水曜日は、少し早く家を出た。
鞄には緑色の本を入れてある。
一つ目の話だけでも何度か読み返したので、店で買った時より、ページが開きやすくなっていた。
喫茶店は、路地を抜けた先にあった。
小さな窓から中を覗くと、壁際の席に白い髪が見えた。
扉を開けた音で、槙島が顔を上げる。
「こんにちは、倉橋さん」
「こんにちは。早かったですね」
「少し前に来たところだよ」
向かいに座り、鞄を膝に置く。
テーブルには、コーヒーと、開かれた本があった。
「待っている間も、読むんですね」
「ちょうど、区切りのいいところまで読めそうだったから」
そう言いながら、彼はしおりを挟んで閉じた。
注文を取りに来た店員に紅茶を頼み、鞄から本を出す。
表紙を見た槙島が尋ねた。
「ほかの話も読んだ?」
「はい。でも、最初のお話が一番好きでした」
「そうか」
「二つ目は、最後まで読んでも主人公が何をしたかったのか、よく分からなくて……」
言ってから、本の角を指で触った。
「おすすめしてもらったのに、すみません」
「また謝るんだね」
顔を上げると、槙島は少し笑っていた。
「僕も、あの主人公と友達になりたいとは思わないよ」
意外で、つい笑ってしまった。
「槙島さんでも、そういうことを思うんですか?」
「もちろん。君は?」
「私は……一緒にいたら、疲れそうだなって」
彼は頷いた。
「何を考えているか、言ってくれないから?」
「それもあります。でも、聞かれた時くらいは答えてくれたらいいのにって思って」
主人公は、大事なことを尋ねられるたびに、別の話をした。
相手が困っているのを分かっていて、そうしているようにも見えた。
「答えたくなかったのかもしれないね」
「じゃあ、そう言えばいいのに」
言い切ってから、少し強い言い方だったかと思った。
槙島は気にした様子もなく、カップを持ち上げる。
「そう言ってくれれば、君は納得する?」
「……寂しいとは思います。でも、答えを待たなくて済むので」
彼の手が、カップを置く前に一度止まった。
「待たされるのは、嫌なんだね」
「何を待ってるのか、分からないのは」
運ばれてきた紅茶に目を落とす。
湯気の向こうで、槙島が本を開いた。
「それなら、最初の話の老人は、君にはずいぶん親切だったのかな」
沙代は頷いた。
「目的地を知らないって、最初に言ってくれたので」
「それでも、主人公は一緒に歩いた」
「はい。分かったうえで、一緒に行ったんですよね」
彼は食事の場面のページを、沙代のほうへ向けた。
「ここを読み直したよ」
自分の本も、同じ場所を開く。
「僕は前に読んだ時、主人公が一人で帰るのを避けたんだと思った。
でも、君の感想を聞いてから読むと、老人のほうにも話したいことがあったんだろうね」
「息子の話ですか?」
「ああ。道を尋ねられてから、ずっと機会を探していたのかもしれない」
沙代は文章を目で追った。
主人公が食事に誘うと、老人はすぐに頷いている。
前は、ここをそんなに気にしていなかった。
「……一人で読んでたら、気づかなかったと思います」
「僕も、君が食事の場面を挙げなければ、もう一度開かなかったかもしれない」
沙代はページから顔を上げた。
「本当に読み返してくれたんですね」
「そう言っただろう?」
「はい。でも、私が勝手に感想を送っただけだったので」
槙島は何かを言いかけ、沙代の手元を見た。
「その紙は?」
本の間から、小さな紙片が覗いていた。
「あ、これ……」
抜き出して、テーブルに置く。
家にあった便箋を切ったものだった。
読みながら気になったことを、忘れないように書いていた。
字の下には線を引いたり、後から別の言葉を足したりしている。
「今日、聞こうと思ったことです」
「見ても?」
頷くと、彼は紙を手に取った。
一番上には、少し大きな字で書いてあった。
――どうして、なくなった場所に行くんだろう。
槙島はそこを指で示した。
「これは?」
「この人、店がもうないかもしれないって、途中で考えてるんです。でも、最後まで探すので」
紅茶を一口飲んだ。
「私なら、ないって分かったところで帰ると思うって、前に送りましたよね」
「ああ」
「でも、読み返してたら、そこまで行って見ないと帰れなかったのかなって」
槙島は紙をテーブルへ戻した。
「君にも、そういう場所がある?」
言葉を探す間、彼は待っていた。
「昔の家があった場所には、行ったことがあります」
答えてから、カップの取っ手に指をかけた。
まだ少し熱かった。
「もう、何も残ってないんですけど」
彼の視線がこちらに向いているのが分かった。
「行ってみて、どうだった?」
「……思ったより、狭かったです」
自分でも、妙な答えだと思った。
家の中には階段があって、おばあちゃんの部屋があって、沙代が走って怒られた廊下もあった。
全部があそこに収まっていたとは、うまく思えなかった。
「もっと大きな家だった気がして。場所を間違えたのかなって、何度も住所を確認しました」
「子供の頃の家?」
「はい」
彼は頷いた。
「その頃の君には、大きかったんだろうね」
沙代はカップから指を離した。
「……そうですね」
そこで初めて、少し息がしやすくなった。
記憶と違っていたからといって、覚えているものが全部間違いになるわけではない。
あの廊下を小さな自分が走っていたことまで、確かめ直さなくていいのだと思えた。
槙島はそれ以上、家のことを尋ねなかった。
紙片へ視線を戻し、次の行を読む。
「『この人は、謝ったほうがよかったと思う』」
沙代は思わず顔を上げた。
「そこ、声に出さないでください」
「今日、聞くつもりだったんじゃないの?」
「そうですけど。もっとちゃんと説明するつもりで……」
彼が小さく笑った。
「じゃあ、聞かせて」
沙代は二つ目の話のページを開いた。
*
気づけば、紅茶はすっかり冷めていた。
紙に書いたことを全部話したわけではなかった。
一つ尋ねると、別の話になって、戻った時には違うところが気になっている。
槙島は、沙代と意見が違っても、すぐに答えを決めなかった。
「どうしてそう思ったの?」
何度かそう尋ねられた。
考え直しても同じ意見の時もあったし、話している途中で変わってしまったこともある。
どちらでも、彼は続きを聞いていた。
窓の外へ目を向けると、来た時より人通りが増えていた。
「あ……すみません。こんなに長く」
端末で時間を確認する。
一時間以上経っていた。
「もう帰ったほうがいいですか?」
「今日は、まだ時間があるよ」
槙島は空になった沙代のカップを見る。
「もう一杯、頼む?」
「はい。今度は、ケーキも頼んでいいですか」
「もちろん」
メニューを開き、写真を見比べる。
本の話をしていたせいか、急にお腹が空いてきた。
向かいで、槙島が例の短編を開いた。
「二人が食事をしたのも、案外こういう理由だったかもしれないね」
沙代はメニューから顔を上げた。
「……それなら、すごく分かります」
二人とも笑った。
今は、老人の寂しさも、主人公の迷いも、少し脇へ置いておけた。
もうしばらくここで話すために、沙代はチーズケーキと、温かい紅茶
を注文した。
*
ケーキが運ばれてくる頃、槙島の端末がもう一度光った。
彼は画面を一瞥してから、伏せて置いた。
「お忙しかったですか?」
「少し、確認の連絡がね」
フォークを取ろうとしていた手を止める。
「私、長く引き止めちゃって……」
「延ばせる予定だったから、気にしなくていいよ」
延ばした、という意味だと分かるまで、少し時間がかかった。
沙代は少し考えてから頷いた。
「予定、あったんですか?」
「このあとにね」
「じゃあ、どうして……」
槙島は、テーブルに置かれた本へ目を向けた。
「さっきの話が途中だっただろう」
二つ目の短編。
主人公が友人に謝らないまま、街を出ていく話だった。
「でも、それはまた今度でも」
「君がどうしてあんなに腹を立てたのか、今日聞いておきたくなったんだ」
「そんなに怒ってました?」
「少しね」
沙代は本を見下ろした。
紙片には、確かに強めの筆圧で線が引いてあった。
「……謝れば、許してもらえると思っているのが嫌だったんです」
槙島の視線が戻ってきた。
「謝っていないのに?」
「はい。最後に『いつか会えば分かってくれる』って考えてるので」
その一文を指で示す。
「相手がずっと、自分を待ってるみたいに」
彼はページを覗き込んだ。
「そう考えなければ、出ていけなかったのかもしれないね」
「だったら、出ていかなくてもよかったんじゃないですか」
言ってから、沙代はフォークを置いた。
「……あ、でも。それだと、お話が終わっちゃいますね」
「ずいぶん短くなるね」
彼が笑ったので、沙代も笑った。
ケーキを一口食べる。
思っていたより酸味があって、紅茶によく合った。
槙島はまだ、さっきのページを見ていた。
「君なら、引き止める?」
「友達をですか?」
「ああ」
考えながら、フォークの先でケーキを小さく切る。
「理由は、聞くと思います」
「それでも行くと言ったら?」
「……仕方ないです」
口にすると、少し冷たい答えに聞こえた。
「行かないでほしいとは言うかもしれません。でも、それを聞いてどうするかは、その人が決めることなので」
槙島は、静かに頷いた。
「それなら、君は主人公が去ったことより、その後の考え方が気に入らなかったんだね」
沙代はもう一度、指の下の文章を読んだ。
いつか会えば、分かってくれる。
「……そうかもしれません」
彼に言われて、ようやく自分の引っかかっていたところがはっきりした。
「戻ってきた時に、相手が会いたくないと思ってても、それは仕方ないですよね」
「そうだね」
槙島は本から手を離した。
「自分が選べるなら、相手も選べる」
沙代は頷き、ケーキをもう一口食べた。
彼はコーヒーを飲んだ。
少し前から冷めているはずなのに、特に気にしていないようだった。
「槙島さんは、この主人公のこと、どう思ったんですか?」
「最初に読んだ時?」
「はい」
「友人を置いていく場面より、街を出た後に何をするかが気になった」
「その先、書いてないですよね」
「だから、考えていたんだ」
沙代は最後のページを開いた。
主人公は列車に乗り、窓の外を見ている。
その先を、沙代は考えていなかった。
置いていかれた友人のことばかり気になっていたから。
「……私たち、全然違うところを読んでますね」
「同じ本なのにね」
槙島は、沙代の紙片へ目を落とした。
「次の話は、どうだった?」
*
店を出る頃には、窓から差していた光が、隣の建物の陰に隠れていた。
予定していたより、ずっと長く話してしまった。
会計を分けてもらい、財布をしまっていると、槙島が扉を押さえて
くれた。
「ありがとうございます」
外へ出ると、冷たい風が頬に触れた。
「今日は、駅まで一緒には行けないけれど」
「大丈夫です。道、覚えてます」
前に迷ったことを思い出して、少し笑う。
槙島もそれに気づいたようだった。
「それなら安心だ」
沙代は袋から本を出しかけ、やめた。
返す本ではないのに、何となく手渡してしまいそうになった。
自分の本を持って帰って、また読める。
その当たり前のことが、まだ新鮮だった。
「次は、どんな本を読んだらいいでしょう」
「今日話していて、気になったものはある?」
少し考えた。
「手紙が出てくるお話です」
途中で槙島が、言葉を相手に渡すまで時間のかかる話について触れていた。
送ってから返事が来るまで、何日も待つらしい。
「手紙を出した後で、言いたいことが変わったらどうするんだろうっ
て」
「もう一通、書くのかな」
「追いついちゃいません?」
「届く順番まで気にするんだね」
沙代は頷いた。
「先に読んでほしいほうが、後から届いたら困るので」
彼は少し考えてから、端末を取り出した。
「候補を送っておくよ。あらすじを見て、読んでみたいものを選んで」
「はい」
「感想は、急がなくていいからね」
「……分かりました」
今日、紙に書いてまで持ってきたことを思い出す。
宿題みたいに受け取っていたところは、確かにあったかもしれない。
「また、話したくなったら連絡して」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、倉橋さん」
彼は沙代とは反対の方向へ歩き出した。
沙代は駅へ向かった。
歩きながら、鞄の中で本の位置を直す。
今日話したところを、家でもう一度読みたかった。
*
槙島が戻ると、グソンは椅子に深く腰かけていた。
画面には資料が開かれたままで、脇のカップは空になっている。
「お帰りなさい、槙島のダンナ」
「ああ。待たせたね」
「一時間ほど、でしたよね」
槙島は壁の時計を見た。
延ばした予定から、さらに二十分ほど過ぎていた。
「少し長くなった」
「こっちは、少し前に先方へ連絡しましたよ。まだかと聞かれたので」
「助かったよ」
グソンは短く息を吐いた。
「次から、最初に長めに取っといてください」
槙島はコートを脱ぎ、椅子の背へかけた。
「そうする」
あっさりした返事に、グソンが顔を上げる。
「次もあるんですね」
「読む本を探すことになったからね」
「例の人ですか」
「ああ」
槙島は机の上の資料を引き寄せた。
グソンが待っていた箇所から説明を始める。
今度は途中で端末を見なかった。
必要な確認を済ませ、先方への返答を決めるまで、話は滞りなく進んだ。
グソンが作業に戻った後、槙島は本棚から三冊を抜き出した。
並べて、しばらく眺める。
どれも手紙を扱っている。
けれど、一冊目は少し長い。二冊目は背景の説明が多く、彼女が知りたいところへ着くまで時間がかかる。
三冊目を開いた。
送るつもりのなかった手紙が、相手に届いてしまう話だった。
槙島はあらすじを確かめ、題名を端末に入力する。
その下へ、一言添えた。
『これは、届いた後で言い直したくなる話だよ』
送信して、本を机に置く。
グソンが横目でそれを見たが、今度は何も言わなかった。