玄関の呼び鈴が鳴った。
沙代は目を開けた。
端末からも、同じ音が少し遅れて聞こえてくる。
『倉橋さん。救急の人が着いたようだね』
「……はい」
起き上がろうとして、肘に力が入らなかった。
「開けられない……」
『伝えてあるよ。そのままでいい』
廊下から声がした。
返事をしようとしたけれど、咳が出て、うまく続かなかった。
やがて玄関で物音がして、部屋に知らない人が入ってきた。
名前を尋ねられる。
熱を測られ、指先に小さな器具をつけられた。
「何日くらい、熱が続いていますか」
「……三日、くらい」
「今日は水分を取れていますか」
枕元の空のグラスを見た。
いつ飲み終わったのか、思い出せない。
端末の向こうで、槙島の声がした。
『さっき、水を取りに起きようとしていました。受け答えはできますが、話が途切れます』
救急の人が端末を手に取る。
「ご家族の方ですか?」
少し間があった。
『……知人です。そちらへ向かっています』
知人。
そうだ、と沙代はぼんやり思った。
本屋で会って、喫茶店で一度話した人。
それなのに、今、ここへ来ようとしてくれている。
*
槙島が建物の前に着いた時、沙代はちょうど外へ運び出されるところだった。
薄い毛布から覗いた顔は、喫茶店で会った時とずいぶん違っていた。
頬に熱がこもり、唇は乾いている。
彼女の端末を持った救急隊員に声をかける。
「電話をしていた者です」
説明を受けている間に、沙代が目を開けた。
視線が合うまで、少しかかった。
「……槙島さん」
「ああ」
槙島はそばへ寄った。
「聞こえる?」
小さく頷く。
「病院へ行こう。あとで僕も向かう」
「……すみません」
「その返事は、もう聞いたよ」
責める調子ではなかった。
沙代は何か言いかけて、また目を閉じた。
槙島は隊員に搬送先を確認した。
扉が閉まり、車両が動き出すまで、そこに立っていた。
*
次に目を覚ました時、部屋の天井が違っていた。
白い壁。
腕のそばに、点滴の管が伸びている。沙代はゆっくりと顔を横へ向けた。
椅子に座った槙島が、本を読んでいた。
ページをめくる音がする。
その音を聞いた途端、ようやく、自分が病院にいるのだと分かった。
「……槙島さん」
彼が顔を上げた。
「起きたね」
本にしおりを挟み、閉じる。
「今、何時ですか」
時刻を教えられて、沙代は瞬きをした。
電話がかかってきてから、ずいぶん経っている。
「ずっと、いたんですか」
「途中で一度、外へ出たよ。戻ったら、まだ眠っていた」
槙島は枕元の呼び出しボタンを押した。
「目が覚めたことを伝えよう」
看護師が来て、体調を確認する。
熱はまだあるけれど、さっきより頭がはっきりしていた。
医師の診察を受けたことも、脱水があって点滴をしていることも、説明されて初めて思い出す。
看護師が出ていくと、部屋はまた静かになった。
沙代は布団の上の手を見た。
「……ありがとうございました」
槙島がこちらを見る。
「救急、呼んでくれて」
「君が電話に出てくれてよかった」
その言葉で、熱の中の記憶が少し戻った。端末を探したこと。
返事を打とうとしたところで、彼の名前が出たこと。
「気づいてなかったんです。連絡、来てたの」
「具合が悪かったんだろう」
「最初は、寝たら下がると思って……」
「うん」
「起きても、まだ熱があって。でも、もう少し寝ればって」
同じことを何度繰り返したのか。
思い出そうとすると、全部同じ一日に見えた。槙島は、閉じた本を膝に置いた。
「次にそうなったら、読み終わっていなくても連絡して」
沙代は顔を上げた。
「……本の話じゃなくても?」
「ああ」
当然のように返されて、少し困った。何を頼めばいいのだろう。
家族でもない人に、熱が出たと伝えて、それから。
「なんて送ればいいですか」
槙島は一度、沙代の顔を見た。
「『熱がある』でいいよ」
「それだけ?」
「まずはね。続きを聞くことはできる」
沙代はゆっくり頷いた。
長い文章を考えなくていいなら、できるかもしれなかった
「お仕事、大丈夫でしたか」
もう一度、窓の外を見る。暗くなっていた。
槙島は端末へ目を落とした。
「連絡は済ませたよ」
「また、予定……」
「今は、君の予定も変わっただろう」
沙代は彼を見た。
「帰って本を読むつもりだったんじゃない?」
少し考えてから、頷いた。
「……はい」
「では、今日は二人とも予定どおりにはいかなかったね」
それで同じことになるとは思わなかった。
でも、彼はもうその話を終えたらしく、枕元の端末を沙代の手が届く位置へ寄せた。
「充電はしておいた。ここに置くよ」
「ありがとうございます」
自分の鞄も、椅子の脇にあった。
「それ、どうしたんですか」
「搬送前に、持ってくるものを聞かれたよ。君が指したらしいけれど、覚えている?」
覚えていなかった。
鞄の口から、緑色の表紙が少し覗いている。槙島も気づいた。
「この本も、一緒だったんだね」
「……そこに入れたままでした」
手を伸ばしかけると、腕の管が引かれた。
慌てて戻す。
彼は鞄から本を取り出した。
「出しておこうか」
沙代は頷いた。
枕元へ置かれた表紙には、見覚えのある擦れがある。
知らない部屋の中に、自分のものが一つ増えた。少し安心した。
「読む?」
「今は……文字、見てると疲れちゃって」
槙島は本を置こうとして、手を止めた。
「じゃあ、少し読もうか」
沙代は彼を見た。
「声に出して?」
「ああ。短いところだけ」
子供の頃以来だった。
一瞬、恥ずかしくなったけれど、今は自分でページを押さえること
すら億劫だった。
「……お願いします」
「どこがいい?」
沙代は表紙を見つめた。
「最初のお話」
彼は頷いて、本を開いた。声は、通話で聞いていた時より近かった。
落ち着いた速さで、文章を一つずつ読んでいく。
道に迷った主人公。
同じ場所を探していた老人。
知っている話なので、聞き逃しても困らなかった。目を閉じると、声だけが残る。
しばらくして、槙島の読む声が止まった。
沙代の呼吸は、先ほどよりゆっくりになっていた。
本の話をする時は、何か言う前に一度こちらを見る。
考えがまとまると、指で行を示して話し始める。
今、その手は布団の上に置かれたままだった。槙島はページの位置を覚えて、静かに本を閉じた。
伏せていた端末を開く。
グソンから、短いメッセージが届いていた。
『そちらは?』
槙島は入力した。
『診察を受けた。今は眠っている』
続けて、戻る時刻を書こうとした。
顔を上げる。沙代は眠っていたが、眉間にはまだ少し皺が寄っていた。
看護師が、あとで様子を見に来ると言っていた。
『戻る時間は、もう少ししてから知らせる』
送信すると、ほどなく返事が来た。
『了解です』
今回は、その下に文句は続かなかった。
槙島は端末をしまい、手元の本を開いた。
読む場所は、さっき沙代に聞かせたところからにした。
*
次に目を開けた時も、槙島はそこにいた。
今度は窓の外が暗い。
椅子に座って、自分の本を読んでいる。
沙代はしばらく、その横顔を見ていた。
「……どこまで読みました?」
槙島が顔を上げる。
「主人公が、老人に食事を勧めたところまで」
「その先、聞いてないです」
「眠っていたからね」
沙代は枕元の緑色の本を見た。
「途中で寝ちゃって、すみません」
「最後まで聞く約束はしていないよ」
少し笑ってしまった。
笑うと喉が痛くて、口元に手を添える。槙島は、そばの水へ目を向けた。
「飲めそうかい」
沙代が頷くと、彼は身体を起こすのを待ってから、カップを渡した。
少しずつ飲む。
水が喉を通っていくのを感じて、ようやく、自分がどれほど乾いていたか分かった。
「……おいしい」
彼は何も言わず、飲み終わったカップを受け取った。
「声、覚えてます」
「電話の?」
「本を読んでくれた時のです。途中から、お話は分からなくなっちゃったんですけど」
膝の上で、指を重ねる。
「誰かがいるんだなって、思ってました」
槙島は、カップを置いた。
「起きた時に、いなくなっていたら驚いたかな」
「……ちょっと」
答えてから、慌てて顔を上げた。
「でも、帰って大丈夫です。もう病院ですし」
彼にいてほしいと言ったように聞こえたかもしれない。
そんなつもりで話したわけではなかった。
槙島は端末で時刻を確かめる。
「そろそろ帰るよ。看護師に、君が起きたことを伝えてから」
沙代は頷いた。
終わりが分かると、安心して待てた。
*
看護師との話が済むと、槙島は本を鞄へしまった。
沙代の本は枕元に残してある。
「家の鍵は、鞄の内ポケットだよ」
「はい」
「端末も、手が届くところに置いてある」
一つずつ確かめるように言われて、沙代は枕の横を見た。
どちらも、ちゃんとあった。
「槙島さん」
彼が振り向く。
「本の話をしに来ただけだったのに、こんなことまで……ありがとうございました」
「こちらこそ、電話に出てくれて助かった」
それは、さっきも聞いた言葉だった。
今なら少し、意味が分かる。
返事がないままだったら、この人は何が起きているか分からなかったのだ。
「次は、熱が出たって送ります」
「うん」
「……槙島さんも、何かあったら送ってください」
彼の手が、鞄の持ち手にかかったまま止まった。
沙代は続けた。
「私にできることは、あんまりないと思うんですけど。返事くらいなら、できます」
槙島は、しばらくこちらを見ていた。
「君が元気な時に?」
「はい。今だと、また寝ちゃうかもしれないので」
彼は小さく笑った。
「覚えておくよ」
それから、扉へ向かう。
「おやすみ、倉橋さん」
「おやすみなさい」
扉が閉まった後、沙代は枕元の本に触れた。
一人になった。
でも、さっきまで家で寝ていた時とは違った。
少し迷ってから、端末を開く。
『帰り、気をつけてください』
今度は、その一文を打てた。
*
建物を出たところで、槙島は届いたメッセージを読んだ。
『ありがとう。君は休もう』
返事を送り、端末をしまいかける。
――返事くらいなら、できます。
彼女は、何かを頼もうとしたのではなかった。
自分にもできることを考え、差し出していた。
今の彼女に何を話すのか。すぐに思いつくことはなかった。
それでも、あの申し出を笑って流す気にはならなかった。
槙島はグソンへ連絡を入れた。
「今から戻るよ」
『彼女は?』
「さっき目を覚ました。会話もできる」
『それはよかった。こっちも、急ぐものは片づけましたよ』
「ああ。ありがとう」
電話の向こうで、短い間が空いた。
『……どういたしまして』
槙島は通話を終え、駅へ歩き始めた。
鞄の中には、自分の本が一冊。
次に沙代へ渡すつもりの本は、部屋に置いてある。
いつ渡せるかは、まだ分からない。
まずは彼女が、何を読んでも眠くならないくらい、元気になってからだった。