八月に、二人で検査薬の結果を見た。
病院で妊娠を確認してもらった帰りも、沙代はまだ、自分のお腹を不思議そうに見ていた。槙島が手を重ねると、何も変わっていないね、と笑った。
ーーそれから、三ヶ月近くが経った。
窓を開けたまま眠ることはなくなり、ソファには毛布が置かれるようになった。朝のお茶の匂いに顔を背けていた沙代も、今は自分で飲みたいものを選んでいる。
本棚の一段には、出産や子育てについての本が増えた。
槙島が持ってきたものもあれば、沙代が選んだものもある。
「今度は、私も増やしちゃった」
そう言う彼女に、彼は笑って場所を空けた。
十一月に入る頃には、服の上からも、お腹の丸みが少し分かるようになっていた。
「聖護、これ見て」
沙代が端末を差し出した。
小さな服が、何着も並んでいる。
彼女が指しているのは、白い生地に動物が描かれたものだった。
「まだ早いかな」
「買うのが?」
「うん。着るのは、春だから」
槙島は画面を覗き込んだ。
「置いておく場所はあるだろう?」
「本と同じこと言ってる」
「読む時と買う時は別だと、話したね」
「赤ちゃんの服も?」
「君が気に入ったなら」
沙代はもう一度、画面へ目を落とした。
「……でも、実物を見てからにしようかな。こんなに小さいの、本当に着られるのか分からなくて」
「では、一緒に見よう」
彼女の顔が明るくなる。
槙島はその隣へ座り、端末に並んだ服を眺めた。
この小さな袖に、腕が通る。
沙代が着せながら、自分にも手伝うように言うのだろう。
まだ顔も知らない子どものいる場面を、いつの間にか、具体的に考えるようになっていた。
「聖護は、どれが好き?」
「これかな」
「私が選んだのと違う」
「同じでなければいけなかった?」
「ううん。じゃあ、両方買おう」
沙代は楽しそうに笑った。
彼女がお腹へ手を置く。
槙島の視線も、そこへ落ちた。
「まだ、動いたってよく分からないんだよね」
「分かるようになったら、教えて」
「聖護がいない時だったら?」
「帰ってから、聞かせてくれる?」
「うん。でも、いる時だったらいいな」
槙島も、その時はここにいたいと思った。
*
健診の説明書には、家族と確認するように書かれた項目があった。
沙代はそれを卓上へ広げ、槙島の分のカップを隣に置いた。
「病院でね、お父さんにも読んでもらってくださいって言われた」
「では、読まないとね」
紙を取った彼を、沙代はしばらく見ていた。
「……何?」
「お父さん、なんだね」
槙島の指が止まる。
沙代は照れたように笑った。
「私も、お母さんなんだけど。まだ、呼ばれると変な感じがする」
「僕は、今初めてそう呼ばれたよ」
「私に?」
「うん」
彼女は少し迷ってから、彼の肩へ寄りかかった。
「聖護がお父さんだって、ちゃんと言いたいな」
槙島は紙から目を上げた。
病院では、結婚しているかと聞かれた。
沙代は少し間を置いて、していません、と答えた。
それは事実だった。
左手には指輪があり、帰る家も同じになった。
けれど、届けを出した夫婦ではない。
一緒に暮らす相手がいることは話せても、その名前や仕事まで、気軽に話を続けられるわけではなかった。
「夫がいます、って言いかけちゃった」
沙代は自分の指輪へ触れた。
「いつも、妻って呼んでくれるから」
槙島はその手を取った。
「僕がそう呼びたいんだ」
「うん…あ、嫌だったわけじゃないよ。嬉しいの。でも、外だと、どこまで言っていいのかなって」
彼は、彼女の指に収まった輪を見た。
自分が選び、自分ではめたものだった。
その時、沙代がどんな顔をしたかも覚えている。
「君が困るところまで、僕たちが夫婦だと言わせたいわけではないよ」
「分かってるよ」
沙代は頷いた。
それでも、少し寂しそうだった。
「家に帰れば、言えるんだけどね」
「何を?」
彼女は彼の左手に指を絡めた。
「私の旦那さんだって。赤ちゃんのお父さんだって」
槙島はその手を握り返した。
自分の名前を出してほしいと思う。
彼女の夫として、この子の父親として。
その一方で、名前を伏せてくれることに助けられている。
沙代だけに言葉を選ばせていることも、分かっていた。
「ここでは、そう呼んでくれる?」
彼女が顔を上げる。
「……うん」
槙島は頬へ触れた。
その答えに安心した自分を、彼は否定できなかった。
隣で沙代が説明書を引き寄せる。
「じゃあ、お父さん。ここ、一緒に読んで」
彼は少し笑い、紙へ視線を落とした。
「うん。どこから?」
*
二一一二年、十一月。
夕食のあと、沙代はソファで膝に毛布を掛けていた。
画面には、廃棄区画で起きた立てこもり事件のニュースが流れている。
規制線と、現場を行き来する公安の職員。
事件はすでに解決したと、読み上げられていた。
「……怖いね」
槙島は隣で本を閉じた。
「うん」
沙代の手が、毛布の端を握る。
銀行で聞いた怒鳴り声を、少し思い出した。
あの時も、外にはこんなふうに公安の人たちが集まっていたのだろう。
「助かった人も、すぐには安心できないだろうな」
「君も、帰ってきてから泣いていたね」
沙代は頷いた。
「終わったって分かってても、身体がまだ怖がってる感じがした」
槙島が肩へ腕を回すと、彼女はそこへ寄りかかった。
映像が切り替わる。
沙代が少し顔を上げた。
「あ……狡噛さん」
遠目の、短い映像だった。
それでも、現場で自分を呼んだ顔を覚えていた。
「今日も、お仕事だったんだね」
「そうだね」
槙島は画面を見ていた。
沙代は彼の横顔へ目を向ける。
ニュースを見る時の、あの静かな表情だった。
けれど今日は、何を考えているのか尋ねなかった。
代わりに、彼の左手を取る。
「助けてくれる人たちも、怖くないのかな」
「怖いことはあるだろうね。それでも、行くんだろう」
沙代は少し考えてから頷いた。
「……怪我してなかったらいいね」
「うん」
ニュースが次の話題へ移る。
沙代は肩に頭を預け直し、繋いだ手を自分の膝へ下ろした。
指輪が毛布に触れた。
「今日、聖護が家にいてよかった」
彼は彼女へ顔を向ける。
「怖くなった?」
「少し。でも、今は大丈夫」
そう言って、沙代はお腹の上に空いた手を置いた。
槙島の視線が、その手へ落ちる。
この家で過ごしている間にも、外では事件が起き、狡噛は捜査を続けている。
今日、彼女の隣にいられたことが、明日も同じとは限らない。
「何か温かいものを飲む?」
「……うん。聖護も一緒に飲もうよ」
「そうしよう」
立ち上がる前に、彼は沙代の手を軽く握った。
画面にはもう、別の街の映像が映っていた。
*
妊娠してから定期的に行っている妊婦健診。その日も何事もなく健診を終え、帰るところだった。
病院を出たあと、沙代は少しゆっくり歩く。
健診でもらった説明書を一瞥し、鞄へしまい直そうとした時、向かいから来た人と肩が触れた。
「あっ」
持ち手から指が滑る。
鞄が落ち、端末と小さな財布、畳んだハンカチが歩道に散らばった。
「すみません……!」
通り過ぎていく相手に頭を下げ、沙代はしゃがもうとした。
「大丈夫ですか?」
先に、誰かが足を止めた。
若い女性だった。
短い髪が頬にかかり、屈んだ拍子にそれを耳へ寄せる。
「これ、あなたのですよね」
財布を拾って差し出され、沙代は頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「ほかにも……あ、そっちに」
女性は少し離れたところに落ちた端末を取りに行き、画面を伏せたまま渡してくれた。
沙代もハンカチを拾ったが、鞄からはみ出した書類が風にめくられる。
女性が手で押さえた。
「これも、しまっておきますね」
病院の封筒へ戻す時、妊婦健診の文字が見えたらしい。
彼女は沙代の顔を見てから、穏やかに尋ねた。
「ぶつかった時、どこか痛くなりませんでしたか?」
「大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけで」
「よかった」
鞄を持ち上げ、沙代へ渡す。
拾ったものが揃っているか、一緒に確かめてくれる。
その手つきが丁寧で、沙代はようやく落ち着いて息を吐いた。
「すみません。ほとんど拾ってもらっちゃって」
「いえ。私も、よく物を落とすので」
女性が少し照れたように笑った。
沙代もつられて笑う。
「今日は、お休みですか?」
「はい。最近、仕事を始めたばかりで……久しぶりに、のんびり歩いてました」
「お仕事、慣れました?」
「まだ全然です」
あまりに素直な返事だった。
「毎日、分からないことばかりで。でも、教えてもらいながら、少しずつ」
「そっか……」
沙代は鞄を肩に掛け直した。
「じゃあ、お休みの日にまでお手伝いさせちゃいましたね」
「これは仕事じゃないですから」
女性は笑って首を横に振った。
その言葉が、沙代には嬉しかった。
「私、倉橋沙代っていいます」
名乗ってから、少し恥ずかしくなる。
「助けてもらったのに、お名前も知らないままなのが、なんとなく……」
「常守朱です」
「常守さん」
「はい」
名前を呼ぶと、彼女はまた笑った。
朱は足元へ目を向け、もう何も残っていないことを確かめる。
「気をつけて帰ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
少し歩いてから、沙代は振り返った。
朱もまだそこにいて、軽く会釈を返してくれた。
*
端末を開くと、聖護から連絡が届いていた。
《終わったかな。体調はどう?》
沙代は歩道の端へ寄り、返信した。
《終わったよ。帰りに荷物落としちゃったけど、親切な人が拾ってくれた》
続けて、少し考える。
《今日は、ちゃんとお礼言えた》
すぐに電話がかかってきた。
「荷物を落としたって?」
「人と少しぶつかったの。でも、痛くないし、何ともないよ」
沙代は先にそう答えた。
「常守さんっていう人が、一緒に拾ってくれてね」
電話の向こうで、槙島がその名前を繰り返す。
「常守さん?」
「うん。朱さん。優しい人だった」
沙代は、病院の封筒を鞄の中でそっと押さえた。
健診の帰り道に少しだけ残っていた心細さが、さっきより薄くなっていた。
「そう。では、気をつけて帰っておいで」
「うん。帰ったら、今日のこと話すね」
「聞かせて」
通話を終えると、沙代は鞄を持ち直した。
今日はどんなことを聞いてきたのか。
聖護が帰ってきたら、説明書を一緒に見よう。
そう考えながら、家へ向かった。