絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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54.それでも

 

 

 

 

何度も、同じことを考えた。

 

聖護がしていること。

そのために傷ついた人たち。

自分に触れる時の、あの優しい手。

 

別々にはできなかった。

 

沙代は食卓に座り、一周年の写真を開いた。

 

少し曲がった文字のケーキを前に、二人で笑っている。

あの時の幸せが嘘だったとは思わない。

 

けれど、写真の中の彼が、家の外では違う顔をしていることも、今は知っていた。

 

知らなかった頃へ戻りたいとは思わなかった。

ただ、聖護に会いたかった。

寂しいからそう思うだけなのかと、何度も自分に尋ねた。

 

もし、一人で暮らしていけるとしても。

子どもを育てる支えが、ほかに見つかったとしても。

 

それでも、隣にいてほしいのは彼だった。

 

だからといって、傷ついた人たちのことがどうでもよくなったわけではない。

彼のしていることを、正しいと思えたわけでもなかった。

 

その気持ちを持ったままでも、一緒にいたい。

沙代は端末を取った。

 

《今日、帰ってきてくれる?》

 

返信が届くまで、画面を伏せずに待った。

 

《帰ってもいいの?》

《うん。話したい》

 

 

*

 

 

扉が開いた時、沙代は玄関に立っていた。

槙島は彼女を見て、そこで足を止める。

 

「……ただいま」

「おかえり」

 

その返事を聞いても、彼はすぐには近づかなかった。

沙代も、今夜は抱きしめてもらうより先に、話したかった。

 

「いっぱい考えたよ」

「うん」

「聖護のこと、怖いと思った。今も、全部が平気になったわけじゃない」

 

槙島は黙って聞いていた。

 

「でも、優しいところだけ好きだったんじゃないんだと思う。私が知らなかったことをする人も、同じ聖護なんだよね」

 

彼女は左手を胸元へ寄せた。

指輪は、外していなかった。

 

「それでも、愛してる」

 

槙島の視線が、彼女の顔へ戻る。

 

「この先も、君が知れば苦しくなることはあると思うよ」

「うん」

「僕が変わるのを待っているなら――」

「そうじゃない」

 

沙代は静かに遮った。

 

「変わってくれたら一緒にいる、って決めたんじゃない。今の聖護と、一緒にいたい」

 

彼は返事をしなかった。

沙代は一歩近づく。

 

「でも、私が悲しくなった時は、話を聞いてほしい。何でも平気な顔をする約束はできないから」

「……うん」

「それでよければ、またここで一緒に過ごしたい」

 

槙島は彼女を見つめていた。

引き留めるための言葉は、何度も考えた。

 

沙代の不安を和らげる言葉も、まだ知られずに済むことも。

彼女はそのどれも求めず、自分の答えを持って立っていた。

彼のしていることを許すとは言わなかった。

 

それでも、ここへ帰るように求めている。

 

「君は、本当に僕を選ぶんだね」

 

沙代が頷く。

 

「聖護も、私と暮らしたい?」

 

彼はようやく手を伸ばした。

頬へ触れる前に、沙代がその手を取る。

 

「暮らしたいよ」

「じゃあ、帰ってきて」

 

沙代は彼の手を引いた。

玄関から、二人の部屋へ。

 

槙島は靴を脱ぎ、コートを掛けた。

いつもの場所に、自分のカップがある。

棚には本が残っている。

 

彼が振り向くと、沙代がそばに立っていた。

 

「……ぎゅってして」

 

槙島は彼女を抱き寄せた。

沙代も両腕を回す。

何も知らないまま抱きしめていた頃と、同じには戻れない。

 

そのことは、二人とも分かっていた。

それでも彼女は、ここにいた。

 

「会いたかった」

 

沙代が胸元で言った。

槙島は目を閉じる。

 

「僕もだよ」

 

彼女の背中に添えた手が、少しだけ強くなった。

もう、綺麗なところだけを見せて守れているとは思えなかった。

沙代は見えたものについて考え、そのうえで自分の手を取った。

 

嬉しかった。

 

その選択を、自分に都合のよい承諾として受け取りたくなるほどに。

けれど、彼女は何でも平気な顔をする約束はできないと言った。

 

今、腕の中にいる沙代も、昨夜、触れないでほしいと伝えた沙代も、同じ彼女だった。

 

槙島はその夜、いつもより長く、彼女を抱きしめていた。

 

 

 

□○△▽

 

女子生徒たちの事件を追う中で、狡噛は過去の資料を開き直していた。

 

工場の事件。

アバター乗っ取り事件。

そして、標本事件に似た手口。

 

実行した人間は違う。

 

それでも、その背後に同じ者がいるのではないか。

 

朱は、並べられた資料を見ていた。

 

「犯人たちは、どうやってその人と繋がったんでしょう」

「それを調べてる」

 

狡噛は短く答えた。

 

「直接会ったとは限らない。相手が何者か、知らなかった可能性もある」

 

朱はタリスマンを思い出した。

画面の向こうの人間を、知っているつもりでいた。

沙代もそうだった。

 

「……親しく話していても、分からないことがあるんですね」

 

狡噛が顔を上げる。

 

「何かあったか?」

 

朱は少し迷ってから答えた。

 

「知り合った人が、偽のタリスマンに相談していたんです。私と同じように」

「捜査で会った人か?」

「いえ。休みの日に偶然会って。そのあと、少し親しくなって」

 

彼女は続けた。

 

「倉橋沙代さんという方なんですけど」

 

狡噛の手が止まった。

 

「倉橋?」

「知ってるんですか?」

「ああ。以前の事件で話を聞いた」

 

朱が驚いたように顔を上げる。

 

「確かに、そう言っていました。狡噛さんに助けてもらったことがあるって」

「……何を相談していた?」

「大切な人が話してくれないことがあって、聞いてもいいのか、と」

 

狡噛は椅子へ座り直した。

あの部屋にいた、名前の分からない男。

沙代が口にしなかった相手と、その「大切な人」は同じなのだろうか。

話してくれないこと、とは。

 

朱は彼の表情を見て、少し声を硬くした。

 

「倉橋さんが事件に関わっているという話ではありません。相談した相手が犯人だったと知って、戸惑っていました」

「分かってる」

「彼との間で、これからのことを考えているみたいで。赤ちゃんも生まれるそうです」

 

今度は狡噛が、朱を見た。

 

「……子ども?」

「はい」

 

彼女は小さく頷いた。

 

「とても楽しみにしていました」

 

狡噛は、最後に会った時の沙代を思い出した。

もう一年以上前になる。

 

怖い目に遭い、帰宅した先には待っている人がいると答えた。

その相手と、今も暮らしているのか。

 

「狡噛さん?」

「いや」

「宜野座にも言ったのか」

「いえ、まだなにも」

「そうか」

 

彼は資料へ目を戻した。

 

彼女がタリスマンに相談した。

それだけで、事件の背後にいる男へ結びつけることはできない。

 

まして、子どもを待っているという私生活を、疑いの根拠にはできなかった。

それでも、倉橋沙代という名前が、再び捜査の近くに現れたことは覚えておいた。

 

 

 

*

 

「学園の件、公安の捜査が進んでいます」

 

グソンの報告を聞きながら、槙島は璃華子についての資料を読んでいた。

 

「彼女は?」

「変わらず、自分の作品にこだわっているようです」

「そう」

 

槙島は一枚を戻し、見直した。

グソンがその手元を見たあと、尋ねる。

 

「沙代さんとは、話がついたんですか」

「うん。戻ってきてほしいと言われた」

「……知ったうえで?」

「僕が話した範囲ではね」

 

槙島は顔を上げた。

 

「正しいとは思えない。それでも僕と暮らしたい、と」

 

グソンは少し黙った。

 

「ダンナにとっては、嬉しい返事ですね」

「とても」

 

その答えには、迷いがなかった。

 

「だからといって、何をしても平気になったわけじゃないでしょう」

「分かっているよ」

 

槙島は資料を置いた。

沙代は、悲しくなった時には話を聞いてほしいと言った。

自分も、それを承知して戻った。

 

彼女が迎えてくれたことを、何をしても構わないという承諾にするつもりはない。

ただ、今進めていることをやめるとも、約束していなかった。

 

「また、同じ話をすることになるかもしれませんよ」

「そうだね」

「そのたび、面倒にならなきゃいいですが」

 

槙島は少し笑った。

 

「僕といるために何を考えているのか、聞きたいと思っているよ。それが彼女の選ぶ道がどうなるのか見たい」

 

グソンは彼を見たあと、次の資料を開いた。

 

 

*

 

 

夜、帰宅すると、沙代は食卓で本を読んでいた。

顔を上げ、彼を見る。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

槙島が隣へ座ると、彼女は栞を挟んだ。

二人の間にあった距離は、もう自然に縮まる。

沙代が彼の手へ触れ、指を絡めた。

 

「今日、朱さんから連絡が来たよ」

「何と?」

「体調どうですかって。忙しいのに、気にしてくれてる」

 

槙島は彼女の顔を見た。

 

「そうか」

「ニュースも、また見た」

 

沙代の声が少し静かになる。

彼は手を離さなかった。

 

「うん」

「……まだ、悲しいよ」

「わかってるよ」

 

沙代は彼の肩にもたれた。

 

「だから今日は、少しだけ、こうしていたい」

 

槙島は彼女の肩へ腕を回す。

朱は事件を追いながら、沙代を気遣っている。

沙代はその気遣いを喜びながら、事件に関わる自分の手を握っている。

 

彼は彼女の髪へ頬を寄せた。

朱が沙代の隣にいる男を知る日が来たら、あの気遣いはどう変わるのだろう。

 

考えても、今、彼女から離れるつもりにはならなかった。

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