絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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6.知ってしまったから
53.同じ人間


 

 

「……聖護」

 

しばらくして、沙代が口を開いた。

 

「うん」

「私が怖かった時、狡噛さんは助けてくれた。常守さんも、何も知らない私の話を聞いてくれた」

 

槙島は彼女へ顔を向けた。

 

「うん」

「みんな、優しかったよ」

「そうだね」

 

彼が否定しなかったことで、沙代は次の言葉を出せた。

 

「聖護も、私には優しい」

 

膝の上の左手を見る。

指輪は、今夜もそこにあった。

 

「熱を出した時も、帰ってきて泣いた時も。そばにいてくれて、嬉しかった」

「……うん」

「でも、それで、ほかの人が怖い思いをしてもいいことにはならないよね」

 

槙島は黙った。

沙代の声は小さかった。

責めるためというより、自分が考えたことを最後まで言うために、息を整えている。

 

「私が聖護に何か聞いたら、常守さんが追いかけてた人たちのことも、分かるのかもしれない」

 

彼女は顔を上げた。

 

「それが怖い」

「聞かずにいたい?」

 

沙代は首を横に振りかけて、止まった。

 

「……分からない」

 

目が潤む。

 

「知ったら、今までみたいにいられないかもしれない。でも、知らないままでも、もう同じじゃない」

 

槙島は彼女を見ていた。

穏やかな言葉を選べば、今夜だけは安心させられるかもしれない。

自分が何をしているかを曖昧にし、彼女には関係のないことだと言うこともできた。

 

けれど沙代は、その曖昧な場所から、彼の方へ問いを向けていた。

 

「僕が君に優しくすることと、僕のしていることをどう判断するかは、分けて考えていい」

 

沙代が眉を寄せる。

 

「簡単に言わないでよ」

 

彼は口を閉じた。

 

「分けようと思っても、同じ聖護なんだよ。私が好きなのも、今、怖いと思ってるのも」

 

槙島はゆっくり頷いた。

 

「……そうだね。簡単ではないね」

 

沙代は頬の涙を拭った。

 

「私の親は、まだ何もしてなかったのに、潜在犯だって言われた。でも、そのあと、本当に家に火をつけた」

 

滅多に、自分から話さないことだった。

槙島は動かずに聞いた。

 

「捕まえようとした人たちが悪かったのか、親が悪かったのか。考えると、分からなくなるの」

 

記憶は途切れている。

怖かったことと、祖母に逃がしてもらったことだけが、鮮明に残っていた。

 

「でも……おばあちゃんが死んでもいい理由には、ならないと思う」

「ならないね」

 

その返事に、沙代は息を吐いた。

 

「だから、シビュラが正しいって、全部信じてるわけじゃない。でも、傷ついた人のことを、仕方なかったって思いたくもない」

 

槙島は目を伏せ、少し考えた。

沙代は彼の言葉を待っている。

けれど、思想の説明を求めているだけではなかった。

 

自分の隣にいる男が、誰かの傷つくことをどう受け止めているのか。

それを知ろうとしていた。

 

「君がそう考えていることは、分かったよ」

 

沙代の肩が少し落ちた。

 

「……聖護がどう思うかも、聞きたいんだけど」

 

彼は顔を上げた。

今夜の会話を、彼女の気持ちを聞くだけで終わらせることはできなかった。

槙島は一度、息を吸った。

 

「僕は、人が傷つくと分かっていても、止めなかったことがある」

 

沙代は動かなかった。

 

「すべてが偶然起きたわけではないよ」

 

彼女の手が、お腹へ移る。

槙島はそれを見た。

それでも、言葉を取り消さなかった。

 

長い沈黙のあと、沙代が尋ねる。

 

「……今も?」

 

槙島は、彼女を見たまま答えた。

 

「そうだね」

 

沙代は目を閉じた。

好きだと思う気持ちは、消えなかった。

 

それが、今は苦しかった。

 

「少し、考えさせてほしい」

 

沙代は目を開け、槙島を見た。

彼はすぐには答えなかった。

 

「……分かった」

「今、何か決められない。聖護の話、聞いたばっかりだから」

「うん」

 

彼女は膝の上の手を握った。

隣にいてほしいと思う気持ちと、一人で考えたい気持ちが、同時にあった。

 

いつもなら、彼に触れれば落ち着けた。

 

けれど今日は、その温かさの中で、答えを急いでしまいそうだった。

 

「今日は……一人で寝たい」

 

槙島は小さく頷いた。

 

「僕は出ようか」

 

沙代の指に力が入る。

 

自分で言い出したのに、彼が帰ると思うと怖かった。

 

「……うん。お願い」

 

彼は立ち上がった。

 

置いていた本を手に取りかけて、棚へ戻す。

沙代はその動きを見ていた。

 

「本、持って帰らなくていいの?」

「君がここに置いていて構わないなら」

「……うん」

 

槙島はコートを取った。

沙代も立とうとしたが、彼が首を横に振る。

 

「見送りはいいよ。座っていて」

 

玄関へ向かう足音を聞いて、沙代は口を開いた。

 

「聖護」

 

彼が振り向く。

 

「考えるって言ったのは……嫌いになったってことじゃないから」

 

槙島は彼女を見た。

 

その言葉に安堵した。

引き留めたくもなった。

 

嫌いになっていないのなら、ここにいてもいいのではないか。

そう尋ねれば、彼女は迷うだろう。

 

けれど、沙代は涙を堪えながら、ようやく一人でいる時間を求めたのだ。

 

「うん。答えを急がなくていい」

「連絡、してもいい?」

「もちろん」

 

彼は少し間を置いた。

 

「僕に話したくない時は、無理に話さなくていいよ」

 

沙代が頷く。

 

槙島はいつものように、額へ口づけに戻らなかった。

 

「…沙代、愛してる気持ちは嘘じゃない。これだけは知っていて」

「っ、聖護」

「おやすみ、沙代」

「……おやすみ」

 

扉が閉まった。

 

沙代はしばらく、その方を見ていた。

出ていってほしいと頼んだのは自分なのに、部屋が急に広くなった気がした。

 

左手の指輪に触れる。

外そうとは思わなかった。

 

ただ、その手を胸元へ寄せて、ソファに深く座り直した。

 

今夜は寂しさを埋めるために、分かったことにはしたくなかった。

 

 

*

 

 

翌朝、槙島はグソンのいる作業場へ顔を出した。

 

「……昨夜、戻ってきてたんですね」

「うん。少し、考えたいと言われた」

 

グソンは彼の顔を見る。

 

「何を話したんです?」

「人が傷つくと分かっていても、止めなかったことがある、と」

「それは……」

「今も、と答えたよ」

 

グソンは口を閉じた。

槙島は椅子に座り、机上の資料を引き寄せる。

 

桜霜学園。

王陵璃華子。

 

沙代に告げたばかりの言葉が、そのまま目の前に並んでいるようだった。

 

「彼女から連絡は?」

「まだない」

「なら、今日は待つしかないですね」

 

槙島は頷いた。

 

端末を伏せ、資料へ目を戻す。

璃華子の構想について、確かめておきたいことがあった。

 

昨夜の会話を思い出しても、その関心が失われることはなかった。

 

 

*

 

 

 

「標本事件……?」

 

朱は狡噛の話を聞いていた。

標本化された遺体が発見された今回の事件。

それに似た事件が、三年前にも起きている。

 

そして、その捜査で狡噛の部下が亡くなった。

目の前の男の言葉は落ち着いていた。

 

けれど、話を聞くほど、朱にはその落ち着きがかえって重く感じられた。

 

「事件は、未解決のままなんですね」

「ああ」

 

狡噛は残された資料を示した。

 

不鮮明な写真。

その人物に結びつけられた名前。

 

「槙島聖護。佐々山が追っていた男だ」

 

朱は写真へ顔を寄せた。

はっきりしない輪郭を、どうにか見ようとする。

 

聖護。

 

一瞬、別の声が浮かんだ。

 

子どもの靴下を見せたいと笑った沙代が、彼の名前を口にしかけた時の声だった。

 

朱は眉を寄せる。

同じ名前だというだけだ。

 

姓も知らない。

顔も見たことがない。

 

それだけで、同じ人物だと考える根拠にはならなかった。

 

「常守?」

 

呼ばれて、朱は顔を上げた。

 

「……すみません。続けてください」

 

 

*

 

昼過ぎ、沙代はニュースの前で動けなくなった。

 

女子生徒の遺体。

標本化。

過去の事件との類似性。

 

画面を消してからも、読み上げられた言葉が耳に残った。

 

聖護が何をしているのか、まだ全部は知らない。

 

けれど、昨日までなら怖い事件として見ていたものを、今日は彼と無関係だと決めつけられなかった。

 

沙代はお腹へ手を置いた。

昨夜、一人で眠ろうとして、何度も彼のいる側へ手を伸ばした。

 

そのたび、空いた寝床に気づいた。

 

会いたい。

 

それは変わらない。

でも、今会えば、何を聞きたくなるのだろう。

 

端末を取る。

 

聖護との画面には、新しい連絡がなかった。

考えたいと言った自分を、待ってくれている。

 

そのことが嬉しく、寂しかった。

 

 

*

 

 

「女子生徒の件、報道が始まっています」

 

グソンが告げると、槙島は画面を見た。

璃華子の作品が、人々の目に触れている。

 

彼は構図を確かめ、報道で伏せられた部分について短く尋ねた。

グソンの返答を聞き終えてから、自分の端末へ目を向ける。

 

沙代も、このニュースを見るかもしれない.そう思った。

それでも、ここで進めていることを止めようとは言わなかった。

 

「ダンナ」

「何?」

「彼女に連絡するなら、考えさせてくれと言われたことは忘れないでくださいよ」

 

槙島は少し笑った。

 

「覚えているよ」

 

返信欄を開いても、何を書けばいいか決まらなかった。

 

食べられたか。

よく眠れたか。

気分は悪くないか。

 

どれも、知りたいことだった。

けれど、それを口実に彼女から返事を求めようとしていることも、分かっていた。

 

端末を置こうとした時、通知が届く。

沙代からだった。

 

《ニュースを見た》

 

槙島の指が止まった。

続けて、もう一通。

 

《昨日、聖護に聞かなかったことがある》

 

彼は画面を見つめたまま、返事を打った。

 

《うん》

 

 

 

*

 

 

沙代は返信を読んでから、しばらく指を動かせなかった。

 

《人が傷つくと分かっていても止めなかったって》

 

そこで一度、送る。

次の言葉を打つまでに時間がかかった。

 

《聖護は、止められるところにいたの?》

 

槙島は画面を見た。

ただ目撃していたのか。

止める力がなかったのか。

それとも、止めるつもりがなかったのか。

 

沙代は、その違いを尋ねていた。

 

ーー____

 

少しの静寂。

 

《いたよ》

 

送信すると、グソンがこちらを見た。

 

槙島は何も言わず、椅子を離れた。

廊下へ出て、沙代へ電話をかける。

 

 

 

 

 

着信に気づいた沙代は、膝の上で手を握った。

出るのが怖かった。

それでも、聞くと決めたのは自分だった。

 

「……もしもし」

「沙代」

 

いつもの声だった。

そのことに安心してしまう自分が、今は少しつらい。

 

「じゃあ……止めなかったんだね」

「うん」

「どうして?」

 

槙島は少し黙った。

 

「その人間が、自分で何を選ぶのか見たかった」

 

沙代は窓の外へ目を向けた。

 

「誰かを傷つけるって分かってても?」

「そうだね」

 

静かな返事だった。

怒っているわけでも、苦しそうでもない。

自分がしたことを、彼は沙代に説明していた。

 

「傷つけられる人は……選べないのに」

 

槙島は黙った。

沙代は、お腹に置いた手へ視線を落とす。

 

「銀行にいた時、私、何も選べなかったよ。逃げることも、声を出すことも」

「うん」

「聖護に電話するまで、ずっと怖かった」

「覚えているよ」

「私じゃなかったら、同じことが起きても、見ていられた?」

 

今度は、返事までに間があった。

槙島は沙代が玄関で泣いた顔を思い出した。

腕の中で震えていた身体も。

 

その記憶を、知らない誰かにそのまま重ねることはできなかった。

彼女が巻き込まれたと知るまでは、銀行で起きたことを、別の関心から見ていた。

 

「……君だったから、会いに帰ったんだ」

 

沙代は目を閉じた。

彼に愛されていることが、答えになってしまった。

 

「私だけなんだね」

「君は、僕にとって特別だよ」

 

いつもなら嬉しい言葉だった。

沙代の頬を涙が伝う。

 

「うん。分かってる」

 

小さく息を吸った。

 

「でも、私だけは心配してもらえることを、よかったって思うだけじゃ……もう、いられない」

 

槙島は何も言わなかった。

 

自分を好きだと言った沙代が、自分の見せたものを受け取るだけではなくなっている。

それを煩わしいとは思わなかった。

けれど、彼女が望む答えを持ってもいなかった。

 

「聖護」

「うん」

「今日のニュースも、関係あるの?」

 

彼は、机に開いた資料を思い出した。

 

王陵璃華子。

桜霜学園。

 

「あるよ」

 

沙代は端末を持ち直した。

握る手が、うまく力を保てなかった。

 

「……もう、起きちゃったことなんだね」

「うん」

 

しばらく、二人とも話さなかった。

やがて槙島が尋ねる。

 

「今、一人でいて大丈夫かい」

 

沙代は涙を拭いた。

いつもなら、その気遣いに寄りかかれた。

 

今も、彼の声を聞いていたい気持ちはある。

でも、それだけで終わらせたくなかった。

 

「今は、私のことを心配しないで」

 

槙島は目を伏せた。

 

「……分かった」

「少し、電話切るね」

 

通話が終わる。

沙代は端末をソファへ置いた。

 

会いたい。

抱きしめてほしい。

その気持ちは、まだあった。

 

けれど、顔も知らない女子生徒たちのことも、頭から離れなくなっていた。

 

「どっちも同じ好きな人なのに…」

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