絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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60.決意

 

 

 

 

槙島も、写真を消してはいなかった。

 

作業の合間、端末を開く。

沙代から新しい連絡が届くことはない。

 

そうしたのは自分だった。

 

それでも指は、以前と同じように、彼女とのやり取りを探しかける。

 

途中で止め、保存した写真を開いた。

 

一周年のケーキ。

嬉しそうな沙代。

その肩に腕を回した自分。

 

「……ダンナ」

 

グソンに呼ばれ、顔を上げる。

 

「確認をお願いします」

「うん」

 

槙島は画面を伏せ、差し出された資料を読んだ。

質問を返し、次に進めることを決める。

話が一区切りついても、端末は伏せたままだった。

 

グソンが椅子へ座り直す。

 

「彼女のことなら、変わりはありません」

 

槙島は彼を見た。

 

「……そう」

「外へ出るのは、必要な時だけのようです。連絡もありましたよ。ダンナが無事かと」

 

槙島の指が、机の上で止まった。

 

「何と答えた?」

「無事だと。それから、眠れているかとも聞かれました」

 

彼は少し目を伏せた。

沙代なら、そう聞くだろう。

自分がそばにいた頃も、遅くまで起きていれば気にしていた。

 

元気にしているのか。

ちゃんと食べているのか。

眠れているのか。

 

こちらにも、知りたいことはある。

けれど、彼女の暮らしを遠くから確かめても、聞きたかった声は返ってこない。

 

「連絡したいですか」

 

グソンが尋ねた。

 

「うん」

 

迷わず答えると、向こうが少し黙った。

 

「しないよ」

 

槙島は続けた。

 

「一度話せば、また次に話せると思わせる。僕も、そのつもりになってしまうだろうからね」

 

グソンは頷いた。

 

「……ええ」

 

槙島は端末を取った。

 

写真の中の沙代は、まだ笑っていた。

 

今、どんな顔をしているのかは分からない。

 

 

 

 

*

 

その夜、沙代は白いカップを出した。

お茶を淹れるつもりではなかった。

棚の奥へしまったままなのが、嫌になっただけだった。

 

自分のカップの隣へ置く。

 

食卓に並べると、彼がいつも座っていた場所が、急にはっきりした。

 

沙代は椅子を引きかけて、手を止めた。

 

そこへ座れば、いつもの向かいではなくなる。

結局、自分の席へ腰を下ろした。

 

「今日は、少し歩いたよ」

 

写真の方を見て、呟く。

 

「寒かった。聖護なら、手、冷たいねって言ったと思う」

 

返事はない。

分かっていても、次の言葉を考えてしまう。

 

「健診の予約も、取った」

 

その時になったら、画像をもらってくる。

以前なら帰宅してすぐ、彼へ見せた。

 

今回は、どこへ置こう。

 

沙代はお腹を撫でた。

 

「……ちゃんと、大きくなってるかな」

 

ふと不安になり、端末を取る。

聖護へ尋ねることはできない。

 

連絡先を眺めて、朱の名前で止まった。

お話ししたいことがあります。

 

まだ、会う日は決めていなかった。

 

朱に会いたい気持ちはある。

 

けれど、何を聞かれるかを考えると、その先の言葉が書けなかった。

沙代は画面を閉じ、次の健診で聞きたいことを書き留めた。

 

書き終えると、指輪が端末の縁に触れた。

 

その手を見つめる。

 

「私、聖護のこと守るって言ったけど」

 

声がかすれた。

 

「もう、何もできないんだね」

 

彼の居場所を知らない。

直接、連絡もできない。

 

無事だと教えてもらえても、寒くないか、食事をしたか、自分の声では聞けなかった。

 

誰かに尋ねられても話さないと決めたまま、自分も彼から何も聞けなくなった。

 

沙代は端末を置いた。

 

泣き始めると、今夜はなかなか止まらなかった。

 

写真の中の彼は、隣に立っている。

 

その腕の位置まで覚えているのに、今は誰も背中へ手を回してくれない。

 

 

 

*

 

 

槙島は写真を閉じた。

 

「そろそろ行きましょう」

 

グソンが声をかける。

 

「うん」

 

コートへ袖を通し、左手を出す。

指輪は外していなかった。

玄関へ向かう前に、机上の本を一冊手に取った。

沙代の家へ持っていこうと思い、そのままになっていたものだった。

 

少し迷って、棚へ戻す。

グソンはそれを見ていたが、何も言わなかった。

 

槙島は扉を開けた。

 

帰る家を、自分から離れた。

 

今夜も、その家とは違う方向へ歩いていった。

 

 

*

 

 

「倉橋さんのことなんですけど」

 

朱が切り出すと、狡噛は資料から顔を上げた。

 

「何かあったか」

「前に、一緒に買い物をした時、彼の名前を言いかけたんです。聖護、って」

 

狡噛は黙って続きを待った。

 

「あの夜、槙島に彼女の名前を出して、同じ人だと分かりました。でも、倉橋さん本人には、まだ確かめていません」

「ほかに、相手について聞いたことは?」

「本が好きで、話してくれないことがある、と。子どもの名前を考える時も、難しい名前を選びそうだって笑っていました」

 

狡噛は椅子にもたれた。

 

紙の本が並んだ部屋。

ソファに掛かっていた男物の上着。

同行者について尋ねると、少しだけ遅れる返事。

 

以前は、それぞれに別の説明がついた。

 

今は、確かめなければならなかった。

 

「会って、聞こう」

 

朱は頷いた。

 

「……私も行きます」

 

 

*

 

呼び鈴が鳴った時、沙代は洗ったカップを棚へ戻していた。

 

来る予定の人はいない。

 

端末で訪問者を確認すると、朱が立っていた。

 

その隣に、狡噛がいる。

沙代は棚の扉を閉めた。

少しの間、動かなかった。

 

それから玄関へ向かい、扉を開ける。

 

「……こんにちは」

「こんにちは、倉橋さん」

 

朱の声は穏やかだったが、店で会った時とは違っていた。

 

「突然すみません。少し、確認したいことがあって」

 

沙代は二人を見た。

何について、とは聞けなかった。

 

「どうぞ」

 

 

居間へ入ると、狡噛は以前と同じ場所へ目を向けた。

 

窓際の椅子。

二つのカップ。

増えた本。

 

男の上着は掛かっていなかった。

 

沙代がお茶を用意しようとすると、朱が声をかけた。

 

「お気遣いなく。先に、お話ししてもいいですか」

「……うん」

 

沙代は台から手を離した。

 

向かいへ座る前に、狡噛の視線が本棚で止まった。

一冊の絵本の隣に、写真立てがある。

ケーキを前に笑う沙代と、彼女の肩へ腕を回した男。

 

狡噛は近づいた。

 

朱も、その視線を追う。

 

白い髪。

顔の輪郭。

笑っている目元。

 

朱の呼吸が浅くなった。

 

記憶から取り出した顔だった。

けれど、あの夜、自分を見ていた顔とは違う。

写真の中の男は、沙代の隣で笑っていた。

 

「……倉橋さん」

 

朱が呼ぶ。

 

沙代は写真を見なかった。

二人がどこを見ているかは、分かっていた。

 

「この人が、以前お話ししていた相手ですか」

 

沙代はゆっくり頷いた。

 

「そう」

 

狡噛が彼女へ向き直る。

 

「槙島聖護だな」

 

今度も、沙代は頷いた。

 

隠せるものは隠すと決めていた。

でも、この写真の人を知らないとは言えなかった。彼と過ごした時間を、その場を逃れるために否定したくなかった。

 

「いつから知っている?」

「……三年前くらい。古書店で、会いました」

「今も会っているのか」

 

沙代は左手を右手で包んだ。

 

「今日は、いません」

 

狡噛は彼女を見た。

 

答えになっていない。

彼女も、それを分かって言っている。

朱は写真から目を離し、沙代の手へ視線を向けた。

 

指輪がある。

 

子どもの靴下を選びながら、嬉しそうにお腹を撫でていた姿が浮かんだ。

 

「……赤ちゃんのお父さんも」

 

声が途切れる。

沙代は頷いた。

 

「聖護だよ」

 

部屋が静かになった。

 

*

 

狡噛は、以前ここで聞いた言葉を思い出していた。

一人でいました。

 

「通り魔の時も、一緒だったんだな」

 

沙代は目を伏せた。

 

「……はい」

「なぜ、一人だと言った」

「名前を、出したくなかったから」

「その時には、槙島が何をしているか知っていたのか」

 

沙代は首を横に振った。

 

「知らなかった。でも、何か話してくれないことがあるとは、思ってた」

 

狡噛が次を尋ねる前に、朱が口を開いた。

 

「今は?」

 

沙代は顔を上げた。

朱の表情を見て、胸が痛くなる。

この人とお茶を飲み、子どもの話をした。

心配していると伝えた。

 

その相手の前で、今、自分は夫を守ろうとしている。

 

「……全部は知らない。でも、人が傷つくことに関わっているのは、知ってる」

 

朱は指先を握った。

 

「…私の友人のことも?」

 

沙代はすぐには答えなかった。

やがて、小さく頷く。

 

「聞いた」

 

朱の顔から、わずかに血の気が引いた。

 

「いつ、ですか」

「……あの夜。帰ってきた時に」

 

帰ってきた。

 

その言葉が、朱の中に残った。

ゆきを殺したあと、この部屋へ帰った。

沙代が待つ家へ。

 

朱は一度、息を整えた。

狡噛が彼女を見たが、朱は小さく首を振った。

 

自分で聞きたかった。

 

「それでも、一緒にいたんですね」

 

沙代の目が潤んだ。

 

「うん」

「怖くなかったんですか」

「怖かったよ」

「じゃあ、どうして……」

 

問いが最後まで形にならなかった。

沙代は膝の上の手を握り直した。

 

「愛してるから」

 

その一言で、何も説明しきれないことは分かっていた。

朱の悲しみが軽くなることもない。

 

「いいことをしてるとは思ってない。朱さんが悲しんでるのも、心配してた。それも、本当」

 

朱は返事をしようとして、できなかった。

 

沙代は続けた。

 

「でも、聖護を差し出すために、そばにいたんじゃない」

 

狡噛が口を開く。

 

「今、どこにいる」

 

沙代は彼を見た。

 

「知りません」

「連絡は取れるか」

「……取れません」

 

その答えを確かめるように、狡噛は彼女の顔を見る。

沙代は逸らさなかった。

居場所も、次に会う予定も、本当に知らない。

彼を守ると決めていても、今は答えられることそのものがなかった。

 

 

朱はもう一度、写真を見た。

 

一周年。

 

ケーキに書かれた文字が読める。

 

沙代が作ったのだろう。少し不揃いな文字の前で、槙島は穏やかに笑っている。

あの男に、こうして迎える人がいた。

その事実は、彼のしたことを少しも軽くしない。

 

けれど、沙代の話していた幸せが何だったのかは、分かってしまった。

朱は彼女へ向き直った。

 

「今、連絡が取れないことは分かりました。ただ、改めて確認させてもらうことになると思います」

 

沙代は頷いた。

 

「うん」

「もし連絡が来たら――」

 

そこで朱は言葉を止めた。

沙代の表情を見れば、簡単に約束を求めても返ってこないと分かった。

それでも、告げなければならなかった。

 

「私は、槙島を捕まえます」

 

沙代は目を閉じかけ、もう一度朱を見た。

 

「……分かってる」

「倉橋さんが大切に思っている人でも、それは変わりません」

「うん」

 

声は震えた。

でも、沙代は写真を伏せなかった。

 

狡噛はその一枚を、しばらく見ていた。

 

自分たちが追う男。

彼女が待っていた男。

 

同じ顔が、絵本の隣にあった。

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