絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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47.親

 

 

 

八月に、二人で検査薬の結果を見た。

 

病院で妊娠を確認してもらった帰りも、沙代はまだ、自分のお腹を不思議そうに見ていた。槙島が手を重ねると、何も変わっていないね、と笑った。

 

ーーそれから、三ヶ月近くが経った。

 

窓を開けたまま眠ることはなくなり、ソファには毛布が置かれるようになった。朝のお茶の匂いに顔を背けていた沙代も、今は自分で飲みたいものを選んでいる。

 

本棚の一段には、出産や子育てについての本が増えた。

槙島が持ってきたものもあれば、沙代が選んだものもある。

 

「今度は、私も増やしちゃった」

 

そう言う彼女に、彼は笑って場所を空けた。

十一月に入る頃には、服の上からも、お腹の丸みが少し分かるようになっていた。

 

 

「聖護、これ見て」

 

沙代が端末を差し出した。

 

小さな服が、何着も並んでいる。

彼女が指しているのは、白い生地に動物が描かれたものだった。

 

「まだ早いかな」

「買うのが?」

「うん。着るのは、春だから」

 

槙島は画面を覗き込んだ。

 

「置いておく場所はあるだろう?」

「本と同じこと言ってる」

「読む時と買う時は別だと、話したね」

「赤ちゃんの服も?」

「君が気に入ったなら」

 

沙代はもう一度、画面へ目を落とした。

 

「……でも、実物を見てからにしようかな。こんなに小さいの、本当に着られるのか分からなくて」

「では、一緒に見よう」

 

彼女の顔が明るくなる。

槙島はその隣へ座り、端末に並んだ服を眺めた。

 

この小さな袖に、腕が通る。

沙代が着せながら、自分にも手伝うように言うのだろう。

 

まだ顔も知らない子どものいる場面を、いつの間にか、具体的に考えるようになっていた。

 

「聖護は、どれが好き?」

「これかな」

「私が選んだのと違う」

「同じでなければいけなかった?」

「ううん。じゃあ、両方買おう」

 

沙代は楽しそうに笑った。

 

彼女がお腹へ手を置く。

槙島の視線も、そこへ落ちた。

 

「まだ、動いたってよく分からないんだよね」

「分かるようになったら、教えて」

「聖護がいない時だったら?」

「帰ってから、聞かせてくれる?」

「うん。でも、いる時だったらいいな」

 

槙島も、その時はここにいたいと思った。

 

 

*

 

健診の説明書には、家族と確認するように書かれた項目があった。

沙代はそれを卓上へ広げ、槙島の分のカップを隣に置いた。

 

「病院でね、お父さんにも読んでもらってくださいって言われた」

「では、読まないとね」

 

紙を取った彼を、沙代はしばらく見ていた。

 

「……何?」

「お父さん、なんだね」

 

槙島の指が止まる。

沙代は照れたように笑った。

 

「私も、お母さんなんだけど。まだ、呼ばれると変な感じがする」

「僕は、今初めてそう呼ばれたよ」

「私に?」

「うん」

 

彼女は少し迷ってから、彼の肩へ寄りかかった。

 

「聖護がお父さんだって、ちゃんと言いたいな」

 

槙島は紙から目を上げた。

病院では、結婚しているかと聞かれた。

沙代は少し間を置いて、していません、と答えた。

 

それは事実だった。

左手には指輪があり、帰る家も同じになった。

けれど、届けを出した夫婦ではない。

一緒に暮らす相手がいることは話せても、その名前や仕事まで、気軽に話を続けられるわけではなかった。

 

「夫がいます、って言いかけちゃった」

 

沙代は自分の指輪へ触れた。

 

「いつも、妻って呼んでくれるから」

 

槙島はその手を取った。

 

「僕がそう呼びたいんだ」

「うん…あ、嫌だったわけじゃないよ。嬉しいの。でも、外だと、どこまで言っていいのかなって」

 

彼は、彼女の指に収まった輪を見た。

自分が選び、自分ではめたものだった。

その時、沙代がどんな顔をしたかも覚えている。

 

「君が困るところまで、僕たちが夫婦だと言わせたいわけではないよ」

「分かってるよ」

 

沙代は頷いた。

それでも、少し寂しそうだった。

 

「家に帰れば、言えるんだけどね」

「何を?」

 

彼女は彼の左手に指を絡めた。

 

「私の旦那さんだって。赤ちゃんのお父さんだって」

 

槙島はその手を握り返した。

 

自分の名前を出してほしいと思う。

彼女の夫として、この子の父親として。

 

その一方で、名前を伏せてくれることに助けられている。

沙代だけに言葉を選ばせていることも、分かっていた。

 

「ここでは、そう呼んでくれる?」

 

彼女が顔を上げる。

 

「……うん」

 

槙島は頬へ触れた。

その答えに安心した自分を、彼は否定できなかった。

隣で沙代が説明書を引き寄せる。

 

「じゃあ、お父さん。ここ、一緒に読んで」

 

彼は少し笑い、紙へ視線を落とした。

 

「うん。どこから?」

 

 

 

 

 

*

 

 

 

二一一二年、十一月。

 

夕食のあと、沙代はソファで膝に毛布を掛けていた。

画面には、廃棄区画で起きた立てこもり事件のニュースが流れている。

 

規制線と、現場を行き来する公安の職員。

事件はすでに解決したと、読み上げられていた。

 

「……怖いね」

 

槙島は隣で本を閉じた。

 

「うん」

 

沙代の手が、毛布の端を握る。

銀行で聞いた怒鳴り声を、少し思い出した。

あの時も、外にはこんなふうに公安の人たちが集まっていたのだろう。

 

「助かった人も、すぐには安心できないだろうな」

「君も、帰ってきてから泣いていたね」

 

沙代は頷いた。

 

「終わったって分かってても、身体がまだ怖がってる感じがした」

 

槙島が肩へ腕を回すと、彼女はそこへ寄りかかった。

映像が切り替わる。

沙代が少し顔を上げた。

 

「あ……狡噛さん」

 

遠目の、短い映像だった。

それでも、現場で自分を呼んだ顔を覚えていた。

 

「今日も、お仕事だったんだね」

「そうだね」

 

槙島は画面を見ていた。

 

沙代は彼の横顔へ目を向ける。

ニュースを見る時の、あの静かな表情だった。

 

けれど今日は、何を考えているのか尋ねなかった。

代わりに、彼の左手を取る。

 

「助けてくれる人たちも、怖くないのかな」

「怖いことはあるだろうね。それでも、行くんだろう」

 

沙代は少し考えてから頷いた。

 

「……怪我してなかったらいいね」

「うん」

 

ニュースが次の話題へ移る。

 

沙代は肩に頭を預け直し、繋いだ手を自分の膝へ下ろした。

指輪が毛布に触れた。

 

「今日、聖護が家にいてよかった」

 

彼は彼女へ顔を向ける。

 

「怖くなった?」

「少し。でも、今は大丈夫」

 

そう言って、沙代はお腹の上に空いた手を置いた。

 

槙島の視線が、その手へ落ちる。

 

この家で過ごしている間にも、外では事件が起き、狡噛は捜査を続けている。

今日、彼女の隣にいられたことが、明日も同じとは限らない。

 

「何か温かいものを飲む?」

「……うん。聖護も一緒に飲もうよ」

「そうしよう」

 

立ち上がる前に、彼は沙代の手を軽く握った。

画面にはもう、別の街の映像が映っていた。

 

 

 

 

 

*

 

妊娠してから定期的に行っている妊婦健診。その日も何事もなく健診を終え、帰るところだった。

病院を出たあと、沙代は少しゆっくり歩く。

 

健診でもらった説明書を一瞥し、鞄へしまい直そうとした時、向かいから来た人と肩が触れた。

 

「あっ」

 

持ち手から指が滑る。

鞄が落ち、端末と小さな財布、畳んだハンカチが歩道に散らばった。

 

「すみません……!」

 

通り過ぎていく相手に頭を下げ、沙代はしゃがもうとした。

 

「大丈夫ですか?」

 

先に、誰かが足を止めた。

若い女性だった。

短い髪が頬にかかり、屈んだ拍子にそれを耳へ寄せる。

 

「これ、あなたのですよね」

 

財布を拾って差し出され、沙代は頷いた。

 

「はい。ありがとうございます」

「ほかにも……あ、そっちに」

 

女性は少し離れたところに落ちた端末を取りに行き、画面を伏せたまま渡してくれた。

沙代もハンカチを拾ったが、鞄からはみ出した書類が風にめくられる。

 

女性が手で押さえた。

 

「これも、しまっておきますね」

 

病院の封筒へ戻す時、妊婦健診の文字が見えたらしい。

彼女は沙代の顔を見てから、穏やかに尋ねた。

 

「ぶつかった時、どこか痛くなりませんでしたか?」

「大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけで」

「よかった」

 

鞄を持ち上げ、沙代へ渡す。

拾ったものが揃っているか、一緒に確かめてくれる。

その手つきが丁寧で、沙代はようやく落ち着いて息を吐いた。

 

「すみません。ほとんど拾ってもらっちゃって」

「いえ。私も、よく物を落とすので」

 

女性が少し照れたように笑った。

沙代もつられて笑う。

 

「今日は、お休みですか?」

「はい。最近、仕事を始めたばかりで……久しぶりに、のんびり歩いてました」

「お仕事、慣れました?」

「まだ全然です」

 

あまりに素直な返事だった。

 

「毎日、分からないことばかりで。でも、教えてもらいながら、少しずつ」

「そっか……」

 

沙代は鞄を肩に掛け直した。

 

「じゃあ、お休みの日にまでお手伝いさせちゃいましたね」

「これは仕事じゃないですから」

 

女性は笑って首を横に振った。

その言葉が、沙代には嬉しかった。

 

「私、倉橋沙代っていいます」

 

名乗ってから、少し恥ずかしくなる。

 

「助けてもらったのに、お名前も知らないままなのが、なんとなく……」

「常守朱です」

「常守さん」

「はい」

 

名前を呼ぶと、彼女はまた笑った。

朱は足元へ目を向け、もう何も残っていないことを確かめる。

 

「気をつけて帰ってくださいね」

「はい。ありがとうございます」

 

少し歩いてから、沙代は振り返った。

 

朱もまだそこにいて、軽く会釈を返してくれた。

 

 

*

 

 

端末を開くと、聖護から連絡が届いていた。

 

《終わったかな。体調はどう?》

 

沙代は歩道の端へ寄り、返信した。

 

《終わったよ。帰りに荷物落としちゃったけど、親切な人が拾ってくれた》

 

続けて、少し考える。

 

《今日は、ちゃんとお礼言えた》

 

すぐに電話がかかってきた。

 

「荷物を落としたって?」

「人と少しぶつかったの。でも、痛くないし、何ともないよ」

 

沙代は先にそう答えた。

 

「常守さんっていう人が、一緒に拾ってくれてね」

 

電話の向こうで、槙島がその名前を繰り返す。

 

「常守さん?」

「うん。朱さん。優しい人だった」

 

沙代は、病院の封筒を鞄の中でそっと押さえた。

健診の帰り道に少しだけ残っていた心細さが、さっきより薄くなっていた。

 

「そう。では、気をつけて帰っておいで」

「うん。帰ったら、今日のこと話すね」

「聞かせて」

 

通話を終えると、沙代は鞄を持ち直した。

今日はどんなことを聞いてきたのか。

聖護が帰ってきたら、説明書を一緒に見よう。

そう考えながら、家へ向かった。

 

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