絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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52.大丈夫かな

 

 

 

翌日、グソンの画面には公安の動きに関する情報が並んでいた。

 

「タリスマンを使って、郊外へ誘い出そうとしたようです」

 

槙島は報告を聞き、画面へ目を向けた。

 

「失敗したんだね」

「ええ。けど、向こうも引き下がっちゃいません。協力者もいます」

 

表示されたアバターを見て、槙島は名前を口にする。

 

「スプーキーブーギー」

「公安の監視官と、個人的な繋がりがあるようで」

 

槙島は椅子の背にもたれた。

常守朱も、アバターの向こうに知り合いを持っていた。

沙代が昨日、その人と並んで子どもの靴下を選んでいたことを思い出す。

 

「……ダンナ?」

「続きを」

 

グソンは頷き、報告を続けた。

 

 

 

 

*

 

その夜、沙代は本を開いていた。

端末が震え、朱から短い返信が届く。

 

《彼にも気に入ってもらえて、よかったです》

 

靴下の写真に、今ようやく返事ができたらしい。

沙代は時刻を見た。

 

《お仕事、忙しい? 返信は気にしないでね》

 

しばらくして、文字が届いた。

 

《ありがとうございます。少し、立て込んでいて》

 

沙代はそれ以上尋ねず、端末を置いた。

あの優しい人が、今どんな場所にいるのかは分からなかった。

 

 

 

*

 

次に槙島が作業場へ来た時、グソンはすぐに画面を向けた。

 

「スプーキーブーギーの本人が殺されています」

 

槙島は表示された情報を読んだ。

 

「御堂が?」

「ええ。あちらも乗っ取ったようです。ただ、振る舞いの違いから公安に気づかれた」

 

槙島は少し目を細める。

 

「姿を借りれば、その人になれると思ったんだね」

 

声には、冷ややかな響きがあった。

借りた姿で言葉を発することと、その人物として他人に応えること。

その違いを、御堂は埋められなかった。

 

「公安は、本人へ辿り着きつつあります」

「そう」

 

槙島の端末が震えた。

沙代からだった。

 

《今日もこの子の靴下、見ちゃった。早く履かせたいね》

 

添えられた写真には、あの小さな一足が写っている。

槙島は画面を見てから、グソンへ尋ねた。

 

「常守朱は、捜査に出ている?」

「出ているはずですが」

「……そうか」

 

朱が失った友人のことを、沙代は知らない。

 

先日、一緒に笑った相手が、今、どんな思いで御堂を追っているのかも。

槙島は沙代へ返信した。

 

《うん。大切にしまっておこう》

 

送信してから、グソンの画面へ視線を戻す。

 

「御堂の件が終わったら、知らせてくれ」

 

 

 

*

 

事件の解決を、沙代はニュースで知った。

 

タリスマン。

スプーキーブーギー。

 

アバターの持ち主たちの死と、別人によるなりすまし。

自分に答えてくれた相手を思い浮かべる。

あれは、誰だったのだろう。

沙代は端末を取り、朱との会話を開いた。

 

少し迷ってから、一通だけ送る。

 

《ニュース見たよ。今、話せる?》

 

返信が来たのは、少し経ってからだった。

 

《はい。少しなら》

 

沙代は電話をかけた。

 

「……もしもし」

 

朱の声は、店で話した時より静かだった。

 

「急にごめんね」

「いえ。ニュース、見たんですね」

「うん」

 

沙代は膝の上の本を閉じた。

 

「あの時、話せないって言ってたの、このことだったんだね」

「……はい」

「私が話した相手も、別の人だったんだ」

 

返事を待つ間、画面の中で頷いていたタリスマンを思い出す。

 

自分が話し終わるまで待ってくれた。

聖護に不安を伝えてみたら、と言ってくれた。

その相手が、人を殺していた。

 

「怖くなりましたか」

 

朱に聞かれ、沙代は少し考えた。

 

「うん。でも、話せてよかったって思ったことまで、なくならないから……変な感じ」

 

朱は黙っていた。

 

「常守さんも、相談したことあるって言ってたよね」

「あります」

「じゃあ、同じかな」

「……そうですね。私も、助けられたと思っていました」

 

沙代はカップへ手を伸ばしかけて、やめた。

朱の声が、言葉の終わりで少し揺れていた。

 

「常守さん、大丈夫?」

「はい」

 

すぐに返ってきた答えのあと、沈黙が続く。

 

沙代は急かさずに待った。

 

「……すみません。今は、うまく話せなくて」

「謝らなくていいよ」

 

彼女はそっと言った。

 

「ニュースを見て怖くなったのもあるけど、常守さんが、どうしてるかなと思ったの」

 

電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。

 

「私がタリスマンの話をした時、何か言いたそうだったから。あのあとも、お仕事大変だったんだろうなって」

「……ありがとうございます」

 

朱はそれ以上、事件について話さなかった。

 

沙代も尋ねなかった。

少しして、朱の方から聞く。

 

「今日は、体調どうですか?」

「大丈夫。靴下、彼も喜んでたよ」

「よかったです」

 

その声が少し柔らかくなり、沙代も笑った。

 

「また、体調のいい日にお茶しようね」

「はい。ぜひ」

 

通話を終える前に、沙代はもう一度だけ言った。

 

「今日は、少しでも休んでね」

「倉橋さんも」

「うん。おやすみ」

 

*

 

電話を切った朱は、しばらく端末を握っていた。

 

沙代は事件の詳しい話を聞こうとはしなかった。

自分が何を知っていたのか、どうして教えなかったのかとも言わなかった。

 

ただ、どうしているかと思った、と。

 

朱は目を閉じた。

あの日、一緒に小さな靴下を見て笑った時間が、今はありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

**

 

玄関が開いた時、沙代はまだソファにいた。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

槙島は彼女の隣へ来て、卓上の端末を見る。

 

「誰かと話していた?」

「常守さん。ニュース見て、電話したの」

 

彼は静かに頷き、腰を下ろした。

沙代は少し迷ってから、彼を見る。

 

「…タリスマン、本当は違う人だったんだね」

「そうみたいだね」

「聖護は、知ってた?」

 

槙島の手が止まった。

沙代はその変化を見ていた。

 

すぐに答えが来ないことが、何を意味するのかも、もう少し分かるようになっていた。

 

「知っていたよ」

 

彼は答えた。

沙代は目を伏せる。

 

「そっか」

 

責める言葉は出てこなかった。

けれど、そのまま彼へ寄りかかることもできなかった。

 

「だから、行かない方がいいって言ったの?」

「君が気になると言った時、やめておく方がいいと思った」

 

それだけではなかった。

槙島は、その先を語らなかった。

 

沙代は膝の上の本を撫でた。

 

「私、常守さんに、相談できてよかったって話したんだ。あの人、本当のことを知ってたのに、私の話を聞いてくれた」

 

槙島は彼女を見た。

 

「優しい人だったよ」

「……うん」

 

沙代は少し間を置いて、尋ねる。

 

「聖護が話してた相手も、その人だったの?」

 

彼は静かに頷いた。

二人の間に、本一冊分の距離があった。

 

いつもなら自然に縮まるその距離を、今夜はどちらも、すぐには動かなかった。

沙代は、本の角を指でなぞっていた。

聞きたいことを、一つずつ確かめるように。

 

「私があそこで話すの、知ってた?」

「いや。君が行ったことは、帰ってから聞いた」

「……そっか」

 

槙島は彼女へ手を伸ばさなかった。

今触れれば、沙代は受け入れるかもしれない。

けれど、それで話が終わることを、彼女が望んでいるとは思えなかった。

 

「でも、私が始める時には、知ってたんだよね」

「うん」

 

沙代は顔を上げる。

 

「聖護がやってるって聞いたから、私もやってみたの」

「覚えているよ」

「聖護の知ってる場所なら、大丈夫かなって思った」

 

彼は黙った。

 

*

 

あの広場でも、沙代は自分の手を取っていた。

 

もう一度、金色になるまで待とうと笑った。

光の向こうに何があるのか、彼女は知らなかった。

 

知っていたのは、自分だった。

 

あの夜も、沙代は隣にいる自分を頼りに、安心して見上げていたのだろう。

 

槙島は彼女を見た。

 

今になって、あそこへ連れていったことまで話すつもりはなかった。

けれど、彼女が怖がらなければそれでいいと考えていた自分を、今夜の言葉は正確に捉えていた。

 

 

沙代自身も、初めて言葉にしたことだった。

 

知らない人と話す場所へ入っていけたのは、隣に聖護がいたからだ。

 

分からなくなったら聞ける。

困ったら教えてくれる。

 

そう思っていた。

 

「君が彼に相談するとは、考えていなかった」

 

槙島が言うと、沙代は小さく首を振った。

 

「相談しなかったら、よかったわけでもないと思う」

 

彼は彼女を見た。

 

「……そうだね」

 

沙代は膝の上の本を置いた。

 

「全部話せないのは、分かってる。でも、聖護が知ってるから安心できるって思うのは、違うんだね」

 

その言葉には、怒鳴るよりも静かな重さがあった。

槙島は指を組み直した。

 

「僕が何を知っているかと、君に何を話すかは、同じではない」

「うん。今日、分かった」

 

沙代は俯いた。

好きな人が隣にいる。

そのことは、何も変わっていない。

でも、その人が自分へ見せないものについて、少し知ってしまった。

 

「……今、何を考えている?」

 

槙島が尋ねた。

沙代はすぐには答えず、やがて彼を見る。

 

「聖護に安心させてもらいたいのに、聖護のことで不安になってる」

 

彼の表情がわずかに動いた。

沙代は続けた。

 

「だから、どうしていいか分からない」

 

槙島は頷いた。

 

「今すぐ、いつもどおりにしなくていいよ」

 

そう言われると、少しだけ呼吸が楽になった。

笑って終わらせなくてもいい。

彼に寄りかかって、分かったことにしなくてもいい。

 

沙代は座り直し、お腹の上へ手を置いた。

 

「今日は、ここにいて」

「うん」

「でも……まだ、ぎゅってしないで」

「分かった」

 

槙島はその距離を保った。

 

しばらく、二人とも話さなかった。

やがて沙代が水を飲もうとすると、彼は先に立ち上がり、カップを持ってきた。

 

手渡す時も、指に触れようとはしなかった。

 

「ありがとう」

「うん」

 

沙代は少し飲んでから、彼を見上げる。

 

「私が黙ってても、平気?」

「君が話すまで、待てるよ」

 

槙島は隣へ戻った。

 

彼女が自分を庇ってくれた時には、手を離されなかったことが嬉しかった。

今夜は、触れないでいてほしいと言われた。

 

どちらも同じ沙代が、自分で選んで伝えたことだった。

触れたいと思う気持ちは消えない。

 

彼女を不安にさせた事実を認めても、今まで話さなかったことを、すべて明かすつもりにはならなかった。

 

それでも、今ここで求められた距離は守れた。

 

槙島は本を開かず、彼女の隣に座っていた。

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