「公安が、ダンナの顔を特定しました」
グソンの言葉に、槙島は画面へ目を向けた。
鮮明な画像だった。
「常守朱の記憶からです」
「……そうか」
槙島は少しの間、眺めていた。
彼女はあの夜、自分を止められなかった。
それでも、そこで終わらなかった。自分の記憶を捜査へ差し出し、もう一度こちらへ迫ろうとしている。
「強いね、彼女は」
「感心してる場合ですか」
グソンが言った。
「今までとは違います。常守監視官は、沙代さんとの関係も知っている」
その名前で、槙島の視線が動いた。
「うん」
「一係で共有されれば、彼女のところへ話を聞きに行くでしょう。顔を知っていれば、ダンナが出入りしているのを見た人間も探せます」
槙島は椅子へ座り直した。
沙代と朱は、自分の知らないところで親しくなった。
その関係を消すことはできない。
朱が自分の顔を知ったことも、変えられない。
「……沙代には、話すよ」
グソンは頷いた。
*
帰宅すると、沙代は寝室から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
彼女が近づきかけたところで、槙島は言った。
「話しておきたいことがある」
二人でソファへ座った。
槙島は端末を開き、自分の画像を見せる。
「公安が、僕の顔を特定した」
沙代は画面を見てから、彼へ視線を戻した。
そこに写っている人も、隣にいる人も、同じだ。
「……朱さんが?」
「彼女の記憶からだそうだ」
沙代は息を吐いた。
朱がどんなものを思い出さなければならなかったのか、詳しくは分からない。けれど、それがつらいことだろうとは想像できた。
「朱さんから、返事が来たよ」
槙島が彼女を見る。
「落ち着いたら、話したいことがあるって」
「そうか」
「聖護のこと、聞かれるのかな」
「そのつもりでいた方がいいね」
沙代は自分の指輪を撫でた。
この人を知っていますか。
どんな関係ですか。
今、どこにいますか。
自分が選んだことが、具体的な問いになって向けられる。
「……私から、居場所を話したりはしない」
槙島は彼女を見た。
「簡単には済まないかもしれないよ」
「分かってる」
沙代は彼の手を取った。
「怖い。でも、今さら知らなかったことにはしない」
彼はその手を握り返した。
沙代のお腹へ、視線が落ちる。
守りたいものがある。
帰ってきたい家がある。
その一方で、顔を掴んだ刑事たちが、次にどう動くかを知りたい気持ちもあった。
「また、考えてるね」
「うん」
「私たちのことと、向こうのこと?」
彼は少し驚いたように彼女を見た。
それから頷く。
「両方だよ」
沙代は小さく息を吐き、彼の肩へ寄りかかった。
「……私は今、ここにいてくれたら嬉しい」
槙島は彼女を抱き寄せた。
しばらく、そのままでいた。
卓上には、鮮明になった彼の顔が表示されている。
二人だけで撮った写真とは違う。
朱が彼を捕まえるために持ち帰った、一枚だった。
「沙代。もう、ここには帰ってこられない」
彼女を抱いていた腕を緩め、槙島は告げた。
沙代は顔を上げた。
「……しばらく、じゃなくて?」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙で、分かった。
沙代は頷こうとした。
いつかこうなるかもしれないと、何度も考えた。顔が特定されたと聞いた時にも、覚悟しなければと思った。
でも、目の前に彼がいる。
今も手が温かくて、少し身を寄せれば、いつものように受け止めてくれる。
「……うん」
出せた返事は、それだけだった。
槙島が頬へ触れると、沙代の顔が崩れた。
「分かってたよ」
涙が次々に落ちる。
「分かってたけど……今日だとは、思ってなかった」
彼は彼女を抱き寄せた。
沙代は服を掴んだ。何度も帰宅した彼を迎えた腕で、今夜は離れていく彼にしがみついた。
「ごめん」
髪のすぐそばで、声がした。
「ごめん、沙代」
「……謝らないで」
そう言ったのに、泣きやめなかった。
槙島は背中を撫でようとして、結局、もう片方の腕も回した。
これ以上近づけないほど近くにいても、別れをなくすことはできなかった。
「今年も、一緒に作るって……」
ケーキの話だった。
彼は目を閉じた。
「うん」
「この子の名前も、まだ……二人で決めてないよ」
「……うん」
「帰ってくる家にしてって、聖護が言ったんだよ」
沙代が顔を上げる。
責めたいのではなかった。
一つずつ、失いたくないものを口にしていた。
槙島は彼女の頬を拭った。指を動かしても、涙は止まらない。
「僕が欲しがったんだ」
声が少しかすれた。
「君と暮らしたかった。帰ってきて、おかえりと言ってほしかった」
「今も?」
「今もだよ」
その答えで、彼女はまた泣いた。
槙島は額を寄せた。
自分の選んできたことが、ここへ繋がっている。
この家で暮らしたいからといって、今からその選択を変えるつもりもなかった。
「ごめん」
今度の謝罪は、ほとんど息だった。
沙代が彼の顔へ手を伸ばす。
頬に触れた指が、途中で止まった。
槙島自身も、その冷たい感触で気づいた。
一筋だけ、涙が落ちていた。
沙代は何も言わず、それを拭った。
彼はその手を頬に押し当てたまま、少しの間、動かなかった。
「……嫌いになれたら、楽だったかな」
沙代が呟く。
槙島は答えられなかった。
「でも、好きだよ。今も」
彼は彼女をもう一度抱いた。
今度は、お腹を圧迫しないよう少し身体をずらした。
沙代はその小さな気遣いに気づいて、ますます声を抑えられなくなった。
こんな時まで、よく知っている聖護だった。
「この子には、会えないんだね」
沙代は彼の腕の中で、お腹へ手を置いた。
槙島もそこへ目を向ける。
まだ顔も見ていない。
声も聞いていない。
小さな靴下を手に取り、どんな名前が似合うか考え始めたばかりだった。
「……今のままでは、会う約束はできない」
沙代は頷いた。
分かっている。
それでも、口にして確かめずにはいられなかった。
「生まれたら、聖護にも抱いてほしかった」
彼の手が、背中で止まる。
「うん」
「読んでほしい本も、いっぱいあった。私だけじゃ、聖護みたいに読めないから」
「君が読んでくれたら、きっと嬉しいと思うよ」
沙代は首を横に振った。
「私の代わりに、じゃないよ。聖護にも、してほしかったの」
彼は目を伏せた。
「……そうだね」
沙代は彼の左手を取り、お腹の上へ導いた。
「ここにいるんだよ」
「うん」
「最近、動くのが分かるようになったの。今は、静かだけど」
槙島は手のひらを動かさずにいた。
その小さな変化を、一緒に待つつもりでいた。
沙代に呼ばれて手を当て、今のは分かったかと聞かれる。
生まれたら、抱き方を教わる。
眠らない夜には、彼女と交代する。
考えていた暮らしの一つひとつに、今は頷けなかった。
「ごめん」
沙代の手が、彼の手に重なる。
「……この子のこと、忘れないで」
槙島は顔を上げた。
「忘れないよ」
「会えなくても?」
「会えなくても」
その返事だけは、迷わずにできた。
沙代は涙を拭った。
「お父さんは、楽しみにしてたって話してもいい?」
彼の唇が、わずかに動いた。
「うん。本当に、楽しみにしていた」
「今も?」
槙島はお腹に置いた手を、そっと撫でるように動かした。
「今も、会いたいよ」
沙代は彼の肩へ額を寄せた。
それ以上、安心させる言葉はなかった。
彼も、お腹から手を離さなかった。
*
「今日、すぐ行くの?」
「君が眠るまでは、ここにいる」
沙代は首を横に振った。
「じゃあ、眠れない」
槙島は彼女の髪へ顔を埋めた。
いつもなら笑えた言葉だった。
「……今夜は、まだいるよ」
約束できるところまでしか、言わなかった。
沙代は彼の服を握ったまま頷いた。
その夜、二人は何度も抱きしめ直した。
離れれば終わってしまう気がして、まだそばにいることを、そのたびに確かめていた。
*
最初の朝は、まだ彼がいるような気がした。
寝室を出たら、窓際で本を読んでいる。
お茶を淹れれば、後ろから声をかけられる。
沙代はいつもどおり、カップを二つ出した。
並べてから、片方を棚へ戻した。
それから何日か経って、聖護への連絡が届かなくなった。
以前の会話は残っている。
《もう少ししたら帰る》
《君が好きそうな本を見つけた》
《お茶を淹れて待っている》
どれも、確かに読んだ言葉だった。
その時、何をしていたかまで思い出せる。
けれど、今は送れない。
沙代は、以前教えてもらったグソンの連絡先を開いた。
《聖護と連絡が取れないんです。無事ですか》
少しして、返事が届いた。
《無事ですよ。今は直接連絡できませんが、こちらから様子は知らせます》
沙代は何度か、その文を読んだ。
続けて、書く。
《ちゃんと眠れてますか》
返事は短かった。
《少しは。休むように言っておきます》
無事なのだ。
それが分かって、息を吐けた。
でも、聞きたかった声は戻ってこなかった。
*
最初から槙島聖護という人はいなかったのかもしれない。
そんなことを考えて、すぐに本棚を見る。
彼の本がある。
自分では選ばなかった本が、何冊も。
クローゼットには服が残り、洗面所には二人分のものが並んでいる。
沙代が知らないうちに彼が覚えた引き出しの場所も、茶葉の置き場も、そのままだった。
いなかったことには、できない。
それなのに、帰ってくる気配だけがなくなった。
夕方、沙代は机の引き出しを開けた。
奥にしまってあった写真立てを取り出す。
一周年の日。
少し曲がった文字のケーキ。
肩に回された腕。
自分は、こんな顔で笑っていたのだ。
槙島も笑っている。
来年も同じように祝えると、嬉しく思っていた頃の写真だった。
沙代はガラスの表面を指で拭いた。
誰かに見せるためには、出せなかった。
端末の待ち受けにすることも、二人で控えた。
大切だから隠しておいた一枚を、今は隠しているのが寂しかった。
「……もう、いいか」
小さく呟く。
写真立てを持って、部屋を歩いた。
食卓の上では、少し近すぎた。
窓際では、光が反射して顔が見えなかった。
最後に、本棚の一段へ置いた。
あの絵本の隣。
ここから始まったのだから、ここがいいと思った。
少し離れて見ると、写真の中の二人がこちらを向いていた。
沙代はしばらく立ったまま、眺めていた。
来年は、僕にも準備をさせて。
彼の声を思い出す。
次の一年を楽しみにしてくれたことも、帰る家にしてほしいと言ったことも、嘘だったとは思わない。
果たせなくなった約束だとしても、あの時、二人で望んだものだった。
沙代は椅子に座り、お腹へ手を置いた。
服の上からでも、丸みがはっきり分かるようになっている。
「……お父さんだよ」
写真へ目を向けたまま、言った。
「この時ね、私が作ったケーキ、いっぱい食べてくれたの」
話し始めると、泣くと思った。
でも、その時は涙より先に笑いが出た。
クラッカーを鳴らしたら、彼の足が止まったこと。
文字が綺麗に書けたと言ってくれて、自分が、それは甘い、と返したこと。
「二人で撮ろうって、言ってくれたんだよ」
左手の指輪に触れる。
お腹の子は、まだ言葉を返さない。
沙代はそのまま、少し話した。
夕食の時間になっても、写真はしまわなかった。
一人分の皿を出し、一人分のお茶を淹れる。
ふと顔を上げると、本棚に二人がいた。
それで寂しさがなくなるわけではなかった。
ただ、幸せだったことまで、夢にしなくてよかった。