絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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5.ありがとうを貴方に
44.結婚


 

 

 

 

『結婚するなら――』

 

画面から流れた広告に、沙代がぽつりと呟いた。

 

「結婚、か……」

 

隣で本を読んでいた槙島が、顔を上げる。

 

「したいのかい」

「え、えー……」

 

急に聞かれて、沙代は膝の上のクッションを抱き直した。

 

「……うん」

「そっか」

 

それだけ返して、彼は本を閉じる。

沙代は彼の顔を見て、それから目を伏せた。

 

「私、小さい時に家族いなくなっちゃって。家族ってどんななんだろうって思ってて……その、憧れ?っていうか、そういうのがあって……」

「なんだ、僕と結婚したいからじゃないのか」

 

沙代が勢いよく顔を上げる。

 

「そういう意味じゃない!」

 

槙島が笑った。

 

「じゃあ、どういう意味?」

「……聖護と、だから」

 

声が急に小さくなる。

彼は少しだけ身を寄せた。

 

「よく聞こえなかったな」

「聞こえてたでしょ」

「ははは」

 

沙代はクッションに顔を埋めかけたが、今度は思いとどまる。

照れたまま、彼を見た。

 

「誰でもいいから家族になりたいんじゃないよ」

 

槙島の笑みが、少し静かになる。

 

「聖護と一緒にいるようになってから、そういうこと考えるようになったの。朝ごはん食べたり、買い物したり……今も、同じ家に帰ってきてくれるけど」

 

そこで一度、言葉を切った。

 

「いつか、帰る場所が同じになったらいいなって」

 

槙島は彼女を見ていた。

沙代の家へ向かう時、自分も「帰る」と考えることがある。

そのことを、彼女にはまだ話していなかった。

 

「……からかって悪かったね」

「本当だよ」

 

彼女の手を取ると、クッションを抱いていた腕が緩んだ。

 

「家族が欲しいという君の話を聞いて、少し欲張りになった」

「欲張り?」

「僕がいいと言ってほしくてね」

 

沙代は呆れたように彼を見る。

それから、握られた手に指を絡めた。

 

「……言ったじゃん」

「うん。嬉しかった」

 

彼はその手を膝の上へ引き寄せる。

沙代は少し黙ってから尋ねた。

 

「聖護は?」

「僕?」

「結婚したいとか、考えたことある?」

 

槙島はすぐには答えなかった。

 

彼女と離れて眠る夜が減ればいい。

 

朝、出かける支度をしながら話せればいい。

 

帰ってきた時に、今日あったことを聞ければいい。

そんな暮らしなら、もう何度も思い浮かべていた。

 

「君と暮らしたいと思うことはあるよ」

 

沙代の目が、わずかに明るくなる。

 

「あるの?」

「うん」

 

それから彼は、彼女の指を撫でながら続けた。

 

「ただ、今すぐ結婚の約束はできない」

 

沙代は視線を落とす。

 

「……うん。今すぐしてって、言いたかったわけじゃないから」

「分かっているよ」

 

彼女の頬へ触れた。

 

「でも、君が僕との先のことを考えてくれたのは、嬉しい。そこまで曖昧にはしたくないな」

 

沙代は彼の手に頬を寄せる。

 

「じゃあ、覚えてて」

「何を?」

「私が、聖護とがいいって言ったこと」

 

槙島は小さく笑った。

 

「忘れられそうにないよ」

 

その返事を聞いて、沙代もようやく笑った。

 

 

*

 

 

 

ある日、槙島から連絡が届いた。

 

『今日、君のところへ行ってもいいかな』

 

沙代が返事をすると、ほどなく彼は訪ねてきた。

いつものように部屋へ通そうとしたところで、手を取られる。

 

「沙代、目を閉じて」

「……何?」

「少しだけ」

 

彼の顔を見る。

笑っていたが、何をするのかは教えてくれそうになかった。

沙代は言われたとおりに目を閉じた。

 

左手を握られる。

 

薬指に、ひんやりしたものが触れた。

 

ゆっくりと、指の根元へ収まる。

 

「目を開けていいよ」

 

沙代は左手を見た。

細い指輪が、薬指にはまっていた。

 

「……これ」

 

槙島はその手を支えたまま、彼女を見る。

 

「沙代。届けを出して結婚することは、今は約束できない。したくないわけじゃないよ」

 

沙代は顔を上げた。

 

「賢い君なら分かるだろう。君のために、できない。でも……言葉にするだけなら、許してくれるかな」

「聖護……」

 

彼は少し微笑んだ。

 

「結婚してくれるかい?」

 

沙代は頷いた。

一度では足りなくて、もう一度。

 

「うん。うん!」

 

槙島が笑う。

 

「では、今日から妻と呼ぼうか」

 

沙代は左手を少し持ち上げた。

灯りにかざすと、指輪が小さく光る。

 

「わざわざ、こんな素敵なの買ってくれたの?」

 

槙島は、その手を取った。

 

「君に似合うと思ってね」

「……選んでくれたんだ」

「随分迷ったよ。君が普段つけていても、邪魔にならないものがよくて」

 

沙代は指輪を見つめたまま、何度も頷く。

彼女が喜んでいることは分かる。

けれど、槙島はすぐに手を離さなかった。

 

「沙代」

 

顔を上げると、彼は少し静かな表情をしていた。

 

「君のため、と言ったけれど、それだけではないね」

「……うん」

「僕が今の生き方を変えないから、できないことでもある。君が賢いからといって、納得してくれるものとして話すべきではなかった」

 

沙代の指が、彼の手を握った。

 

「分かってるよ」

「寂しくないわけではないだろう?」

 

彼女は少し迷ってから、頷く。

 

「寂しい。でも……聖護も、私とそうなりたいって思ってくれてたんだって。それが嬉しい」

 

槙島は目を細めた。

 

「うん。思っているよ」

 

沙代は左手を胸元へ寄せる。

指輪をもらえば、明日から何もかも変わるわけではない。

彼が家を出ていく日も、帰る時刻の分からない夜も、これからあるのだろう。

それでも、このために彼が店へ行き、迷って、一本を選んでくれた。

その時間を思うと、涙が出た

 

「……私、本当に奥さんになった気分」

「では、さっきの返事は取り消さない?」

「取り消さない」

 

今度ははっきり答えて、沙代が笑う。

槙島も笑い、彼女の頬へ触れた。

 

「よかった」

「聖護は?」

「何?」

「旦那さんになった気分、する?」

 

彼は少し考えるふりをした。

 

「君がそう呼んでくれたら、するかもしれないね」

「……それは、まだ恥ずかしい」

「妻と呼ばれるのは?」

 

沙代は顔を赤くしたまま、彼へ近づく。

 

「聖護が呼ぶなら、嬉しい」

 

槙島は彼女を抱き寄せた。

胸元に添えられた左手が、服に触れる。

その指に自分が選んだものがあることを、何度も確かめたくなった。

 

「沙代」

「ん?」

「僕も、もう一度聞いていいかな」

 

彼女が顔を上げる。

 

「君の返事を」

 

沙代は涙を拭い、彼を見た。

 

「……うん。聖護と、結婚したい」

 

槙島は微笑んだ。

今度はからかわず、彼女に口づける。

抱きしめられたまま、沙代は彼の左手に触れた。

 

硬い感触があって、顔を上げる。

 

「……聖護も?」

 

彼の薬指にも、同じ指輪があった。

沙代はその手を取り、自分の左手を隣に並べる。

大きさの違う二つの輪が、同じように光った。

 

「お揃いにしてくれたの?」

「婚約指輪ではなく、結婚指輪だからね。君のだけだと思った?」

「……うん」

 

槙島は笑う。

 

「君を妻と呼ぶなら、僕もつけないとね」

 

沙代は二人の手を見つめた。

彼からもらったものを、自分が身につけるだけではない。

彼も、同じものを選んでいる。

それが、思っていた以上に嬉しかった。

 

「いつからつけてたの?」

「君に、目を閉じてと言う前から」

「全然気づかなかった」

「僕の顔ばかり見ていたからかな」

「……そうかも」

 

素直に認めると、槙島の笑みが深くなる。

沙代は彼の指にそっと触れ、それから手を繋いだ。

 

「似合ってる」

「君もね」

 

彼女はもう一度、指輪を見る。

今度は自分のものだけではなかった。

槙島はその横顔を眺めながら、親指で彼女の手を撫でた。

 

 

 

*

 

 

 

「遠い昔には、事実婚というものもあったらしい。この時代に、それを選ぶのもいいだろう」

 

槙島が言うと、沙代は繋いだ手から顔を上げる。

 

「届けを出さなくても、夫婦ってこと?」

「うん。僕たちがそう決めて、一緒に暮らす」

「……一緒に暮らすの?」

 

そこを聞き返されて、彼は笑った。

 

「指輪をして、妻と呼ぶだけでは足りないかなと思ってね」

 

沙代は少し黙る。

部屋には、もう彼の本も服もある。

泊まることも珍しくない。

それでも、帰る支度をする彼を見送るたび、この家は自分一人の家になった。

 

「ここに帰ってくるのが、普通になる?」

「そうしたい」

「来られない日もあるんでしょ」

「あるよ。何日か留守にすることもあると思う」

 

槙島は、彼女の手を握ったまま答えた。

 

「それでも、僕の帰る家を、ここにしてくれるかい」

 

沙代の目が潤む。

 

「……うん」

 

きっと、暮らすと言っても今までと何も変わらない。

彼はもう一度、彼女の言葉を待った。

 

「…帰ってきて。ここに」

「うん」

 

沙代は彼の肩へ額を寄せる。

 

「じゃあ、鍵、持っててほしい」

「預かってもいい?」

「預けるんじゃなくて、聖護の分」

 

槙島は小さく笑い、彼女の背中へ腕を回した。

 

「そうだね。僕の分だ」

 

少しして、沙代が顔を上げる。

 

「本棚、もっと空けなきゃ」

「僕も片づけるよ」

「服も。今のところじゃ、入りきらないと思う」

「ずいぶん忙しくなるね」

「聖護が住むんだから」

 

その言い方が嬉しくて、彼は彼女の額に口づけた。

沙代は照れながらも、もう一つだけ尋ねる。

 

「今日から?」

「君がよければ」

「……じゃあ、おかえり」

 

槙島は一瞬、黙った。

 

それから、彼女を抱く腕に少し力を込める。

 

「ただいま、沙代」

 

泊まっていいか聞く必要がこれからない。

そして普通の結婚じゃない。でもそれが何だか不思議な感覚だった。

 

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