槙島が出かけた後、グソンは作業用の画面を切り替えた。
検索欄に、倉橋沙代と入力する。
名前は、先日のやり取りで目にしていた。
槙島がわざわざ予定を延ばして会っていた相手だ。念のため、どういう人物なのか確かめておいても損はない。
現在、就業記録はなし。
居住先に変わった点はなく、直近の色相もクリアだった。
グソンは椅子にもたれかけた。
それだけなら、ごく普通の女性だった。
過去の住所を辿ったところで、一件の火災記録が出てくる。
開き、日付と世帯情報を確認する。
当時、沙代はまだ子供だった。
住宅火災。
家族が死亡し、彼女だけが救助されている。
関連する記録を、もう一つ開いた。
親に対する潜在犯認定。
その後の対応。放火の疑い。
グソンは画面に顔を近づけた。
「……なるほどね」
保険金と相続の記録にも、時期が一致していた。
現在の生活費は、おそらくそこから出ている。数値の並ぶ画面へ戻る。
火災から年月が経っているとはいえ、その後の沙代の色相は落ち着いていた。
グソンは必要な箇所を保存し、画面を閉じた。
これが槙島の関心と関係しているのかどうか。
本人に聞くまでは分からない。
*
その晩、槙島は本屋の袋を机に置いた。
沙代に送った題名の本が、店の奥に一冊残っていた。
今度会うまで売れてしまうようなら、自分のものを貸してもいいと思って買ったのだが、そのことを伝える返事も、まだ来ていない。
最後のやり取りを開く。
『ありがとうございます。あらすじを見てみます』
それが四日前だった。
読書に慣れていない彼女なら、一冊を読むのに時間がかかっても不思議はない。
感想を急がなくていいと伝えたのは、槙島自身だった。
ただ、題名を送るまでにも、短い質問はいくつか届いていた。
分からない言葉や、店で見つけた別の本について。
その連絡も、途絶えていた。
昨日送ったメッセージの下に、返事はない。
『本は見つかったかな。まだ探しているなら、僕の手元にもあるよ』
槙島は端末を置き、買ってきた本を開いた。
数ページ読んだところで、端末が光る。
手を伸ばす。
届いたのは、グソンから転送された資料だった。添付を開き、内容を確かめる。
返答を送ってから、本へ戻った。同じ段落を、もう一度読み始めた。
翌日の午後、外での用事を終えた槙島は、駅へ向かう途中で立ち止まった。
少し回り道をすれば、あの本屋がある。
店には沙代の姿はなかった。棚を眺めてから、店主に尋ねる。
「先日、僕と一緒にいた女性は、最近来たかな」
「ああ、絵本を買った子?」
「そう」
「この間、小説を買っていったきりだよ」
槙島は頷いた。
「分かった。ありがとう」
店を出て、端末を開く。昨日のメッセージにも、まだ返事はなかった。
勧めた本が合わなかったのかもしれない。
本の話を続けるつもりがなくなったのなら、それも彼女が決めることだ。
けれど、その理由を考えるには、届いている言葉が少なすぎた。
槙島は新しい文章を入力した。
『倉橋さん、変わりはないかな』
少し眺めてから、送信する。
今度は、本のことを書かなかった。
*
戻ると、グソンが画面から顔を上げた。
「早かったですね」
「ああ」
槙島はコートを脱ぎ、端末を机に置いた。
その動きを見てから、グソンが口を開く。
「その倉橋さんのことなんですがね」
槙島は椅子を引く手を止めた。
「彼女が、どうかした?」
「少し調べました」
一瞬、部屋が静かになる。
「僕がいない間に?」
「ええ。どういう人かくらい、知っといたほうがいいでしょう」
「それで」
グソンは保存していた記録を開き、画面を向けた。
「今は働いていないようです。保険金と祖母の遺産で暮らしてる。色相はクリア。妙な組織とのつながりも、見た限りではありません」
槙島は画面へ目を落とした。
「ただ、子供の頃に家族を亡くしてます」
火災の記録が表示される。
目を通すにつれ、槙島の表情から、帰ってきた時のわずかな緩みが消えた。
潜在犯と認定された親。自宅への放火。
家族を巻き込んだ心中とみられる事件。
生存者の欄に、倉橋沙代の名前がある。
「祖母が外へ逃がしたようです。救助されたのは、彼女一人」
槙島は、最後まで読んだ。
――手元にはないんですけど。
絵本を抱えていた時の声。
――もう、何も残ってないんですけど。
喫茶店で、カップの取っ手に指をかけていた手。
二つの言葉が、同じ家のことだったと分かった。
「ダンナは、ご存じだったんですか」
「いや」
槙島は短く答えた。
グソンは続ける。
「これだけのことがあって、今も色相は安定してる。そこが気になったのかと」
「僕が会った時には、絵本を探していたよ」
槙島は画面から視線を上げた。
「それ以上のことは、聞いていない」
「そうでしたか」
グソンが画面を戻そうとすると、槙島は机に置いた端末を手に取った。
新しい通知はない。
「最近、彼女について何か記録は?」
グソンがこちらを見る。
「最近?」
「連絡が途絶えているんだ」
槙島は画面を閉じずに、続けた。
「本を選ぶと返事が来たきり、数日になる。こちらから送っても、返事がない」
グソンは椅子の向きを変えた。今まで聞いていた話とは、少し違う。
「どのくらいです?」
槙島が最後に返事のあった日付を告げると、グソンはもう一度、端末へ向き直った。
「分かる範囲で、直近を見てみます」
キーを叩く音が始まる。
槙島は椅子に座り、机の上の本を脇へ寄せた。
沙代の感想を聞くつもりで買った本だった。
今は、読んだかどうかより、彼女が次の一言を返せる状態にいるのかを知りたかった。
*
端末が鳴った気がした。
沙代は枕の脇へ手を伸ばしたけれど、指先にはシーツしか触れなかった。
どこに置いたのだったか。
ベッドの上か、床に落としたのか。
考えようとすると、こめかみが痛んだ。
三十九度を超えていた体温は、最後に測った時、四十度に近かった。
それから何時間経ったのか、よく分からない。
病院へ行こうとは思った。
着替えて、鞄を持って、玄関まで歩く。
その手順を考えただけで疲れてしまい、少し休んでからにしようと目を閉じた。
次に起きた時には、窓の外が暗くなっていた。
また眠った。
明るくなっても、熱は下がっていなかった。
枕元のグラスは空だった。
水を取りに行かなくてはいけない。
そう思って身体を起こすと、視界が揺れた。
沙代は肘をついたまま動きを止める。
ベッドの向こう側に、買った本が置いてあった。
まだ、最初の数ページしか読んでいない。
槙島に、返事をしていなかった。
そのことだけを思い出して、もう一度端末を探した。
掛け布団の端を持ち上げると、膝のあたりにあった。
画面を点ける。光が痛くて、目を細めた。
『倉橋さん、変わりはないかな』
その上にも、メッセージがある。
本。
探してくれていたのだ。
返事をしようと入力欄に触れたところで、着信画面に切り替わった。
"槙島"
沙代は、しばらくその文字を見ていた。
*
グソンが調べられた直近の記録に、受診の履歴はなかった。
新たな事件に巻き込まれた形跡も、見つかっていない。
「ただ、何も出ないから、何もないとは言えませんよ」
「分かっている」
槙島は端末を手に取り、通話を選んだ。
呼び出し音が続く。今までは、本の感想を文章でやり取りしていた。
電話をかけるのは、初めてだった。
やがて、音が途切れる。
「……はい」
声が、ひどく掠れていた。
「倉橋さん?」
「槙島、さん……」
返事の後に、浅い呼吸が聞こえた。
槙島は椅子から身を起こした。
「具合が悪いのかな」
「すみません。返事……」
「それは後でいい。今、どこにいる?」
「家、です」
「熱がある?」
少し間が空いた。
「……はい」
「どのくらい?」
「さっき……三十九……」
言葉が途切れる。
受話口の向こうで、何かが擦れる音がした。
「倉橋さん、聞こえる?」
「はい。……お水、取ろうと思って」
槙島は机の上の本を見たまま、言った。
「今は立たないでいい」
グソンが手を止め、顔を向ける。
「一人でいるんだね」
「……はい」
「病院には?」
「まだ……」
槙島はグソンへ視線を向けた。
彼はすでに、別の画面を開いていた。
「住所を教えてくれるかな。救急を呼ぼう」
「そんな……大丈夫、です。寝てれば……」
「今、水を取りに行くのもつらいんだろう」
沙代は答えなかった。その代わり、小さな咳が続いた。
槙島は咳が収まるのを待った。
「一人で待つ必要はないよ。住所を送れる?」
入力する音は聞こえなかった。
「……打つの、ちょっと」
「じゃあ、話して。ゆっくりでいい」
途切れがちな住所を、一つずつ聞き取る。
部屋番号まで確認し終えると、グソンが頷いた。
「手配します」
槙島は通話へ意識を戻した。
「玄関は開けられそう?」
「……分からないです」
「無理に動かなくていい。開けられないかもしれないと伝えておく」
沙代の返事は、小さかった。
彼はコートを取った。
*
「……槙島さん」
「聞いているよ」
通話は、まだ切れていなかった。沙代は横になり、端末を枕の脇へ置いていた。
持っていると、腕が重くなる。
「本、まだ……」
「うん」
「読めてなくて」
「そこに置いておこう。元気になったら読める」
沙代は目を閉じた。
それなら、返事を考えなくていい。最後まで読まなくても、怒られないらしい。
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
いつもと同じ声だった。
けれど、今は質問を重ねられても、うまく考えられない。
何を答えたらいいか分からないと言おうとした時、彼が続けた。
「少し話をやめよう。通話はつないでおくから」
沙代は、小さく頷いた。
頷いても見えないことに気づいて、遅れて「はい」と答える。
端末の向こうで扉が閉まる音がした。
それから、足音。
槙島は外にいるのだろうか。
尋ねようと思ったけれど、言葉にはならなかった。
「倉橋さん」
しばらくして、名前を呼ばれる。
「……はい」
「救急が向かっている。僕もそちらへ行くよ」
沙代は薄く目を開けた。
「来るん、ですか」
「ああ」
「……遠いのに」
彼は、どこから向かっているのか答えなかった。
「着いたら、もう一度呼ぶ」
沙代は端末を見た。
画面には、槙島という名前が出ている。
本の話をする時以外に、その名前を見るのは初めてだった。
*
グソンは、手配を終えた端末から顔を上げた。
槙島はもう、玄関の前にいた。
「救急のほうが先に着くかもしれませんよ」
「それなら、そのほうがいい」
「今日の予定は?」
槙島は袖に腕を通した。
「戻ってから連絡する」
グソンはその横顔を見て、今度は引き止めなかった。
扉が閉まる。
残された机の上には、緑色の本と、次に渡すつもりだった本が並ん
でいた。
ーーただの気まぐれだったんだけどね。