「倉橋さんに、子どもができたそうです」
朱が話すと、宜野座は端末から顔を上げた。
「倉橋沙代?」
「はい。この前、偶然会って。今も時々連絡しています」
「そうか」
宜野座は少し考えてから、頷いた。
「元気なら、よかった」
以前、休みの日に会った彼女を思い出した。
二人で使うために、大きなカップを買ったと言っていた。
あの相手と、暮らしが続いているのだろう。
向かいの狡噛は、資料を読んでいた。
「……お前は、まだ何か気になるのか」
宜野座に聞かれ、狡噛は顔を上げる。
「気になることと、調べる理由があることは別だ」
「なら、今は仕事に戻れ」
「ああ」
朱は二人を見比べた。
狡噛は以前から、沙代について何かを感じていたらしい。
けれど、何があったのかまでは聞けなかった。
彼が次の資料を開き、槙島の名前が画面に表示される。
朱はその文字へ目を留めた。
沙代が口にした「聖護」という名前も覚えている。
ただ、名前の一部が同じというだけだった。
「しょうご…」
目の前の資料と、子どもの靴下を選んでいた彼女を結びつけるには、何もかも足りない。
朱は視線を戻し、捜査の話を聞いた。
*
その夜、槙島の端末が震えた。
沙代は彼の肩にもたれていたが、音を聞くと少し身体を起こした。
「出ていいよ」
「少し話してくる」
「うん」
彼は居間を出て、通話を繋いだ。
相手は璃華子だった。
彼女の声を聞き、今の状況を尋ねる。
返ってくる言葉には、自分の作品について語る時の熱があった。
槙島は窓へ目を向けた。
彼女が何を表現しようとしているのかには、興味がある。
けれど、公安が迫る中でどう判断するかも、見ておく必要があった。
通話を終えて戻ると、沙代は開いた本に目を落としていた。
読んでいるようで、ページは進んでいない。
「待たせたね」
彼が隣へ座ると、彼女は本を閉じた。
「……今のも、お仕事?」
「うん」
沙代は彼の顔を見た。
以前なら、それで会話は終わった。
今は、その言葉の中に何が含まれるかを、少し知っている。
「女の人だったね」
「聞こえた?」
「少し」
槙島は頷いた。
沙代は膝の上の本を撫でる。
「名前は聞かない」
「うん」
「でも、今話してた人も、誰かを傷つける人なの?」
槙島は少し黙った。
「そうだね」
沙代の指が止まる。
答えを聞く準備はしていた。
それでも、何も感じなくなるわけではなかった。
「……そっか」
彼女は本を卓上へ置いた。
槙島は自分から抱き寄せず、そばに座っていた。
沙代がどうしたいのか、待った。
やがて彼女が手を伸ばす。
彼の左手を取り、指輪へそっと触れた。
「今日は、まだ話せない。何を聞きたいのかも、分からないから」
「分かった」
「でも、ここにいてほしい」
「うん」
沙代は彼の肩へ頭を預けた。
槙島はその肩へ腕を回す。
電話をしていた間も、自分は彼女と同じ家にいた。
扉一枚を隔てたところで、沙代は、誰かを傷つける人間と話す自分の声を聞いていたのだ。
「聖護」
「何?」
「何も知らない私に、戻ったと思わないでね」
彼は彼女へ顔を向けた。
沙代は目を伏せたままだったが、言葉は続いた。
「一緒にいるって決めたの、忘れてない。でも、考えなくなったわけじゃないよ」
槙島はゆっくり頷いた。
「覚えておくよ」
彼女の手を握る。
その手が握り返してくるまで、少し時間がかかった。
*
十二月の朝は、窓を開けるとすぐに指先が冷えた。
沙代は短く空気を入れ替えてから、窓を閉めた。
食卓には二つのカップが並んでいる。
最近は、お茶の種類を自分と聖護で変えるようになった。
背後で、寝室の扉が開く。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いね」
槙島は食卓の時計を見た。
「少し、出かける用事があるんだ」
「朝ごはんは?」
「一緒に食べる時間はあるよ」
沙代は頷き、彼の皿を出した。
こうして暮らすことを、もう一度自分で選んだ。
だからといって、出かける理由を聞く前に、一瞬ためらう癖がなくなったわけではない。
「……今日は、遅くなる?」
槙島は椅子に座る前に、彼女を見た。
「まだ分からない。夕方には一度連絡する」
「うん」
それなら待てる。
沙代は自分の席へ座り、カップを持った。
槙島が、本棚の端に置かれた小さな靴下へ目を向ける。
「ずっと、そこに飾っているね」
「しまおうと思ったんだけど、見えるところにあると嬉しいから」
「もう片方は?」
「ここ」
沙代が隣の本の後ろから取り出すと、彼は笑った。
「別々に置いていたら、履かせる時に困るよ」
「聖護の本に埋もれてただけです」
わざと敬語で返すと、槙島が声を立てて笑った。
沙代も笑った。
ニュースを見ている時の彼とは違う顔だ。
けれど、違う人ではない。
そのことを、もう知っている。
それでも、この朝を嬉しいと思った。
*
学園の捜査は、王陵璃華子へ近づいていた。
狡噛は、発見された遺体と作品に関する資料を見ていた。
標本事件に似ている。
それでも、そこに表れている執着は、三年前と同じではない。
メッセージ性からなにまで、何も感じられないからだ。
誰が作ったのか。
そして、誰が作らせたのか。
朱は彼の視線を追った。
「王陵さんが実行したとしても、背後にいる人物は別なんですね」
「その可能性は高い」
狡噛は資料を切り替える。
「道具を与えて、使い方を見ている奴がいる」
朱は黙って画面を見た。
タリスマンの向こうにいた御堂も、工場の金原も、初めから何もかも一人で用意したわけではない。
その繋がりの先に、マキシマがいる。
狡噛はもう、それをただの偶然とは考えていなかった。
「王陵が確保できれば、聞けることがある」
「……その前に、また誰かが傷つくかもしれません」
「ああ」
狡噛は立ち上がった。
「だから急ぐ」
*
「彼女への追及が、かなり進んでいます」
グソンの報告に、槙島は頷いた。
卓上には璃華子の作品についての資料があった。
彼女は父の作品と思想を語る。
社会への憎悪を語り、自分の作品に込めた意味を説明する。
槙島はその言葉を思い返していた。
彼女が何を欲しているのか。
自分の意志で、何を選んでいるのか。
「ダンナ?」
「うん。聞いているよ」
グソンは次の報告へ移った。
槙島は質問を挟み、璃華子の様子を確かめる。
その声音には、沙代の家で話す時の柔らかさはなかった。
やがて、彼女から連絡が入る。
槙島は端末を取り、少し離れたところで応じた。
話を聞きながら、彼の表情はほとんど変わらない。
通話を終えると、グソンが尋ねた。
「どうします?」
槙島は資料へ目を落とした。
彼女の限界が見え始めていた。
「このまま、彼女自身の判断を見よう」
グソンは短く頷いた。
槙島は別の予定を確認する。
泉宮寺豊久。
璃華子の件が終わっても、次の動きはすでにあった。
*
午後、沙代は朱から届いたメッセージを読んでいた。
《寒くなりましたね。体調はどうですか?》
短い文面だった。
以前より返信の間が空くようになり、仕事が忙しいのだろうと思った。
沙代は自分の体調を答えてから、尋ねる。
《朱さんも、ちゃんと休めてる?》
送信したあと、画面を伏せた。
ニュースでは、学園の事件が繰り返し取り上げられている。
朱は、それを追っているのかもしれない。
聖護は、それに関わっている。
二人の名前を、同じ端末の中に持っていた。
沙代は窓際へ移り、外を眺める。
彼を選んだことを、間違っていたと思いたくない。
けれど、朱が追う事件について、早く終わってほしいと願う気持ちも本当だった。
その願いの先で、聖護が捕まるかもしれない。
考えて、また行き詰まる。
沙代は椅子へ座り直し、以前より丸みの増したお腹へ手を置いた。
「……難しいね」
小さく呟いてから、目を閉じた。
*
公安が学園へ迫る中、璃華子はその場を離れた。
グソンの手引きによって、追及を逃れた先へ進む。
彼女にとっては、槙島が用意した助けに見えたのだろう。
けれど、彼が彼女を見る目は、もう変わっていた。
地下の暗がりで、璃華子は槙島へ連絡する。
助けを求める声。
自分にはまだ価値があると訴える言葉。
槙島はそれを聞いていた。
作品を作り、語る時には自信に満ちていた彼女が、今は、自分を選んでもらおうとしている。
彼が求めていたものとは違った。
会話の向こうで、璃華子が異変に気づく。
槙島は彼女の恐怖を聞きながら、救いの約束をしなかった。
「沙代なら、そんな風に喚くことはないのに」
『は!?』
通話は、やがて終わった。
「はは、恋しくてつい名前を呼んでしまった」
槙島は微笑む。
そしてその先を任された泉宮寺は、狩りを楽しむ者だった。
*
夕方、沙代の端末が震えた。
《少し遅くなる。夕食は先に食べていて》
聖護からだった。
約束したとおり、連絡をくれた。
沙代は画面を見つめ、返事を打つ。
《分かった。帰る時、また教えてね》
すぐに既読がついた。
その後ろで、ニュースが流れている。
桜霜学園女生徒連続殺人事件。
重要参考人、王陵璃華子。
所在は確認されていない。
「違う、よね」
沙代は顔を上げた。
ーー行方不明。
その言葉に、先日の電話を思い出した。
聖護が話していた女性。
名前は聞かなかった。
同じ人なのかもしれない。
違う人なのかもしれない。
彼女には、まだ分からなかった。
*
捜査員たちが学園を調べる中で、狡噛は消えた璃華子の行方を追っていた。
あと少しで届くはずだった相手が、いなくなった。
彼女一人の判断と準備で、ここまでできただろうか。
「……また、先に動かれた」
朱が顔を向ける。
「マキシマですか」
狡噛は頷いた。
「王陵を追えば、あいつに近づけると思った。だが向こうは、こちらの動きを見てる」
朱は学園の廊下へ目を向けた。
ここで暮らし、学んでいた生徒たちがいた。
その中から犠牲者が出て、重要参考人も消えた。
事件を動かしている人物の姿だけが、まだ見えない。
狡噛は歩き始めた。
今度こそ、その顔を見つけるために。
*
帰宅した槙島は、玄関で沙代と目を合わせた。
「ただいま」
「……おかえり」
彼女はいつものように彼のコートを受け取った。
それから、袖を握ったまま立っていた。
「ニュースを見た?」
槙島が尋ねる。
沙代は頷いた。
「女の人、いなくなったって」
彼は黙っていた。
「この前、電話してた人?」
「そうだよ」
沙代はコートへ目を落とす。
しばらくして、顔を上げた。
「もう、帰ってこないの?」
槙島は彼女を見た。
「帰ってこないよ」
沙代の指から力が抜ける。
詳しいことは言われなかった。
けれど、その返事が意味するものを、考えずにはいられない。
槙島はコートを受け取り、自分で掛けた。
振り向くと、沙代がまだそこにいた。
「……今日は、何か聞かない方がいい?」
「君が聞きたいなら、聞いていい」
彼女は少し首を横に振った。
「今は、言葉が出ない」
「うん」
二人で居間へ入る。
食卓には、彼の分の食事が残されていた。
「先に食べてと言っただろう?」
「私は食べたよ。聖護の分は、置いておいただけ」
槙島は椅子を引いた。
沙代も向かいへ座る。
彼女は、彼が食べ始めるのを見ていた。
外で何があったのかを知らないまま、待っている頃には戻れない。
それでも、この食卓をなくしたいとは思わなかった。
「明日は?」
沙代が尋ねる。
「また、出かけるよ」
彼は答え、彼女を見た。
「狡噛慎也のことを、もう少し知りたくなったんだ」
その名前に、沙代が顔を上げる。
自分を助けてくれた人。
朱と一緒に事件を追っている人。
槙島の声には、抑えきれない関心があった。
沙代は彼の左手を見た。
指輪は、いつもの場所にあった。
そして同じ人が今、彼を追う刑事について、楽しそうに考えていた。
*
「愛、なのかな」
沙代が呟くと、槙島は食事の手を止めた。
「何が?」
彼女はすぐには答えなかった。
食卓の向こうにいる彼を見る。帰ってきてくれたことが嬉しい。
声を聞けば安心する。
さっき聞いた言葉が怖くても、その気持ちは消えなかった。
「……聖護が帰ってこないのは、嫌なの」
槙島は黙って聞いた。
「でも、いなくなった人にも、帰ってきてほしいって思う人がいるんだよね」
沙代は指輪へ触れる。
「それを考えても、私は聖護に帰ってきてって思ってる」
彼は食器を置いた。
「それが、愛なのかと?」
沙代が頷く。
「好きって言葉で、自分の選んだことを許そうとしてるだけなのかなって」
槙島は少し考えた。
彼女がそばにいる理由を、愛だと答えてしまうことは簡単だった。
その答えを、彼女も自分も望んでいる。
「僕がそうだと言えば、少し楽になる?」
「……なると思う」
沙代は正直に答えた。
「でも、聖護に言わせるのは、ずるいね」
「僕にも、ずるいところがあるよ」
彼は彼女の手へ視線を落とす。
「君が僕を好きだから帰れる家がある。そのことに、甘えている」
沙代は黙った。
「それでも、帰る途中で君に会いたいと思っていたのは、本当だよ」
彼女の目が潤む。
その言葉が嬉しかった。
嬉しいと思える自分を、今夜は簡単に肯定できなかった。
「……明日も、ここに帰ってきて」
「うん」
「でも、それで今日の話が平気になったとは思わないでほしい」
「分かっている」
沙代は少し息を吐いた。
それから、食卓の上へ手を伸ばす。
槙島は自分の手を重ねる前に、彼女の顔を見た。
沙代が小さく頷く。
繋ぐと、指輪同士が触れた。
「愛だったとしても、私が考えなくていい理由にはならないね」
「……そうだね」
沙代は彼の手を握った。
今夜は、答えを一つに決められなかった。
それでも彼女はここにいて、彼もその手を離さなかった。
しばらくして、槙島が口を開いた。
「僕は、恋とか愛とか、本でしか読んだことがなかったんだ。言葉では理解できても、その感情を知ることはできない。そうやって生きてきた中で、君と出会った」
沙代が顔を上げる。
「初めは、君の話をもっと聞きたいと思った。会わなくなってからは、何を読んでいるのか、僕に話したいことがまだあるのか、気になった」
彼は繋いだ手へ目を落とした。
「今は、君が待っている家へ帰りたい。僕を怖いと言った君にも、ここにいてほしいと思っている」
沙代の指が、少し動いた。
槙島はその手を見てから、彼女へ視線を戻した。
「ただ、一度だけ、君を殺そうとしたことがある」
沙代が動かなくなる。
「……私を?」
「うん。初めて、君の家に泊まった夜だよ」
繋いでいた手から、力が抜けた。
槙島は握り留めなかった。
「君と話すのを終えたくなかった。翌朝、君が何を話すのか楽しみにしていた。そんな自分が、少し気味悪かったんだ」
彼女は黙っていた。
「君がいなくなれば、この落ち着かなさもなくなるかと思った。眠っている君のそばまで行ったよ」
沙代は手を自分の膝へ戻した。
「あの夜……私、聖護がいてくれて、安心して寝たのに」
「うん」
「どうして、やめたの?」
槙島は少し間を置いた。
「君がいなくなった部屋で、僕が楽になるとは思えなかった。もう二度と、君が僕を見て話し始めることがない。その方が、嫌だった」
沙代の目が潤む。
彼は触れずに、その顔を見ていた。
「できなかったんだ。そのあとも、君に会いたかった」
「……それで、私には言わなかったんだね」
「言えば、君が離れるかもしれなかったからね」
槙島は静かに答えた。
沙代は、自分の指輪へ目を落とした。
彼が今まで隠していたものが、また一つ増えた。
その中に、自分が眠っていた夜まであった。
「……それが、愛?」
「君にそうだと言ってほしい気持ちはあるよ」
槙島は小さく笑った。
「ただ、愛を知ったからといって、僕が別の人間になったわけではないね。君との暮らしを望みながら、外でしていることも続けたい」
沙代は黙って聞いていた。
「それでも、君と出会う前には、こんなふうに帰りたい場所はなかった」
彼は彼女を見た。
「それは、君に知っていてほしいんだ」
沙代は小さく頷いた。
そのことが嬉しい。
同じ人に殺されかけたことは、怖い。
どちらか一つだけを受け取ることは、もうできなかった。
食卓に置かれた彼の手を、今夜はすぐに取り直せずにいた。