絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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ありがとう


45.新しい命

 

 

 

 

 

二一一二年、八月。

 

朝のお茶を淹れている途中で、沙代は手を止めた。

いつもと同じ茶葉なのに、立ちのぼる匂いが今日は妙に強い。

少し窓を開け、息を整える。

外から入ってきた空気にも、もう夏の熱があった。

 

「沙代?」

 

振り向くと、槙島が寝室から出てきたところだった。

 

「……おはよう」

「おはよう。どうしたの」

「ちょっと、気持ち悪くて」

 

彼はそばへ来て、彼女の顔を見た。

 

「昨日も、そう言っていたね」

「うん。でも、しばらくすると治まるんだよ」

 

槙島は彼女の手からポットを受け取り、台へ置いた。

 

「座っていて。僕がやるよ」

 

沙代は頷き、食卓の椅子へ腰を下ろした。

 

昨夜はちゃんと眠ったはずだった。

それでも眠気が残っていて、身体が重い。

 

ここ数日は、好きな本を開いても、途中で横になりたくなる。

 

槙島が水を持ってきた。

 

「朝食は、食べられそう?」

「……今は、あんまり」

「では、無理をしなくていい」

 

向かいへ座った彼の左手で、指輪が光った。

沙代はそれを見ながら、水を少し飲む。

 

「今日、出かける?」

「午後からね」

「そっか」

 

いつもなら、帰ってくる頃に何を用意しようかと考えるところだった。

今日は、それだけでも少し疲れた。

槙島が手を伸ばし、彼女の頬に触れる。

 

「熱はなさそうだけど、続いているのが気になるな。診てもらおうか」

「うん……」

 

素直に頷くと、彼はわずかに眉を上げた。

 

「今日は、嫌がらないんだね」

「前の熱の時、迷惑かけたから」

「迷惑ではなかったよ」

 

沙代は小さく笑い、彼の手へ頬を寄せた。

それから、ふと黙る。

 

最近の身体の変化を、一つずつ思い返した。

 

眠気。

吐き気。

 

それから、まだ来ていないもの。

 

「沙代?」

 

彼女は顔を上げた。

 

「……確認したいことが、あるかも」

 

槙島は手を引かずに、彼女を見ていた。

 

「何を?」

 

沙代はすぐには答えられなかった。

 

まだ分からない。

勘違いかもしれない。

 

それでも、彼の手に自分の左手を重ねると、急に胸がどきどきした。

 

「少し待ってて。私も、まだ分からないから」

「うん」

 

槙島は静かに頷いた。

 

沙代はその手を握ったまま、もう一度、自分の身体のことを考えた。

 

*

 

しばらく座っていると、吐き気は少し治まった。

沙代は水の入ったグラスを置き、槙島を見る。

 

「ちょっと、買い物してくる」

「今から?」

 

彼が顔を上げる。

 

「さっきまで、気分が悪そうだったけど」

「もう少し落ち着いたから。近くだけ」

「僕が行こうか」

 

沙代は迷った。

 

頼めば、彼はきっと買ってきてくれる。

でも、何を買いたいのか説明するには、まだ勇気が足りなかった。

 

「……自分で見たいものがあるの」

 

槙島は彼女を見たあと、頷いた。

 

「分かった。無理はしないで」

「うん」

 

玄関で靴を履き、振り返る。

 

彼はまだ家にいる。

帰ってきたら、話せるかもしれない。

 

「すぐ戻るね」

 

*

 

 

 

 

店に入ってから、沙代は目的の棚へ行くまでに、何度か別の売り場で足を止めた。

 

お茶。

洗剤。

 

いつもなら買い物かごへ入れるものを、今日は眺めるだけだった。

ようやく、小さな箱を手に取る。

 

妊娠検査薬。

 

文字を読んだ途端、さっきまで曖昧だった可能性が、急に身近になった。

もし、そうだったら。

 

聖護は、どんな顔をするだろう。

二人で暮らすようになってから、家族という言葉を聞いても、寂しいことばかり思い出すわけではなくなった。

 

朝、彼の分のカップを出す。

帰ってきたら、今日あったことを話す。

 

そこに、もう一人。

 

嬉しいと思った。

そのあとで、怖くなった。

 

沙代は箱をかごへ入れた。

 

 

 

*

 

「ただいま」

「おかえり」

 

槙島は居間で本を読んでいた。

沙代は袋を胸元に抱えたまま、彼の前を通ろうとする。

 

「気分は?」

「大丈夫」

 

答えてから、立ち止まった。

彼が本を閉じる。

 

「何か、あった?」

 

沙代は袋の持ち手を握り直した。

 

一人で確かめてから話すつもりだった。

けれど、ここへ帰ってきて彼の声を聞いたら、一人で結果を見るのが心細くなった。

 

「……まだ、分からないんだけど」

 

槙島は黙って待っていた。

 

「最近、眠いし、気持ち悪くて。それで……遅れてるから」

 

彼の視線が、彼女の顔から袋へ移る。

沙代は箱を取り出し、両手で持った。

 

「これ、買ってきた」

 

槙島は少しの間、動かなかった。

それから本を脇へ置き、立ち上がる。

沙代の前まで来ると、箱ではなく、彼女の手に触れた。

 

「……そうか」

 

いつもなら、彼の返事から気持ちを読み取れる。

今日は、分からなかった。

 

「聖護」

「うん」

「確かめる間、ここにいてくれる?」

 

彼は頷いた。

 

「いるよ」

 

沙代はその答えを聞いて、ようやく袋を下ろした。

 

 

 

 

 

 

沙代が戻ってきた時、槙島は窓際に立っていた。

扉の音で振り向く。

彼女は何も言わず、手に持っていたものを差し出した。

表示された結果を、二人で見る。

 

「……陽性、だった」

 

槙島はしばらく、その小さな表示を見つめた。

沙代の指が震えていることに気づき、手を添える。

 

「座ろうか」

 

彼女をソファへ連れていき、隣に腰を下ろした。

今朝まで、ただ二人で朝食を取るはずだった。

午後には出かけて、夜にはまた帰ってくる。

それだけの日だった。

 

沙代が検査薬を卓上へ置き、膝の上で手を重ねる。

 

「まだ、病院で確かめないといけないけど……」

「うん」

「本当に、いるのかな」

 

彼女の視線が、自分のお腹へ落ちた。

まだ何も変わって見えない。

けれど、そう思って見ると、手を置くことさえためらわれた。

槙島も、同じところを見た。

自分と沙代の子ども。

 

考えたことがなかったわけではない。

ただ、いつかという言葉の向こうに置いていたものが、急にここへ来た。

 

「……聖護、何か言って」

 

沙代の声で、顔を上げる。

 

彼女は笑おうとしていた。

うまくいかず、唇を結び直す。

 

「嫌だった?」

「嫌じゃないよ」

 

その返事は、すぐに出た。

槙島は彼女の手を取る。

 

「驚いているんだ。何を言えばいいのか、少し分からなくなった」

 

沙代の目が潤んだ。

 

「私も」

「うん」

「嬉しいと思ったの。でも、怖くもなって」

 

彼は彼女の言葉を聞きながら、左手の指輪へ目を向けた。

二人で家族になると決めた時、自分は彼女の喜ぶ顔を見ていた。

帰る家ができたことを、嬉しく思っていた。

 

その家で、新しい命を迎えるかもしれない。

 

帰りたい時に帰り、会いたい時にそばへ行く。

それだけでは済まなくなるのだろう。

 

「聖護は……嬉しい?」

 

彼は沙代を見た。

答えを待つ目から、逃げたくはなかった。

 

「うん。嬉しいよ」

 

言葉にすると、その気持ちがはっきりした。

 

「君との子どもかもしれないんだね」

 

沙代が頷いた。

その拍子に、涙が落ちる。

槙島は頬へ手を伸ばし、指で拭った。

 

嬉しい。

もう一度、その言葉を使いたくなった。

けれど、それを繰り返すだけでは、彼女が何を怖がっているのか聞けない。

 

「ただ、僕が嬉しいと答えるだけで、君の不安がなくなるわけではないね」

「……うん」

「まず、きちんと確かめよう。そのあとで、話そう」

 

沙代は彼の手を握った。

 

「一人で決めなくていい?」

「うん。僕も一緒に考える」

 

彼女が少し近づいてきたので、槙島は腕を回した。

沙代は胸元へ顔を寄せる。

 

その肩を抱きながら、彼は脇へ置いた本を見た。

さっきまで読んでいた一文が、もう思い出せなかった。

 

「聖護」

「何?」

「……もう一回、嬉しいって言って」

 

槙島は彼女の髪に頬を寄せた。

 

「嬉しいよ、沙代」

 

その返事を聞いて、彼女はようやく小さく笑った

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