槙島も、写真を消してはいなかった。
作業の合間、端末を開く。
沙代から新しい連絡が届くことはない。
そうしたのは自分だった。
それでも指は、以前と同じように、彼女とのやり取りを探しかける。
途中で止め、保存した写真を開いた。
一周年のケーキ。
嬉しそうな沙代。
その肩に腕を回した自分。
「……ダンナ」
グソンに呼ばれ、顔を上げる。
「確認をお願いします」
「うん」
槙島は画面を伏せ、差し出された資料を読んだ。
質問を返し、次に進めることを決める。
話が一区切りついても、端末は伏せたままだった。
グソンが椅子へ座り直す。
「彼女のことなら、変わりはありません」
槙島は彼を見た。
「……そう」
「外へ出るのは、必要な時だけのようです。連絡もありましたよ。ダンナが無事かと」
槙島の指が、机の上で止まった。
「何と答えた?」
「無事だと。それから、眠れているかとも聞かれました」
彼は少し目を伏せた。
沙代なら、そう聞くだろう。
自分がそばにいた頃も、遅くまで起きていれば気にしていた。
元気にしているのか。
ちゃんと食べているのか。
眠れているのか。
こちらにも、知りたいことはある。
けれど、彼女の暮らしを遠くから確かめても、聞きたかった声は返ってこない。
「連絡したいですか」
グソンが尋ねた。
「うん」
迷わず答えると、向こうが少し黙った。
「しないよ」
槙島は続けた。
「一度話せば、また次に話せると思わせる。僕も、そのつもりになってしまうだろうからね」
グソンは頷いた。
「……ええ」
槙島は端末を取った。
写真の中の沙代は、まだ笑っていた。
今、どんな顔をしているのかは分からない。
*
その夜、沙代は白いカップを出した。
お茶を淹れるつもりではなかった。
棚の奥へしまったままなのが、嫌になっただけだった。
自分のカップの隣へ置く。
食卓に並べると、彼がいつも座っていた場所が、急にはっきりした。
沙代は椅子を引きかけて、手を止めた。
そこへ座れば、いつもの向かいではなくなる。
結局、自分の席へ腰を下ろした。
「今日は、少し歩いたよ」
写真の方を見て、呟く。
「寒かった。聖護なら、手、冷たいねって言ったと思う」
返事はない。
分かっていても、次の言葉を考えてしまう。
「健診の予約も、取った」
その時になったら、画像をもらってくる。
以前なら帰宅してすぐ、彼へ見せた。
今回は、どこへ置こう。
沙代はお腹を撫でた。
「……ちゃんと、大きくなってるかな」
ふと不安になり、端末を取る。
聖護へ尋ねることはできない。
連絡先を眺めて、朱の名前で止まった。
お話ししたいことがあります。
まだ、会う日は決めていなかった。
朱に会いたい気持ちはある。
けれど、何を聞かれるかを考えると、その先の言葉が書けなかった。
沙代は画面を閉じ、次の健診で聞きたいことを書き留めた。
書き終えると、指輪が端末の縁に触れた。
その手を見つめる。
「私、聖護のこと守るって言ったけど」
声がかすれた。
「もう、何もできないんだね」
彼の居場所を知らない。
直接、連絡もできない。
無事だと教えてもらえても、寒くないか、食事をしたか、自分の声では聞けなかった。
誰かに尋ねられても話さないと決めたまま、自分も彼から何も聞けなくなった。
沙代は端末を置いた。
泣き始めると、今夜はなかなか止まらなかった。
写真の中の彼は、隣に立っている。
その腕の位置まで覚えているのに、今は誰も背中へ手を回してくれない。
*
槙島は写真を閉じた。
「そろそろ行きましょう」
グソンが声をかける。
「うん」
コートへ袖を通し、左手を出す。
指輪は外していなかった。
玄関へ向かう前に、机上の本を一冊手に取った。
沙代の家へ持っていこうと思い、そのままになっていたものだった。
少し迷って、棚へ戻す。
グソンはそれを見ていたが、何も言わなかった。
槙島は扉を開けた。
帰る家を、自分から離れた。
今夜も、その家とは違う方向へ歩いていった。
*
「倉橋さんのことなんですけど」
朱が切り出すと、狡噛は資料から顔を上げた。
「何かあったか」
「前に、一緒に買い物をした時、彼の名前を言いかけたんです。聖護、って」
狡噛は黙って続きを待った。
「あの夜、槙島に彼女の名前を出して、同じ人だと分かりました。でも、倉橋さん本人には、まだ確かめていません」
「ほかに、相手について聞いたことは?」
「本が好きで、話してくれないことがある、と。子どもの名前を考える時も、難しい名前を選びそうだって笑っていました」
狡噛は椅子にもたれた。
紙の本が並んだ部屋。
ソファに掛かっていた男物の上着。
同行者について尋ねると、少しだけ遅れる返事。
以前は、それぞれに別の説明がついた。
今は、確かめなければならなかった。
「会って、聞こう」
朱は頷いた。
「……私も行きます」
*
呼び鈴が鳴った時、沙代は洗ったカップを棚へ戻していた。
来る予定の人はいない。
端末で訪問者を確認すると、朱が立っていた。
その隣に、狡噛がいる。
沙代は棚の扉を閉めた。
少しの間、動かなかった。
それから玄関へ向かい、扉を開ける。
「……こんにちは」
「こんにちは、倉橋さん」
朱の声は穏やかだったが、店で会った時とは違っていた。
「突然すみません。少し、確認したいことがあって」
沙代は二人を見た。
何について、とは聞けなかった。
「どうぞ」
居間へ入ると、狡噛は以前と同じ場所へ目を向けた。
窓際の椅子。
二つのカップ。
増えた本。
男の上着は掛かっていなかった。
沙代がお茶を用意しようとすると、朱が声をかけた。
「お気遣いなく。先に、お話ししてもいいですか」
「……うん」
沙代は台から手を離した。
向かいへ座る前に、狡噛の視線が本棚で止まった。
一冊の絵本の隣に、写真立てがある。
ケーキを前に笑う沙代と、彼女の肩へ腕を回した男。
狡噛は近づいた。
朱も、その視線を追う。
白い髪。
顔の輪郭。
笑っている目元。
朱の呼吸が浅くなった。
記憶から取り出した顔だった。
けれど、あの夜、自分を見ていた顔とは違う。
写真の中の男は、沙代の隣で笑っていた。
「……倉橋さん」
朱が呼ぶ。
沙代は写真を見なかった。
二人がどこを見ているかは、分かっていた。
「この人が、以前お話ししていた相手ですか」
沙代はゆっくり頷いた。
「そう」
狡噛が彼女へ向き直る。
「槙島聖護だな」
今度も、沙代は頷いた。
隠せるものは隠すと決めていた。
でも、この写真の人を知らないとは言えなかった。彼と過ごした時間を、その場を逃れるために否定したくなかった。
「いつから知っている?」
「……三年前くらい。古書店で、会いました」
「今も会っているのか」
沙代は左手を右手で包んだ。
「今日は、いません」
狡噛は彼女を見た。
答えになっていない。
彼女も、それを分かって言っている。
朱は写真から目を離し、沙代の手へ視線を向けた。
指輪がある。
子どもの靴下を選びながら、嬉しそうにお腹を撫でていた姿が浮かんだ。
「……赤ちゃんのお父さんも」
声が途切れる。
沙代は頷いた。
「聖護だよ」
部屋が静かになった。
*
狡噛は、以前ここで聞いた言葉を思い出していた。
一人でいました。
「通り魔の時も、一緒だったんだな」
沙代は目を伏せた。
「……はい」
「なぜ、一人だと言った」
「名前を、出したくなかったから」
「その時には、槙島が何をしているか知っていたのか」
沙代は首を横に振った。
「知らなかった。でも、何か話してくれないことがあるとは、思ってた」
狡噛が次を尋ねる前に、朱が口を開いた。
「今は?」
沙代は顔を上げた。
朱の表情を見て、胸が痛くなる。
この人とお茶を飲み、子どもの話をした。
心配していると伝えた。
その相手の前で、今、自分は夫を守ろうとしている。
「……全部は知らない。でも、人が傷つくことに関わっているのは、知ってる」
朱は指先を握った。
「…私の友人のことも?」
沙代はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「聞いた」
朱の顔から、わずかに血の気が引いた。
「いつ、ですか」
「……あの夜。帰ってきた時に」
帰ってきた。
その言葉が、朱の中に残った。
ゆきを殺したあと、この部屋へ帰った。
沙代が待つ家へ。
朱は一度、息を整えた。
狡噛が彼女を見たが、朱は小さく首を振った。
自分で聞きたかった。
「それでも、一緒にいたんですね」
沙代の目が潤んだ。
「うん」
「怖くなかったんですか」
「怖かったよ」
「じゃあ、どうして……」
問いが最後まで形にならなかった。
沙代は膝の上の手を握り直した。
「愛してるから」
その一言で、何も説明しきれないことは分かっていた。
朱の悲しみが軽くなることもない。
「いいことをしてるとは思ってない。朱さんが悲しんでるのも、心配してた。それも、本当」
朱は返事をしようとして、できなかった。
沙代は続けた。
「でも、聖護を差し出すために、そばにいたんじゃない」
狡噛が口を開く。
「今、どこにいる」
沙代は彼を見た。
「知りません」
「連絡は取れるか」
「……取れません」
その答えを確かめるように、狡噛は彼女の顔を見る。
沙代は逸らさなかった。
居場所も、次に会う予定も、本当に知らない。
彼を守ると決めていても、今は答えられることそのものがなかった。
朱はもう一度、写真を見た。
一周年。
ケーキに書かれた文字が読める。
沙代が作ったのだろう。少し不揃いな文字の前で、槙島は穏やかに笑っている。
あの男に、こうして迎える人がいた。
その事実は、彼のしたことを少しも軽くしない。
けれど、沙代の話していた幸せが何だったのかは、分かってしまった。
朱は彼女へ向き直った。
「今、連絡が取れないことは分かりました。ただ、改めて確認させてもらうことになると思います」
沙代は頷いた。
「うん」
「もし連絡が来たら――」
そこで朱は言葉を止めた。
沙代の表情を見れば、簡単に約束を求めても返ってこないと分かった。
それでも、告げなければならなかった。
「私は、槙島を捕まえます」
沙代は目を閉じかけ、もう一度朱を見た。
「……分かってる」
「倉橋さんが大切に思っている人でも、それは変わりません」
「うん」
声は震えた。
でも、沙代は写真を伏せなかった。
狡噛はその一枚を、しばらく見ていた。
自分たちが追う男。
彼女が待っていた男。
同じ顔が、絵本の隣にあった。