午後、作業場へ入ってきた槙島を見て、グソンは手元の端末を置いた。
「……何かありました?」
槙島は机の前で足を止め、彼へ顔を向けた。
「沙代が、妊娠しているかもしれない」
グソンは黙った。
数秒してから、椅子の背にもたれる。
「……かもしれない、というのは」
「検査薬で陽性が出た。これから病院で確認する」
「そうですか」
いつもの軽口は出てこなかった。
槙島も立ったまま、机の端へ手を置いている。
「彼女は?」
「嬉しいと言っていた。怖いとも」
「ダンナは」
槙島は少しだけ目を伏せた。
「僕も、嬉しかったよ」
グソンはその顔を見た。
「……なら、ひとまず、おめでとうございます」
「ありがとう」
返事のあと、槙島はようやく椅子に座った。
何度も沙代の話をしてきた場所だった。
ケーキを作ってくれたことも、指輪を喜んだことも、ここで話した。
今日は、何から続ければいいのか分からなかった。
「……一緒に考えると言ったんだ」
「ええ」
「一人で決めなくていいかと聞かれたから」
グソンは頷いた。
「そこは、そうでしょう」
槙島は自分の左手を見た。
「彼女は、僕が嬉しいかどうかを確かめていた。最後には、もう一度言ってほしいと」
「嬉しい、を?」
「うん」
彼の口元が、少し緩んだ。
「言ったら笑ったよ。……あの顔を見て、僕もまた嬉しくなった」
グソンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねる。
「で、ダンナ。これからどうするんです」
槙島の笑みが薄くなった。
「まだ決まっていない」
「今ここで答えを出せって話じゃありません。ただ、今までと同じにはできませんよ」
「分かっているよ」
「沙代さんは、一緒に育てたいと思うでしょうね」
槙島はすぐには返事をしなかった。
今朝の食卓を思い出していた。
気分が悪いと言いながらも、自分の分までお茶を淹れようとしていた沙代。
その家に、子どもがいるところを想像する。
彼女が抱いて、自分へ顔を向ける。
そばへ来てほしいと呼ばれる。
行きたい、と思った。
「……僕も、そうしたいと思っている」
「思っている、ですか」
グソンは息を吐いた。
「なら、その先を考えないと」
卓上には、午後の打ち合わせで使う資料が並んでいた。
槙島は、その一枚へ目を落とす。
今朝まで、それを進めることに迷いはなかった。
沙代と子どものことを聞いた今も、そこに書かれた目的を捨てたいとは思っていない。
帰る家ができたからといって、外でやろうとしていることが間違いになるわけではなかった。
その一方で、あの家へ帰りたかった。
「どちらも欲しいんだろうね、僕は」
「でしょうね」
グソンは否定しなかった。
「でも、留守の間に彼女が困ったら、必要なのはダンナですよ。金や手配だけじゃ済まないこともある」
「うん」
「俺に頼めばいい、で全部済ませないでくださいね」
槙島が顔を上げる。
グソンは真顔だった。
彼は少し笑い、それから頷いた。
「覚えておくよ」
資料を手元へ引き寄せる前に、端末を開く。
沙代から、新しいメッセージが届いていた。
《少し眠れたよ。まだ変な感じ。聖護が帰ってきたら、また話したい》
槙島は読み終え、短く返した。
《うん。今日は早く帰る》
送信すると、グソンが言った。
「まず、今日の約束は守ってやってください」
「守るよ」
今度の返事には、迷いがなかった。
端末を伏せ、資料へ視線を戻す。
「では、始めようか」
グソンが説明を始めると、槙島は必要な箇所で質問を挟んだ。
今後の段取りを変えるところもあれば、そのまま進めるところもあった。
話している間、彼の判断が鈍ることはなかった。
ただ、ひと区切りついた時、いつもより先に時計を見た。