絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

57 / 57
56.少し早いクリスマス

 

 

 

あの夜の話を、沙代はそのあとも思い出していた。

 

聖護がそばにいると嬉しい。

眠る前に顔を見ると、あの時も自分は安心していたのだと考える。

 

彼と暮らす日々は続いていた。

 

話したことが、何もなかったことになったわけではない。

 

*

 

十二月二十一日。

 

窓の外はもう暗く、部屋には読書灯の柔らかな光が落ちていた。

 

「クリスマス、どうする?」

 

沙代が尋ねた時、槙島は本棚の前にいた。

 

「どうしたい?」

 

彼が振り向くと、沙代は端末を持ち上げる。

小さなケーキの写真が並んでいた。

 

「今年は作るの、ちょっと大変かなって。買おうと思って見てた」

「一周年の時には、随分頑張ってくれたね」

「聖護、おいしそうに食べてくれたから」

 

彼女は笑い、画面を自分の方へ戻した。

 

「今度は一緒に選びたいなと思って」

 

槙島は隣へ座った。

二人で写真を見比べる。

沙代が一つを指すと、彼は別のものを示した。

 

「君は、こちらが好きそうだけど」

「うん。でも、二人だと少し大きいかな」

「翌日も食べればいい」

「……次の日も、いる?」

 

槙島は画面から彼女へ目を移した。

沙代も、自分が何気なく聞いたことに気づいたらしい。

 

端末を膝へ下ろした。

 

「二十四日は、用事があるんだ」

「そっか」

「二十五日も、今はまだはっきり言えない」

 

彼女は少し考えた。

 

「じゃあ、二十三日は?」

 

槙島が予定を確かめる。

泉宮寺との話は進んでいた。

 

狡噛をどう迎えるか。

そのために何が必要か。

 

翌日以降に向けて、確認することはある。

 

「夜なら、帰れると思うよ」

「じゃあ、その日にしよう」

 

沙代はもう一度、ケーキの写真を開いた。

 

「少し早いけど、二人で食べられる方がいい」

 

槙島は彼女の横顔を見ていた。

予定が分からないと聞いたうえで、自分も楽しめる日を探している。

 

「二十三日の夜は、空けておくよ」

 

沙代が顔を上げる。

 

「本当?」

「うん。ケーキを選んだら、教えて」

「一緒に選んでるところでしょ」

「そうだったね」

 

彼が笑うと、沙代も笑った。

 

 

 

*

 

 

 

その日、朱は狡噛とともに雑賀のもとを訪れていた。

槙島という人物について、分かっていることを話す。

 

犯人たちとの関わり。

犯罪を可能にした手段。

その先に見える意図。

 

雑賀は話を聞き、時折質問を返した。

 

朱は、目に見える犯行だけでなく、人間の欲求や関係を辿っていく考え方に耳を傾けていた。

 

「その人物が、犯人たちに何を求めていたか。それも重要になる」

 

そう促され、朱は資料を見直す。

誰かに手段を与え、その選択を見ている人物。

 

狡噛は、その相手を追っている。

ふと、沙代が相談していたことを思い出した。

大切な人が、話してくれないことがある。

 

朱はすぐに、その考えを脇へ置いた。

沙代の不安と、目の前の捜査を結びつける根拠はない。

けれど、相手を知っていると思うことの難しさは、前より身近になっていた。

 

雑賀が資料を置いたところで、朱は少し迷ってから口を開いた。

 

「あの……相手が何をしているのか分からなくても、その人を信じて、一緒にいることはできるんでしょうか」

「身近な誰かの話かな」

「知り合いが、大切な人について悩んでいて。話してもらえないことがあるそうなんです」

 

雑賀は頷いた。

 

「その知り合いは、何を知っている?」

「詳しくは聞いていません。ただ、その人とこれからも一緒にいたいと思っていて……子どもも生まれるそうです」

 

隣で、狡噛の手が止まった。

朱はそれに気づかず、言葉を続けた。

 

「幸せだと言っていました。でも、怖いこともあるって。相手のことを、どこまで分かっているんだろうと思って」

「君が気になるのは、彼女の判断か。それとも、その相手かい?」

 

朱は少し黙った。

 

「……両方だと思います」

「では、分けて考えてみよう。その相手について、君自身が知っていることは?」

「会ったことはありません。本が好きで、彼女と一緒に暮らしているらしい、ということくらいです」

「彼女が話してくれたことだけなんだね」

「はい」

 

雑賀は卓上の資料へ目を向けた。

 

「それなら、彼女に何を隠しているのかも、隠す理由も、まだ分からない。親しい相手にも話せないことを持つ人間はいる。それだけでは、何をしている人物かまでは判断できないよ」

「でも、もし彼女が、何かおかしいと感じながら、一緒にいたいから聞かずにいるとしたら……」

「常守」

 

狡噛に呼ばれ、朱は顔を向けた。

彼は朱を見ていた。

 

「お前は、倉橋を疑っているのか」

 

朱は息を止めた。

 

「……そういうつもりでは」

「なら、彼女の相手を?」

 

すぐには答えられなかった。

沙代が口にした名前を思い出す。

 

聖護。

 

目の前の資料にも、同じ名前がある。けれど、それだけで結びつけていいはずがなかった。

 

「気になっていることはあります。でも、疑う根拠と言えるほどのものではありません」

 

狡噛はしばらく黙ってから、椅子へ背を預けた。

 

「俺も、倉橋が誰かについて話したがらないとは感じた。だが、何を隠しているのかは分からない」

 

朱が顔を上げる。

 

「狡噛さんも、相手には会っていないんですよね」

「ああ」

 

雑賀は二人を見比べた。

 

「彼女が不安を抱えていることと、その相手が犯罪に関わっていることは、まだ別の話だね」

「……はい」

「ただ、君が何か引っかかることを知っているなら、曖昧なまま重ねず、一つずつ確かめることだ。友人として心配しているのか、監視官として確認する必要があるのかも含めて」

 

朱は膝の上で指を組んだ。

 

小さな靴下を選びながら笑った沙代を、疑いたいわけではなかった。

けれど、彼女の隣にいる人について、何も知らないまま安心することもできなくなっていた。

 

「……まず、自分が何を知っているのか、整理してみます」

 

狡噛は頷いた。

朱はもう一度資料へ目を落とした。

そこにある名前を、今度はすぐに見ないふりができなかった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

翌日、泉宮寺との会話は長く続いた。

槙島は、狡噛について得られた情報に目を通していた。

 

三年前の事件。

佐々山の死。

その後も続けている捜査。

 

自分を追う理由は分かる。

だが、それだけではない。

 

狡噛が何を見て、どう判断するのかを、もっと確かめたかった。

 

泉宮寺も、新しい狩りを楽しみにしている。

槙島は彼の話を聞き、質問を返した。

その合間に、端末が震える。

 

《これに決めたよ。明日、受け取ってくる》

 

沙代が送ってきたケーキの写真だった。

彼は少し口元を緩めた。

 

「何か、よい知らせかな」

 

泉宮寺に尋ねられ、槙島は画面を閉じる。

 

「私用です」

「ふむ、彼女でも出来たかと思ったが」

「まさか」

 

それ以上は話さなかった。

沙代が選んだものを、ここへ持ち込む必要はない。

彼女の待つ家の話を、泉宮寺に聞かせたいとも思わなかった。

 

 

*

 

十二月二十三日の夜。

 

槙島が帰宅すると、食卓の上には小さなケーキが置かれていた。

 

「おかえり。間に合ったね」

「ただいま。約束したからね」

 

沙代は嬉しそうに笑い、二枚の皿を出した。

大げさな飾りつけはなかった。

窓際に小さな灯りを置き、本棚の上には、あの靴下が二つ並んでいる。

 

槙島が目を向けると、彼女が少し照れた。

 

「来年は、この子の分も何か用意できるかなって」

 

彼は靴下を見る。

来年のクリスマスには、生まれている。

 

今年はまだ沙代のお腹にいる子が、その頃には、この部屋で声を上げる。

 

「まだケーキは食べられないだろうね」

「うん。だから、見るだけ」

「君が食べるところを?」

「聖護も食べるでしょ」

 

沙代の言葉に、彼は笑った。

席へ着くと、彼女はケーキを切り分ける。

自分の皿に載せたあと、少し迷って、彼の方へ大きい一切れを置いた。

 

「こちらが僕の分?」

「私、今日はそんなに食べられないかも」

「残していいよ。無理に食べなくていい」

 

沙代は頷いた。

一口食べると、嬉しそうに目を細める。

槙島はその顔を見てから、自分の分を口へ運んだ。

 

「おいしいね」

「よかった。一緒に選んで正解だったね」

 

食卓の端で、彼の端末が震える。

槙島は表示を確認し、すぐに伏せた。

沙代は気づいていたが、しばらく何も言わなかった。

 

「急ぎ?」

「あとで返せばいい」

「……うん」

 

彼女はフォークを置き、彼へ手を伸ばした。

 

「今は、こっち見てて」

 

槙島はその手を取る。

 

「見ているよ」

「さっきまで、少し別のこと考えてた」

 

彼は小さく笑った。

 

「分かるんだね」

「三年近く、見てるから」

 

沙代は彼の指輪に触れた。

 

「明日のことは、今夜全部聞こうとは思ってない。でも、今日の約束は、ちゃんと一緒に過ごしたい」

 

槙島は頷き、端末を食卓から離す。

 

「そうしよう」

 

沙代が少し笑った。

彼は彼女の隣へ椅子を寄せた。

 

「クリスマスに、欲しいものはある?」

 

沙代は考え、それから彼を見る。

 

「今は、これで嬉しい」

「ケーキ?」

「一緒に食べられたこと」

 

槙島は手を握り直した。

彼女の望みは小さく聞こえる。

けれど、自分がそれをいつでも叶えられる暮らしをしていないことは、知っていた。

 

「……僕も嬉しいよ」

 

沙代は彼の肩へもたれる。

 

「来年は、ちゃんと二十四日にできたらいいね」

 

彼はすぐには答えなかった。

明日には、狡噛へ向けた計画が動き出す。

 

それを楽しみにしている自分がいる。

この家で来年の話を続けたい自分もいる。

 

槙島は沙代の髪へ口づけた。

 

「今夜は、まだ起きていられそう?」

「少しなら」

「では、本を読もうか」

 

沙代が頷く。

 

彼が本を取ってくる間に、彼女は二人分のカップを用意した。

 

少し早いクリスマスの夜は、そうして続いた

 

 

 

*

 

 

十二月二十四日。

 

目を覚ました時、隣の寝床はもう空いていた。

沙代はしばらく、その場所へ手を置いていた。

昨夜、灯りを消す前には、聖護がそこにいた。

 

少し早いクリスマス。

二人で食べたケーキ。

途中で眠くなって、最後まで聞けなかった本。

 

枕元の端末を開く。

 

《早く出ることになった。起こさずに出たよ。今日は帰りが遅くなる》

 

その下に、もう一通。

 

《残りのケーキは、君が食べていい》

 

沙代は小さく笑った。

 

《聖護の分、少し残しておくね》

 

送信してから、身体を起こした。

 

 

 

*

 

 

 

槙島は、泉宮寺の話を聞いていた。

 

これから始まる狩りについて、彼は楽しそうに語る。

 

生きている実感を得ること。

相手を追い、自分も危険にさらされること。

 

槙島はその欲求に興味を持っていた。

 

だが今日は、追われる側にも見たいものがある。

 

狡噛慎也。

 

佐々山の死を追い続け、制度が見逃したものへ自分の判断で迫る刑事。

限られた状況の中で、彼が何を選ぶのか。

 

「彼は、簡単には終わらないと思いますよ」

 

槙島が言うと、泉宮寺は嬉しそうに笑った。

その返事を聞いた時、端末の通知が目に入る。

沙代からだった。

 

残しておくね。

 

槙島は読み終え、画面を閉じた。

その言葉のある家へ帰りたい。

今、目の前で始まろうとしていることも見届けたい。

 

彼は再び、泉宮寺へ顔を向けた。

 

 

 

 

*

 

 

 

舩原ゆきを助けるため、狡噛は廃棄区画へ入った。

そこには、誰かに整えられた狩り場があった。

 

周囲を見て、音を聞き、残された手掛かりを確かめる。

ゆきは怯えながらも、彼についてきた。

狡噛には、自分がここへ呼び込まれたことが分かっていた。

 

相手の望む場所へ、自分の足で来ている。

 

それでも、目の前のゆきを置いて帰ることはできない。

 

「俺から離れるな」

 

短く告げると、彼女は頷いた。

連絡は思うように届かなかった。

 

外にいる仲間へ状況を伝えられないまま、二人は先へ進む。

 

その動きを、別の場所で槙島が見ていた。

 

 

*

 

昼を過ぎても、聖護から返信はなかった。

 

沙代は急かすつもりはなく、端末を卓上へ置いた。

 

今日は留守にすると聞いている。

連絡が取れない時間もあるだろう。

 

そう思って、昼食を用意した。

 

窓の外には、いつもより人が多い。

 

買い物袋を持った人や、連れ立って歩く家族が見えた。

食事を終えると、朱との会話を開く。

 

《メリークリスマス。お仕事だったら、終わってから見てね》

 

少し迷ってから、昨夜のケーキの写真を添えた。

 

聖護の姿は写っていない。

二枚の皿と、二つのカップだけ。

送信して、本を取った。

 

読み進めていても、時々玄関の方へ顔を向けてしまう。

 

まだ帰る時間ではないと分かっているのに。

沙代は栞を挟み、お腹へ手を置いた。

 

「今日は、お父さん忙しいんだって」

 

小さく話しかける。

 

その声を聞く人は、自分しかいなかった。

 

*

 

 

狡噛は、ゆきとともに逃げ続けていた。

 

追ってくる相手は、人間の姿をしていても、身体の大部分を機械へ置き換えた男だった。

 

その事実を知れば、動き方も変わる。

 

狡噛は観察し、考え、目の前の危機に対応した。

泉宮寺はそれを楽しんでいた。

 

思いどおりに追い込めない相手であるほど、狩りは彼の望むものに近づいていく。

グソンが画面を見ながら言った。

 

「随分、粘りますね」

「うん」

 

槙島は目を離さなかった。

狡噛は、自分だけを助ける判断をしていない。

ゆきを守り、そのために危険を引き受けている。

 

「彼女がいなければ、別の選択もできるでしょうに」

 

グソンの言葉に、槙島は少し目を細めた。

 

「だから、見ていたいんだよ」

 

守る相手がいることで、できなくなることがある。

その制約の中で、何を諦めずにいるのか。

槙島はそこへ関心を向けていた。

 

机上の端末が震える。

 

今度は、沙代からの短い連絡だった。

 

《少し眠るね。帰る時、教えて》

 

彼は一度だけ画面を見た。

 

《うん。ゆっくり休んで》

 

送信して、映像へ戻る。

 

グソンはその横顔を見たが、何も言わなかった。

 

 

 

*

 

朱は狡噛を捜していた。

 

彼が危険な場所にいることは分かる。

けれど、連絡が通じず、状況を確かめられない。

 

自分の友人も、一緒にいる。

 

手元の端末に届いた私用の通知は、開かないままにした。

今は、二人へ辿り着かなければならない。

 

狡噛はゆきを助けようとしている。

では、その狡噛を助けるために、自分は何ができるのか。

 

朱は情報を確かめ、次に進むべき場所へ目を向けた。

 

 

 

*

 

夕方、沙代は目を覚ました。

 

部屋は薄暗く、寝る前より少し冷えていた。

 

灯りをつけ、端末を見る。

 

聖護の返信が一通あった。

 

朱からは、まだない。

 

二人とも仕事なのだろう。

 

沙代は立ち上がって、お湯を沸かした。

 

昨夜の残りのケーキを取り出し、皿へ分ける。

 

聖護の分には蓋をした。

 

その動作を終えてから、ふと手が止まる。

 

「……帰ってくるよね」

 

口に出すと、寂しさがはっきりした。

 

考えた末に、彼と暮らすと決めた。

 

留守を待つことも、その暮らしの一部だ。

 

でも、待てると決めたことと、待つ間ずっと落ち着いていられることは違った。

 

沙代は椅子へ座り直した。

 

《ケーキ、まだあるよ》

 

それだけ送る。

 

何時に帰るの、と重ねて聞くのは、少しあとにしようと思った。

 

*

 

狩りは、まだ終わっていなかった。

狡噛は、ゆきの小さな変化にも目を向けながら動いていた。

 

彼女が疲れていること。

怯えていること。

 

それらも含めて、次の判断をしなければならない。

 

その姿を見ながら、槙島は席を立った。

 

「ダンナ?」

 

グソンが顔を上げる。

 

「現場へ行ってくるよ」

「こちらでも確認できますが」

「うん。けれど、この先は、あちらで見届けたい」

 

コートを取った時、端末に沙代のメッセージが表示された。

 

ケーキ、まだあるよ。

 

槙島はしばらく、その一文を見た。

帰宅すれば、彼女が顔を上げるだろう。

一人でいた時間に何をしたか、話してくれる。

 

眠る前には、自分の手を探すかもしれない。

 

そこへ戻りたい気持ちを持ったまま、彼は戸口へ向かった。

 

沙代に、まだ帰れないと送る。

 

*

 

通知が来た時、沙代は本を読んでいた。

 

《もう少しかかる。先に眠っていて》

 

彼女は文面を読み、短く返す。

 

《分かった。気をつけてね》

 

それから少し迷って、付け足した。

 

《帰ってきたら、起こして》

 

*

 

槙島は二通の返事を読んだ。

 

指輪のある左手で端末を持ち、右手でコートの前を整える。

 

家では、沙代が帰りを待っている。

 

これから向かう場所には、自分が危険へ呼び込んだ刑事と、その刑事が守ろうとしている人がいる。

 

槙島は端末をしまった。

 

沙代の知らないところで、彼のクリスマスは、まだ続いていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。