あの夜の話を、沙代はそのあとも思い出していた。
聖護がそばにいると嬉しい。
眠る前に顔を見ると、あの時も自分は安心していたのだと考える。
彼と暮らす日々は続いていた。
話したことが、何もなかったことになったわけではない。
*
十二月二十一日。
窓の外はもう暗く、部屋には読書灯の柔らかな光が落ちていた。
「クリスマス、どうする?」
沙代が尋ねた時、槙島は本棚の前にいた。
「どうしたい?」
彼が振り向くと、沙代は端末を持ち上げる。
小さなケーキの写真が並んでいた。
「今年は作るの、ちょっと大変かなって。買おうと思って見てた」
「一周年の時には、随分頑張ってくれたね」
「聖護、おいしそうに食べてくれたから」
彼女は笑い、画面を自分の方へ戻した。
「今度は一緒に選びたいなと思って」
槙島は隣へ座った。
二人で写真を見比べる。
沙代が一つを指すと、彼は別のものを示した。
「君は、こちらが好きそうだけど」
「うん。でも、二人だと少し大きいかな」
「翌日も食べればいい」
「……次の日も、いる?」
槙島は画面から彼女へ目を移した。
沙代も、自分が何気なく聞いたことに気づいたらしい。
端末を膝へ下ろした。
「二十四日は、用事があるんだ」
「そっか」
「二十五日も、今はまだはっきり言えない」
彼女は少し考えた。
「じゃあ、二十三日は?」
槙島が予定を確かめる。
泉宮寺との話は進んでいた。
狡噛をどう迎えるか。
そのために何が必要か。
翌日以降に向けて、確認することはある。
「夜なら、帰れると思うよ」
「じゃあ、その日にしよう」
沙代はもう一度、ケーキの写真を開いた。
「少し早いけど、二人で食べられる方がいい」
槙島は彼女の横顔を見ていた。
予定が分からないと聞いたうえで、自分も楽しめる日を探している。
「二十三日の夜は、空けておくよ」
沙代が顔を上げる。
「本当?」
「うん。ケーキを選んだら、教えて」
「一緒に選んでるところでしょ」
「そうだったね」
彼が笑うと、沙代も笑った。
*
その日、朱は狡噛とともに雑賀のもとを訪れていた。
槙島という人物について、分かっていることを話す。
犯人たちとの関わり。
犯罪を可能にした手段。
その先に見える意図。
雑賀は話を聞き、時折質問を返した。
朱は、目に見える犯行だけでなく、人間の欲求や関係を辿っていく考え方に耳を傾けていた。
「その人物が、犯人たちに何を求めていたか。それも重要になる」
そう促され、朱は資料を見直す。
誰かに手段を与え、その選択を見ている人物。
狡噛は、その相手を追っている。
ふと、沙代が相談していたことを思い出した。
大切な人が、話してくれないことがある。
朱はすぐに、その考えを脇へ置いた。
沙代の不安と、目の前の捜査を結びつける根拠はない。
けれど、相手を知っていると思うことの難しさは、前より身近になっていた。
雑賀が資料を置いたところで、朱は少し迷ってから口を開いた。
「あの……相手が何をしているのか分からなくても、その人を信じて、一緒にいることはできるんでしょうか」
「身近な誰かの話かな」
「知り合いが、大切な人について悩んでいて。話してもらえないことがあるそうなんです」
雑賀は頷いた。
「その知り合いは、何を知っている?」
「詳しくは聞いていません。ただ、その人とこれからも一緒にいたいと思っていて……子どもも生まれるそうです」
隣で、狡噛の手が止まった。
朱はそれに気づかず、言葉を続けた。
「幸せだと言っていました。でも、怖いこともあるって。相手のことを、どこまで分かっているんだろうと思って」
「君が気になるのは、彼女の判断か。それとも、その相手かい?」
朱は少し黙った。
「……両方だと思います」
「では、分けて考えてみよう。その相手について、君自身が知っていることは?」
「会ったことはありません。本が好きで、彼女と一緒に暮らしているらしい、ということくらいです」
「彼女が話してくれたことだけなんだね」
「はい」
雑賀は卓上の資料へ目を向けた。
「それなら、彼女に何を隠しているのかも、隠す理由も、まだ分からない。親しい相手にも話せないことを持つ人間はいる。それだけでは、何をしている人物かまでは判断できないよ」
「でも、もし彼女が、何かおかしいと感じながら、一緒にいたいから聞かずにいるとしたら……」
「常守」
狡噛に呼ばれ、朱は顔を向けた。
彼は朱を見ていた。
「お前は、倉橋を疑っているのか」
朱は息を止めた。
「……そういうつもりでは」
「なら、彼女の相手を?」
すぐには答えられなかった。
沙代が口にした名前を思い出す。
聖護。
目の前の資料にも、同じ名前がある。けれど、それだけで結びつけていいはずがなかった。
「気になっていることはあります。でも、疑う根拠と言えるほどのものではありません」
狡噛はしばらく黙ってから、椅子へ背を預けた。
「俺も、倉橋が誰かについて話したがらないとは感じた。だが、何を隠しているのかは分からない」
朱が顔を上げる。
「狡噛さんも、相手には会っていないんですよね」
「ああ」
雑賀は二人を見比べた。
「彼女が不安を抱えていることと、その相手が犯罪に関わっていることは、まだ別の話だね」
「……はい」
「ただ、君が何か引っかかることを知っているなら、曖昧なまま重ねず、一つずつ確かめることだ。友人として心配しているのか、監視官として確認する必要があるのかも含めて」
朱は膝の上で指を組んだ。
小さな靴下を選びながら笑った沙代を、疑いたいわけではなかった。
けれど、彼女の隣にいる人について、何も知らないまま安心することもできなくなっていた。
「……まず、自分が何を知っているのか、整理してみます」
狡噛は頷いた。
朱はもう一度資料へ目を落とした。
そこにある名前を、今度はすぐに見ないふりができなかった。
*
翌日、泉宮寺との会話は長く続いた。
槙島は、狡噛について得られた情報に目を通していた。
三年前の事件。
佐々山の死。
その後も続けている捜査。
自分を追う理由は分かる。
だが、それだけではない。
狡噛が何を見て、どう判断するのかを、もっと確かめたかった。
泉宮寺も、新しい狩りを楽しみにしている。
槙島は彼の話を聞き、質問を返した。
その合間に、端末が震える。
《これに決めたよ。明日、受け取ってくる》
沙代が送ってきたケーキの写真だった。
彼は少し口元を緩めた。
「何か、よい知らせかな」
泉宮寺に尋ねられ、槙島は画面を閉じる。
「私用です」
「ふむ、彼女でも出来たかと思ったが」
「まさか」
それ以上は話さなかった。
沙代が選んだものを、ここへ持ち込む必要はない。
彼女の待つ家の話を、泉宮寺に聞かせたいとも思わなかった。
*
十二月二十三日の夜。
槙島が帰宅すると、食卓の上には小さなケーキが置かれていた。
「おかえり。間に合ったね」
「ただいま。約束したからね」
沙代は嬉しそうに笑い、二枚の皿を出した。
大げさな飾りつけはなかった。
窓際に小さな灯りを置き、本棚の上には、あの靴下が二つ並んでいる。
槙島が目を向けると、彼女が少し照れた。
「来年は、この子の分も何か用意できるかなって」
彼は靴下を見る。
来年のクリスマスには、生まれている。
今年はまだ沙代のお腹にいる子が、その頃には、この部屋で声を上げる。
「まだケーキは食べられないだろうね」
「うん。だから、見るだけ」
「君が食べるところを?」
「聖護も食べるでしょ」
沙代の言葉に、彼は笑った。
席へ着くと、彼女はケーキを切り分ける。
自分の皿に載せたあと、少し迷って、彼の方へ大きい一切れを置いた。
「こちらが僕の分?」
「私、今日はそんなに食べられないかも」
「残していいよ。無理に食べなくていい」
沙代は頷いた。
一口食べると、嬉しそうに目を細める。
槙島はその顔を見てから、自分の分を口へ運んだ。
「おいしいね」
「よかった。一緒に選んで正解だったね」
食卓の端で、彼の端末が震える。
槙島は表示を確認し、すぐに伏せた。
沙代は気づいていたが、しばらく何も言わなかった。
「急ぎ?」
「あとで返せばいい」
「……うん」
彼女はフォークを置き、彼へ手を伸ばした。
「今は、こっち見てて」
槙島はその手を取る。
「見ているよ」
「さっきまで、少し別のこと考えてた」
彼は小さく笑った。
「分かるんだね」
「三年近く、見てるから」
沙代は彼の指輪に触れた。
「明日のことは、今夜全部聞こうとは思ってない。でも、今日の約束は、ちゃんと一緒に過ごしたい」
槙島は頷き、端末を食卓から離す。
「そうしよう」
沙代が少し笑った。
彼は彼女の隣へ椅子を寄せた。
「クリスマスに、欲しいものはある?」
沙代は考え、それから彼を見る。
「今は、これで嬉しい」
「ケーキ?」
「一緒に食べられたこと」
槙島は手を握り直した。
彼女の望みは小さく聞こえる。
けれど、自分がそれをいつでも叶えられる暮らしをしていないことは、知っていた。
「……僕も嬉しいよ」
沙代は彼の肩へもたれる。
「来年は、ちゃんと二十四日にできたらいいね」
彼はすぐには答えなかった。
明日には、狡噛へ向けた計画が動き出す。
それを楽しみにしている自分がいる。
この家で来年の話を続けたい自分もいる。
槙島は沙代の髪へ口づけた。
「今夜は、まだ起きていられそう?」
「少しなら」
「では、本を読もうか」
沙代が頷く。
彼が本を取ってくる間に、彼女は二人分のカップを用意した。
少し早いクリスマスの夜は、そうして続いた
*
十二月二十四日。
目を覚ました時、隣の寝床はもう空いていた。
沙代はしばらく、その場所へ手を置いていた。
昨夜、灯りを消す前には、聖護がそこにいた。
少し早いクリスマス。
二人で食べたケーキ。
途中で眠くなって、最後まで聞けなかった本。
枕元の端末を開く。
《早く出ることになった。起こさずに出たよ。今日は帰りが遅くなる》
その下に、もう一通。
《残りのケーキは、君が食べていい》
沙代は小さく笑った。
《聖護の分、少し残しておくね》
送信してから、身体を起こした。
*
槙島は、泉宮寺の話を聞いていた。
これから始まる狩りについて、彼は楽しそうに語る。
生きている実感を得ること。
相手を追い、自分も危険にさらされること。
槙島はその欲求に興味を持っていた。
だが今日は、追われる側にも見たいものがある。
狡噛慎也。
佐々山の死を追い続け、制度が見逃したものへ自分の判断で迫る刑事。
限られた状況の中で、彼が何を選ぶのか。
「彼は、簡単には終わらないと思いますよ」
槙島が言うと、泉宮寺は嬉しそうに笑った。
その返事を聞いた時、端末の通知が目に入る。
沙代からだった。
残しておくね。
槙島は読み終え、画面を閉じた。
その言葉のある家へ帰りたい。
今、目の前で始まろうとしていることも見届けたい。
彼は再び、泉宮寺へ顔を向けた。
*
舩原ゆきを助けるため、狡噛は廃棄区画へ入った。
そこには、誰かに整えられた狩り場があった。
周囲を見て、音を聞き、残された手掛かりを確かめる。
ゆきは怯えながらも、彼についてきた。
狡噛には、自分がここへ呼び込まれたことが分かっていた。
相手の望む場所へ、自分の足で来ている。
それでも、目の前のゆきを置いて帰ることはできない。
「俺から離れるな」
短く告げると、彼女は頷いた。
連絡は思うように届かなかった。
外にいる仲間へ状況を伝えられないまま、二人は先へ進む。
その動きを、別の場所で槙島が見ていた。
*
昼を過ぎても、聖護から返信はなかった。
沙代は急かすつもりはなく、端末を卓上へ置いた。
今日は留守にすると聞いている。
連絡が取れない時間もあるだろう。
そう思って、昼食を用意した。
窓の外には、いつもより人が多い。
買い物袋を持った人や、連れ立って歩く家族が見えた。
食事を終えると、朱との会話を開く。
《メリークリスマス。お仕事だったら、終わってから見てね》
少し迷ってから、昨夜のケーキの写真を添えた。
聖護の姿は写っていない。
二枚の皿と、二つのカップだけ。
送信して、本を取った。
読み進めていても、時々玄関の方へ顔を向けてしまう。
まだ帰る時間ではないと分かっているのに。
沙代は栞を挟み、お腹へ手を置いた。
「今日は、お父さん忙しいんだって」
小さく話しかける。
その声を聞く人は、自分しかいなかった。
*
狡噛は、ゆきとともに逃げ続けていた。
追ってくる相手は、人間の姿をしていても、身体の大部分を機械へ置き換えた男だった。
その事実を知れば、動き方も変わる。
狡噛は観察し、考え、目の前の危機に対応した。
泉宮寺はそれを楽しんでいた。
思いどおりに追い込めない相手であるほど、狩りは彼の望むものに近づいていく。
グソンが画面を見ながら言った。
「随分、粘りますね」
「うん」
槙島は目を離さなかった。
狡噛は、自分だけを助ける判断をしていない。
ゆきを守り、そのために危険を引き受けている。
「彼女がいなければ、別の選択もできるでしょうに」
グソンの言葉に、槙島は少し目を細めた。
「だから、見ていたいんだよ」
守る相手がいることで、できなくなることがある。
その制約の中で、何を諦めずにいるのか。
槙島はそこへ関心を向けていた。
机上の端末が震える。
今度は、沙代からの短い連絡だった。
《少し眠るね。帰る時、教えて》
彼は一度だけ画面を見た。
《うん。ゆっくり休んで》
送信して、映像へ戻る。
グソンはその横顔を見たが、何も言わなかった。
*
朱は狡噛を捜していた。
彼が危険な場所にいることは分かる。
けれど、連絡が通じず、状況を確かめられない。
自分の友人も、一緒にいる。
手元の端末に届いた私用の通知は、開かないままにした。
今は、二人へ辿り着かなければならない。
狡噛はゆきを助けようとしている。
では、その狡噛を助けるために、自分は何ができるのか。
朱は情報を確かめ、次に進むべき場所へ目を向けた。
*
夕方、沙代は目を覚ました。
部屋は薄暗く、寝る前より少し冷えていた。
灯りをつけ、端末を見る。
聖護の返信が一通あった。
朱からは、まだない。
二人とも仕事なのだろう。
沙代は立ち上がって、お湯を沸かした。
昨夜の残りのケーキを取り出し、皿へ分ける。
聖護の分には蓋をした。
その動作を終えてから、ふと手が止まる。
「……帰ってくるよね」
口に出すと、寂しさがはっきりした。
考えた末に、彼と暮らすと決めた。
留守を待つことも、その暮らしの一部だ。
でも、待てると決めたことと、待つ間ずっと落ち着いていられることは違った。
沙代は椅子へ座り直した。
《ケーキ、まだあるよ》
それだけ送る。
何時に帰るの、と重ねて聞くのは、少しあとにしようと思った。
*
狩りは、まだ終わっていなかった。
狡噛は、ゆきの小さな変化にも目を向けながら動いていた。
彼女が疲れていること。
怯えていること。
それらも含めて、次の判断をしなければならない。
その姿を見ながら、槙島は席を立った。
「ダンナ?」
グソンが顔を上げる。
「現場へ行ってくるよ」
「こちらでも確認できますが」
「うん。けれど、この先は、あちらで見届けたい」
コートを取った時、端末に沙代のメッセージが表示された。
ケーキ、まだあるよ。
槙島はしばらく、その一文を見た。
帰宅すれば、彼女が顔を上げるだろう。
一人でいた時間に何をしたか、話してくれる。
眠る前には、自分の手を探すかもしれない。
そこへ戻りたい気持ちを持ったまま、彼は戸口へ向かった。
沙代に、まだ帰れないと送る。
*
通知が来た時、沙代は本を読んでいた。
《もう少しかかる。先に眠っていて》
彼女は文面を読み、短く返す。
《分かった。気をつけてね》
それから少し迷って、付け足した。
《帰ってきたら、起こして》
*
槙島は二通の返事を読んだ。
指輪のある左手で端末を持ち、右手でコートの前を整える。
家では、沙代が帰りを待っている。
これから向かう場所には、自分が危険へ呼び込んだ刑事と、その刑事が守ろうとしている人がいる。
槙島は端末をしまった。
沙代の知らないところで、彼のクリスマスは、まだ続いていた。