絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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つらいよ
ねぇ、責任とってよ……


58.鮮明になった顔

 

 

 

 

 

年が明けても、朱の中では、あの夜が終わっていなかった。

 

目を閉じれば、ゆきの声が聞こえる。

銃を構えた時の、手の震えを覚えている。

 

そして、槙島の顔も。

 

「私の記憶から、顔を取り出せるんですよね」

 

唐之杜が朱へ視線を向けた。

 

メモリースクープを使えば、彼女が見たものを画像として記録できる。だが、そのためには、朱自身があの場面をもう一度辿らなければならなかった。

 

狡噛はそばで話を聞いていた。

 

「無理をする必要はない」

 

朱は首を横に振る。

 

「私が、はっきり見たんです」

 

彼の顔を。

ドミネーターが執行を許さなかったことを。

その後、何が起きたかも。

 

「今度は、捕まえるために使いたい」

 

*

 

一月二日。

 

沙代は食卓で、朱との会話を開いていた。

新年の挨拶を送ろうとして、何度か書き直す。

 

おめでとう。

 

今の朱へ、その言葉を送っていいのか迷った。

結局、短い文にした。

 

《寒い日が続くね。少しでも休めていますように》

 

返信を求める言葉は入れなかった。

槙島は向かいで本を読んでいたが、彼女が端末を置くと顔を上げた。

 

「常守朱に?」

「うん」

 

彼は頷いた。

 

沙代は彼の左手を見た。

 

自分にとっては、指輪のある、よく知った手だ。けれど朱は、その人が友人の命を奪うところを見た。

 

その記憶を持つ人へ、自分は夫の隣から連絡している。

 

「……返事がなくても、仕方ないと思ってる」

「うん」

「今は、私と話す気分じゃないかもしれないから」

 

槙島は本を閉じた。

 

「僕とのことを、尋ねられるかもしれないね」

 

沙代は頷いた。

 

「もう、知ってるんだもんね」

「そうだね」

 

彼女は少し黙ってから、続けた。

 

「でも、私から聖護の居場所を教えたりはしない」

 

槙島は彼女を見た。

それを頼んだことはなかった。

けれど、今の沙代は、頼まれる前に自分の立つ場所を決めていた。

 

「朱さんを心配してるのは、本当だよ」

「分かっている」

「でも、何か聞かれたら、言えないことがある」

 

彼女は膝へ目を落とした。

友人に優しい言葉を送りながら、求められた時には答えないつもりでいる。

そのことを、何もおかしくないとは思えなかった。

 

槙島が手を伸ばす。

 

沙代はその手を取った。

 

指輪が、彼の指へ触れた。

 

 

*

 

 

記憶を辿る時間は、朱にとって長かった。

画面の上に映像が現れる。

 

白い髪。

落ち着いた目。

槙島聖護。

 

それまで佐々山の残した不鮮明な写真でしか追えなかった男の顔が、ようやく明らかになった。

 

狡噛は、その画像を見ていた。

 

自分を狩り場へ呼び込み、ゆきを奪った男。

 

その顔を、今度は見失わずに追える。

 

朱は装置を外したあと、しばらく動けなかった。

息を整えようとしても、ゆきの姿が頭から離れない。そばにいる人の声を聞き、今いる場所を確かめる。

 

それでも、取り出された画像を見ると、顔を上げた。

自分が覚えている相手が、そこにいた。

 

「これで、探せますね」

 

狡噛が頷いた。

 

「ああ」

 

朱は椅子へ深く座り直した。

悲しみは減っていない。

 

けれど、あの夜から持ち帰ったものが、初めて捜査の手掛かりになった。

 

 

 

*

 

一方、宜野座は局長から、標本事件に関する伏せられていた情報を聞かされていた。

 

藤間幸三郎。

 

行方不明とされていた容疑者が、実際には確保されていたこと。その犯罪係数では、犯行に見合う判断ができなかったこと。

 

槙島だけの問題ではなかった。

宜野座は、示された記録を見た。

自分たちが未解決として追ってきた事件に、組織の上層は別の情報を持っていた。

 

「なぜ、これまで知らされなかったんです」

 

問いへの返答は、彼が求めたものではなかった。

捜査を続けるにも、従来どおりシビュラの判断を信じるにも、知らなかったことが多すぎた。

 

 

◆○□

 

少し休むように言われ、朱は端末を手に取った。

私用の通知が目に入る。

 

《寒い日が続くね。少しでも休めていますように》

 

沙代からだった。

 

朱はその文面を見つめた。

槙島から、聞いたのだろうか。

 

あの夜、誰を殺したのか。

自分が、目の前で友人を失ったことも。

 

聞いたうえで、この言葉を選んだのだろうか。

分からなかった。

けれど、沙代の相手が誰なのかは、もう分かっている。

 

「……常守?」

 

狡噛が、朱の手元へ目を向けた。

朱は端末を伏せた。

 

「倉橋さんからです」

 

彼の表情が変わる。

少し迷ってから、朱は口を開いた。

 

「槙島に、彼女の名前を出しました」

「あの場で?」

「はい。反応を見て、分かったんです。倉橋さんが話していた相手は、槙島でした」

 

狡噛は何も言わず、続きを待った。

 

「子どものことも知っていました。靴下を見せてもらったって。彼女のところへ帰りたいとも言いました」

 

その声を覚えていた。

 

帰る家がある。

待っている人がいる。

それを思い出しても、槙島はゆきを放さなかった。

 

「倉橋は、何を知ってる」

「詳しくは分かりません」

 

朱は膝の上で手を握った。

 

「でも、槙島は、何も知らないわけではないと言っていました。彼女が一緒にいると決めたんだって」

「それは、槙島が言ったことだ」

「……はい」

「本人に確かめる必要がある」

 

朱は頷いた。

 

何を知っているのか。

いつから知っていたのか。

今、槙島はどこにいるのか。

 

聞かなければならないことがあった。

それでも、沙代の顔を思い浮かべると、言葉が止まった。

 

「倉橋さんが、隠しているかもしれないんですよね」

 

狡噛はすぐには答えなかった。

 

「その可能性はある」

 

朱は目を閉じた。

小さな靴下を二つ、手のひらへ載せて笑った沙代。

 

名前は二人で考えるの、と話した時の声。

事件のあと、詳しいことを聞かず、どうしているかと思った、と電話をくれた人。

あの優しさを、嘘だったとは思えなかった。

 

「私……悪い人には、思えないんです」

 

声に出してから、朱は唇を結んだ。

 

「思いたくないのかもしれません」

 

狡噛は朱を見ていた。

 

「何をしているかを確かめるのが先だ。どんな人間だと思うかだけでは、決められない」

「……はい」

 

沙代は、話してもらえないことがあって不安だと言っていた。

その中身を知ったあとも、一緒にいるのだろうか。

知っていて、彼の帰りを待っているのだろうか。

 

「ゆきも、倉橋さんも、私には大事な人なんです」

 

ゆきの名前を口にすると、喉が詰まった。

 

「でも、倉橋さんが大切にしている人が、ゆきを殺しました」

 

それだけのことを言うのに、息を整えなければならなかった。

 

「彼女が何も知らないなら、知らせたいと思います。でも、もう知っていて、それでも槙島を守っているなら……私は、何て言えばいいんでしょう」

 

狡噛は静かに答えた。

 

「まず、何を知っているか聞く。それからだ」

 

朱は頷いた。

それでも、すぐには顔を上げられなかった。

沙代を疑いたくない

 

けれど、疑わずに済ませたいと思う自分が、ゆきに申し訳なかった

今度は、槙島へ繋がるかもしれない相手を知っている。

 

友人だからと、聞かずにいていいはずがなかった。

 

「……倉橋さんと話します」

 

朱はようやく言った。

 

「ただ、槙島から聞いたことを、そのまま彼女の答えにはしたくありません」

「ああ」

 

狡噛は頷いた。

 

「聞いたことは、俺にも伝えてくれ」

「はい」

 

 

*

 

一人になってから、朱はもう一度、沙代のメッセージを開いた。

少しでも休めていますように。

優しい言葉だった。

 

嬉しいと思った。

同時に、聞きたくなった。

 

あの夜、あなたの隣には誰がいましたか。

私にこの言葉を送る前に、その人と何を話しましたか。

 

返信欄へ指を置く。

 

《槙島のことを、どこまで知っていますか》

 

打ってから、消した。

文字だけで返事をもらって、分かったことにはしたくなかった。

朱は書き直した。

 

《連絡ありがとうございます。少し落ち着いたら、お話ししたいことがあります》

 

送信して、端末を置く。

 

小さな靴下を見ながら一緒に笑った時間は、本物だったと思う。

沙代の話を聞きたい気持ちも、本当だった。

 

それでも、次に会う時、自分は友人としてだけではいられない。

 

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