絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

44 / 45
43.記念日

 

 

季節が巡り、恋人になってから一年が経った。

 

その日、沙代の部屋を訪ねた槙島が扉を開けると、乾いた音が鳴った。

 

足が止まる。

 

目の前を紙のリボンが落ちていった。

その向こうで、沙代が空になったクラッカーを持って笑っている。

 

「じゃーん!」

 

彼は彼女を見て、それから部屋の奥へ目を向けた。

テーブルの真ん中に、小さなケーキがある。

表面には、少し曲がった文字で『1周年』と書かれていた。

 

「ふふん、作ってみました」

 

沙代は得意そうに言ったが、彼が黙っていると、少しだけ不安そうになる。

 

「……びっくりした?」

「うん。随分とね」

 

槙島は足元の紙を拾った。

 

「君の家に来て、こんな歓迎を受けるとは思わなかったな」

「びっくりさせたかったから」

「成功だよ」

 

そう言うと、沙代は嬉しそうに笑った。

靴を脱いでテーブルへ近づく。

ケーキの脇には二枚の皿と、大きなカップが並んでいた。

 

いつも二人で座る場所に、きちんと一つずつ。

 

「今日だね」

「覚えてた?」

「君に、恋人になってもいいかと聞いた日だからね」

 

沙代の頬が赤くなる。

 

「……私だけ張り切ってたら、ちょっと恥ずかしいなって思ってた」

「そのために、内緒にしていたんじゃないの?」

「それはそうだけど」

 

槙島はケーキへ目を戻した。

文字の最後に、書き直そうとした跡がある。

 

「これも君が書いた?」

「うん。難しかった……。見本だと、もっと綺麗だったんだけど」

「綺麗に書けているよ」

「聖護、それはちょっと甘い」

「君が作ったものだからね」

 

沙代が照れた顔で笑う。

彼はその頬へ手を添え、短く口づけた。

 

「ありがとう。嬉しいよ」

 

彼女の肩から、ふっと力が抜ける。

 

「よかった」

「いつ作っていたの?」

「今日。朝から」

「それで、昨日は泊まらせてくれなかったんだね」

 

沙代が口を押さえた。

 

「……ばれた」

 

急に予定があると言われ、少し気になっていた。

その理由が目の前にある。

 

槙島は笑いながら椅子を引く。

 

「座ろうか。食べてもいい?」

「待って。まだ写真撮ってない」

 

沙代は慌てて端末を取りに行った。

戻ってきて、まずケーキを撮る。

 

それから画面を確かめ、隣に立つ彼を見上げた。

 

「……聖護も、一緒に撮っていい?」

 

彼は少しだけ間を置く。二人の間には1枚も写真がない。それはどちらが言ったでもなく、お互いに写真を撮ろうと口にしなかった。

出会って2年。付き合って1年。初めて、写真という単語が出る。

 

もしもこの1枚から辿られたら___そこまで考えて思考を停止させた。

 

「うん。二人で撮ろう」

 

今は、この感情を優先させたい。そう思った。

沙代が端末を持ち上げた。

槙島は彼女の肩へ腕を回し、画面に収まる距離まで寄る。

 

撮れた写真を、二人で覗き込んだ。

沙代はよく笑っていた。

 

槙島も、思っていたより柔らかな顔をしている。

 

「いい写真だね」

「うん」

 

彼女は大事そうに保存した。

ようやく席について、ケーキを切り分ける。

沙代は彼が最初の一口を食べるまで、自分の皿に手をつけなかった。

 

「……どう?」

「おいしい」

「本当に?」

「もう一口食べたら、信じてくれるかな」

 

沙代が笑った。

槙島はその顔を見ながら、もう一口食べる。

一年の間に、彼女について知ったことは随分増えた。

それでも、玄関でクラッカーを鳴らす沙代も、朝からケーキを作って待つ沙代も、今日初めて知った。

 

「沙代」

「ん?」

「来年は、僕にも準備をさせてくれる?」

 

彼女の手が止まった。

それから、ゆっくり笑う。

 

「……うん。一緒に作ろう」

 

槙島は頷いた。

今、自分が来年の話をしたことに、少し遅れて気づいていた。

 

 

 

*

 

食器を片づけたあと、二人はソファへ移った。

 

沙代は棚から、あの絵本を取ってくる。

槙島の隣へ座り、膝の上で表紙を撫でた。

 

「私ね、この絵本が昔よりもっと好きになったの」

「なぜ?」

「これが欲しくてさまよったおかげで、出会えたでしょ?……だから、私の中では今、おばあちゃんだけじゃなくて、聖護との思い出も詰まってるんだ」

 

槙島は彼女の指先を見た。

あの店でも、沙代は同じように表紙を撫でていた。

見つかったことが嬉しくて、何度も確かめずにはいられないようだった。

 

「僕のことも、この本を見ると思い出す?」

「うん。見つけた時、よかったねって言ってくれたこととか」

 

沙代は笑う。

 

「その時は、こんなに仲良くなると思ってなかったけど」

「僕もだよ」

「本当?」

「気になる子だとは思った。でも、彼女の家でこの本を眺めることになるとはね」

 

彼女の隣へ少し寄ると、沙代は二人の間で本を開いた。

幼い頃の記憶があるページ。

 

祖母に読んでもらった時のことを、彼女は以前にも話してくれた。

今日はそこへ、指を置くだけだった。

 

「もう、寂しいだけの本じゃないんだ」

 

槙島が顔を向ける。

 

「懐かしくて、会いたくなって、ちょっと悲しかったんだけど。今は、嬉しいことも思い出すから」

 

彼はすぐには答えなかった。

沙代を外へ出さずにいられたら、と考えたことを思い出す。

 

けれど彼女は、この本を探すために家を出た。

迷って、それでも諦めずに店を見つけた。

 

その日のことを、今、嬉しい思い出として自分に話している。

 

「……見つかって、よかったね」

 

沙代は彼を見て、笑った。

 

「あの時と同じこと言ってる」

「今は、僕にとっても、よかったと思うよ」

 

槙島は彼女の手に自分の手を重ねる。

 

「君がこの本を探しに来てくれて」

 

沙代は照れたように俯き、表紙をもう一度撫でた。

 

「大事にしなきゃ」

「うん」

 

彼女が本を閉じると、槙島はその手を取る。

 

「これからのことも、入る場所はあるかな」

「絵本の中に?」

「君の思い出に」

 

沙代は少し目を丸くしてから、彼の肩へ寄りかかった。

 

「あるよ。いっぱい」

 

槙島はその髪に頬を寄せる。

 

次に何を一緒に見ようかと、考えていた。

 

 

*

 

 

「って感じで、祝ってくれたんだ」

 

槙島が話し終えると、グソンは手元の作業へ目を戻した。

 

「はぁ、ほんと幸せそうで何よりです」

「ずいぶん気のない返事だね」

「クラッカーの話から、ケーキの文字が少し曲がってた話まで、全部聞きましたからね」

「そうだったかな」

「ええ。彼女が何と言ったかも、ほぼ全部」

 

槙島は楽しそうに笑った。

 

「誰かに話したくなるものなんだね、こういうことは」

 

グソンがちらりと彼を見る。

 

「写真まで撮ったんです?」

「うん」

 

端末を開き、画面を向けた。

小さなケーキを前に、沙代が笑っている。

その肩に腕を回した槙島も、穏やかな顔をしていた。

グソンは少し黙ってから言う。

 

「……本当に、いい顔してますね」

「沙代が?」

「二人ともですよ」

 

槙島は画面を自分の方へ戻した。

沙代には何度も「いい写真」と言われた。

自分でもそう思っていたが、グソンの口から聞くと、また嬉しかった。

 

「来年は、僕にも準備をさせてほしいと言ったんだ」

 

グソンの手が止まる。

 

「来年?」

「うん。一緒に作ろうと」

「……随分先の約束ですね」

 

槙島は写真を見たまま頷いた。

あの時は、自然に口から出た。

来年も彼女の家にいて、今度は隣に立ってケーキを作る。

そのつもりで話していた。

 

「楽しみにしてくれました?」

「とても」

「なら、忘れないでくださいよ。あの子、きっと覚えてますから」

 

槙島は顔を上げる。

 

「僕も覚えているよ」

 

グソンはそれ以上言わず、作業を再開した。

しばらくして、向かいから小さな笑い声が聞こえる。

 

「……今度は何です」

「写真を送ってくれた時の文章を、読み返していた」

「まだ続くんですか」

 

槙島は笑いながら端末を伏せた。

 

「君もケーキを食べたかった?」

「そういう話じゃありませんよ」

「次は、君の分も頼んでおこうか」

 

グソンは呆れたように息を吐いたが、断りはしなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。