捜査資料を読み直しているうちに、狡噛は倉橋沙代の名前で手を止めた。
証言には、目立った矛盾がない。
それでも、人と一緒だったかを聞いた時の、あの短い間が気になった。
怯えているだけなのか。
言いたくないことがあるのか。
「宜野座。倉橋の過去の事件記録、確認していいか」
宜野座が端末から顔を上げる。
「何を調べる」
「聞き取りで、男の叫び声について話す時に様子が変わった。以前にも似た経験があったのかもしれない」
「今回の事件に関係する範囲にしろ」
狡噛は頷いた。
開いた記録の中に、一件の火災があった。
発生日。
死亡者。
生存者、一名。
倉橋沙代。
狡噛は画面へ身を寄せる。
親が潜在犯と判定された後、自宅に火をつけた。
家族を巻き込んだ火災で、沙代だけが救出されている。
祖母が避難を助けたとする記載があった。
添付された当時の報告を読む。
本人の記憶は不鮮明。
聴取は慎重に行う必要がある。
狡噛は椅子の背にもたれた。
通り魔の叫び声を思い出そうとした時、彼女が見ていたのは、あの路地だけではなかったのかもしれない。
「何かあったか」
宜野座が近づく。
狡噛は画面を向けた。
「幼い頃に、放火で家族を失ってる」
宜野座は報告に目を通し、眉を寄せる。
「なら、証言が途切れる理由にはなるな」
「ああ」
続いて表示されたサイコパスの記録を、狡噛は見た。
火災のあとも、その後の経過観察でも、色相はクリアだった。
確認できる記録の中に、大きな悪化を示すものがない。
「……ずっとクリアなのか」
宜野座も数値を見る。
「記憶が曖昧だったとある。本人がどう受け止めたかも分からない。これだけで何かを判断するなよ」
「分かってる」
狡噛は記録を遡った。
現在は就労していない。
職業適性は複数出ているが、選択した形跡はない。
保険金と相続した資産で生活している。
あの静かな部屋を思い出した。
紙の本が並び、窓際に椅子があって、誰かの上着が掛かっていた。
時々来る人がいる、と彼女は言った。
家族を失ってから、あそこへ来る人間がどれほどいたのだろう。
「調べれば何でも分かる、という顔をするな」
宜野座の声に、狡噛は顔を上げる。
「そんな顔をしてたか」
「お前は、気になった相手を追いすぎる」
狡噛は少し黙ってから、資料を閉じた。
これで、彼女の恐怖には理由が見えた。
だが、誰かと一緒だったかを聞かれた時の緊張まで、すべて説明できたとは思えない。
「次に話す機会があっても、火事のことはこっちから持ち出さない」
「当然だ」
宜野座が席へ戻る。
狡噛は聞き取りの記録へ視線を落とした。
一人でいました。
その言葉を疑いたくなるのは、自分の勘だ。
裏付けは、まだない。
それでも、もし彼女が誰かを庇っているなら。
その相手は、家族を失った彼女が、ようやく迎え入れた人間なのかもしれなかった。
*
通り魔事件当日の映像を確認しても、倉橋沙代の姿は見つからなかった。
狡噛は再生を止め、彼女が示した経路図へ目を移す。
ここにいた。
この方向へ逃げた。
証言をもとに周辺の映像を追ったが、顔を確認できる場面がない。
「映ってないのか」
宜野座が背後から尋ねた。
「ああ。少なくとも、確認できた範囲ではな」
「騒ぎの最中だ。人も動いている」
「それは分かる」
狡噛は映像を少し戻した。
沙代が映っていないことは、あの日そこにいなかった証拠にはならない。
まして、一人だったという話を崩す材料にもならなかった。
ただ、証言を映像で確かめようとすると、そこで途切れる。
「同行者を探しているのか」
宜野座に聞かれ、狡噛は画面から目を離した。
「いたなら、別の証言が取れる」
「いたと決まったわけじゃない」
「……そうだな」
彼は記録へ、映像による本人確認には至らず、と書き加える。
違和感は残った。
けれど、確認できない映像から、誰かの顔を見つけることはできなかった。
*
沙代は、彼との散歩が好きだった。
大通りを離れ、静かな道を歩く。
小さな店を覗いたり、建物の隙間に夕日を見つけたりする。
どちらへ行くか迷うと、いつも槙島が手を引いた。
「こっちへ行こうか」
その道を選ぶ理由を、沙代は尋ねたことがなかった。
二人で歩ければ、それでよかったから。
槙島は、そんな彼女の様子をよく知っていた。
彼と過ごす沙代の姿が記録に残らないよう、会う場所や出かけ方には、初めから気を配っていた。
そのために選んだ道も、彼女には楽しい寄り道として残っている。
「聖護って、こういうところよく知ってるね」
そう言われるたび、彼は笑っていた。
「君と歩くのに、いいと思ってね」
それも、本心だった。