絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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57.あなたに言っています

 

 

 

泉宮寺との死闘が終わった時、狡噛は傷を負っていた。

 

まだ動かなければならない。

ゆきを連れて、外へ出なければ。

 

そう考えていても、身体が思うようについてこない。

ゆきがそばで何かを言っていた。声を聞き取ろうとして、狡噛は顔を上げる。

 

視界が揺れた。

 

ここまで守ってきた彼女を、無事に帰さなければならない。それだけは分かっていた。

 

けれど、その先の出来事を、彼は確かめられなかった。

 

 

*

 

沙代は、寝室の灯りを消せずにいた。

 

先に眠っていて、と言われた。

帰ってきたら起こして、と返した。

 

それでも、玄関の音を聞き逃したくなくて、居間へ戻った。

 

冷蔵庫には、聖護の分のケーキがある。

 

食卓を拭き、カップを片づける。読むつもりで開いた本は、同じページのままだった。

 

朱との画面を見る。

 

ケーキの写真に、まだ返事はない。

忙しい一日なのだろう。

 

沙代は端末を置き、お腹へ手を添えた。

 

「……もう少し、待とうね」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 

 

*

 

朱は、ゆきを連れた男へ辿り着いた。

 

白い髪。

落ち着いた声。

 

友人を拘束している、その姿へドミネーターを向ける。

 

止めなければならない。

ゆきを助けなければならない。

 

けれど、計測された数値は、その光景に見合っていなかった。

 

槙島聖護は、執行対象にならない。

 

目の前で何が起きているかは分かっている。ゆきが怯え、自分を見ている。

 

それでも銃は、撃つことを許さなかった。

 

「……どうして」

 

もう一度向けても、結果は変わらない。

 

槙島は彼女を見ていた。

 

システムの判断と、自分の目で見ているもの。その二つが食い違った時、彼女は何を根拠に動くのか。

 

朱は銃口を下げなかった。

 

男の手元を見る。ゆきとの距離を確かめる。走って近づいたら、間に合うだろうか。

 

ゆきの唇が動いた。

 

朱。

 

呼ばれて、息を吸う。

 

その時、男の名前が、別の声と結びついた。

 

聖護にも見せたい。

 

小さな靴下を手に、そう言いかけた沙代の顔だった。

 

「……倉橋沙代さんを、知っていますか」

 

槙島の言葉が止まった。

 

ほんの一瞬だった。

けれど朱には、その名前が届いたと分かった。

 

「彼女から、僕の話を?」

 

朱はゆきを見た。

 

まだ生きている。こちらを見ている。

 

話している間に、助ける隙を見つけなければならない。

 

「あなたが、沙代さんの言っていた“聖護”なんですね」

 

槙島は答える代わりに、朱の顔を見た。

 

「彼女とは、どんな話をしたのかな」

「本や、子どもの話です」

 

その返事に、彼の目がわずかに細くなった。

 

「名前を、二人で考えるって。あなたに見せたいと言って、靴下を選んでいました」

「……そうだね。見せてもらったよ」

 

その声だけが、少し柔らかくなった。

 

朱は胸が詰まった。

 

あの小さな靴下を受け取った手が、今、ゆきを押さえている。

 

「沙代さんが待っているんでしょう」

「待ってるね」

「だったら、その人を放してください。まだ、ここでやめられます」

 

槙島は薄く笑った。

 

「ふっ、彼女の名前を出せば、僕がそうすると思ったのか」

「やめてほしいから、言っています」

 

朱は一歩、足の位置を変えた。

槙島の視線が、その動きを捉える。

ゆきの身体が強張った。朱はそれ以上近づけなかった。

 

「沙代さんは、知っているんですか。あなたが、こういうことをしていると」

「君が想像しているほど、何も知らないわけではないよ」

 

朱は彼を見た。

 

「……それでも、一緒にいると?」

「彼女が決めたことだ」

 

その答えに、沙代の笑顔を思い出した。

 

幸せだよ。

怖いこともあるけどね。

 

あの時、自分は何を聞いていたのだろう。

朱は唇を結び、ゆきへ視線を戻した。

今、考え込んでいる時間はない。

 

「沙代さんがあなたを好きでも、この人を傷つけていいことにはなりません」

「それは、別の話だろう」

「あなたがしていることです」

 

朱の声が強くなった。

 

「沙代さんと暮らしているあなたが、今、私の友人を殺そうとしている」

 

槙島の笑みが薄くなる。

 

「彼女を使って、僕を止めるつもりかい」

「沙代さんに、止めてもらおうとしているんじゃありません」

 

朱は彼を見据えた。

 

「あなたに言っています」

 

ゆきが、小さく息を漏らした。

朱の指が銃を握り直す。

 

「その子の父親になるんでしょう。帰って、沙代さんと話すことがあるんでしょう」

「あるよ」

 

返事には迷いがなかった。

朱は、その当然のような声に息を詰めた。

 

「では、どうして……」

「彼女のところへ帰りたいと思うことと、今ここで何をするかは、僕にとって矛盾しないんだ」

 

槙島はゆきから手を離さなかった。

朱の視線を、友人へ戻すように。

 

「君が彼女を助けたいと思うなら、僕の帰る家について話しているだけでは、足りないだろうね」

 

朱は唇を噛んだ。

届かなかった。

沙代の話をする時、彼の声が変わった。その人を大切にしていることは分かった。

 

それでも、ゆきを放す理由にはならなかった。

槙島は朱に、ドミネーターとは別の銃を与えた。

 

自分が狙い、自分が引き金を引く。

その結果を、自分で引き受けるための銃だった。

 

朱はその重みを受け止めた。

 

ゆきの声が聞こえる。

 

助けて。

 

「……放してください」

 

朱は銃を構えた。

 

「あなたを止めます。だから、その人から離れて」

 

槙島は彼女を見ていた。

 

妻の名前を知る監視官ではなく、目の前の友人を救おうとする一人の人間を。

 

朱の手が震えた。

 

狙いを定めようとするたび、ゆきの顔が目に入る。外せば、友人に当たるかもしれない。

 

けれど、撃たなければ。

 

朱は引き金を引いた。

 

止められなかった。

 

その一瞬のあとに、取り返しのつかないことが起きた。

 

朱はゆきの名前を呼んだ。

 

何度も。

 

沙代の話も、父親になるはずの男の顔も、その時には遠ざかっていた。

 

目の前にいる友人を、助けられなかった。

 

槙島はその声を聞いていた。

 

彼女の目の前で命を奪ったあとも、彼の犯罪係数は、その凶行を裁く数値を示さなかった

 

 

 

*

 

 

 

グソンからの連絡を受けた時、槙島は現場を離れていた。

 

『どうでした?』

「常守朱は、僕を止めようとしたよ」

『ドミネーターでは、無理だったでしょうね』

「うん。それでも、助けようとはした」

 

槙島は少し歩調を緩めた。

 

彼女の判断には興味があった。

結果を含めて、忘れるつもりはなかった。

 

「それから、沙代の名前を出された」

 

向こうが静かになった。

 

『……繋がりを知られたんですか』

「確かめられた、と言った方がいいかな」

『彼女のところへ来る可能性もありますね』

「そうだね。様子を見ておいてくれるかい」

『分かりました』

「狡噛は?」

『生きています。こちらでも確認しています』

 

短いやり取りを終え、槙島は沙代との画面を開いた。

 

新しいメッセージはない。

 

眠っているかもしれない。

まだ待っているかもしれない。

 

《これから帰るよ》

 

送信すると、間を置かずに既読がついた。

 

《うん》

 

それから、もう一通。

 

《お湯、沸かすね》

 

槙島はその文字を見た。

朱に、帰る理由を並べられた時にも、ここへ戻りたい気持ちはあった。

そのために、目の前のことをやめようとは思わなかった。

今も同じだった。

 

彼は端末をしまい、沙代の待つ家へ向かった。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

鍵の回る音がした時、沙代は立ち上がった。

扉が開く。

 

「……おかえり」

「ただいま」

 

槙島は彼女を見た。

 

目元に疲れがあった。眠かったのだろう。それでも、帰宅の連絡を待って起きていた。

 

「寝ていてよかったのに」

「少し眠ったよ」

 

嘘ではない。ソファでうとうとした時間はあった。

 

彼が靴を脱ぐ間、沙代は玄関の灯りの下で、その顔を確かめた。

 

怪我は見当たらない。

 

無事に戻ってきた。

 

それが分かって、ようやく肩の力が抜ける。

 

「お茶、飲める?」

「うん」

 

二人で居間へ入った。

食卓には彼のカップと、小さな皿が置かれていた。

 

「ケーキも?」

「少しだけ残しておいた」

 

槙島は椅子へ座った。

 

彼女が注いでくれるお茶から、湯気が上がる。

 

つい先ほどまで聞いていた朱の声は、まだ記憶に鮮明だった。

そのことと、目の前の沙代を愛おしいと思うことは、彼の中でどちらも失われていなかった。

 

「今日は、長かったんだね」

 

沙代が向かいへ座る。

 

「うん」

「……何か、あった?」

 

槙島はカップを置いた。

 

「狡噛慎也を見てきたよ」

 

沙代の手が止まった。

 

「狡噛さん?」

「それから、常守朱と話した」

 

彼女が顔を上げる。

 

朱の名前がここで出るとは、思っていなかった。

 

「朱さんも……同じところにいたんだ」

 

槙島は頷いた。

 

「君の名前を、彼女から聞いたよ」

 

沙代は動かなくなった。

 

「……私の?」

 

「うん。子どもの靴下を、一緒に選んだと」

 

彼女は自分の端末を見た。

 

返事のない、クリスマスの挨拶。

昨夜のケーキの写真。

 

「朱さん、聖護が私の相手だって、分かったの?」

「分かったと思うよ」

 

沙代は息を吸った。

 

いつか、繋がってしまうかもしれないとは考えていた。

 

けれど、今日だった。

 

自分がケーキの皿を洗い、彼の帰りを待っている間に。

 

「二人とも、無事?」

「二人は、生きているよ」

 

その答えに、沙代はすぐには安心できなかった。

 

二人は。

 

彼の選んだ言葉が、胸に残った。

 

「……ほかに、誰かいたの?」

「常守朱の友人がいた」

 

槙島は彼女を見た。

 

「僕が殺した」

 

湯気の向こうで、沙代の顔が動かなくなった。

今日、自分がクリスマスの写真を送った相手。

その人の友人を、目の前の聖護が殺した。

 

しばらく、何も言えなかった。

 

彼が帰ってきたことは嬉しかった。

怪我がないと知って、安心した。

 

その気持ちが残っていることにも、沙代は戸惑った。

 

「……朱さんの、目の前で?」

「うん」

 

沙代は膝へ手を戻した。

指輪を外そうとは思わなかった。

 

けれど今、彼の手へ伸ばすこともできなかった。

 

 

 

*

 

朱の端末に、沙代から届いていた写真が残っていた。

 

二枚の皿。

二つのカップ。

 

誰かと過ごした、少し早いクリスマス。

 

その相手が誰なのかを、朱はもう知っていた。

 

メリークリスマス。

 

文字を読んだ。

 

沙代は、どこまで知っているのだろう。

あの男は、今、彼女の家へ帰っているのだろうか。

 

考えかけて、ゆきの声が蘇った。

 

朱。

 

端末を持つ手に力が入る。

 

返事を考えようとして、できなかった。

 

写真を閉じると、友人を失った夜の静けさが戻った。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

沙代は食卓の向こうで、槙島を見ていた。

 

彼は安心させるための言葉を足さなかった。抱きしめようともせず、そこに座っていた。

 

「私……朱さんに、なんて言ったら」

 

ようやく出た声は、かすれていた。

 

「そうだね、もう僕の彼女だと、相手は分かってしまったからね。今声をかけるのは追い打ちをかけることになるだろうね」

 

沙代は端末を取った。

でも、何も送れなかった。

 

何も知らないふりで、どうしたのと聞けるだろうか。

知ったことを伏せたまま、心配できるだろうか。

 

朱はもう、自分の相手が聖護だと知っている。

 

声を聞いたら、何を言うのだろう。

何を言われるのだろう。

 

沙代は端末を胸元へ寄せた。

 

「……今は、なにもできない」

「うん」

「少し、考えたい」

「分かった」

 

ケーキは、二人の間に置かれたままだった。

沙代が端末を下ろすと、槙島は静かに尋ねた。

 

「怖い?」

 

彼女が顔を上げる。

 

「人を殺したんだ。無理もないね」

「……怖いよ」

 

沙代は答えた。

 

「でも、受け入れるって言ったのは私だから。最後まで、見届けるつもりだよ」

 

槙島はしばらく、彼女を見ていた。

 

「言ったことを守るために、ここにいるの?」

 

沙代は首を横に振った。

 

「そうじゃない。今も、私がそうしたいの」

 

声は震えていた。

けれど、彼の目から逸らさなかった。

 

「聞くたびに悲しくなるかもしれない。聖護に、どうしてって聞くこともあると思う」

「ああ」

「それでも、一緒にいる。何も知らなかった頃の聖護を待ってるんじゃないよ」

 

槙島の視線が、彼女の左手へ落ちた。

指輪を渡した時、沙代は何度も自分の手を眺めていた。

 

今も同じものを身につけている。けれど、その意味を確かめ直しているように、時折指で触れていた。

 

「……君に、僕を許すと言ってもらえる方が、僕には楽だったかもしれないね」

「許すのは、私じゃないでしょ」

 

沙代は小さく答えた。

 

「亡くなった人のことを、私がいいよって言うことはできない」

 

彼は頷いた。

 

「そうだね」

「私が決められるのは、聖護と暮らすかどうか。それは、一緒にいたい」

 

槙島は手を伸ばしかけ、止めた。

沙代がその手を見て、自分から指を重ねる。

触れた瞬間、涙が落ちた。

 

温かかった。

知っている手だった。

 

そのことに安心する自分も、怖いと思う自分も、彼女の中にいた。

 

「泣いてても、離れたいって意味じゃないから」

「うん」

 

槙島は彼女の手を握った。

 

「今日は、抱きしめてくれる?」

 

彼は椅子を離れ、そばへ来た。

沙代が立ち上がると、腕の中へ迎える。彼女は胸へ額を寄せたまま、少しずつ呼吸を整えた。

 

槙島は髪を撫でていた。

受け入れてもらえた安堵があった。

 

自分を知った彼女が、それでもここにいる。その喜びを、否定する気にはなれなかった。

 

けれど、腕の中の沙代は笑っていない。

 

「……朱さんのことも、心配してる」

 

彼女が言った。

 

「うん」

「聖護のことが好きでも、それは変わらないよ」

 

槙島は手を止めずに答えた。

 

「分かっている」

 

沙代は彼の背中へ腕を回した。

今夜は、彼を愛していることだけで、ほかの気持ちを消そうとはしなかった。

 

槙島も、その涙を止めるために口づけることはしなかった。

ただ、彼女が望んだとおりに抱いていた。

 

その夜、槙島は帰ってきた。

 

沙代が願ったとおりに。

 

けれど、同じ夜に、朱のもとへ帰らない人がいた。

 

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