季節が巡り、恋人になってから一年が経った。
その日、沙代の部屋を訪ねた槙島が扉を開けると、乾いた音が鳴った。
足が止まる。
目の前を紙のリボンが落ちていった。
その向こうで、沙代が空になったクラッカーを持って笑っている。
「じゃーん!」
彼は彼女を見て、それから部屋の奥へ目を向けた。
テーブルの真ん中に、小さなケーキがある。
表面には、少し曲がった文字で『1周年』と書かれていた。
「ふふん、作ってみました」
沙代は得意そうに言ったが、彼が黙っていると、少しだけ不安そうになる。
「……びっくりした?」
「うん。随分とね」
槙島は足元の紙を拾った。
「君の家に来て、こんな歓迎を受けるとは思わなかったな」
「びっくりさせたかったから」
「成功だよ」
そう言うと、沙代は嬉しそうに笑った。
靴を脱いでテーブルへ近づく。
ケーキの脇には二枚の皿と、大きなカップが並んでいた。
いつも二人で座る場所に、きちんと一つずつ。
「今日だね」
「覚えてた?」
「君に、恋人になってもいいかと聞いた日だからね」
沙代の頬が赤くなる。
「……私だけ張り切ってたら、ちょっと恥ずかしいなって思ってた」
「そのために、内緒にしていたんじゃないの?」
「それはそうだけど」
槙島はケーキへ目を戻した。
文字の最後に、書き直そうとした跡がある。
「これも君が書いた?」
「うん。難しかった……。見本だと、もっと綺麗だったんだけど」
「綺麗に書けているよ」
「聖護、それはちょっと甘い」
「君が作ったものだからね」
沙代が照れた顔で笑う。
彼はその頬へ手を添え、短く口づけた。
「ありがとう。嬉しいよ」
彼女の肩から、ふっと力が抜ける。
「よかった」
「いつ作っていたの?」
「今日。朝から」
「それで、昨日は泊まらせてくれなかったんだね」
沙代が口を押さえた。
「……ばれた」
急に予定があると言われ、少し気になっていた。
その理由が目の前にある。
槙島は笑いながら椅子を引く。
「座ろうか。食べてもいい?」
「待って。まだ写真撮ってない」
沙代は慌てて端末を取りに行った。
戻ってきて、まずケーキを撮る。
それから画面を確かめ、隣に立つ彼を見上げた。
「……聖護も、一緒に撮っていい?」
彼は少しだけ間を置く。二人の間には1枚も写真がない。それはどちらが言ったでもなく、お互いに写真を撮ろうと口にしなかった。
出会って2年。付き合って1年。初めて、写真という単語が出る。
もしもこの1枚から辿られたら___そこまで考えて思考を停止させた。
「うん。二人で撮ろう」
今は、この感情を優先させたい。そう思った。
沙代が端末を持ち上げた。
槙島は彼女の肩へ腕を回し、画面に収まる距離まで寄る。
撮れた写真を、二人で覗き込んだ。
沙代はよく笑っていた。
槙島も、思っていたより柔らかな顔をしている。
「いい写真だね」
「うん」
彼女は大事そうに保存した。
ようやく席について、ケーキを切り分ける。
沙代は彼が最初の一口を食べるまで、自分の皿に手をつけなかった。
「……どう?」
「おいしい」
「本当に?」
「もう一口食べたら、信じてくれるかな」
沙代が笑った。
槙島はその顔を見ながら、もう一口食べる。
一年の間に、彼女について知ったことは随分増えた。
それでも、玄関でクラッカーを鳴らす沙代も、朝からケーキを作って待つ沙代も、今日初めて知った。
「沙代」
「ん?」
「来年は、僕にも準備をさせてくれる?」
彼女の手が止まった。
それから、ゆっくり笑う。
「……うん。一緒に作ろう」
槙島は頷いた。
今、自分が来年の話をしたことに、少し遅れて気づいていた。
*
食器を片づけたあと、二人はソファへ移った。
沙代は棚から、あの絵本を取ってくる。
槙島の隣へ座り、膝の上で表紙を撫でた。
「私ね、この絵本が昔よりもっと好きになったの」
「なぜ?」
「これが欲しくてさまよったおかげで、出会えたでしょ?……だから、私の中では今、おばあちゃんだけじゃなくて、聖護との思い出も詰まってるんだ」
槙島は彼女の指先を見た。
あの店でも、沙代は同じように表紙を撫でていた。
見つかったことが嬉しくて、何度も確かめずにはいられないようだった。
「僕のことも、この本を見ると思い出す?」
「うん。見つけた時、よかったねって言ってくれたこととか」
沙代は笑う。
「その時は、こんなに仲良くなると思ってなかったけど」
「僕もだよ」
「本当?」
「気になる子だとは思った。でも、彼女の家でこの本を眺めることになるとはね」
彼女の隣へ少し寄ると、沙代は二人の間で本を開いた。
幼い頃の記憶があるページ。
祖母に読んでもらった時のことを、彼女は以前にも話してくれた。
今日はそこへ、指を置くだけだった。
「もう、寂しいだけの本じゃないんだ」
槙島が顔を向ける。
「懐かしくて、会いたくなって、ちょっと悲しかったんだけど。今は、嬉しいことも思い出すから」
彼はすぐには答えなかった。
沙代を外へ出さずにいられたら、と考えたことを思い出す。
けれど彼女は、この本を探すために家を出た。
迷って、それでも諦めずに店を見つけた。
その日のことを、今、嬉しい思い出として自分に話している。
「……見つかって、よかったね」
沙代は彼を見て、笑った。
「あの時と同じこと言ってる」
「今は、僕にとっても、よかったと思うよ」
槙島は彼女の手に自分の手を重ねる。
「君がこの本を探しに来てくれて」
沙代は照れたように俯き、表紙をもう一度撫でた。
「大事にしなきゃ」
「うん」
彼女が本を閉じると、槙島はその手を取る。
「これからのことも、入る場所はあるかな」
「絵本の中に?」
「君の思い出に」
沙代は少し目を丸くしてから、彼の肩へ寄りかかった。
「あるよ。いっぱい」
槙島はその髪に頬を寄せる。
次に何を一緒に見ようかと、考えていた。
*
「って感じで、祝ってくれたんだ」
槙島が話し終えると、グソンは手元の作業へ目を戻した。
「はぁ、ほんと幸せそうで何よりです」
「ずいぶん気のない返事だね」
「クラッカーの話から、ケーキの文字が少し曲がってた話まで、全部聞きましたからね」
「そうだったかな」
「ええ。彼女が何と言ったかも、ほぼ全部」
槙島は楽しそうに笑った。
「誰かに話したくなるものなんだね、こういうことは」
グソンがちらりと彼を見る。
「写真まで撮ったんです?」
「うん」
端末を開き、画面を向けた。
小さなケーキを前に、沙代が笑っている。
その肩に腕を回した槙島も、穏やかな顔をしていた。
グソンは少し黙ってから言う。
「……本当に、いい顔してますね」
「沙代が?」
「二人ともですよ」
槙島は画面を自分の方へ戻した。
沙代には何度も「いい写真」と言われた。
自分でもそう思っていたが、グソンの口から聞くと、また嬉しかった。
「来年は、僕にも準備をさせてほしいと言ったんだ」
グソンの手が止まる。
「来年?」
「うん。一緒に作ろうと」
「……随分先の約束ですね」
槙島は写真を見たまま頷いた。
あの時は、自然に口から出た。
来年も彼女の家にいて、今度は隣に立ってケーキを作る。
そのつもりで話していた。
「楽しみにしてくれました?」
「とても」
「なら、忘れないでくださいよ。あの子、きっと覚えてますから」
槙島は顔を上げる。
「僕も覚えているよ」
グソンはそれ以上言わず、作業を再開した。
しばらくして、向かいから小さな笑い声が聞こえる。
「……今度は何です」
「写真を送ってくれた時の文章を、読み返していた」
「まだ続くんですか」
槙島は笑いながら端末を伏せた。
「君もケーキを食べたかった?」
「そういう話じゃありませんよ」
「次は、君の分も頼んでおこうか」
グソンは呆れたように息を吐いたが、断りはしなかった。