翌日、グソンの画面には公安の動きに関する情報が並んでいた。
「タリスマンを使って、郊外へ誘い出そうとしたようです」
槙島は報告を聞き、画面へ目を向けた。
「失敗したんだね」
「ええ。けど、向こうも引き下がっちゃいません。協力者もいます」
表示されたアバターを見て、槙島は名前を口にする。
「スプーキーブーギー」
「公安の監視官と、個人的な繋がりがあるようで」
槙島は椅子の背にもたれた。
常守朱も、アバターの向こうに知り合いを持っていた。
沙代が昨日、その人と並んで子どもの靴下を選んでいたことを思い出す。
「……ダンナ?」
「続きを」
グソンは頷き、報告を続けた。
*
その夜、沙代は本を開いていた。
端末が震え、朱から短い返信が届く。
《彼にも気に入ってもらえて、よかったです》
靴下の写真に、今ようやく返事ができたらしい。
沙代は時刻を見た。
《お仕事、忙しい? 返信は気にしないでね》
しばらくして、文字が届いた。
《ありがとうございます。少し、立て込んでいて》
沙代はそれ以上尋ねず、端末を置いた。
あの優しい人が、今どんな場所にいるのかは分からなかった。
*
次に槙島が作業場へ来た時、グソンはすぐに画面を向けた。
「スプーキーブーギーの本人が殺されています」
槙島は表示された情報を読んだ。
「御堂が?」
「ええ。あちらも乗っ取ったようです。ただ、振る舞いの違いから公安に気づかれた」
槙島は少し目を細める。
「姿を借りれば、その人になれると思ったんだね」
声には、冷ややかな響きがあった。
借りた姿で言葉を発することと、その人物として他人に応えること。
その違いを、御堂は埋められなかった。
「公安は、本人へ辿り着きつつあります」
「そう」
槙島の端末が震えた。
沙代からだった。
《今日もこの子の靴下、見ちゃった。早く履かせたいね》
添えられた写真には、あの小さな一足が写っている。
槙島は画面を見てから、グソンへ尋ねた。
「常守朱は、捜査に出ている?」
「出ているはずですが」
「……そうか」
朱が失った友人のことを、沙代は知らない。
先日、一緒に笑った相手が、今、どんな思いで御堂を追っているのかも。
槙島は沙代へ返信した。
《うん。大切にしまっておこう》
送信してから、グソンの画面へ視線を戻す。
「御堂の件が終わったら、知らせてくれ」
*
事件の解決を、沙代はニュースで知った。
タリスマン。
スプーキーブーギー。
アバターの持ち主たちの死と、別人によるなりすまし。
自分に答えてくれた相手を思い浮かべる。
あれは、誰だったのだろう。
沙代は端末を取り、朱との会話を開いた。
少し迷ってから、一通だけ送る。
《ニュース見たよ。今、話せる?》
返信が来たのは、少し経ってからだった。
《はい。少しなら》
沙代は電話をかけた。
「……もしもし」
朱の声は、店で話した時より静かだった。
「急にごめんね」
「いえ。ニュース、見たんですね」
「うん」
沙代は膝の上の本を閉じた。
「あの時、話せないって言ってたの、このことだったんだね」
「……はい」
「私が話した相手も、別の人だったんだ」
返事を待つ間、画面の中で頷いていたタリスマンを思い出す。
自分が話し終わるまで待ってくれた。
聖護に不安を伝えてみたら、と言ってくれた。
その相手が、人を殺していた。
「怖くなりましたか」
朱に聞かれ、沙代は少し考えた。
「うん。でも、話せてよかったって思ったことまで、なくならないから……変な感じ」
朱は黙っていた。
「常守さんも、相談したことあるって言ってたよね」
「あります」
「じゃあ、同じかな」
「……そうですね。私も、助けられたと思っていました」
沙代はカップへ手を伸ばしかけて、やめた。
朱の声が、言葉の終わりで少し揺れていた。
「常守さん、大丈夫?」
「はい」
すぐに返ってきた答えのあと、沈黙が続く。
沙代は急かさずに待った。
「……すみません。今は、うまく話せなくて」
「謝らなくていいよ」
彼女はそっと言った。
「ニュースを見て怖くなったのもあるけど、常守さんが、どうしてるかなと思ったの」
電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。
「私がタリスマンの話をした時、何か言いたそうだったから。あのあとも、お仕事大変だったんだろうなって」
「……ありがとうございます」
朱はそれ以上、事件について話さなかった。
沙代も尋ねなかった。
少しして、朱の方から聞く。
「今日は、体調どうですか?」
「大丈夫。靴下、彼も喜んでたよ」
「よかったです」
その声が少し柔らかくなり、沙代も笑った。
「また、体調のいい日にお茶しようね」
「はい。ぜひ」
通話を終える前に、沙代はもう一度だけ言った。
「今日は、少しでも休んでね」
「倉橋さんも」
「うん。おやすみ」
*
電話を切った朱は、しばらく端末を握っていた。
沙代は事件の詳しい話を聞こうとはしなかった。
自分が何を知っていたのか、どうして教えなかったのかとも言わなかった。
ただ、どうしているかと思った、と。
朱は目を閉じた。
あの日、一緒に小さな靴下を見て笑った時間が、今はありがたかった。
**
玄関が開いた時、沙代はまだソファにいた。
「おかえり」
「ただいま」
槙島は彼女の隣へ来て、卓上の端末を見る。
「誰かと話していた?」
「常守さん。ニュース見て、電話したの」
彼は静かに頷き、腰を下ろした。
沙代は少し迷ってから、彼を見る。
「…タリスマン、本当は違う人だったんだね」
「そうみたいだね」
「聖護は、知ってた?」
槙島の手が止まった。
沙代はその変化を見ていた。
すぐに答えが来ないことが、何を意味するのかも、もう少し分かるようになっていた。
「知っていたよ」
彼は答えた。
沙代は目を伏せる。
「そっか」
責める言葉は出てこなかった。
けれど、そのまま彼へ寄りかかることもできなかった。
「だから、行かない方がいいって言ったの?」
「君が気になると言った時、やめておく方がいいと思った」
それだけではなかった。
槙島は、その先を語らなかった。
沙代は膝の上の本を撫でた。
「私、常守さんに、相談できてよかったって話したんだ。あの人、本当のことを知ってたのに、私の話を聞いてくれた」
槙島は彼女を見た。
「優しい人だったよ」
「……うん」
沙代は少し間を置いて、尋ねる。
「聖護が話してた相手も、その人だったの?」
彼は静かに頷いた。
二人の間に、本一冊分の距離があった。
いつもなら自然に縮まるその距離を、今夜はどちらも、すぐには動かなかった。
沙代は、本の角を指でなぞっていた。
聞きたいことを、一つずつ確かめるように。
「私があそこで話すの、知ってた?」
「いや。君が行ったことは、帰ってから聞いた」
「……そっか」
槙島は彼女へ手を伸ばさなかった。
今触れれば、沙代は受け入れるかもしれない。
けれど、それで話が終わることを、彼女が望んでいるとは思えなかった。
「でも、私が始める時には、知ってたんだよね」
「うん」
沙代は顔を上げる。
「聖護がやってるって聞いたから、私もやってみたの」
「覚えているよ」
「聖護の知ってる場所なら、大丈夫かなって思った」
彼は黙った。
*
あの広場でも、沙代は自分の手を取っていた。
もう一度、金色になるまで待とうと笑った。
光の向こうに何があるのか、彼女は知らなかった。
知っていたのは、自分だった。
あの夜も、沙代は隣にいる自分を頼りに、安心して見上げていたのだろう。
槙島は彼女を見た。
今になって、あそこへ連れていったことまで話すつもりはなかった。
けれど、彼女が怖がらなければそれでいいと考えていた自分を、今夜の言葉は正確に捉えていた。
沙代自身も、初めて言葉にしたことだった。
知らない人と話す場所へ入っていけたのは、隣に聖護がいたからだ。
分からなくなったら聞ける。
困ったら教えてくれる。
そう思っていた。
「君が彼に相談するとは、考えていなかった」
槙島が言うと、沙代は小さく首を振った。
「相談しなかったら、よかったわけでもないと思う」
彼は彼女を見た。
「……そうだね」
沙代は膝の上の本を置いた。
「全部話せないのは、分かってる。でも、聖護が知ってるから安心できるって思うのは、違うんだね」
その言葉には、怒鳴るよりも静かな重さがあった。
槙島は指を組み直した。
「僕が何を知っているかと、君に何を話すかは、同じではない」
「うん。今日、分かった」
沙代は俯いた。
好きな人が隣にいる。
そのことは、何も変わっていない。
でも、その人が自分へ見せないものについて、少し知ってしまった。
「……今、何を考えている?」
槙島が尋ねた。
沙代はすぐには答えず、やがて彼を見る。
「聖護に安心させてもらいたいのに、聖護のことで不安になってる」
彼の表情がわずかに動いた。
沙代は続けた。
「だから、どうしていいか分からない」
槙島は頷いた。
「今すぐ、いつもどおりにしなくていいよ」
そう言われると、少しだけ呼吸が楽になった。
笑って終わらせなくてもいい。
彼に寄りかかって、分かったことにしなくてもいい。
沙代は座り直し、お腹の上へ手を置いた。
「今日は、ここにいて」
「うん」
「でも……まだ、ぎゅってしないで」
「分かった」
槙島はその距離を保った。
しばらく、二人とも話さなかった。
やがて沙代が水を飲もうとすると、彼は先に立ち上がり、カップを持ってきた。
手渡す時も、指に触れようとはしなかった。
「ありがとう」
「うん」
沙代は少し飲んでから、彼を見上げる。
「私が黙ってても、平気?」
「君が話すまで、待てるよ」
槙島は隣へ戻った。
彼女が自分を庇ってくれた時には、手を離されなかったことが嬉しかった。
今夜は、触れないでいてほしいと言われた。
どちらも同じ沙代が、自分で選んで伝えたことだった。
触れたいと思う気持ちは消えない。
彼女を不安にさせた事実を認めても、今まで話さなかったことを、すべて明かすつもりにはならなかった。
それでも、今ここで求められた距離は守れた。
槙島は本を開かず、彼女の隣に座っていた。