何度も、同じことを考えた。
聖護がしていること。
そのために傷ついた人たち。
自分に触れる時の、あの優しい手。
別々にはできなかった。
沙代は食卓に座り、一周年の写真を開いた。
少し曲がった文字のケーキを前に、二人で笑っている。
あの時の幸せが嘘だったとは思わない。
けれど、写真の中の彼が、家の外では違う顔をしていることも、今は知っていた。
知らなかった頃へ戻りたいとは思わなかった。
ただ、聖護に会いたかった。
寂しいからそう思うだけなのかと、何度も自分に尋ねた。
もし、一人で暮らしていけるとしても。
子どもを育てる支えが、ほかに見つかったとしても。
それでも、隣にいてほしいのは彼だった。
だからといって、傷ついた人たちのことがどうでもよくなったわけではない。
彼のしていることを、正しいと思えたわけでもなかった。
その気持ちを持ったままでも、一緒にいたい。
沙代は端末を取った。
《今日、帰ってきてくれる?》
返信が届くまで、画面を伏せずに待った。
《帰ってもいいの?》
《うん。話したい》
*
扉が開いた時、沙代は玄関に立っていた。
槙島は彼女を見て、そこで足を止める。
「……ただいま」
「おかえり」
その返事を聞いても、彼はすぐには近づかなかった。
沙代も、今夜は抱きしめてもらうより先に、話したかった。
「いっぱい考えたよ」
「うん」
「聖護のこと、怖いと思った。今も、全部が平気になったわけじゃない」
槙島は黙って聞いていた。
「でも、優しいところだけ好きだったんじゃないんだと思う。私が知らなかったことをする人も、同じ聖護なんだよね」
彼女は左手を胸元へ寄せた。
指輪は、外していなかった。
「それでも、愛してる」
槙島の視線が、彼女の顔へ戻る。
「この先も、君が知れば苦しくなることはあると思うよ」
「うん」
「僕が変わるのを待っているなら――」
「そうじゃない」
沙代は静かに遮った。
「変わってくれたら一緒にいる、って決めたんじゃない。今の聖護と、一緒にいたい」
彼は返事をしなかった。
沙代は一歩近づく。
「でも、私が悲しくなった時は、話を聞いてほしい。何でも平気な顔をする約束はできないから」
「……うん」
「それでよければ、またここで一緒に過ごしたい」
槙島は彼女を見つめていた。
引き留めるための言葉は、何度も考えた。
沙代の不安を和らげる言葉も、まだ知られずに済むことも。
彼女はそのどれも求めず、自分の答えを持って立っていた。
彼のしていることを許すとは言わなかった。
それでも、ここへ帰るように求めている。
「君は、本当に僕を選ぶんだね」
沙代が頷く。
「聖護も、私と暮らしたい?」
彼はようやく手を伸ばした。
頬へ触れる前に、沙代がその手を取る。
「暮らしたいよ」
「じゃあ、帰ってきて」
沙代は彼の手を引いた。
玄関から、二人の部屋へ。
槙島は靴を脱ぎ、コートを掛けた。
いつもの場所に、自分のカップがある。
棚には本が残っている。
彼が振り向くと、沙代がそばに立っていた。
「……ぎゅってして」
槙島は彼女を抱き寄せた。
沙代も両腕を回す。
何も知らないまま抱きしめていた頃と、同じには戻れない。
そのことは、二人とも分かっていた。
それでも彼女は、ここにいた。
「会いたかった」
沙代が胸元で言った。
槙島は目を閉じる。
「僕もだよ」
彼女の背中に添えた手が、少しだけ強くなった。
もう、綺麗なところだけを見せて守れているとは思えなかった。
沙代は見えたものについて考え、そのうえで自分の手を取った。
嬉しかった。
その選択を、自分に都合のよい承諾として受け取りたくなるほどに。
けれど、彼女は何でも平気な顔をする約束はできないと言った。
今、腕の中にいる沙代も、昨夜、触れないでほしいと伝えた沙代も、同じ彼女だった。
槙島はその夜、いつもより長く、彼女を抱きしめていた。
□○△▽
女子生徒たちの事件を追う中で、狡噛は過去の資料を開き直していた。
工場の事件。
アバター乗っ取り事件。
そして、標本事件に似た手口。
実行した人間は違う。
それでも、その背後に同じ者がいるのではないか。
朱は、並べられた資料を見ていた。
「犯人たちは、どうやってその人と繋がったんでしょう」
「それを調べてる」
狡噛は短く答えた。
「直接会ったとは限らない。相手が何者か、知らなかった可能性もある」
朱はタリスマンを思い出した。
画面の向こうの人間を、知っているつもりでいた。
沙代もそうだった。
「……親しく話していても、分からないことがあるんですね」
狡噛が顔を上げる。
「何かあったか?」
朱は少し迷ってから答えた。
「知り合った人が、偽のタリスマンに相談していたんです。私と同じように」
「捜査で会った人か?」
「いえ。休みの日に偶然会って。そのあと、少し親しくなって」
彼女は続けた。
「倉橋沙代さんという方なんですけど」
狡噛の手が止まった。
「倉橋?」
「知ってるんですか?」
「ああ。以前の事件で話を聞いた」
朱が驚いたように顔を上げる。
「確かに、そう言っていました。狡噛さんに助けてもらったことがあるって」
「……何を相談していた?」
「大切な人が話してくれないことがあって、聞いてもいいのか、と」
狡噛は椅子へ座り直した。
あの部屋にいた、名前の分からない男。
沙代が口にしなかった相手と、その「大切な人」は同じなのだろうか。
話してくれないこと、とは。
朱は彼の表情を見て、少し声を硬くした。
「倉橋さんが事件に関わっているという話ではありません。相談した相手が犯人だったと知って、戸惑っていました」
「分かってる」
「彼との間で、これからのことを考えているみたいで。赤ちゃんも生まれるそうです」
今度は狡噛が、朱を見た。
「……子ども?」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
「とても楽しみにしていました」
狡噛は、最後に会った時の沙代を思い出した。
もう一年以上前になる。
怖い目に遭い、帰宅した先には待っている人がいると答えた。
その相手と、今も暮らしているのか。
「狡噛さん?」
「いや」
「宜野座にも言ったのか」
「いえ、まだなにも」
「そうか」
彼は資料へ目を戻した。
彼女がタリスマンに相談した。
それだけで、事件の背後にいる男へ結びつけることはできない。
まして、子どもを待っているという私生活を、疑いの根拠にはできなかった。
それでも、倉橋沙代という名前が、再び捜査の近くに現れたことは覚えておいた。
*
「学園の件、公安の捜査が進んでいます」
グソンの報告を聞きながら、槙島は璃華子についての資料を読んでいた。
「彼女は?」
「変わらず、自分の作品にこだわっているようです」
「そう」
槙島は一枚を戻し、見直した。
グソンがその手元を見たあと、尋ねる。
「沙代さんとは、話がついたんですか」
「うん。戻ってきてほしいと言われた」
「……知ったうえで?」
「僕が話した範囲ではね」
槙島は顔を上げた。
「正しいとは思えない。それでも僕と暮らしたい、と」
グソンは少し黙った。
「ダンナにとっては、嬉しい返事ですね」
「とても」
その答えには、迷いがなかった。
「だからといって、何をしても平気になったわけじゃないでしょう」
「分かっているよ」
槙島は資料を置いた。
沙代は、悲しくなった時には話を聞いてほしいと言った。
自分も、それを承知して戻った。
彼女が迎えてくれたことを、何をしても構わないという承諾にするつもりはない。
ただ、今進めていることをやめるとも、約束していなかった。
「また、同じ話をすることになるかもしれませんよ」
「そうだね」
「そのたび、面倒にならなきゃいいですが」
槙島は少し笑った。
「僕といるために何を考えているのか、聞きたいと思っているよ。それが彼女の選ぶ道がどうなるのか見たい」
グソンは彼を見たあと、次の資料を開いた。
*
夜、帰宅すると、沙代は食卓で本を読んでいた。
顔を上げ、彼を見る。
「おかえり」
「ただいま」
槙島が隣へ座ると、彼女は栞を挟んだ。
二人の間にあった距離は、もう自然に縮まる。
沙代が彼の手へ触れ、指を絡めた。
「今日、朱さんから連絡が来たよ」
「何と?」
「体調どうですかって。忙しいのに、気にしてくれてる」
槙島は彼女の顔を見た。
「そうか」
「ニュースも、また見た」
沙代の声が少し静かになる。
彼は手を離さなかった。
「うん」
「……まだ、悲しいよ」
「わかってるよ」
沙代は彼の肩にもたれた。
「だから今日は、少しだけ、こうしていたい」
槙島は彼女の肩へ腕を回す。
朱は事件を追いながら、沙代を気遣っている。
沙代はその気遣いを喜びながら、事件に関わる自分の手を握っている。
彼は彼女の髪へ頬を寄せた。
朱が沙代の隣にいる男を知る日が来たら、あの気遣いはどう変わるのだろう。
考えても、今、彼女から離れるつもりにはならなかった。