槙島が身を屈め、沙代のお腹に耳を寄せた。
「……何か聞こえる?」
沙代が尋ねると、彼はしばらく、そのままでいた。
「君のお腹が動く音かな」
「それ、赤ちゃんじゃないね」
「まだ、聞き分けられないな」
真面目な返事に、沙代は笑った。
彼の髪に指を通す。
普段は自分の頭を撫でてくれる人が、今日はこうして、じっと耳を澄ませている。
聞こえないと分かっても、すぐには離れない。
その姿が嬉しかった。
「聖護」
「うん?」
「そこにいるんだね」
彼は顔を上げた。
「うん」
お腹に添えた手は、そのままだった。
沙代は彼の手へ自分の手を重ねる。
並んだ指輪を見ると、二人で家族になると決めた日のことを思い出した。
けれど、病院で渡された書類には、彼の名前を書けなかった。
家ではこんなふうに触れてくれる父親がいる。
それなのに、外では、その人について話せない。
「……どうしたの?」
黙った沙代に、槙島が尋ねた。
彼女は首を横に振りかけて、やめる。
「幸せだなって思ってた」
「うん」
「でも、怖くもなった」
彼は身体を起こし、隣へ座り直した。
沙代はお腹へ目を落としたまま、言葉を続ける。
「この子が生まれて、大きくなったら、お父さんのこと、聞くでしょ」
槙島は黙っていた。
「私、何て話せばいいんだろう。聖護が本を読んでくれたことも、一緒に名前を考えたことも、話したい。でも……言えないこともある」
沙代の目が潤んだ。
「この子は何も悪くないのに、私たちの都合で、隠すことがいっぱいあるんだね」
槙島の指が、彼女の手を握る。
「……そうだね」
否定してほしい気持ちもあった。
けれど、簡単に大丈夫と言われたら、それはそれで寂しかっただろう。
「ちゃんと、家族になれるかな」
沙代は彼を見た。
「私、家族と暮らしたこと、あんまり覚えてない。聖護も、そういう話はしないし。二人ともよく分からないのに、この子に教えられるのかな」
槙島はしばらく考えていた。
「覚えていないことと、これからできないことは、同じではないと思うよ」
「……うん」
「ただ、それで君の心配が全部なくなるとは思っていない」
彼は沙代のお腹へ目を落とした。
そこにいる子どもには、自分の帰る日が分からない理由を説明できない。
沙代が納得して待ってくれるからといって、その子にも同じことを求めていいわけではなかった。
「父親のことを話せない形になるのは、僕が名前を出せないからだ。君や、この子のせいじゃない」
沙代の頬を涙が伝った。
槙島はそれを拭ったが、彼女の言葉を止めようとはしなかった。
「隠さなきゃいけなくても……私、この子を恥ずかしいとは思いたくない」
「うん」
「聖護との子どもだから、嬉しいんだよ」
彼は彼女の手を両手で包んだ。
「僕も嬉しいよ。この子がいることを、君に恥じてほしくはない」
「じゃあ、聖護も、ちゃんと考えてね」
沙代は泣きながら彼を見た。
「ここで嬉しいって言うだけじゃなくて、生まれてからのこと」
槙島は目を逸らさなかった。
彼女と子どものいる家へ帰りたい。
それでも、今進めていることをやめるつもりにはなっていない。
そのまま両方を手に入れようとする自分のために、沙代が何を引き受けることになるのか。
嬉しいと答える時には、そこまで話していなかった。
「……考えるよ。君と話して、決めよう」
沙代は頷いた。
少しして、彼の手をもう一度お腹へ導く。
「今は、もう少しここにいて」
槙島はそっと手を置いた。
「うん」
沙代が彼の肩へ寄りかかる。
その温かさに、彼も少し力を抜いた。
けれど、さっきの問いに答え終えたわけではなかった。
彼女を抱いて落ち着かせれば、それで済む話でもない。
槙島はお腹に置いた手へ視線を落とした。
まだ会ったことのない子どもを、楽しみにしている。
その子のために何を変えられるのかは、これから答えなければならなかった。
*
次の健診から帰った沙代は、鞄を下ろすより先に言った。
「男の子、だって」
槙島が本から顔を上げる。
「病院で分かったの?」
「うん。今日、教えてもらった」
彼女は隣へ座り、健診でもらった画像を取り出した。
二人の間に置いて、指で示す。
「ここが顔。……って言われたんだけど、ちょっと難しいね」
槙島は身を寄せ、しばらく眺めた。
「君に似ているかな」
「まだ分からないよ」
笑いながらも、沙代はもう一度画像を見る。
「聖護に似たら、綺麗な子になるね」
「君に似ても、そうなると思うけど」
彼女の頬が赤くなった。
槙島は画像へ視線を戻す。
息子。
その言葉を頭の中で使ってみると、今までより少し近く感じた。
今は沙代のお腹にいる。
いつか生まれて、この家で自分を見上げる。
「……男の子か」
「嬉しい?」
「うん。女の子でも嬉しかったよ」
「私も」
沙代は画像を持ち直した。
「でも、聞いたら急に、どんな子なんだろうって。声とか、笑った顔とか、考えちゃって」
「うん」
「本、好きになるかな」
「僕たちを見ていたら、興味は持つかもしれないね」
「読んでくれる?」
槙島は彼女を見た。
「僕が?」
沙代が頷く。
その願いには、彼がこの家にいる未来が、ごく自然に含まれていた。
以前なら、すぐに頷けたかもしれない。
今は、彼女が生まれてからのことを考えてほしいと言った声を覚えている。
いない時の話をしているのに、いる時の約束だけで返したくはなかった。
それでも、読みたいと思った。
沙代の隣に座り、その子が分からないところを尋ねる。
途中で眠ってしまえば、栞を挟む。
そんな場面を、見てみたかった。
「……読んであげたいね」
彼女は少し笑った。
「私も。おばあちゃんがしてくれたみたいに」
槙島は沙代の手から画像を受け取った。
そこに写る小さな姿を、もう一度、ゆっくり見る。
沙代はその横顔を眺めていたが、やがて彼の肩にもたれた。
「名前、考えようね」
「うん」
「二人で」
槙島は彼女の左手を取った。
「二人で考えよう」
沙代が指を絡める。
卓上には、これから生まれてくる子どもの画像があった。
槙島はそれを、沙代と並んでもう一度見た。