絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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41.公安とわたし

 

 

店を出たところで、沙代は見覚えのある横顔に気づいた。

眼鏡をかけた、背の高い男。

今日は公安局の上着を着ていなかった。

目が合い、沙代は小さく頭を下げる。

 

「……宜野座さん」

「倉橋さんか」

 

声をかけたものの、何を話せばいいか分からなくなった。

沙代が買い物袋の持ち手を握り直すと、宜野座は少し間を置いて言う。

 

「今日は非番だ。事件のことで来たわけじゃない」

「あ、はい」

 

ほっとしたのが、声に出た。

 

「お休み、あるんですね」

 

宜野座が一瞬、黙る。

自分の言葉を聞き直した沙代は、慌てて顔を上げた。

 

「すみません。変な意味じゃなくて。いつもお忙しそうだったので」

「……休みくらいはある」

「そうですよね」

 

沙代が照れ笑いをすると、宜野座の口元もわずかに緩んだ。

 

「買い物か」

「はい。お茶を買いに来ました」

 

袋から少し見えていた箱を、彼女は持ち上げる。

 

「いつものがなくなりそうで」

「随分飲むんだな」

「二人だと、すぐなくなっちゃって」

 

言ってから、沙代は箱を袋へ戻した。

宜野座はその動きを見たが、相手が誰かは尋ねなかった。

 

「今日は一人か?」

「はい。……一緒に来られなかったので」

「そうか」

 

少し静かになる。

沙代は、また何かを聞かれるのかと思った。

けれど宜野座は、店先に並んだ品へ視線を移しただけだった。

 

「その袋、重くないか」

「大丈夫です。お茶だけのつもりだったんですけど、カップも買っちゃって」

 

包みを覗き込んで、沙代が笑う。

 

「今使ってるの、小さくて。もう少し大きいのが欲しかったんです」

 

さっきまでの緊張が、声から抜けていた。

宜野座は頷いた。

 

「割れ物なら、気をつけて帰れ」

「はい」

 

それで別れるはずだった。

沙代は一歩動いてから、ふと振り返る。

 

「あの、宜野座さんも」

「何だ」

「……ゆっくり休んでくださいね」

 

宜野座は彼女を見たまま、少し黙った。

 

「ありがとう」

 

短い返事を聞いて、沙代は嬉しそうに頭を下げる。

 

 

*

 

 

帰り道、沙代は端末を開いた。

 

『宜野座さんに会ったよ。今日はお休みなんだって』

 

続けて、包まれたカップの写真を送る。

 

『大きいの買っちゃった。今度、一緒に使おう』

 

送信してから、さっきの会話を思い出した。

 

休みくらいはある。

 

少し困ったような顔だった。

沙代は一人で小さく笑い、買い物袋を持ち直した。

 

 

*

 

 

翌日、銀行へいた沙代。

 

「…」

 

受付番号は、まだ呼ばれない。沙代は端末で時間を確認する。

思ったより長くかかりそうだ。

 

『銀行、混んでる。終わったら連絡するね』

 

聖護へ送り、膝の上に鞄を置き直した。

帰りに何か買っていこうか。

 

今夜、彼が来るなら――。

 

「動くな!」

 

突然の怒鳴り声に、顔を上げた。

 

窓口にいた男が、職員へ刃物を向けている。

最初は、何が起きているのか分からなかった。

近くの椅子が倒れ、誰かが短く悲鳴を上げた時、沙代はようやく鞄を抱き寄せる。

 

「出ていくな! そこ、座れ!」

 

出口へ向かった人が足を止めた。

男の声は震えている。

怒っているのに、追い詰められているようにも聞こえた。

 

沙代は息を止める。

 

聞き覚えのある声ではない。

 

あの通り魔とも、親とも違う。

そう思おうとするほど、目の前の光景から遠ざかりそうになった。

鞄の縫い目を指でなぞる。

 

硬い糸が爪に引っかかった。

 

ここは銀行。

 

今、私はここにいる。

 

「端末を置け!」

 

沙代は手元を見た。

 

画面には、聖護との会話が開いたままだった。

一文字も打てなかった。

 

端末を床へ置き、両手を膝へ戻す。

隣に座っていた年配の女性が、小さく震えていた。

 

沙代はそちらを見たが、声をかける勇気は出なかった。

その時、床に置いた端末が光る。

 

『分かった。待っているよ』

 

沙代は文字を見つめた。

いつもの返事だった。

このあとも普通に帰って、お茶を淹れて、彼に会うはずだった。

 

端末の光が消える。

沙代は目を閉じずに、膝の上の指を握った。

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

連絡を受けた車内で、宜野座が現場情報を確認していた。

 

「銀行内に複数の客と職員。刃物を持った男が、退去を妨げている」

 

狡噛は窓の外から視線を戻す。

 

「負傷者は?」

「まだ確認中だ」

 

車が現場へ近づく。

狡噛には、そこに倉橋沙代がいることは、まだ分からなかった。

銀行の入口には、すでに規制線が張られていた。

 

宜野座が状況の報告を受ける間、狡噛は行内の映像を確認する。

窓口の前を行き来する男。

 

床に座らされた職員。

待合の椅子に並ぶ客。

 

その中に、見覚えのある顔があった。

 

「……倉橋」

 

宜野座が振り向く。

 

「いるのか?」

 

狡噛は画面を指した。

沙代は鞄を抱え、俯いている。

隣の女性に肩が触れそうなほど近く座っているが、二人とも動かない。

 

「間違いない」

 

宜野座も映像を見て、表情を引き締めた。

 

 

 

*

 

 

 

 

男が窓口へ向かった隙に、隣の女性が小さく息を漏らした。

 

「……苦しい」

 

沙代は顔を向ける。

女性は胸元を押さえていた。呼吸が速い。

 

「あの……ゆっくり」

 

自分も同じように息が浅いと気づき、沙代は一度、長く吐いた。

 

「一緒に、吐いてみませんか」

 

女性が彼女を見る。

沙代は頷いた。

 

大丈夫と言える状況ではなかったけれど、一人で苦しそうにしているのを、見ていられなかった。

二人で呼吸を合わせようとした時、男が振り返る。

 

「何を話してる!」

 

沙代の背中が強張った。

 

「何も……」

「今、話してただろ!」

 

男が近づいてくる。

沙代は女性との間に置いていた手を引っ込めた。

刃物が見えて、視線がそこから動かなくなる。

 

銀行の外から、声が届いた。

男が顔を上げる。

 

公安とのやり取りが始まった。

その内容は沙代の耳にも聞こえたが、言葉を追えなかった。

 

膝の上で、手を握る。

聖護に会いたい。

 

さっきまで帰り道のことを考えていた。

その続きを、まだしたかった。

 

 

 

*

 

 

 

事態が動いたのは、男が窓口の職員を立たせようとした時だった。

入口の方で音がした。

 

男が振り向く。

 

沙代も顔を上げたが、何が起きたのか見極める前に、短い声が飛ぶ。

 

「伏せろ!」

 

聞き覚えがあった。

沙代は鞄を抱えたまま身を縮める。

隣の女性も、椅子から滑り落ちるように伏せた。

 

続いて、何かが倒れる音。

沙代は動けなかった。

 

足音が近づき、そばで止まる。

 

「倉橋」

 

呼ばれても、すぐには顔を上げられなかった。

 

「もう刃物は持っていない。こっちを見てくれ」

 

ようやく目を向けると、狡噛がしゃがんでいた。

彼の向こうで、男が取り押さえられている。

 

「……狡噛さん」

「ああ。怪我は?」

 

沙代は首を横に振った。

 

「立てそうか」

 

頷こうとして、身体が動かないことに気づく。

狡噛は急かさなかった。

 

「まだ座っていていい。外へ出る時は、一緒に行く」

 

沙代はその声を聞きながら、少しずつ指をほどいた。

抱えた鞄に、爪の跡がついていた。

 

*

 

 

銀行から出ると、沙代は自分が眩しいと感じたことに驚いた。

中ではずっと、照明も窓も目に入らなかった。

救護の席へ案内され、宜野座がそばへ来る。

 

「怪我はないな?」

「……はい」

「気分が悪ければ、すぐに言ってくれ」

 

沙代は頷いた。

 

確認を受け、手元へ返された端末を見つめる。

画面を開くまでに、何度か指が滑った。

聖護との会話が表示される。

 

待っているよ。

 

沙代は文字を打ち始めたが、途中で消した。

代わりに、電話をかける。

 

『沙代?』

 

聞こえた瞬間、声が出なくなった。

 

「……聖護」

 

『どうしたの?』

 

彼女は端末を両手で持ち直す。

 

「迎えに来てほしい」

 

少し離れた場所で、狡噛が別の人質の話を聞いていた。

 

『今、どこにいる?』

 

沙代は銀行の名前を答えかけて、顔を上げる。

規制線の向こうにも、救護の席のそばにも、公安の人がいる。

少し離れたところには狡噛もいた。

 

「……待って。やっぱり、来ないで」

 

槙島は黙って続きを待った。

 

「公安の人、いっぱいいる。狡噛さんも」

『何があったんだい』

 

沙代は途切れながら、銀行で起きたことを話す。

 

『もう終わったんだね?』

「うん。怪我もない」

『そうか』

 

静かな返事だった。

沙代は端末を耳に押し当てた。

 

「ごめん。声聞いたら、来てほしくなっちゃって」

『謝らなくていいよ』

 

槙島は少し間を置く。

 

『今は、そばにいる人の指示を聞いて。帰れることになったら、連絡してくれる?』

「……うん」

『僕は、君の家で待っている』

 

沙代は目を閉じた。

さっきまで、あの家へ一人で帰ることを考えたくなかった。

 

「いてくれる?」

『うん。帰ってきたら、会えるよ』

 

頷くと、涙が一つ落ちる。

 

「じゃあ……帰るね。ちゃんと」

『待っているよ』

 

通話を終えても、沙代はしばらく端末を握っていた。

槙島は迎えに来ない。

でも、帰る先にはいてくれる。

 

今は、それを頼りに立ち上がろうと思った。

 

 

「倉橋さん。少し、お話を伺ってもいいですか」

 

端末をしまったところで、宜野座が声をかけた。

沙代は頷く。

 

「……はい」

 

救護の席に座ったまま、男が声を上げた時のことから聞かれる。

 

どこに座っていたか。

 

男は何と言ったか。

 

誰かに刃物を向けたか。

 

沙代は膝に置いた鞄を見ながら、覚えていることを答えた。

 

「隣の方に、声をかけたんです。苦しそうだったので」

「その時、男が近づいてきた?」

「はい。話すなって……」

 

声が止まる。

宜野座も質問を止めた。

 

「水を飲めそうか」

 

沙代は頷き、渡されていたカップを持つ。

両手で支えると、まだ指が震えているのが分かった。

狡噛が少し離れたところから戻ってきた。

 

「隣にいた人の話とも合ってる。呼吸を合わせてくれたと言っていた」

 

沙代が顔を上げる。

 

「あの人、大丈夫ですか」

「ああ。救護を受けてる」

「……よかった」

 

その言葉のあと、ようやく水を一口飲めた。

聞き取りは、少しずつ進んだ。

分からないことは分からないと答え、時間の順番が曖昧なところは、確認しながら話した。

 

終わる頃には、ずいぶん時間が経っていた。

 

「今日はここまでで結構です」

 

宜野座が記録を閉じる。

 

「あとから思い出したことがあれば、連絡してください」

「はい」

「帰宅後、そばにいてくれる人はいますか」

 

沙代はすぐに頷いた。

 

「……います。家で待ってくれてます」

 

宜野座はそれ以上、相手について尋ねなかった。

 

「一人で帰れそうか」

 

狡噛に聞かれ、沙代はゆっくり立ち上がる。

足に力が入るのを確かめてから、答えた。

 

「大丈夫です」

 

それから二人に頭を下げる。

 

「助けてくれて、ありがとうございました」

 

 

 

*

 

 

 

帰れることになった、と送ると、聖護からすぐに返信が来た。

 

『分かった。急がなくていいよ』

 

沙代はその文字を読み、鞄を肩に掛ける。

話している間は、順番に思い出すことで精いっぱいだった。

終わって、一人で歩き始めてから、怖かった、と思った。

端末がもう一度震える。

 

『お茶を淹れて待っている』

 

沙代は唇を結び、ゆっくり息を吐いた。

家に着くまで、泣かずにいられるかは分からなかった。

 

 

 

 

*

 

「……倉橋沙代。トラブル体質なのか?」

 

沙代が去った方向を見ながら、狡噛が呟いた。

 

宜野座は端末へ記録を保存している。

 

「本人に責任があるような言い方をするな」

「そういう意味じゃない」

「なら、運が悪かった。それだけだ」

 

狡噛は頷いた。

 

通り魔に遭遇し、今度は立てこもりに巻き込まれた。

過去には、家族を失った火災もある。

それでも今日、彼女は隣の人を気遣っていた。

 

「……自分も怖かっただろうにな」

「何だ?」

「隣にいた人だよ。倉橋に声をかけてもらって、少し落ち着けたそうだ」

 

宜野座は顔を上げる。

 

「聞き取りでも、その人の無事を気にしていたな」

「ああ」

 

狡噛は現場へ視線を戻した。

刃物を持った男が近づいた時、彼女は身動きできなくなっていた。

名前を呼んでようやく顔を上げた、その目を覚えている。

 

「帰った先に、誰かいるならいいが」

「いると言っていた」

 

宜野座は端末を閉じる。

 

「今日はそれで十分だろう」

 

狡噛は、今度は反論しなかった。

その時、測定を担当した職員が報告に来た。

 

「倉橋沙代、若干の濁りはありましたが、色相はクリアの範囲です」

 

宜野座は頷く。

 

「引き続き経過を確認してください。本人にも、体調に変化があれば相談するよう伝えてあります」

 

狡噛は表示された数値を見た。

普段の記録よりは悪化している。

 

だが、立てこもりに巻き込まれ、刃物を向けられた直後でも、色相はクリアの範囲に収まっていた。

 

「……あれだけ怯えていたのにな」

「恐怖を感じることと、色相が大きく悪化することは同じではない」

 

宜野座が返す。

 

「家族を失った時も、クリアだった」

「だから何だ」

 

声が少し硬くなった。

狡噛は画面から顔を上げる。

 

「気になるだけだ」

「数値が安定しているからといって、平気だったわけじゃない。お前も見ただろう」

 

見た。

鞄を抱え込んだ指も、立ち上がれずにいた姿も。

帰宅して待っている人がいると答えた時、ようやく表情が緩んだことも。

狡噛はもう一度、数値を見る。

 

「……ああ。平気ではなかった」

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

玄関の鍵が、うまく回らなかった。

沙代が持ち直そうとした時、内側から扉が開く。

槙島がそこにいた。

 

「おかえり」

 

沙代は顔を上げた。

返事をしようとして、息だけが漏れる。

彼は彼女の顔を見て、何も聞かずに手を伸ばした。

鞄を受け取り、扉を閉める。

 

「……聖護」

「うん」

 

沙代は靴も脱がずに、彼の服を掴んだ。

そこで初めて、涙が落ちた。

 

槙島は彼女を抱き寄せる。

背中へ回した手に、まだ強張った身体の感触があった。

 

「帰ってきたね」

 

沙代は頷く。

何が怖かったのか。

どんなふうに助けられたのか。

 

話すことはあったが、今は声にならなかった。

 

「話すのは、あとでいいよ」

 

その言葉を聞いて、彼女はようやく両腕を彼の背中へ回した。

槙島は抱きしめたまま、少し待つ。

やがて沙代が息を整え始めると、髪に口づけた。

 

「君は、ずいぶん僕を心配させるね」

「……好きで、巻き込まれてるんじゃないよ」

 

涙声の反論に、彼は小さく笑う。

 

「知っているよ」

 

背中を撫でる手は、止めなかった。

 

 

*

 

沙代は温かいカップを両手で持っていた。

槙島が隣へ座ると、少し身体を寄せる。

彼は何も言わず、彼女の肩に腕を回した。

 

「色相の確認もされた?」

「うん。少し濁ったけど、大丈夫だって」

「そう」

「でも……怖かった」

 

沙代はカップの中を見つめる。

 

「大丈夫って言われても、まだ怖かった」

 

槙島は彼女の横顔を見た。

 

「うん」

 

それ以上、数値については尋ねなかった。

しばらくして、沙代が一口飲む。

カップを置くと、空いた手が彼の袖へ伸びた。

 

「今日は、そばにいて」

「いるよ」

 

沙代は頷き、彼の肩にもたれる。

槙島には、色相よりも、袖を握るその手の方が気になった。

まだ少し震えている。

彼は手を重ね、ゆっくり握り返した。

 

 

 

 

 

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