二一一二年、八月。
朝のお茶を淹れている途中で、沙代は手を止めた。
いつもと同じ茶葉なのに、立ちのぼる匂いが今日は妙に強い。
少し窓を開け、息を整える。
外から入ってきた空気にも、もう夏の熱があった。
「沙代?」
振り向くと、槙島が寝室から出てきたところだった。
「……おはよう」
「おはよう。どうしたの」
「ちょっと、気持ち悪くて」
彼はそばへ来て、彼女の顔を見た。
「昨日も、そう言っていたね」
「うん。でも、しばらくすると治まるんだよ」
槙島は彼女の手からポットを受け取り、台へ置いた。
「座っていて。僕がやるよ」
沙代は頷き、食卓の椅子へ腰を下ろした。
昨夜はちゃんと眠ったはずだった。
それでも眠気が残っていて、身体が重い。
ここ数日は、好きな本を開いても、途中で横になりたくなる。
槙島が水を持ってきた。
「朝食は、食べられそう?」
「……今は、あんまり」
「では、無理をしなくていい」
向かいへ座った彼の左手で、指輪が光った。
沙代はそれを見ながら、水を少し飲む。
「今日、出かける?」
「午後からね」
「そっか」
いつもなら、帰ってくる頃に何を用意しようかと考えるところだった。
今日は、それだけでも少し疲れた。
槙島が手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
「熱はなさそうだけど、続いているのが気になるな。診てもらおうか」
「うん……」
素直に頷くと、彼はわずかに眉を上げた。
「今日は、嫌がらないんだね」
「前の熱の時、迷惑かけたから」
「迷惑ではなかったよ」
沙代は小さく笑い、彼の手へ頬を寄せた。
それから、ふと黙る。
最近の身体の変化を、一つずつ思い返した。
眠気。
吐き気。
それから、まだ来ていないもの。
「沙代?」
彼女は顔を上げた。
「……確認したいことが、あるかも」
槙島は手を引かずに、彼女を見ていた。
「何を?」
沙代はすぐには答えられなかった。
まだ分からない。
勘違いかもしれない。
それでも、彼の手に自分の左手を重ねると、急に胸がどきどきした。
「少し待ってて。私も、まだ分からないから」
「うん」
槙島は静かに頷いた。
沙代はその手を握ったまま、もう一度、自分の身体のことを考えた。
*
しばらく座っていると、吐き気は少し治まった。
沙代は水の入ったグラスを置き、槙島を見る。
「ちょっと、買い物してくる」
「今から?」
彼が顔を上げる。
「さっきまで、気分が悪そうだったけど」
「もう少し落ち着いたから。近くだけ」
「僕が行こうか」
沙代は迷った。
頼めば、彼はきっと買ってきてくれる。
でも、何を買いたいのか説明するには、まだ勇気が足りなかった。
「……自分で見たいものがあるの」
槙島は彼女を見たあと、頷いた。
「分かった。無理はしないで」
「うん」
玄関で靴を履き、振り返る。
彼はまだ家にいる。
帰ってきたら、話せるかもしれない。
「すぐ戻るね」
*
店に入ってから、沙代は目的の棚へ行くまでに、何度か別の売り場で足を止めた。
お茶。
洗剤。
いつもなら買い物かごへ入れるものを、今日は眺めるだけだった。
ようやく、小さな箱を手に取る。
妊娠検査薬。
文字を読んだ途端、さっきまで曖昧だった可能性が、急に身近になった。
もし、そうだったら。
聖護は、どんな顔をするだろう。
二人で暮らすようになってから、家族という言葉を聞いても、寂しいことばかり思い出すわけではなくなった。
朝、彼の分のカップを出す。
帰ってきたら、今日あったことを話す。
そこに、もう一人。
嬉しいと思った。
そのあとで、怖くなった。
沙代は箱をかごへ入れた。
*
「ただいま」
「おかえり」
槙島は居間で本を読んでいた。
沙代は袋を胸元に抱えたまま、彼の前を通ろうとする。
「気分は?」
「大丈夫」
答えてから、立ち止まった。
彼が本を閉じる。
「何か、あった?」
沙代は袋の持ち手を握り直した。
一人で確かめてから話すつもりだった。
けれど、ここへ帰ってきて彼の声を聞いたら、一人で結果を見るのが心細くなった。
「……まだ、分からないんだけど」
槙島は黙って待っていた。
「最近、眠いし、気持ち悪くて。それで……遅れてるから」
彼の視線が、彼女の顔から袋へ移る。
沙代は箱を取り出し、両手で持った。
「これ、買ってきた」
槙島は少しの間、動かなかった。
それから本を脇へ置き、立ち上がる。
沙代の前まで来ると、箱ではなく、彼女の手に触れた。
「……そうか」
いつもなら、彼の返事から気持ちを読み取れる。
今日は、分からなかった。
「聖護」
「うん」
「確かめる間、ここにいてくれる?」
彼は頷いた。
「いるよ」
沙代はその答えを聞いて、ようやく袋を下ろした。
沙代が戻ってきた時、槙島は窓際に立っていた。
扉の音で振り向く。
彼女は何も言わず、手に持っていたものを差し出した。
表示された結果を、二人で見る。
「……陽性、だった」
槙島はしばらく、その小さな表示を見つめた。
沙代の指が震えていることに気づき、手を添える。
「座ろうか」
彼女をソファへ連れていき、隣に腰を下ろした。
今朝まで、ただ二人で朝食を取るはずだった。
午後には出かけて、夜にはまた帰ってくる。
それだけの日だった。
沙代が検査薬を卓上へ置き、膝の上で手を重ねる。
「まだ、病院で確かめないといけないけど……」
「うん」
「本当に、いるのかな」
彼女の視線が、自分のお腹へ落ちた。
まだ何も変わって見えない。
けれど、そう思って見ると、手を置くことさえためらわれた。
槙島も、同じところを見た。
自分と沙代の子ども。
考えたことがなかったわけではない。
ただ、いつかという言葉の向こうに置いていたものが、急にここへ来た。
「……聖護、何か言って」
沙代の声で、顔を上げる。
彼女は笑おうとしていた。
うまくいかず、唇を結び直す。
「嫌だった?」
「嫌じゃないよ」
その返事は、すぐに出た。
槙島は彼女の手を取る。
「驚いているんだ。何を言えばいいのか、少し分からなくなった」
沙代の目が潤んだ。
「私も」
「うん」
「嬉しいと思ったの。でも、怖くもなって」
彼は彼女の言葉を聞きながら、左手の指輪へ目を向けた。
二人で家族になると決めた時、自分は彼女の喜ぶ顔を見ていた。
帰る家ができたことを、嬉しく思っていた。
その家で、新しい命を迎えるかもしれない。
帰りたい時に帰り、会いたい時にそばへ行く。
それだけでは済まなくなるのだろう。
「聖護は……嬉しい?」
彼は沙代を見た。
答えを待つ目から、逃げたくはなかった。
「うん。嬉しいよ」
言葉にすると、その気持ちがはっきりした。
「君との子どもかもしれないんだね」
沙代が頷いた。
その拍子に、涙が落ちる。
槙島は頬へ手を伸ばし、指で拭った。
嬉しい。
もう一度、その言葉を使いたくなった。
けれど、それを繰り返すだけでは、彼女が何を怖がっているのか聞けない。
「ただ、僕が嬉しいと答えるだけで、君の不安がなくなるわけではないね」
「……うん」
「まず、きちんと確かめよう。そのあとで、話そう」
沙代は彼の手を握った。
「一人で決めなくていい?」
「うん。僕も一緒に考える」
彼女が少し近づいてきたので、槙島は腕を回した。
沙代は胸元へ顔を寄せる。
その肩を抱きながら、彼は脇へ置いた本を見た。
さっきまで読んでいた一文が、もう思い出せなかった。
「聖護」
「何?」
「……もう一回、嬉しいって言って」
槙島は彼女の髪に頬を寄せた。
「嬉しいよ、沙代」
その返事を聞いて、彼女はようやく小さく笑った