絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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55.何も知らない訳じゃない

 

 

「倉橋さんに、子どもができたそうです」

 

朱が話すと、宜野座は端末から顔を上げた。

 

「倉橋沙代?」

「はい。この前、偶然会って。今も時々連絡しています」

「そうか」

 

宜野座は少し考えてから、頷いた。

 

「元気なら、よかった」

 

以前、休みの日に会った彼女を思い出した。

二人で使うために、大きなカップを買ったと言っていた。

 

あの相手と、暮らしが続いているのだろう。

向かいの狡噛は、資料を読んでいた。

 

「……お前は、まだ何か気になるのか」

 

宜野座に聞かれ、狡噛は顔を上げる。

 

「気になることと、調べる理由があることは別だ」

「なら、今は仕事に戻れ」

「ああ」

 

朱は二人を見比べた。

狡噛は以前から、沙代について何かを感じていたらしい。

けれど、何があったのかまでは聞けなかった。

 

彼が次の資料を開き、槙島の名前が画面に表示される。

 

朱はその文字へ目を留めた。

 

沙代が口にした「聖護」という名前も覚えている。

 

ただ、名前の一部が同じというだけだった。

 

「しょうご…」

 

目の前の資料と、子どもの靴下を選んでいた彼女を結びつけるには、何もかも足りない。

 

朱は視線を戻し、捜査の話を聞いた。

 

 

 

*

 

 

その夜、槙島の端末が震えた。

沙代は彼の肩にもたれていたが、音を聞くと少し身体を起こした。

 

「出ていいよ」

「少し話してくる」

「うん」

 

彼は居間を出て、通話を繋いだ。

相手は璃華子だった。

彼女の声を聞き、今の状況を尋ねる。

 

返ってくる言葉には、自分の作品について語る時の熱があった。

槙島は窓へ目を向けた。

彼女が何を表現しようとしているのかには、興味がある。

 

けれど、公安が迫る中でどう判断するかも、見ておく必要があった。

通話を終えて戻ると、沙代は開いた本に目を落としていた。

読んでいるようで、ページは進んでいない。

 

「待たせたね」

 

彼が隣へ座ると、彼女は本を閉じた。

 

「……今のも、お仕事?」

「うん」

 

沙代は彼の顔を見た。

 

以前なら、それで会話は終わった。

今は、その言葉の中に何が含まれるかを、少し知っている。

 

「女の人だったね」

「聞こえた?」

「少し」

 

槙島は頷いた。

沙代は膝の上の本を撫でる。

 

「名前は聞かない」

「うん」

「でも、今話してた人も、誰かを傷つける人なの?」

 

槙島は少し黙った。

 

「そうだね」

 

沙代の指が止まる。

答えを聞く準備はしていた。

それでも、何も感じなくなるわけではなかった。

 

「……そっか」

 

彼女は本を卓上へ置いた。

槙島は自分から抱き寄せず、そばに座っていた。

沙代がどうしたいのか、待った。

 

やがて彼女が手を伸ばす。

彼の左手を取り、指輪へそっと触れた。

 

「今日は、まだ話せない。何を聞きたいのかも、分からないから」

「分かった」

「でも、ここにいてほしい」

「うん」

 

沙代は彼の肩へ頭を預けた。

槙島はその肩へ腕を回す。

 

電話をしていた間も、自分は彼女と同じ家にいた。

扉一枚を隔てたところで、沙代は、誰かを傷つける人間と話す自分の声を聞いていたのだ。

 

「聖護」

「何?」

「何も知らない私に、戻ったと思わないでね」

 

彼は彼女へ顔を向けた。

沙代は目を伏せたままだったが、言葉は続いた。

 

「一緒にいるって決めたの、忘れてない。でも、考えなくなったわけじゃないよ」

 

槙島はゆっくり頷いた。

 

「覚えておくよ」

 

彼女の手を握る。

その手が握り返してくるまで、少し時間がかかった。

 

 

 

*

 

 

 

 

十二月の朝は、窓を開けるとすぐに指先が冷えた。

沙代は短く空気を入れ替えてから、窓を閉めた。

 

食卓には二つのカップが並んでいる。

最近は、お茶の種類を自分と聖護で変えるようになった。

 

背後で、寝室の扉が開く。

 

「おはよう」

「おはよう。今日は早いね」

 

槙島は食卓の時計を見た。

 

「少し、出かける用事があるんだ」

「朝ごはんは?」

「一緒に食べる時間はあるよ」

 

沙代は頷き、彼の皿を出した。

 

こうして暮らすことを、もう一度自分で選んだ。

だからといって、出かける理由を聞く前に、一瞬ためらう癖がなくなったわけではない。

 

「……今日は、遅くなる?」

 

槙島は椅子に座る前に、彼女を見た。

 

「まだ分からない。夕方には一度連絡する」

「うん」

 

それなら待てる。

 

沙代は自分の席へ座り、カップを持った。

槙島が、本棚の端に置かれた小さな靴下へ目を向ける。

 

「ずっと、そこに飾っているね」

「しまおうと思ったんだけど、見えるところにあると嬉しいから」

「もう片方は?」

「ここ」

 

沙代が隣の本の後ろから取り出すと、彼は笑った。

 

「別々に置いていたら、履かせる時に困るよ」

「聖護の本に埋もれてただけです」

 

わざと敬語で返すと、槙島が声を立てて笑った。

 

沙代も笑った。

ニュースを見ている時の彼とは違う顔だ。

 

けれど、違う人ではない。

そのことを、もう知っている。

 

それでも、この朝を嬉しいと思った。

 

 

*

 

 

学園の捜査は、王陵璃華子へ近づいていた。

狡噛は、発見された遺体と作品に関する資料を見ていた。

 

標本事件に似ている。

 

それでも、そこに表れている執着は、三年前と同じではない。

メッセージ性からなにまで、何も感じられないからだ。

 

誰が作ったのか。

そして、誰が作らせたのか。

 

朱は彼の視線を追った。

 

「王陵さんが実行したとしても、背後にいる人物は別なんですね」

「その可能性は高い」

 

狡噛は資料を切り替える。

 

「道具を与えて、使い方を見ている奴がいる」

 

朱は黙って画面を見た。

タリスマンの向こうにいた御堂も、工場の金原も、初めから何もかも一人で用意したわけではない。

 

その繋がりの先に、マキシマがいる。

狡噛はもう、それをただの偶然とは考えていなかった。

 

「王陵が確保できれば、聞けることがある」

「……その前に、また誰かが傷つくかもしれません」

「ああ」

 

狡噛は立ち上がった。

 

「だから急ぐ」

 

 

 

 

*

 

 

 

 

「彼女への追及が、かなり進んでいます」

 

グソンの報告に、槙島は頷いた。

卓上には璃華子の作品についての資料があった。

 

彼女は父の作品と思想を語る。

社会への憎悪を語り、自分の作品に込めた意味を説明する。

 

槙島はその言葉を思い返していた。

彼女が何を欲しているのか。

自分の意志で、何を選んでいるのか。

 

「ダンナ?」

「うん。聞いているよ」

 

グソンは次の報告へ移った。

槙島は質問を挟み、璃華子の様子を確かめる。

 

その声音には、沙代の家で話す時の柔らかさはなかった。

やがて、彼女から連絡が入る。

 

槙島は端末を取り、少し離れたところで応じた。

話を聞きながら、彼の表情はほとんど変わらない。

通話を終えると、グソンが尋ねた。

 

「どうします?」

 

槙島は資料へ目を落とした。

彼女の限界が見え始めていた。

 

「このまま、彼女自身の判断を見よう」

 

グソンは短く頷いた。

槙島は別の予定を確認する。

 

泉宮寺豊久。

 

璃華子の件が終わっても、次の動きはすでにあった。

 

 

 

*

 

 

 

午後、沙代は朱から届いたメッセージを読んでいた。

 

《寒くなりましたね。体調はどうですか?》

 

短い文面だった。

以前より返信の間が空くようになり、仕事が忙しいのだろうと思った。

沙代は自分の体調を答えてから、尋ねる。

 

《朱さんも、ちゃんと休めてる?》

 

送信したあと、画面を伏せた。

ニュースでは、学園の事件が繰り返し取り上げられている。

 

朱は、それを追っているのかもしれない。

聖護は、それに関わっている。

二人の名前を、同じ端末の中に持っていた。

 

沙代は窓際へ移り、外を眺める。

 

彼を選んだことを、間違っていたと思いたくない。

けれど、朱が追う事件について、早く終わってほしいと願う気持ちも本当だった。

 

その願いの先で、聖護が捕まるかもしれない。

考えて、また行き詰まる。

沙代は椅子へ座り直し、以前より丸みの増したお腹へ手を置いた。

 

「……難しいね」

 

小さく呟いてから、目を閉じた。

 

 

*

 

 

公安が学園へ迫る中、璃華子はその場を離れた。

グソンの手引きによって、追及を逃れた先へ進む。

彼女にとっては、槙島が用意した助けに見えたのだろう。

 

けれど、彼が彼女を見る目は、もう変わっていた。

地下の暗がりで、璃華子は槙島へ連絡する。

助けを求める声。

自分にはまだ価値があると訴える言葉。

 

槙島はそれを聞いていた。

 

作品を作り、語る時には自信に満ちていた彼女が、今は、自分を選んでもらおうとしている。

 

彼が求めていたものとは違った。

 

会話の向こうで、璃華子が異変に気づく。

 

槙島は彼女の恐怖を聞きながら、救いの約束をしなかった。

 

「沙代なら、そんな風に喚くことはないのに」

『は!?』

 

通話は、やがて終わった。

 

「はは、恋しくてつい名前を呼んでしまった」

 

槙島は微笑む。

そしてその先を任された泉宮寺は、狩りを楽しむ者だった。

 

 

*

 

 

夕方、沙代の端末が震えた。

 

《少し遅くなる。夕食は先に食べていて》

 

聖護からだった。

約束したとおり、連絡をくれた。

沙代は画面を見つめ、返事を打つ。

 

《分かった。帰る時、また教えてね》

 

すぐに既読がついた。

その後ろで、ニュースが流れている。

 

桜霜学園女生徒連続殺人事件。

重要参考人、王陵璃華子。

所在は確認されていない。

 

「違う、よね」

 

沙代は顔を上げた。

 

ーー行方不明。

 

その言葉に、先日の電話を思い出した。

 

聖護が話していた女性。

名前は聞かなかった。

 

同じ人なのかもしれない。

違う人なのかもしれない。

 

彼女には、まだ分からなかった。

 

 

*

 

 

 

捜査員たちが学園を調べる中で、狡噛は消えた璃華子の行方を追っていた。

あと少しで届くはずだった相手が、いなくなった。

彼女一人の判断と準備で、ここまでできただろうか。

 

「……また、先に動かれた」

 

朱が顔を向ける。

 

「マキシマですか」

 

狡噛は頷いた。

 

「王陵を追えば、あいつに近づけると思った。だが向こうは、こちらの動きを見てる」

 

朱は学園の廊下へ目を向けた。

ここで暮らし、学んでいた生徒たちがいた。

その中から犠牲者が出て、重要参考人も消えた。

 

事件を動かしている人物の姿だけが、まだ見えない。

狡噛は歩き始めた。

今度こそ、その顔を見つけるために。

 

 

 

*

 

 

 

帰宅した槙島は、玄関で沙代と目を合わせた。

 

「ただいま」

「……おかえり」

 

彼女はいつものように彼のコートを受け取った。

それから、袖を握ったまま立っていた。

 

「ニュースを見た?」

 

槙島が尋ねる。

沙代は頷いた。

 

「女の人、いなくなったって」

 

彼は黙っていた。

 

「この前、電話してた人?」

「そうだよ」

 

沙代はコートへ目を落とす。

しばらくして、顔を上げた。

 

「もう、帰ってこないの?」

 

槙島は彼女を見た。

 

「帰ってこないよ」

 

沙代の指から力が抜ける。

詳しいことは言われなかった。

 

けれど、その返事が意味するものを、考えずにはいられない。

槙島はコートを受け取り、自分で掛けた。

 

振り向くと、沙代がまだそこにいた。

 

「……今日は、何か聞かない方がいい?」

「君が聞きたいなら、聞いていい」

 

彼女は少し首を横に振った。

 

「今は、言葉が出ない」

「うん」

 

二人で居間へ入る。

食卓には、彼の分の食事が残されていた。

 

「先に食べてと言っただろう?」

「私は食べたよ。聖護の分は、置いておいただけ」

 

槙島は椅子を引いた。

沙代も向かいへ座る。

彼女は、彼が食べ始めるのを見ていた。

 

外で何があったのかを知らないまま、待っている頃には戻れない。

それでも、この食卓をなくしたいとは思わなかった。

 

「明日は?」

 

沙代が尋ねる。

 

「また、出かけるよ」

 

彼は答え、彼女を見た。

 

「狡噛慎也のことを、もう少し知りたくなったんだ」

 

その名前に、沙代が顔を上げる。

 

自分を助けてくれた人。

朱と一緒に事件を追っている人。

 

槙島の声には、抑えきれない関心があった。

 

沙代は彼の左手を見た。

 

指輪は、いつもの場所にあった。

 

そして同じ人が今、彼を追う刑事について、楽しそうに考えていた。

 

*

 

「愛、なのかな」

 

沙代が呟くと、槙島は食事の手を止めた。

 

「何が?」

 

彼女はすぐには答えなかった。

食卓の向こうにいる彼を見る。帰ってきてくれたことが嬉しい。

声を聞けば安心する。

さっき聞いた言葉が怖くても、その気持ちは消えなかった。

 

「……聖護が帰ってこないのは、嫌なの」

 

槙島は黙って聞いた。

 

「でも、いなくなった人にも、帰ってきてほしいって思う人がいるんだよね」

 

沙代は指輪へ触れる。

 

「それを考えても、私は聖護に帰ってきてって思ってる」

 

彼は食器を置いた。

 

「それが、愛なのかと?」

 

沙代が頷く。

 

「好きって言葉で、自分の選んだことを許そうとしてるだけなのかなって」

 

槙島は少し考えた。

彼女がそばにいる理由を、愛だと答えてしまうことは簡単だった。

その答えを、彼女も自分も望んでいる。

 

「僕がそうだと言えば、少し楽になる?」

「……なると思う」

 

沙代は正直に答えた。

 

「でも、聖護に言わせるのは、ずるいね」

「僕にも、ずるいところがあるよ」

 

彼は彼女の手へ視線を落とす。

 

「君が僕を好きだから帰れる家がある。そのことに、甘えている」

 

沙代は黙った。

 

「それでも、帰る途中で君に会いたいと思っていたのは、本当だよ」

 

彼女の目が潤む。

その言葉が嬉しかった。

嬉しいと思える自分を、今夜は簡単に肯定できなかった。

 

「……明日も、ここに帰ってきて」

「うん」

「でも、それで今日の話が平気になったとは思わないでほしい」

「分かっている」

 

沙代は少し息を吐いた。

それから、食卓の上へ手を伸ばす。

槙島は自分の手を重ねる前に、彼女の顔を見た。

 

沙代が小さく頷く。

繋ぐと、指輪同士が触れた。

 

「愛だったとしても、私が考えなくていい理由にはならないね」

「……そうだね」

 

沙代は彼の手を握った。

今夜は、答えを一つに決められなかった。

 

それでも彼女はここにいて、彼もその手を離さなかった。

 

しばらくして、槙島が口を開いた。

 

「僕は、恋とか愛とか、本でしか読んだことがなかったんだ。言葉では理解できても、その感情を知ることはできない。そうやって生きてきた中で、君と出会った」

 

沙代が顔を上げる。

 

「初めは、君の話をもっと聞きたいと思った。会わなくなってからは、何を読んでいるのか、僕に話したいことがまだあるのか、気になった」

 

彼は繋いだ手へ目を落とした。

 

「今は、君が待っている家へ帰りたい。僕を怖いと言った君にも、ここにいてほしいと思っている」

 

沙代の指が、少し動いた。

槙島はその手を見てから、彼女へ視線を戻した。

 

「ただ、一度だけ、君を殺そうとしたことがある」

 

沙代が動かなくなる。

 

「……私を?」

 

「うん。初めて、君の家に泊まった夜だよ」

 

繋いでいた手から、力が抜けた。

槙島は握り留めなかった。

 

「君と話すのを終えたくなかった。翌朝、君が何を話すのか楽しみにしていた。そんな自分が、少し気味悪かったんだ」

 

彼女は黙っていた。

 

「君がいなくなれば、この落ち着かなさもなくなるかと思った。眠っている君のそばまで行ったよ」

 

沙代は手を自分の膝へ戻した。

 

「あの夜……私、聖護がいてくれて、安心して寝たのに」

「うん」

「どうして、やめたの?」

 

槙島は少し間を置いた。

 

「君がいなくなった部屋で、僕が楽になるとは思えなかった。もう二度と、君が僕を見て話し始めることがない。その方が、嫌だった」

 

沙代の目が潤む。

彼は触れずに、その顔を見ていた。

 

「できなかったんだ。そのあとも、君に会いたかった」

「……それで、私には言わなかったんだね」

「言えば、君が離れるかもしれなかったからね」

 

槙島は静かに答えた。

沙代は、自分の指輪へ目を落とした。

 

彼が今まで隠していたものが、また一つ増えた。

その中に、自分が眠っていた夜まであった。

 

 

「……それが、愛?」

「君にそうだと言ってほしい気持ちはあるよ」

 

槙島は小さく笑った。

 

「ただ、愛を知ったからといって、僕が別の人間になったわけではないね。君との暮らしを望みながら、外でしていることも続けたい」

 

沙代は黙って聞いていた。

 

「それでも、君と出会う前には、こんなふうに帰りたい場所はなかった」

 

彼は彼女を見た。

 

「それは、君に知っていてほしいんだ」

沙代は小さく頷いた。

 

そのことが嬉しい。

同じ人に殺されかけたことは、怖い。

 

どちらか一つだけを受け取ることは、もうできなかった。

食卓に置かれた彼の手を、今夜はすぐに取り直せずにいた。

 

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