久しぶりに、病院へ行くためではなく家を出た。
沙代は店先で足を止め、小さな雑貨を眺めていた。
今日は匂いも気にならないし、歩いていても気分が悪くならない。
もう少し見てから、お茶を買って帰ろう。
そう思って顔を上げた時、向こうから来た人と目が合った。
「「あっ」」
二人が、ほとんど同時に声を出す。
「倉橋さん」
「常守さん。こんにちは」
朱が嬉しそうに笑った。
「この前は、ありがとうございました」
「いえ。あれから大丈夫でしたか?」
「はい。今日は体調もよくて、久しぶりに出かけてみたんです」
沙代が鞄の持ち手を握り直すと、朱はその顔を見て頷いた。
「よかった。私も今日は休みで、少し買い物に」
「じゃあ、またお休みの日に会っちゃいましたね」
「そうですね」
二人で笑った。
前は、荷物を拾ってもらうことに精いっぱいだった。
今は、朱が明るい色の服を着ていることや、手に小さな買い物袋を持っていることにも気づく。
「お仕事、少し慣れました?」
沙代が尋ねると、朱は困ったように眉を下げた。
「まだです。でも、最初よりは……分かることも増えてきました」
「よかった」
「分かったと思ったら、また分からなくなるんですけど」
その言い方がおかしくて、沙代は笑った。
朱も笑い、それから近くの店へ目を向ける。
「あの、よかったら少し座りませんか? まだお買い物の途中だったら、無理にとは」
沙代は少し迷った。
知らない人ではないけれど、友人と呼べるほど話したこともない。
それでも今日は、もう少しこの人と話してみたかった。
「……うん。私も、少し休もうかなって思ってました」
*
飲み物を選び終えると、朱が向かいへ座った。
「倉橋さん、普段はどんなことをして過ごしてるんですか?」
「本を読んだり。最近は、家にいることが多いです」
「本、いいですね」
「常守さんは?」
「友達と会ったり……あと、アバターで話すこともあります」
沙代が顔を上げた。
「私、昨日それをしたばっかり」
「本当ですか?」
「始めたばかりなんだけど。本の話ができるところに行ったり、昨日はタリスマンのところにも」
朱の手が、カップのそばで止まった。
「……タリスマン?」
「知ってる?」
「はい」
返事のあと、朱が少し黙る。
沙代は不思議そうに彼女を見た。
「常守さんも、話したことあるの?」
「……あります」
朱は沙代の表情を確かめるように見てから、尋ねた。
「昨日は、どんな話を?」
「ちょっと相談。大切な人に、聞いていいのか分からないことがあって」
沙代はカップを両手で包んだ。
「不安に思ってることを伝えてみたら、って言ってくれたの。おかげで、帰ってきてから話せたんだ」
「そう、だったんですね」
朱の声が静かになった。
目の前の人にとって、タリスマンは昨日も話を聞いてくれた相手なのだ。
沙代はその沈黙を、自分が込み入った話をしたせいだと思ったらしい。
「ごめんね。変な話しちゃって」
「違います」
朱はすぐに首を横に振った。
「話してくれて、ありがとうございます」
その真剣な返事に、沙代は少し驚いた。
朱は言葉を選び直した。
「……ネットだと、話しやすいこともありますよね。でも、相手のことが分からない部分もあるから。大切な話は、少し慎重にした方がいいかもしれません」
「うん。彼にも、そう言われた」
朱は頷いた。
沙代には、まだ話せないことがあった。
休みの日に偶然会って、お茶を飲んでいる今も、朱の頭には捜査中の事件が浮かんでいた。
「……どうかしたの?」
沙代に尋ねられ、朱は顔を上げた。
カップを持ったまま、少し考え込んでいたらしい。
「ごめんなさい。ちょっと、仕事のことを思い出して」
「私、何か変なこと言った?」
「いえ。倉橋さんが悪いわけじゃないです」
思ったより強く否定してしまい、朱は言葉を止めた。
沙代の目が、不安そうに揺れる。
まだ捜査中のことを、ここで不用意に話すわけにはいかない。
それでも、何でもない顔で聞き流すこともできなかった。
朱はカップを置いた。
「私、公安局で働いているんです」
「……公安?」
沙代の指が、取っ手から離れた。
「はい。監視官として、配属されたばかりで」
少し前まで、仕事に慣れないと笑っていた人だった。
沙代はその顔を見つめる。
「そうだったんだ」
「この前も今日も、倉橋さんに会ったのは偶然です」
朱は静かに付け足した。
「さっき、タリスマンの話を聞いて気になったのは、今の仕事に関わることがあったからで……詳しくは、まだ話せないんですけど」
「……うん」
沙代は目を伏せた。
狡噛。
宜野座。
そして、常守朱。
名前が頭の中に並ぶ。
聖護に気をつけてと言われた人たちと、この人も一緒に働いているのだろうか。
「相談した内容、聞かれる?」
朱は沙代を見た。
「今、ここで無理に話してもらうつもりはありません」
その答えを聞いても、沙代の肩はまだ硬かった。
朱は少し迷ってから、続けた。
「ただ、私もタリスマンに相談したことがあります。話しやすい相手だと思っていました」
沙代が顔を上げる。
「常守さんも?」
「はい。だから、倉橋さんが話してみようと思った気持ちは、分かる気がします」
朱の表情には、沙代を確かめようとする鋭さより、戸惑いがあった。
沙代はそれを見て、ようやく少し息を吐いた。
「……仕事のこと、相談したの?」
「そうです。人との関わり方が、分からなくなって」
「そっか」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
沙代はもう一度カップを持った。
中の飲み物は、まだ温かかった。
「さっき言ったこと、嘘じゃないよ。話せて、少し安心したの」
「はい」
「でも、相手が誰かは、分からないんだね」
朱は頷いた。
「……そうですね」
沙代は画面の中のタリスマンを思い出した。
穏やかに、自分の言葉を待ってくれた相手。
その声の向こうに誰がいたのか、考えずに話していた。
朱は、彼女が黙っている間、急かさなかった。
「今日、常守さんに会ったのも、偶然なんだよね」
「はい。本当に」
沙代はその答えを聞いて、少しだけ笑った。
「……じゃあ、今はお茶飲んでてもいい?」
朱も、ほっとしたように笑った。
「もちろんです」
二人はカップへ手を伸ばした。
さっきまでと同じようには戻れなかったけれど、沙代はまだ、席を立たずにいた。
「そっか、公安か……」
沙代はカップの中へ目を落とした。
朱はその声を聞き、少し姿勢を正す。
「……驚かせちゃいましたね」
「うん。でも、嫌だったわけじゃないよ」
沙代は顔を上げた。
「前に、公安の人に助けてもらったことがあるの。だから、ありがたいと思ってる」
「そうだったんですね」
朱が頷く。
沙代は、ここで名前を出さない方がいいのだろうかと迷った。
けれど、話しているのは自分が助けられた時のことだ。
「狡噛さんと、宜野座さんっていう人」
朱の目が少し大きくなる。
「お二人とも、同じ一係です」
「……そうなんだ」
それまで別々の場所で会った人たちが、同じ仕事場へ帰る。
そのことを、沙代は初めて具体的に考えた。
「立てこもりに巻き込まれた時、狡噛さんが来てくれて。前にも、別の事件で話を聞きに来たことがあって」
「何度も怖い思いをされたんですね」
沙代は小さく頷いた。
「でも、今は大丈夫。今日は体調もよかったから、出かけたくなって」
そう言って、鞄へ手を添える。
朱はその手を見てから、沙代の顔へ視線を戻した。
「病院以外のお出かけ、久しぶりなんですよね」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと楽しい日にしたいですね」
思いがけない言葉に、沙代は少し瞬いた。
朱が照れたように笑う。
「私、仕事の話をして、緊張させちゃったから」
「……常守さんは、悪くないよ」
「でも、さっきより肩に力が入ってます」
沙代は自分の肩へ目を向けた。
言われてみれば、鞄の持ち手を握りしめていた。
ゆっくり指をほどく。
「よく見てるんだね」
「気になっただけです」
朱はそう答えて、店の窓へ視線を移した。
「何か、見に行く予定だったんですか?」
沙代は少し考え、笑った。
「子どものもの。まだ早いかなと思って、見るだけのつもりだったけど」
朱の表情が明るくなる。
「どんなものですか?」
「小さい靴下とか。実際に見たら、すごく小さくて」
沙代は指で、その大きさを示した。
朱が身を乗り出す。
「そんなに小さいんですね」
「うん。聖護にも……」
名前が出て、沙代の声が止まった。
朱は顔を上げる。
沙代は一度息を吸い、続けた。
「……彼にも、見せたいなって」
「きっと喜びますね」
ただそう言われて、沙代は頷いた。
名前を聞き返されなかったことに、ほっとした。
その安心が、少し後ろめたくもあった。
朱の前でまで、何でも隠したいわけではない。
でも、守っておきたい暮らしがあった。
「うん。喜んでくれると思う」
今度は、その嬉しさを思い浮かべて笑えた。
*
沙代は話しながら、お腹をそっと撫でた。
まだ見慣れない変化を、手のひらで確かめるように。
小さな靴下の話をする時には、自然と口元が緩んでいた。
その姿に、朱も微笑む。
「楽しみですね」
「……うん」
沙代は顔を上げた。
「まだ、想像できないこともいっぱいあるけど。会いたいなって思う」
「男の子か女の子かは、もう分かっているんですか?」
「男の子だって」
「そうなんですね」
朱の声が明るくなり、沙代も笑った。
「名前は、これから二人で考えるの」
そう言った時、お腹を撫でる手が少し止まる。
二人で。
病院では、彼について話す言葉を選んでいた。
ここでは何気なく言えたことに、自分でも驚いた。
朱は彼の名前を尋ねなかった。
「候補がたくさん出そうですね」
「うん。彼、本が好きだから……難しい名前を考えそう」
「倉橋さんが止めないと」
「そうだね。ちゃんと呼びやすいのにしてって言おうかな」
笑ってから、沙代はもう一度お腹へ手を置いた。
朱はその手を見ていた。
タリスマンに相談したという「大切な人」は、この子の父親なのだろう。
話してくれないことがあって、不安にもなる。
それでも、子どもの話をする彼女は嬉しそうだった。
朱には、まだ二人がどんな関係なのか分からない。
ただ、目の前の沙代が、この子を待ち望んでいることは分かった。
「……常守さん?」
呼ばれて、朱は顔を上げる。
「ごめんなさい。幸せそうだなと思って」
沙代は少し照れた。
「うん。幸せだよ」
その返事のあと、カップへ目を落とす。
「怖いこともあるけどね」
朱は頷いた。
「そうですよね」
大丈夫だと決めつけられなかったことが、沙代には心地よかった。
少しして、朱が窓越しに外を見る。
「よかったら、靴下を見に行きませんか? 私も、どのくらい小さいのか見てみたいです」
沙代は目を丸くした。
それから、嬉しそうに頷く。
「うん。行こう」
席を立つ時には、もう鞄の持ち手を強く握っていなかった。
*
買った靴下は、手のひらに二つ並べても余るほど小さかった。
沙代は帰宅すると、袋から取り出して食卓へ置いた。
朱とは店の前で別れた。
別れ際に連絡先を交換して、「またお話ししましょう」と言ってくれた。
今日は楽しかった。
そう送ろうと端末を開くと、先に朱から届いていた。
《無事に帰れましたか? 今日はありがとうございました》
沙代は笑って、靴下の写真を添えた。
《帰ったよ。こちらこそありがとう。彼に見せるの、楽しみ》
*
「随分、小さいね」
帰ってきた槙島が、靴下を一つ手に取った。
指先でそっと広げる。
その仕草を見て、沙代は嬉しくなった。
「常守さんも、そう言ってた」
「また会ったの?」
「うん。偶然。少しお茶して、一緒に選んでくれたの」
槙島は靴下を置き、彼女へ顔を向けた。
「彼女が公安の監視官だと、知った?」
沙代は少し驚いたあと、頷く。
「今日、教えてくれた。聖護は知ってたんだね」
「グソンから聞いたよ」
「狡噛さんたちと、同じところで働いてるんだって」
「そうだね」
沙代は椅子へ座った。
「タリスマンの話をしたら、ちょっと様子が変わって……お仕事に関係することがあるって言ってた」
槙島の視線が、彼女の端末へ移る。
「詳しいことは?」
「聞いてない。話せないって言ってたし」
「うん」
沙代は靴下を指で整えた。
「しばらく、あそこに行くのはやめておこうかな。少し気になるし」
「そうするといいよ」
槙島は隣に腰を下ろした。
「その分、僕に見せてくれる?」
「何を?」
「ほかにも気になったものがあるだろう?」
沙代は笑い、端末を引き寄せた。
「買ったのはこれだけ。でも、かわいい服もあってね」
彼女が店で見たものを話している間にも、槙島の端末には通知が届いていた。
今は開かず、沙代の話を聞いた。