絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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51.そっか

 

 

久しぶりに、病院へ行くためではなく家を出た。

沙代は店先で足を止め、小さな雑貨を眺めていた。

今日は匂いも気にならないし、歩いていても気分が悪くならない。

 

もう少し見てから、お茶を買って帰ろう。

そう思って顔を上げた時、向こうから来た人と目が合った。

 

「「あっ」」

 

二人が、ほとんど同時に声を出す。

 

「倉橋さん」

「常守さん。こんにちは」

 

朱が嬉しそうに笑った。

 

「この前は、ありがとうございました」

「いえ。あれから大丈夫でしたか?」

「はい。今日は体調もよくて、久しぶりに出かけてみたんです」

 

沙代が鞄の持ち手を握り直すと、朱はその顔を見て頷いた。

 

「よかった。私も今日は休みで、少し買い物に」

「じゃあ、またお休みの日に会っちゃいましたね」

「そうですね」

 

二人で笑った。

 

前は、荷物を拾ってもらうことに精いっぱいだった。

今は、朱が明るい色の服を着ていることや、手に小さな買い物袋を持っていることにも気づく。

 

「お仕事、少し慣れました?」

 

沙代が尋ねると、朱は困ったように眉を下げた。

 

「まだです。でも、最初よりは……分かることも増えてきました」

「よかった」

「分かったと思ったら、また分からなくなるんですけど」

 

その言い方がおかしくて、沙代は笑った。

朱も笑い、それから近くの店へ目を向ける。

 

「あの、よかったら少し座りませんか? まだお買い物の途中だったら、無理にとは」

 

沙代は少し迷った。

 

知らない人ではないけれど、友人と呼べるほど話したこともない。

それでも今日は、もう少しこの人と話してみたかった。

 

「……うん。私も、少し休もうかなって思ってました」

 

*

 

飲み物を選び終えると、朱が向かいへ座った。

 

「倉橋さん、普段はどんなことをして過ごしてるんですか?」

「本を読んだり。最近は、家にいることが多いです」

「本、いいですね」

「常守さんは?」

「友達と会ったり……あと、アバターで話すこともあります」

 

沙代が顔を上げた。

 

「私、昨日それをしたばっかり」

「本当ですか?」

「始めたばかりなんだけど。本の話ができるところに行ったり、昨日はタリスマンのところにも」

 

朱の手が、カップのそばで止まった。

 

「……タリスマン?」

「知ってる?」

「はい」

 

返事のあと、朱が少し黙る。

沙代は不思議そうに彼女を見た。

 

「常守さんも、話したことあるの?」

「……あります」

 

朱は沙代の表情を確かめるように見てから、尋ねた。

 

「昨日は、どんな話を?」

「ちょっと相談。大切な人に、聞いていいのか分からないことがあって」

 

沙代はカップを両手で包んだ。

 

「不安に思ってることを伝えてみたら、って言ってくれたの。おかげで、帰ってきてから話せたんだ」

「そう、だったんですね」

 

朱の声が静かになった。

 

目の前の人にとって、タリスマンは昨日も話を聞いてくれた相手なのだ。

沙代はその沈黙を、自分が込み入った話をしたせいだと思ったらしい。

 

「ごめんね。変な話しちゃって」

「違います」

 

朱はすぐに首を横に振った。

 

「話してくれて、ありがとうございます」

 

その真剣な返事に、沙代は少し驚いた。

 

朱は言葉を選び直した。

 

「……ネットだと、話しやすいこともありますよね。でも、相手のことが分からない部分もあるから。大切な話は、少し慎重にした方がいいかもしれません」

「うん。彼にも、そう言われた」

 

朱は頷いた。

沙代には、まだ話せないことがあった。

休みの日に偶然会って、お茶を飲んでいる今も、朱の頭には捜査中の事件が浮かんでいた。

 

「……どうかしたの?」

 

沙代に尋ねられ、朱は顔を上げた。

カップを持ったまま、少し考え込んでいたらしい。

 

「ごめんなさい。ちょっと、仕事のことを思い出して」

「私、何か変なこと言った?」

「いえ。倉橋さんが悪いわけじゃないです」

 

思ったより強く否定してしまい、朱は言葉を止めた。

沙代の目が、不安そうに揺れる。

 

まだ捜査中のことを、ここで不用意に話すわけにはいかない。

それでも、何でもない顔で聞き流すこともできなかった。

朱はカップを置いた。

 

「私、公安局で働いているんです」

「……公安?」

 

沙代の指が、取っ手から離れた。

 

「はい。監視官として、配属されたばかりで」

 

少し前まで、仕事に慣れないと笑っていた人だった。

沙代はその顔を見つめる。

 

「そうだったんだ」

「この前も今日も、倉橋さんに会ったのは偶然です」

 

朱は静かに付け足した。

 

「さっき、タリスマンの話を聞いて気になったのは、今の仕事に関わることがあったからで……詳しくは、まだ話せないんですけど」

「……うん」

 

沙代は目を伏せた。

 

狡噛。

宜野座。

そして、常守朱。

 

名前が頭の中に並ぶ。

聖護に気をつけてと言われた人たちと、この人も一緒に働いているのだろうか。

 

「相談した内容、聞かれる?」

 

朱は沙代を見た。

 

「今、ここで無理に話してもらうつもりはありません」

 

その答えを聞いても、沙代の肩はまだ硬かった。

朱は少し迷ってから、続けた。

 

「ただ、私もタリスマンに相談したことがあります。話しやすい相手だと思っていました」

 

沙代が顔を上げる。

 

「常守さんも?」

「はい。だから、倉橋さんが話してみようと思った気持ちは、分かる気がします」

 

朱の表情には、沙代を確かめようとする鋭さより、戸惑いがあった。

沙代はそれを見て、ようやく少し息を吐いた。

 

「……仕事のこと、相談したの?」

「そうです。人との関わり方が、分からなくなって」

「そっか」

 

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

 

沙代はもう一度カップを持った。

中の飲み物は、まだ温かかった。

 

「さっき言ったこと、嘘じゃないよ。話せて、少し安心したの」

「はい」

「でも、相手が誰かは、分からないんだね」

 

朱は頷いた。

 

「……そうですね」

 

沙代は画面の中のタリスマンを思い出した。

 

穏やかに、自分の言葉を待ってくれた相手。

 

その声の向こうに誰がいたのか、考えずに話していた。

 

朱は、彼女が黙っている間、急かさなかった。

 

「今日、常守さんに会ったのも、偶然なんだよね」

「はい。本当に」

 

沙代はその答えを聞いて、少しだけ笑った。

 

「……じゃあ、今はお茶飲んでてもいい?」

 

朱も、ほっとしたように笑った。

 

「もちろんです」

 

二人はカップへ手を伸ばした。

さっきまでと同じようには戻れなかったけれど、沙代はまだ、席を立たずにいた。

 

 

「そっか、公安か……」

 

沙代はカップの中へ目を落とした。

朱はその声を聞き、少し姿勢を正す。

 

「……驚かせちゃいましたね」

「うん。でも、嫌だったわけじゃないよ」

 

沙代は顔を上げた。

 

「前に、公安の人に助けてもらったことがあるの。だから、ありがたいと思ってる」

「そうだったんですね」

 

朱が頷く。

 

沙代は、ここで名前を出さない方がいいのだろうかと迷った。

けれど、話しているのは自分が助けられた時のことだ。

 

「狡噛さんと、宜野座さんっていう人」

 

朱の目が少し大きくなる。

 

「お二人とも、同じ一係です」

「……そうなんだ」

 

それまで別々の場所で会った人たちが、同じ仕事場へ帰る。

そのことを、沙代は初めて具体的に考えた。

 

「立てこもりに巻き込まれた時、狡噛さんが来てくれて。前にも、別の事件で話を聞きに来たことがあって」

「何度も怖い思いをされたんですね」

 

沙代は小さく頷いた。

 

「でも、今は大丈夫。今日は体調もよかったから、出かけたくなって」

 

そう言って、鞄へ手を添える。

朱はその手を見てから、沙代の顔へ視線を戻した。

 

「病院以外のお出かけ、久しぶりなんですよね」

「うん」

「じゃあ、ちゃんと楽しい日にしたいですね」

 

思いがけない言葉に、沙代は少し瞬いた。

朱が照れたように笑う。

 

「私、仕事の話をして、緊張させちゃったから」

「……常守さんは、悪くないよ」

「でも、さっきより肩に力が入ってます」

 

沙代は自分の肩へ目を向けた。

言われてみれば、鞄の持ち手を握りしめていた。

 

ゆっくり指をほどく。

 

「よく見てるんだね」

「気になっただけです」

 

朱はそう答えて、店の窓へ視線を移した。

 

「何か、見に行く予定だったんですか?」

 

沙代は少し考え、笑った。

 

「子どものもの。まだ早いかなと思って、見るだけのつもりだったけど」

 

朱の表情が明るくなる。

 

「どんなものですか?」

「小さい靴下とか。実際に見たら、すごく小さくて」

 

沙代は指で、その大きさを示した。

朱が身を乗り出す。

 

「そんなに小さいんですね」

「うん。聖護にも……」

 

名前が出て、沙代の声が止まった。

 

朱は顔を上げる。

沙代は一度息を吸い、続けた。

 

「……彼にも、見せたいなって」

「きっと喜びますね」

 

ただそう言われて、沙代は頷いた。

名前を聞き返されなかったことに、ほっとした。

その安心が、少し後ろめたくもあった。

 

朱の前でまで、何でも隠したいわけではない。

 

でも、守っておきたい暮らしがあった。

 

「うん。喜んでくれると思う」

 

今度は、その嬉しさを思い浮かべて笑えた。

 

*

 

沙代は話しながら、お腹をそっと撫でた。

まだ見慣れない変化を、手のひらで確かめるように。

 

小さな靴下の話をする時には、自然と口元が緩んでいた。

 

その姿に、朱も微笑む。

 

「楽しみですね」

「……うん」

 

沙代は顔を上げた。

 

「まだ、想像できないこともいっぱいあるけど。会いたいなって思う」

「男の子か女の子かは、もう分かっているんですか?」

「男の子だって」

「そうなんですね」

 

朱の声が明るくなり、沙代も笑った。

 

「名前は、これから二人で考えるの」

 

そう言った時、お腹を撫でる手が少し止まる。

 

二人で。

 

病院では、彼について話す言葉を選んでいた。

ここでは何気なく言えたことに、自分でも驚いた。

朱は彼の名前を尋ねなかった。

 

「候補がたくさん出そうですね」

「うん。彼、本が好きだから……難しい名前を考えそう」

「倉橋さんが止めないと」

「そうだね。ちゃんと呼びやすいのにしてって言おうかな」

 

笑ってから、沙代はもう一度お腹へ手を置いた。

朱はその手を見ていた。

タリスマンに相談したという「大切な人」は、この子の父親なのだろう。

 

話してくれないことがあって、不安にもなる。

それでも、子どもの話をする彼女は嬉しそうだった。

朱には、まだ二人がどんな関係なのか分からない。

 

ただ、目の前の沙代が、この子を待ち望んでいることは分かった。

 

「……常守さん?」

 

呼ばれて、朱は顔を上げる。

 

「ごめんなさい。幸せそうだなと思って」

 

沙代は少し照れた。

 

「うん。幸せだよ」

 

その返事のあと、カップへ目を落とす。

 

「怖いこともあるけどね」

 

朱は頷いた。

 

「そうですよね」

 

大丈夫だと決めつけられなかったことが、沙代には心地よかった。

少しして、朱が窓越しに外を見る。

 

「よかったら、靴下を見に行きませんか? 私も、どのくらい小さいのか見てみたいです」

 

沙代は目を丸くした。

それから、嬉しそうに頷く。

 

「うん。行こう」

 

席を立つ時には、もう鞄の持ち手を強く握っていなかった。

 

*

 

買った靴下は、手のひらに二つ並べても余るほど小さかった。

沙代は帰宅すると、袋から取り出して食卓へ置いた。

 

朱とは店の前で別れた。

 

別れ際に連絡先を交換して、「またお話ししましょう」と言ってくれた。

 

今日は楽しかった。

そう送ろうと端末を開くと、先に朱から届いていた。

 

《無事に帰れましたか? 今日はありがとうございました》

 

沙代は笑って、靴下の写真を添えた。

 

《帰ったよ。こちらこそありがとう。彼に見せるの、楽しみ》

 

*

 

 

 

「随分、小さいね」

 

帰ってきた槙島が、靴下を一つ手に取った。

指先でそっと広げる。

その仕草を見て、沙代は嬉しくなった。

 

「常守さんも、そう言ってた」

「また会ったの?」

「うん。偶然。少しお茶して、一緒に選んでくれたの」

 

槙島は靴下を置き、彼女へ顔を向けた。

 

「彼女が公安の監視官だと、知った?」

 

沙代は少し驚いたあと、頷く。

 

「今日、教えてくれた。聖護は知ってたんだね」

「グソンから聞いたよ」

「狡噛さんたちと、同じところで働いてるんだって」

「そうだね」

 

沙代は椅子へ座った。

 

「タリスマンの話をしたら、ちょっと様子が変わって……お仕事に関係することがあるって言ってた」

 

槙島の視線が、彼女の端末へ移る。

 

「詳しいことは?」

「聞いてない。話せないって言ってたし」

「うん」

 

沙代は靴下を指で整えた。

 

「しばらく、あそこに行くのはやめておこうかな。少し気になるし」

「そうするといいよ」

 

槙島は隣に腰を下ろした。

 

「その分、僕に見せてくれる?」

「何を?」

「ほかにも気になったものがあるだろう?」

 

沙代は笑い、端末を引き寄せた。

 

「買ったのはこれだけ。でも、かわいい服もあってね」

 

彼女が店で見たものを話している間にも、槙島の端末には通知が届いていた。

 

今は開かず、沙代の話を聞いた。

 

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