絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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59.もう会えない

 

 

 

「公安が、ダンナの顔を特定しました」

 

グソンの言葉に、槙島は画面へ目を向けた。

鮮明な画像だった。

 

「常守朱の記憶からです」

「……そうか」

 

槙島は少しの間、眺めていた。

彼女はあの夜、自分を止められなかった。

それでも、そこで終わらなかった。自分の記憶を捜査へ差し出し、もう一度こちらへ迫ろうとしている。

 

「強いね、彼女は」

「感心してる場合ですか」

 

グソンが言った。

 

「今までとは違います。常守監視官は、沙代さんとの関係も知っている」

 

その名前で、槙島の視線が動いた。

 

「うん」

「一係で共有されれば、彼女のところへ話を聞きに行くでしょう。顔を知っていれば、ダンナが出入りしているのを見た人間も探せます」

 

槙島は椅子へ座り直した。

沙代と朱は、自分の知らないところで親しくなった。

その関係を消すことはできない。

朱が自分の顔を知ったことも、変えられない。

 

「……沙代には、話すよ」

 

グソンは頷いた。

 

 

 

*

 

帰宅すると、沙代は寝室から顔を出した。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

彼女が近づきかけたところで、槙島は言った。

 

「話しておきたいことがある」

 

二人でソファへ座った。

 

槙島は端末を開き、自分の画像を見せる。

 

「公安が、僕の顔を特定した」

 

沙代は画面を見てから、彼へ視線を戻した。

そこに写っている人も、隣にいる人も、同じだ。

 

「……朱さんが?」

「彼女の記憶からだそうだ」

 

沙代は息を吐いた。

朱がどんなものを思い出さなければならなかったのか、詳しくは分からない。けれど、それがつらいことだろうとは想像できた。

 

「朱さんから、返事が来たよ」

 

槙島が彼女を見る。

 

「落ち着いたら、話したいことがあるって」

「そうか」

「聖護のこと、聞かれるのかな」

「そのつもりでいた方がいいね」

 

沙代は自分の指輪を撫でた。

 

この人を知っていますか。

どんな関係ですか。

今、どこにいますか。

 

自分が選んだことが、具体的な問いになって向けられる。

 

「……私から、居場所を話したりはしない」

 

槙島は彼女を見た。

 

「簡単には済まないかもしれないよ」

「分かってる」

 

沙代は彼の手を取った。

 

「怖い。でも、今さら知らなかったことにはしない」

 

彼はその手を握り返した。

 

沙代のお腹へ、視線が落ちる。

 

守りたいものがある。

帰ってきたい家がある。

その一方で、顔を掴んだ刑事たちが、次にどう動くかを知りたい気持ちもあった。

 

「また、考えてるね」

「うん」

「私たちのことと、向こうのこと?」

 

彼は少し驚いたように彼女を見た。

それから頷く。

 

「両方だよ」

 

沙代は小さく息を吐き、彼の肩へ寄りかかった。

 

「……私は今、ここにいてくれたら嬉しい」

 

槙島は彼女を抱き寄せた。

しばらく、そのままでいた。

卓上には、鮮明になった彼の顔が表示されている。

 

二人だけで撮った写真とは違う。

朱が彼を捕まえるために持ち帰った、一枚だった。

 

「沙代。もう、ここには帰ってこられない」

 

彼女を抱いていた腕を緩め、槙島は告げた。

沙代は顔を上げた。

 

「……しばらく、じゃなくて?」

 

彼はすぐには答えなかった。

その沈黙で、分かった。

 

沙代は頷こうとした。

 

いつかこうなるかもしれないと、何度も考えた。顔が特定されたと聞いた時にも、覚悟しなければと思った。

でも、目の前に彼がいる。

今も手が温かくて、少し身を寄せれば、いつものように受け止めてくれる。

 

「……うん」

 

出せた返事は、それだけだった。

槙島が頬へ触れると、沙代の顔が崩れた。

 

「分かってたよ」

 

涙が次々に落ちる。

 

「分かってたけど……今日だとは、思ってなかった」

 

彼は彼女を抱き寄せた。

沙代は服を掴んだ。何度も帰宅した彼を迎えた腕で、今夜は離れていく彼にしがみついた。

 

「ごめん」

 

髪のすぐそばで、声がした。

 

「ごめん、沙代」

「……謝らないで」

 

そう言ったのに、泣きやめなかった。

槙島は背中を撫でようとして、結局、もう片方の腕も回した。

これ以上近づけないほど近くにいても、別れをなくすことはできなかった。

 

「今年も、一緒に作るって……」

 

ケーキの話だった。

彼は目を閉じた。

 

「うん」

 

「この子の名前も、まだ……二人で決めてないよ」

「……うん」

「帰ってくる家にしてって、聖護が言ったんだよ」

 

沙代が顔を上げる。

責めたいのではなかった。

一つずつ、失いたくないものを口にしていた。

槙島は彼女の頬を拭った。指を動かしても、涙は止まらない。

 

「僕が欲しがったんだ」

 

声が少しかすれた。

 

「君と暮らしたかった。帰ってきて、おかえりと言ってほしかった」

「今も?」

「今もだよ」

 

その答えで、彼女はまた泣いた。

槙島は額を寄せた。

自分の選んできたことが、ここへ繋がっている。

 

この家で暮らしたいからといって、今からその選択を変えるつもりもなかった。

 

「ごめん」

 

今度の謝罪は、ほとんど息だった。

沙代が彼の顔へ手を伸ばす。

頬に触れた指が、途中で止まった。

槙島自身も、その冷たい感触で気づいた。

 

一筋だけ、涙が落ちていた。

 

沙代は何も言わず、それを拭った。

彼はその手を頬に押し当てたまま、少しの間、動かなかった。

 

「……嫌いになれたら、楽だったかな」

 

沙代が呟く。

槙島は答えられなかった。

 

「でも、好きだよ。今も」

 

彼は彼女をもう一度抱いた。

今度は、お腹を圧迫しないよう少し身体をずらした。

 

沙代はその小さな気遣いに気づいて、ますます声を抑えられなくなった。

 

こんな時まで、よく知っている聖護だった。

 

「この子には、会えないんだね」

 

沙代は彼の腕の中で、お腹へ手を置いた。

槙島もそこへ目を向ける。

 

まだ顔も見ていない。

声も聞いていない。

 

小さな靴下を手に取り、どんな名前が似合うか考え始めたばかりだった。

 

「……今のままでは、会う約束はできない」

 

沙代は頷いた。

分かっている。

それでも、口にして確かめずにはいられなかった。

 

「生まれたら、聖護にも抱いてほしかった」

 

彼の手が、背中で止まる。

 

「うん」

「読んでほしい本も、いっぱいあった。私だけじゃ、聖護みたいに読めないから」

「君が読んでくれたら、きっと嬉しいと思うよ」

 

沙代は首を横に振った。

 

「私の代わりに、じゃないよ。聖護にも、してほしかったの」

 

彼は目を伏せた。

 

「……そうだね」

 

沙代は彼の左手を取り、お腹の上へ導いた。

 

「ここにいるんだよ」

「うん」

「最近、動くのが分かるようになったの。今は、静かだけど」

 

槙島は手のひらを動かさずにいた。

その小さな変化を、一緒に待つつもりでいた。

 

沙代に呼ばれて手を当て、今のは分かったかと聞かれる。

生まれたら、抱き方を教わる。

眠らない夜には、彼女と交代する。

 

考えていた暮らしの一つひとつに、今は頷けなかった。

 

「ごめん」

 

沙代の手が、彼の手に重なる。

 

「……この子のこと、忘れないで」

 

槙島は顔を上げた。

 

「忘れないよ」

「会えなくても?」

「会えなくても」

 

その返事だけは、迷わずにできた。

沙代は涙を拭った。

 

「お父さんは、楽しみにしてたって話してもいい?」

 

彼の唇が、わずかに動いた。

 

「うん。本当に、楽しみにしていた」

「今も?」

 

槙島はお腹に置いた手を、そっと撫でるように動かした。

 

「今も、会いたいよ」

 

沙代は彼の肩へ額を寄せた。

それ以上、安心させる言葉はなかった。

彼も、お腹から手を離さなかった。

 

 

 

*

 

「今日、すぐ行くの?」

「君が眠るまでは、ここにいる」

 

沙代は首を横に振った。

 

「じゃあ、眠れない」

 

槙島は彼女の髪へ顔を埋めた。

いつもなら笑えた言葉だった。

 

「……今夜は、まだいるよ」

 

約束できるところまでしか、言わなかった。

沙代は彼の服を握ったまま頷いた。

 

その夜、二人は何度も抱きしめ直した。

離れれば終わってしまう気がして、まだそばにいることを、そのたびに確かめていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

最初の朝は、まだ彼がいるような気がした。

 

寝室を出たら、窓際で本を読んでいる。

お茶を淹れれば、後ろから声をかけられる。

 

沙代はいつもどおり、カップを二つ出した。

 

並べてから、片方を棚へ戻した。

 

それから何日か経って、聖護への連絡が届かなくなった。

 

以前の会話は残っている。

 

《もう少ししたら帰る》

《君が好きそうな本を見つけた》

《お茶を淹れて待っている》

 

どれも、確かに読んだ言葉だった。

その時、何をしていたかまで思い出せる。

 

けれど、今は送れない。

 

沙代は、以前教えてもらったグソンの連絡先を開いた。

 

《聖護と連絡が取れないんです。無事ですか》

 

少しして、返事が届いた。

 

《無事ですよ。今は直接連絡できませんが、こちらから様子は知らせます》

 

沙代は何度か、その文を読んだ。

続けて、書く。

 

《ちゃんと眠れてますか》

 

返事は短かった。

 

《少しは。休むように言っておきます》

 

無事なのだ。

それが分かって、息を吐けた。

でも、聞きたかった声は戻ってこなかった。

 

*

 

最初から槙島聖護という人はいなかったのかもしれない。

 

そんなことを考えて、すぐに本棚を見る。

 

彼の本がある。

自分では選ばなかった本が、何冊も。

 

クローゼットには服が残り、洗面所には二人分のものが並んでいる。

 

沙代が知らないうちに彼が覚えた引き出しの場所も、茶葉の置き場も、そのままだった。

 

いなかったことには、できない。

 

それなのに、帰ってくる気配だけがなくなった。

 

夕方、沙代は机の引き出しを開けた。

 

奥にしまってあった写真立てを取り出す。

 

一周年の日。

少し曲がった文字のケーキ。

肩に回された腕。

 

自分は、こんな顔で笑っていたのだ。

 

槙島も笑っている。

 

来年も同じように祝えると、嬉しく思っていた頃の写真だった。

 

沙代はガラスの表面を指で拭いた。

 

誰かに見せるためには、出せなかった。

端末の待ち受けにすることも、二人で控えた。

 

大切だから隠しておいた一枚を、今は隠しているのが寂しかった。

 

「……もう、いいか」

 

小さく呟く。

 

写真立てを持って、部屋を歩いた。

 

食卓の上では、少し近すぎた。

窓際では、光が反射して顔が見えなかった。

 

最後に、本棚の一段へ置いた。

 

あの絵本の隣。

 

ここから始まったのだから、ここがいいと思った。

 

少し離れて見ると、写真の中の二人がこちらを向いていた。

 

沙代はしばらく立ったまま、眺めていた。

 

来年は、僕にも準備をさせて。

 

彼の声を思い出す。

 

次の一年を楽しみにしてくれたことも、帰る家にしてほしいと言ったことも、嘘だったとは思わない。

 

果たせなくなった約束だとしても、あの時、二人で望んだものだった。

沙代は椅子に座り、お腹へ手を置いた。

服の上からでも、丸みがはっきり分かるようになっている。

 

「……お父さんだよ」

 

写真へ目を向けたまま、言った。

 

「この時ね、私が作ったケーキ、いっぱい食べてくれたの」

 

話し始めると、泣くと思った。

 

でも、その時は涙より先に笑いが出た。

クラッカーを鳴らしたら、彼の足が止まったこと。

文字が綺麗に書けたと言ってくれて、自分が、それは甘い、と返したこと。

 

「二人で撮ろうって、言ってくれたんだよ」

 

左手の指輪に触れる。

お腹の子は、まだ言葉を返さない。

沙代はそのまま、少し話した。

 

夕食の時間になっても、写真はしまわなかった。

一人分の皿を出し、一人分のお茶を淹れる。

 

ふと顔を上げると、本棚に二人がいた。

 

それで寂しさがなくなるわけではなかった。

 

ただ、幸せだったことまで、夢にしなくてよかった。

 

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