
沙代は彼の顔を見つめていた。
「私、何か変なこと言ったかな」
「君を責めているんじゃないよ」
頬に触れると、彼女は少しだけ眉を下げる。
「でも、気をつけてって」
槙島は、居間の小皿に置かれた黒いライターを思い浮かべた。
来た時、すぐに目に入った。
自分の本やカップがある部屋に、狡噛の持ち物も置かれている。
「彼に聞かれたからといって、何でも答えようとしなくていい。困ったら、そう言っていいんだ」
「うん」
「それから……」
言いかけて、やめた。沙代が首を傾げる。
「それから?」
「いや」
彼女は少し彼を見ていた。
「……あのライター、気になるの?」
「少しね」
「返すまで預かってるだけだよ」
「分かっているよ」
「狡噛さんと話したいから、電話したんじゃないよ」
槙島は彼女へ視線を戻した。
沙代の頬が、少し赤くなっている。
「……私が来てほしいって思ってたのは、聖護だから」
彼はしばらく黙ったあと、彼女を抱き寄せた。
「それは、嬉しいな」
「分かってると思ってた」
「分かっていても、聞きたいことはあるよ」
沙代が小さく笑い、背中へ腕を回す。
槙島はその温かさに目を細めた。
それでも、狡噛についての警戒は消えなかった。
彼女が自分を好きでいてくれることと、彼女の言葉から狡噛が何を見つけるかは、別の話だった。
「……聖護は、やっぱり危ないことしてるの?」
彼の背中に回していた手は、離れなかった。
槙島は沙代を見る。
「やっぱり、と思っていたんだね」
沙代は小さく頷いた。
「会えなくなった時も、仕事が忙しいだけじゃないんだろうなって。今日も、狡噛さんには気をつけてって言うから」
槙島は腕を緩める。
顔を見て話せる距離になっても、沙代はそばにいた。
「うん。危険なことには関わっているよ」
彼女の指が、彼の肩に触れたまま止まる。
分かっていたつもりでも、本人の口から聞くと違った。
「……捕まるようなこと?」
槙島は目を逸らさなかった。
「そうだね」
部屋が静かになる。
沙代は俯き、しばらく何も言わなかった。
槙島も、その沈黙を急かさなかった。
「怖い?」
聞かれると、彼女は頷く。
「…聖護が、帰ってこなくなるのが」
彼の口元がわずかに動いた。
けれど、笑みにはならなかった。
「僕が何をしているかより?」
沙代はゆっくり顔を上げる。
「何してても平気、って言えるほど、知らないよ」
槙島は黙って聞いた。
「聞いたら怖くなるかもしれない。でも、今、聖護がいなくなっても平気になるわけじゃない」
彼女は肩に添えていた手を下ろし、彼の手を取る。
「好きだから」
槙島は彼女の指を見た。
握り返す前に、少し間があった。
「沙代。僕は今、君に全部を話すつもりはない」
「……うん」
「君が安心できる答えも、出せないと思う」
沙代は目を伏せた。
それでも、手は離さなかった。
「じゃあ、安心させるためだけに、大丈夫って言わないで」
槙島が顔を上げる。
「何もないって言われたら、私、それ以上聞けないから」
「……分かった」
彼はようやく、彼女の手を握り返した。
沙代はその手に、もう片方の手も重ねる。
何かを言おうとして、結局、小さく息を吐いた。
槙島は彼女を抱き寄せる前に尋ねる。
「そばにいてもいいかい」
沙代は頷き、自分から彼の肩へ額を寄せた。
疑っていたことを、本人の口から初めて聞いた。
何をしているのかは、まだ分からない。
それでもその夜、沙代は彼が危険なことに関わっていると知ったうえで、その腕の中にいた。