泉宮寺との死闘が終わった時、狡噛は傷を負っていた。
まだ動かなければならない。
ゆきを連れて、外へ出なければ。
そう考えていても、身体が思うようについてこない。
ゆきがそばで何かを言っていた。声を聞き取ろうとして、狡噛は顔を上げる。
視界が揺れた。
ここまで守ってきた彼女を、無事に帰さなければならない。それだけは分かっていた。
けれど、その先の出来事を、彼は確かめられなかった。
*
沙代は、寝室の灯りを消せずにいた。
先に眠っていて、と言われた。
帰ってきたら起こして、と返した。
それでも、玄関の音を聞き逃したくなくて、居間へ戻った。
冷蔵庫には、聖護の分のケーキがある。
食卓を拭き、カップを片づける。読むつもりで開いた本は、同じページのままだった。
朱との画面を見る。
ケーキの写真に、まだ返事はない。
忙しい一日なのだろう。
沙代は端末を置き、お腹へ手を添えた。
「……もう少し、待とうね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
*
朱は、ゆきを連れた男へ辿り着いた。
白い髪。
落ち着いた声。
友人を拘束している、その姿へドミネーターを向ける。
止めなければならない。
ゆきを助けなければならない。
けれど、計測された数値は、その光景に見合っていなかった。
槙島聖護は、執行対象にならない。
目の前で何が起きているかは分かっている。ゆきが怯え、自分を見ている。
それでも銃は、撃つことを許さなかった。
「……どうして」
もう一度向けても、結果は変わらない。
槙島は彼女を見ていた。
システムの判断と、自分の目で見ているもの。その二つが食い違った時、彼女は何を根拠に動くのか。
朱は銃口を下げなかった。
男の手元を見る。ゆきとの距離を確かめる。走って近づいたら、間に合うだろうか。
ゆきの唇が動いた。
朱。
呼ばれて、息を吸う。
その時、男の名前が、別の声と結びついた。
聖護にも見せたい。
小さな靴下を手に、そう言いかけた沙代の顔だった。
「……倉橋沙代さんを、知っていますか」
槙島の言葉が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど朱には、その名前が届いたと分かった。
「彼女から、僕の話を?」
朱はゆきを見た。
まだ生きている。こちらを見ている。
話している間に、助ける隙を見つけなければならない。
「あなたが、沙代さんの言っていた“聖護”なんですね」
槙島は答える代わりに、朱の顔を見た。
「彼女とは、どんな話をしたのかな」
「本や、子どもの話です」
その返事に、彼の目がわずかに細くなった。
「名前を、二人で考えるって。あなたに見せたいと言って、靴下を選んでいました」
「……そうだね。見せてもらったよ」
その声だけが、少し柔らかくなった。
朱は胸が詰まった。
あの小さな靴下を受け取った手が、今、ゆきを押さえている。
「沙代さんが待っているんでしょう」
「待ってるね」
「だったら、その人を放してください。まだ、ここでやめられます」
槙島は薄く笑った。
「ふっ、彼女の名前を出せば、僕がそうすると思ったのか」
「やめてほしいから、言っています」
朱は一歩、足の位置を変えた。
槙島の視線が、その動きを捉える。
ゆきの身体が強張った。朱はそれ以上近づけなかった。
「沙代さんは、知っているんですか。あなたが、こういうことをしていると」
「君が想像しているほど、何も知らないわけではないよ」
朱は彼を見た。
「……それでも、一緒にいると?」
「彼女が決めたことだ」
その答えに、沙代の笑顔を思い出した。
幸せだよ。
怖いこともあるけどね。
あの時、自分は何を聞いていたのだろう。
朱は唇を結び、ゆきへ視線を戻した。
今、考え込んでいる時間はない。
「沙代さんがあなたを好きでも、この人を傷つけていいことにはなりません」
「それは、別の話だろう」
「あなたがしていることです」
朱の声が強くなった。
「沙代さんと暮らしているあなたが、今、私の友人を殺そうとしている」
槙島の笑みが薄くなる。
「彼女を使って、僕を止めるつもりかい」
「沙代さんに、止めてもらおうとしているんじゃありません」
朱は彼を見据えた。
「あなたに言っています」
ゆきが、小さく息を漏らした。
朱の指が銃を握り直す。
「その子の父親になるんでしょう。帰って、沙代さんと話すことがあるんでしょう」
「あるよ」
返事には迷いがなかった。
朱は、その当然のような声に息を詰めた。
「では、どうして……」
「彼女のところへ帰りたいと思うことと、今ここで何をするかは、僕にとって矛盾しないんだ」
槙島はゆきから手を離さなかった。
朱の視線を、友人へ戻すように。
「君が彼女を助けたいと思うなら、僕の帰る家について話しているだけでは、足りないだろうね」
朱は唇を噛んだ。
届かなかった。
沙代の話をする時、彼の声が変わった。その人を大切にしていることは分かった。
それでも、ゆきを放す理由にはならなかった。
槙島は朱に、ドミネーターとは別の銃を与えた。
自分が狙い、自分が引き金を引く。
その結果を、自分で引き受けるための銃だった。
朱はその重みを受け止めた。
ゆきの声が聞こえる。
助けて。
「……放してください」
朱は銃を構えた。
「あなたを止めます。だから、その人から離れて」
槙島は彼女を見ていた。
妻の名前を知る監視官ではなく、目の前の友人を救おうとする一人の人間を。
朱の手が震えた。
狙いを定めようとするたび、ゆきの顔が目に入る。外せば、友人に当たるかもしれない。
けれど、撃たなければ。
朱は引き金を引いた。
止められなかった。
その一瞬のあとに、取り返しのつかないことが起きた。
朱はゆきの名前を呼んだ。
何度も。
沙代の話も、父親になるはずの男の顔も、その時には遠ざかっていた。
目の前にいる友人を、助けられなかった。
槙島はその声を聞いていた。
彼女の目の前で命を奪ったあとも、彼の犯罪係数は、その凶行を裁く数値を示さなかった
*
グソンからの連絡を受けた時、槙島は現場を離れていた。
『どうでした?』
「常守朱は、僕を止めようとしたよ」
『ドミネーターでは、無理だったでしょうね』
「うん。それでも、助けようとはした」
槙島は少し歩調を緩めた。
彼女の判断には興味があった。
結果を含めて、忘れるつもりはなかった。
「それから、沙代の名前を出された」
向こうが静かになった。
『……繋がりを知られたんですか』
「確かめられた、と言った方がいいかな」
『彼女のところへ来る可能性もありますね』
「そうだね。様子を見ておいてくれるかい」
『分かりました』
「狡噛は?」
『生きています。こちらでも確認しています』
短いやり取りを終え、槙島は沙代との画面を開いた。
新しいメッセージはない。
眠っているかもしれない。
まだ待っているかもしれない。
《これから帰るよ》
送信すると、間を置かずに既読がついた。
《うん》
それから、もう一通。
《お湯、沸かすね》
槙島はその文字を見た。
朱に、帰る理由を並べられた時にも、ここへ戻りたい気持ちはあった。
そのために、目の前のことをやめようとは思わなかった。
今も同じだった。
彼は端末をしまい、沙代の待つ家へ向かった。
*
鍵の回る音がした時、沙代は立ち上がった。
扉が開く。
「……おかえり」
「ただいま」
槙島は彼女を見た。
目元に疲れがあった。眠かったのだろう。それでも、帰宅の連絡を待って起きていた。
「寝ていてよかったのに」
「少し眠ったよ」
嘘ではない。ソファでうとうとした時間はあった。
彼が靴を脱ぐ間、沙代は玄関の灯りの下で、その顔を確かめた。
怪我は見当たらない。
無事に戻ってきた。
それが分かって、ようやく肩の力が抜ける。
「お茶、飲める?」
「うん」
二人で居間へ入った。
食卓には彼のカップと、小さな皿が置かれていた。
「ケーキも?」
「少しだけ残しておいた」
槙島は椅子へ座った。
彼女が注いでくれるお茶から、湯気が上がる。
つい先ほどまで聞いていた朱の声は、まだ記憶に鮮明だった。
そのことと、目の前の沙代を愛おしいと思うことは、彼の中でどちらも失われていなかった。
「今日は、長かったんだね」
沙代が向かいへ座る。
「うん」
「……何か、あった?」
槙島はカップを置いた。
「狡噛慎也を見てきたよ」
沙代の手が止まった。
「狡噛さん?」
「それから、常守朱と話した」
彼女が顔を上げる。
朱の名前がここで出るとは、思っていなかった。
「朱さんも……同じところにいたんだ」
槙島は頷いた。
「君の名前を、彼女から聞いたよ」
沙代は動かなくなった。
「……私の?」
「うん。子どもの靴下を、一緒に選んだと」
彼女は自分の端末を見た。
返事のない、クリスマスの挨拶。
昨夜のケーキの写真。
「朱さん、聖護が私の相手だって、分かったの?」
「分かったと思うよ」
沙代は息を吸った。
いつか、繋がってしまうかもしれないとは考えていた。
けれど、今日だった。
自分がケーキの皿を洗い、彼の帰りを待っている間に。
「二人とも、無事?」
「二人は、生きているよ」
その答えに、沙代はすぐには安心できなかった。
二人は。
彼の選んだ言葉が、胸に残った。
「……ほかに、誰かいたの?」
「常守朱の友人がいた」
槙島は彼女を見た。
「僕が殺した」
湯気の向こうで、沙代の顔が動かなくなった。
今日、自分がクリスマスの写真を送った相手。
その人の友人を、目の前の聖護が殺した。
しばらく、何も言えなかった。
彼が帰ってきたことは嬉しかった。
怪我がないと知って、安心した。
その気持ちが残っていることにも、沙代は戸惑った。
「……朱さんの、目の前で?」
「うん」
沙代は膝へ手を戻した。
指輪を外そうとは思わなかった。
けれど今、彼の手へ伸ばすこともできなかった。
*
朱の端末に、沙代から届いていた写真が残っていた。
二枚の皿。
二つのカップ。
誰かと過ごした、少し早いクリスマス。
その相手が誰なのかを、朱はもう知っていた。
メリークリスマス。
文字を読んだ。
沙代は、どこまで知っているのだろう。
あの男は、今、彼女の家へ帰っているのだろうか。
考えかけて、ゆきの声が蘇った。
朱。
端末を持つ手に力が入る。
返事を考えようとして、できなかった。
写真を閉じると、友人を失った夜の静けさが戻った。
*
沙代は食卓の向こうで、槙島を見ていた。
彼は安心させるための言葉を足さなかった。抱きしめようともせず、そこに座っていた。
「私……朱さんに、なんて言ったら」
ようやく出た声は、かすれていた。
「そうだね、もう僕の彼女だと、相手は分かってしまったからね。今声をかけるのは追い打ちをかけることになるだろうね」
沙代は端末を取った。
でも、何も送れなかった。
何も知らないふりで、どうしたのと聞けるだろうか。
知ったことを伏せたまま、心配できるだろうか。
朱はもう、自分の相手が聖護だと知っている。
声を聞いたら、何を言うのだろう。
何を言われるのだろう。
沙代は端末を胸元へ寄せた。
「……今は、なにもできない」
「うん」
「少し、考えたい」
「分かった」
ケーキは、二人の間に置かれたままだった。
沙代が端末を下ろすと、槙島は静かに尋ねた。
「怖い?」
彼女が顔を上げる。
「人を殺したんだ。無理もないね」
「……怖いよ」
沙代は答えた。
「でも、受け入れるって言ったのは私だから。最後まで、見届けるつもりだよ」
槙島はしばらく、彼女を見ていた。
「言ったことを守るために、ここにいるの?」
沙代は首を横に振った。
「そうじゃない。今も、私がそうしたいの」
声は震えていた。
けれど、彼の目から逸らさなかった。
「聞くたびに悲しくなるかもしれない。聖護に、どうしてって聞くこともあると思う」
「ああ」
「それでも、一緒にいる。何も知らなかった頃の聖護を待ってるんじゃないよ」
槙島の視線が、彼女の左手へ落ちた。
指輪を渡した時、沙代は何度も自分の手を眺めていた。
今も同じものを身につけている。けれど、その意味を確かめ直しているように、時折指で触れていた。
「……君に、僕を許すと言ってもらえる方が、僕には楽だったかもしれないね」
「許すのは、私じゃないでしょ」
沙代は小さく答えた。
「亡くなった人のことを、私がいいよって言うことはできない」
彼は頷いた。
「そうだね」
「私が決められるのは、聖護と暮らすかどうか。それは、一緒にいたい」
槙島は手を伸ばしかけ、止めた。
沙代がその手を見て、自分から指を重ねる。
触れた瞬間、涙が落ちた。
温かかった。
知っている手だった。
そのことに安心する自分も、怖いと思う自分も、彼女の中にいた。
「泣いてても、離れたいって意味じゃないから」
「うん」
槙島は彼女の手を握った。
「今日は、抱きしめてくれる?」
彼は椅子を離れ、そばへ来た。
沙代が立ち上がると、腕の中へ迎える。彼女は胸へ額を寄せたまま、少しずつ呼吸を整えた。
槙島は髪を撫でていた。
受け入れてもらえた安堵があった。
自分を知った彼女が、それでもここにいる。その喜びを、否定する気にはなれなかった。
けれど、腕の中の沙代は笑っていない。
「……朱さんのことも、心配してる」
彼女が言った。
「うん」
「聖護のことが好きでも、それは変わらないよ」
槙島は手を止めずに答えた。
「分かっている」
沙代は彼の背中へ腕を回した。
今夜は、彼を愛していることだけで、ほかの気持ちを消そうとはしなかった。
槙島も、その涙を止めるために口づけることはしなかった。
ただ、彼女が望んだとおりに抱いていた。
その夜、槙島は帰ってきた。
沙代が願ったとおりに。
けれど、同じ夜に、朱のもとへ帰らない人がいた。