店を出たところで、沙代は見覚えのある横顔に気づいた。
眼鏡をかけた、背の高い男。
今日は公安局の上着を着ていなかった。
目が合い、沙代は小さく頭を下げる。
「……宜野座さん」
「倉橋さんか」
声をかけたものの、何を話せばいいか分からなくなった。
沙代が買い物袋の持ち手を握り直すと、宜野座は少し間を置いて言う。
「今日は非番だ。事件のことで来たわけじゃない」
「あ、はい」
ほっとしたのが、声に出た。
「お休み、あるんですね」
宜野座が一瞬、黙る。
自分の言葉を聞き直した沙代は、慌てて顔を上げた。
「すみません。変な意味じゃなくて。いつもお忙しそうだったので」
「……休みくらいはある」
「そうですよね」
沙代が照れ笑いをすると、宜野座の口元もわずかに緩んだ。
「買い物か」
「はい。お茶を買いに来ました」
袋から少し見えていた箱を、彼女は持ち上げる。
「いつものがなくなりそうで」
「随分飲むんだな」
「二人だと、すぐなくなっちゃって」
言ってから、沙代は箱を袋へ戻した。
宜野座はその動きを見たが、相手が誰かは尋ねなかった。
「今日は一人か?」
「はい。……一緒に来られなかったので」
「そうか」
少し静かになる。
沙代は、また何かを聞かれるのかと思った。
けれど宜野座は、店先に並んだ品へ視線を移しただけだった。
「その袋、重くないか」
「大丈夫です。お茶だけのつもりだったんですけど、カップも買っちゃって」
包みを覗き込んで、沙代が笑う。
「今使ってるの、小さくて。もう少し大きいのが欲しかったんです」
さっきまでの緊張が、声から抜けていた。
宜野座は頷いた。
「割れ物なら、気をつけて帰れ」
「はい」
それで別れるはずだった。
沙代は一歩動いてから、ふと振り返る。
「あの、宜野座さんも」
「何だ」
「……ゆっくり休んでくださいね」
宜野座は彼女を見たまま、少し黙った。
「ありがとう」
短い返事を聞いて、沙代は嬉しそうに頭を下げる。
*
帰り道、沙代は端末を開いた。
『宜野座さんに会ったよ。今日はお休みなんだって』
続けて、包まれたカップの写真を送る。
『大きいの買っちゃった。今度、一緒に使おう』
送信してから、さっきの会話を思い出した。
休みくらいはある。
少し困ったような顔だった。
沙代は一人で小さく笑い、買い物袋を持ち直した。
*
翌日、銀行へいた沙代。
「…」
受付番号は、まだ呼ばれない。沙代は端末で時間を確認する。
思ったより長くかかりそうだ。
『銀行、混んでる。終わったら連絡するね』
聖護へ送り、膝の上に鞄を置き直した。
帰りに何か買っていこうか。
今夜、彼が来るなら――。
「動くな!」
突然の怒鳴り声に、顔を上げた。
窓口にいた男が、職員へ刃物を向けている。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
近くの椅子が倒れ、誰かが短く悲鳴を上げた時、沙代はようやく鞄を抱き寄せる。
「出ていくな! そこ、座れ!」
出口へ向かった人が足を止めた。
男の声は震えている。
怒っているのに、追い詰められているようにも聞こえた。
沙代は息を止める。
聞き覚えのある声ではない。
あの通り魔とも、親とも違う。
そう思おうとするほど、目の前の光景から遠ざかりそうになった。
鞄の縫い目を指でなぞる。
硬い糸が爪に引っかかった。
ここは銀行。
今、私はここにいる。
「端末を置け!」
沙代は手元を見た。
画面には、聖護との会話が開いたままだった。
一文字も打てなかった。
端末を床へ置き、両手を膝へ戻す。
隣に座っていた年配の女性が、小さく震えていた。
沙代はそちらを見たが、声をかける勇気は出なかった。
その時、床に置いた端末が光る。
『分かった。待っているよ』
沙代は文字を見つめた。
いつもの返事だった。
このあとも普通に帰って、お茶を淹れて、彼に会うはずだった。
端末の光が消える。
沙代は目を閉じずに、膝の上の指を握った。
*
連絡を受けた車内で、宜野座が現場情報を確認していた。
「銀行内に複数の客と職員。刃物を持った男が、退去を妨げている」
狡噛は窓の外から視線を戻す。
「負傷者は?」
「まだ確認中だ」
車が現場へ近づく。
狡噛には、そこに倉橋沙代がいることは、まだ分からなかった。
銀行の入口には、すでに規制線が張られていた。
宜野座が状況の報告を受ける間、狡噛は行内の映像を確認する。
窓口の前を行き来する男。
床に座らされた職員。
待合の椅子に並ぶ客。
その中に、見覚えのある顔があった。
「……倉橋」
宜野座が振り向く。
「いるのか?」
狡噛は画面を指した。
沙代は鞄を抱え、俯いている。
隣の女性に肩が触れそうなほど近く座っているが、二人とも動かない。
「間違いない」
宜野座も映像を見て、表情を引き締めた。
*
男が窓口へ向かった隙に、隣の女性が小さく息を漏らした。
「……苦しい」
沙代は顔を向ける。
女性は胸元を押さえていた。呼吸が速い。
「あの……ゆっくり」
自分も同じように息が浅いと気づき、沙代は一度、長く吐いた。
「一緒に、吐いてみませんか」
女性が彼女を見る。
沙代は頷いた。
大丈夫と言える状況ではなかったけれど、一人で苦しそうにしているのを、見ていられなかった。
二人で呼吸を合わせようとした時、男が振り返る。
「何を話してる!」
沙代の背中が強張った。
「何も……」
「今、話してただろ!」
男が近づいてくる。
沙代は女性との間に置いていた手を引っ込めた。
刃物が見えて、視線がそこから動かなくなる。
銀行の外から、声が届いた。
男が顔を上げる。
公安とのやり取りが始まった。
その内容は沙代の耳にも聞こえたが、言葉を追えなかった。
膝の上で、手を握る。
聖護に会いたい。
さっきまで帰り道のことを考えていた。
その続きを、まだしたかった。
*
事態が動いたのは、男が窓口の職員を立たせようとした時だった。
入口の方で音がした。
男が振り向く。
沙代も顔を上げたが、何が起きたのか見極める前に、短い声が飛ぶ。
「伏せろ!」
聞き覚えがあった。
沙代は鞄を抱えたまま身を縮める。
隣の女性も、椅子から滑り落ちるように伏せた。
続いて、何かが倒れる音。
沙代は動けなかった。
足音が近づき、そばで止まる。
「倉橋」
呼ばれても、すぐには顔を上げられなかった。
「もう刃物は持っていない。こっちを見てくれ」
ようやく目を向けると、狡噛がしゃがんでいた。
彼の向こうで、男が取り押さえられている。
「……狡噛さん」
「ああ。怪我は?」
沙代は首を横に振った。
「立てそうか」
頷こうとして、身体が動かないことに気づく。
狡噛は急かさなかった。
「まだ座っていていい。外へ出る時は、一緒に行く」
沙代はその声を聞きながら、少しずつ指をほどいた。
抱えた鞄に、爪の跡がついていた。
*
銀行から出ると、沙代は自分が眩しいと感じたことに驚いた。
中ではずっと、照明も窓も目に入らなかった。
救護の席へ案内され、宜野座がそばへ来る。
「怪我はないな?」
「……はい」
「気分が悪ければ、すぐに言ってくれ」
沙代は頷いた。
確認を受け、手元へ返された端末を見つめる。
画面を開くまでに、何度か指が滑った。
聖護との会話が表示される。
待っているよ。
沙代は文字を打ち始めたが、途中で消した。
代わりに、電話をかける。
『沙代?』
聞こえた瞬間、声が出なくなった。
「……聖護」
『どうしたの?』
彼女は端末を両手で持ち直す。
「迎えに来てほしい」
少し離れた場所で、狡噛が別の人質の話を聞いていた。
『今、どこにいる?』
沙代は銀行の名前を答えかけて、顔を上げる。
規制線の向こうにも、救護の席のそばにも、公安の人がいる。
少し離れたところには狡噛もいた。
「……待って。やっぱり、来ないで」
槙島は黙って続きを待った。
「公安の人、いっぱいいる。狡噛さんも」
『何があったんだい』
沙代は途切れながら、銀行で起きたことを話す。
『もう終わったんだね?』
「うん。怪我もない」
『そうか』
静かな返事だった。
沙代は端末を耳に押し当てた。
「ごめん。声聞いたら、来てほしくなっちゃって」
『謝らなくていいよ』
槙島は少し間を置く。
『今は、そばにいる人の指示を聞いて。帰れることになったら、連絡してくれる?』
「……うん」
『僕は、君の家で待っている』
沙代は目を閉じた。
さっきまで、あの家へ一人で帰ることを考えたくなかった。
「いてくれる?」
『うん。帰ってきたら、会えるよ』
頷くと、涙が一つ落ちる。
「じゃあ……帰るね。ちゃんと」
『待っているよ』
通話を終えても、沙代はしばらく端末を握っていた。
槙島は迎えに来ない。
でも、帰る先にはいてくれる。
今は、それを頼りに立ち上がろうと思った。
「倉橋さん。少し、お話を伺ってもいいですか」
端末をしまったところで、宜野座が声をかけた。
沙代は頷く。
「……はい」
救護の席に座ったまま、男が声を上げた時のことから聞かれる。
どこに座っていたか。
男は何と言ったか。
誰かに刃物を向けたか。
沙代は膝に置いた鞄を見ながら、覚えていることを答えた。
「隣の方に、声をかけたんです。苦しそうだったので」
「その時、男が近づいてきた?」
「はい。話すなって……」
声が止まる。
宜野座も質問を止めた。
「水を飲めそうか」
沙代は頷き、渡されていたカップを持つ。
両手で支えると、まだ指が震えているのが分かった。
狡噛が少し離れたところから戻ってきた。
「隣にいた人の話とも合ってる。呼吸を合わせてくれたと言っていた」
沙代が顔を上げる。
「あの人、大丈夫ですか」
「ああ。救護を受けてる」
「……よかった」
その言葉のあと、ようやく水を一口飲めた。
聞き取りは、少しずつ進んだ。
分からないことは分からないと答え、時間の順番が曖昧なところは、確認しながら話した。
終わる頃には、ずいぶん時間が経っていた。
「今日はここまでで結構です」
宜野座が記録を閉じる。
「あとから思い出したことがあれば、連絡してください」
「はい」
「帰宅後、そばにいてくれる人はいますか」
沙代はすぐに頷いた。
「……います。家で待ってくれてます」
宜野座はそれ以上、相手について尋ねなかった。
「一人で帰れそうか」
狡噛に聞かれ、沙代はゆっくり立ち上がる。
足に力が入るのを確かめてから、答えた。
「大丈夫です」
それから二人に頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとうございました」
*
帰れることになった、と送ると、聖護からすぐに返信が来た。
『分かった。急がなくていいよ』
沙代はその文字を読み、鞄を肩に掛ける。
話している間は、順番に思い出すことで精いっぱいだった。
終わって、一人で歩き始めてから、怖かった、と思った。
端末がもう一度震える。
『お茶を淹れて待っている』
沙代は唇を結び、ゆっくり息を吐いた。
家に着くまで、泣かずにいられるかは分からなかった。
*
「……倉橋沙代。トラブル体質なのか?」
沙代が去った方向を見ながら、狡噛が呟いた。
宜野座は端末へ記録を保存している。
「本人に責任があるような言い方をするな」
「そういう意味じゃない」
「なら、運が悪かった。それだけだ」
狡噛は頷いた。
通り魔に遭遇し、今度は立てこもりに巻き込まれた。
過去には、家族を失った火災もある。
それでも今日、彼女は隣の人を気遣っていた。
「……自分も怖かっただろうにな」
「何だ?」
「隣にいた人だよ。倉橋に声をかけてもらって、少し落ち着けたそうだ」
宜野座は顔を上げる。
「聞き取りでも、その人の無事を気にしていたな」
「ああ」
狡噛は現場へ視線を戻した。
刃物を持った男が近づいた時、彼女は身動きできなくなっていた。
名前を呼んでようやく顔を上げた、その目を覚えている。
「帰った先に、誰かいるならいいが」
「いると言っていた」
宜野座は端末を閉じる。
「今日はそれで十分だろう」
狡噛は、今度は反論しなかった。
その時、測定を担当した職員が報告に来た。
「倉橋沙代、若干の濁りはありましたが、色相はクリアの範囲です」
宜野座は頷く。
「引き続き経過を確認してください。本人にも、体調に変化があれば相談するよう伝えてあります」
狡噛は表示された数値を見た。
普段の記録よりは悪化している。
だが、立てこもりに巻き込まれ、刃物を向けられた直後でも、色相はクリアの範囲に収まっていた。
「……あれだけ怯えていたのにな」
「恐怖を感じることと、色相が大きく悪化することは同じではない」
宜野座が返す。
「家族を失った時も、クリアだった」
「だから何だ」
声が少し硬くなった。
狡噛は画面から顔を上げる。
「気になるだけだ」
「数値が安定しているからといって、平気だったわけじゃない。お前も見ただろう」
見た。
鞄を抱え込んだ指も、立ち上がれずにいた姿も。
帰宅して待っている人がいると答えた時、ようやく表情が緩んだことも。
狡噛はもう一度、数値を見る。
「……ああ。平気ではなかった」
*
玄関の鍵が、うまく回らなかった。
沙代が持ち直そうとした時、内側から扉が開く。
槙島がそこにいた。
「おかえり」
沙代は顔を上げた。
返事をしようとして、息だけが漏れる。
彼は彼女の顔を見て、何も聞かずに手を伸ばした。
鞄を受け取り、扉を閉める。
「……聖護」
「うん」
沙代は靴も脱がずに、彼の服を掴んだ。
そこで初めて、涙が落ちた。
槙島は彼女を抱き寄せる。
背中へ回した手に、まだ強張った身体の感触があった。
「帰ってきたね」
沙代は頷く。
何が怖かったのか。
どんなふうに助けられたのか。
話すことはあったが、今は声にならなかった。
「話すのは、あとでいいよ」
その言葉を聞いて、彼女はようやく両腕を彼の背中へ回した。
槙島は抱きしめたまま、少し待つ。
やがて沙代が息を整え始めると、髪に口づけた。
「君は、ずいぶん僕を心配させるね」
「……好きで、巻き込まれてるんじゃないよ」
涙声の反論に、彼は小さく笑う。
「知っているよ」
背中を撫でる手は、止めなかった。
*
沙代は温かいカップを両手で持っていた。
槙島が隣へ座ると、少し身体を寄せる。
彼は何も言わず、彼女の肩に腕を回した。
「色相の確認もされた?」
「うん。少し濁ったけど、大丈夫だって」
「そう」
「でも……怖かった」
沙代はカップの中を見つめる。
「大丈夫って言われても、まだ怖かった」
槙島は彼女の横顔を見た。
「うん」
それ以上、数値については尋ねなかった。
しばらくして、沙代が一口飲む。
カップを置くと、空いた手が彼の袖へ伸びた。
「今日は、そばにいて」
「いるよ」
沙代は頷き、彼の肩にもたれる。
槙島には、色相よりも、袖を握るその手の方が気になった。
まだ少し震えている。
彼は手を重ね、ゆっくり握り返した。