絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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61.心配してるのは本当

 

 

 

「今日は、ここまでにしましょう」

 

朱が言った。

沙代の顔色が、来た時より悪くなっていた。膝の上で握った手にも、力が入り続けている。

 

「体調は大丈夫ですか」

「……少し、疲れただけ」

「お水、飲めますか?」

 

沙代は頷いた。

立ち上がろうとすると、朱も腰を浮かせた。

 

「私が――」

 

言いかけて、止まる。

 

以前なら、自然に手伝えたことだった。

今は、この家でどこまで動いていいのか、朱自身にも分からなかった。

沙代は台所へ行き、水を注いで戻った。

三人とも、しばらく話さなかった。

 

*

 

狡噛が先に口を開いた。

 

「改めて、槙島と知り合ってからのことを聞かせてもらう。連絡の記録や、ここに残っているものについてもだ」

 

沙代はカップを置いた。

 

「……本も?」

「本人が触れたものや、持ち込んだものが手掛かりになることはある」

 

彼女の視線が本棚へ向く。

一冊ずつ、いつ持ってきたか覚えている。

読み終えたら話そうと預かったものも、彼が読みかけで置いたものもあった。

 

それらが、調べる対象になる。

沙代は小さく頷いた。

 

「勝手に、持っていかないでね」

 

狡噛が彼女を見る。

 

「必要なことは説明する」

「……うん」

 

朱はそのやり取りを聞いていた。

 

本棚の写真に目が向く。

沙代の言葉は、捜査を拒むだけのものではなかった。何が失われるのか分からず、手元にあるものを確かめているようにも見えた。

 

「倉橋さん。今、槙島はここに住んでいないんですね」

 

沙代は少し黙った。

 

「……帰ってこないよ」

「いつからですか」

 

彼女は日付を答えた。

公安が顔を特定した直後だった。

狡噛と朱が、短く視線を交わす。

 

「本人から、そう言われた?」

 

狡噛が尋ねた。

 

「もう、ここには帰ってこられないって」

「その後、会っていない?」

「会ってない」

「連絡も?」

「最初は送れた。でも、届かなくなった」

 

沙代は端末を取った。

 

画面を開き、二人へ向ける。

残っている会話には、帰宅を告げる言葉や、本、お茶、体調についての短い文が並んでいた。

朱はその文字を見た。

 

ゆきを殺した男が、この人には、帰る時刻を知らせていた。

 

これから帰るよ。

 

あの夜にも、そう送ったのだろうか。

胸の奥が痛んだ。

 

沙代は少しして、端末を膝へ戻した。

 

「消してないよ」

 

狡噛は頷く。

 

「そのまま残しておいてくれ」

「……消せないから」

 

声が小さくなった。

 

朱は顔を上げた。

沙代は画面を見ていた。

二人に記録を見せたというより、もう届かないことを、自分でも確かめ直しているようだった。

 

 

 

*

 

帰る前、朱は玄関で足を止めた。

 

「一人で、休めそうですか」

 

沙代が頷く。

 

「うん」

「体調が悪くなったら、病院へ連絡してください。次にお話を聞く時も、具合がよくなければ教えてください」

「分かった」

 

朱は少し迷ってから続けた。

 

「……私への連絡も、して構いません」

 

沙代は彼女を見た。

 

「いいの?」

 

朱はすぐには答えなかった。

 

友人を殺した男を、沙代は庇っていた。

そのことを、平気だとは思えない。

けれど、目の前の彼女が具合を悪くしても、助けを求めてはいけない理由にはならなかった。

 

「はい」

 

沙代の目が潤む。

 

「朱さん」

「……はい」

「心配してたのは、本当だよ」

 

朱は彼女を見つめた。

 

「でも、聖護のことを話さなかった。それも本当」

 

沙代は唇を結んだ。

 

謝れば済むことではない。

許してほしいとも、今は言えなかった。

 

朱はゆっくり頷いた。

 

「私も、倉橋さんのことを心配しています」

 

少し間を置く。

 

「でも、捜査で聞かなければならないことは、聞きます」

「……うん」

 

二人は、以前のようには笑えなかった。

 

それでも朱は、最後にもう一度、休んでくださいねと声をかけた。

 

 

 

 

*

 

建物を出ると、狡噛が言った。

 

「つらかったな」

 

朱は歩きながら首を振った。

 

「……何を聞いても、別のことを思い出してしまって」

 

彼女の隣で、狡噛は黙っていた。

 

「靴下を選んでいた時、本当に嬉しそうだったんです」

「そうだろうな」

「槙島も、嬉しかったんでしょうか」

 

狡噛は写真を思い出した。

 

沙代の肩へ回された腕。

笑っている、あの男の顔。

 

「本人に聞くしかない」

 

朱が頷く。

 

狡噛は続けた。

 

「ただ、あいつがここでどう暮らしていても、したことは変わらない」

「……はい」

 

朱は一度だけ、建物を振り返った。

 

「倉橋さんも、それを分かっているんですね」

「ああ。分かったうえで、話さないことを選んでる」

 

狡噛は前へ向き直った。

 

「だから、次はその選択も含めて聞く」

 

*

 

扉を閉めたあと、沙代は写真立ての前へ行った。

 

二人は、それを持っていかなかった。

 

少し傾いていた枠を、指で直す。

 

もう、この部屋だけの秘密ではない。

 

朱も狡噛も、聖護がここで笑っていたことを知った。

 

沙代は椅子へ座り、端末を開いた。

 

知らせたかった。

 

今日、二人が来たよ。

写真を見たよ。

私たちのこと、話したよ。

 

指を動かしかけて、止める。

 

グソンに伝えることはできるかもしれない。

けれど、聖護本人へ送ることはできなかった。

 

送った時、どんな顔で読んでくれるのかも分からない。

 

沙代は端末を伏せ、お腹へ手を置いた。

 

「……守るって、言ったのにね」

 

知られてしまった。

 

けれど、彼の居場所を話したわけではない。

 

彼が自分へ戻る道を閉じた理由を、今日、また少し理解した。

 

それでも寂しかった。

 

沙代は写真へ顔を向けた。

 

「聖護、今どこにいるの」

 

返事がないことは、分かっていた。

 

聞きたいことだけが、部屋に増えていった

 

*

 

二月三日。

 

沙代は健診でもらった画像を机へ並べていた。

 

前よりも身体の形が分かる。

男の子だと、改めて教えてもらった。

 

写真立ての隣へ置いてみる。

 

聖護がいたら、まず何と言っただろう。

そう考える癖は、まだ抜けなかった。

 

「……ちゃんと、男の子だったよ」

 

写真へ話しかけた時、つけていたニュースの声が変わった。

 

市街地で起きた殺人事件。

犯人はヘルメットを着用。

監視システムが、犯行を止められなかったという。

 

沙代は画面へ顔を向けた。

 

人がいる。

誰もいない場所ではない。

 

それでも、助けが来るまでに起きてしまうことがある。

銀行で聞いた怒鳴り声を思い出し、音量を下げた。

 

本棚の写真を見る。

 

聖護が、この事件に関わっているのかは知らない。

でも、知らないから無関係だと思うことは、もうできなかった。

 

*

 

「周囲の人間のサイコパスを、利用しているんですね」

 

朱は現場の映像と計測結果を見比べていた。

 

ヘルメットを被った犯人自身の状態と、システムへ送られている数値が一致していない。

 

目の前で起きている行為を見れば、止めなければならない。

けれど、数値だけを頼りにすれば、判断を誤る。

 

あの夜と似ていた。

 

ただし今回は、槙島と同じ体質の人間が増えたわけではない。

 

「仕組みを悪用できる道具が、出回ってる」

 

狡噛が言った。

 

朱は頷いた。

 

「槙島が、用意したんでしょうか」

「この規模で何を起こしたいのか。それを考える必要がある」

 

彼は地図へ目を向けた。

 

点在する事件。

それを見た人々が、何を信じられなくなるのか。

 

朱の端末に、新しい現場情報が届く。

 

確認するために画面を切り替えた時、沙代との会話が一瞬目に入った。

 

あの部屋も、街の中にある。

槙島を庇うと決めた人が、彼の引き起こす危険から必ず守られるわけではなかった。

 

 

 

*

 

「予想以上に、映像が広がっています」

 

グソンの報告を聞き、槙島は画面を見た。

 

シビュラの監視があるから安全なのだと、人々は信じていた。

 

その前提が、目の前の暴力と食い違う。

 

恐怖が生まれる。

自分を守るために、何をすればいいのか考え始める。

 

槙島はその変化を見ていた。

 

「これまで任せていたことを、自分で引き受ける必要が出てくるね」

 

グソンは別の画面を開いた。

 

「彼女の方も、確認しています」

 

槙島の視線が移る。

 

「……どうしている?」

 

「今日は家にいるようです。公安との接点は、もうできています。今はこちらから連絡していません」

「うん」

 

彼はしばらく黙っていた。

 

沙代はこのニュースを見ただろうか。

玄関の鍵を確かめ、一人で部屋へ戻っただろうか。

 

自分が何を起こそうとしているかを知れば、また悲しくなるかもしれない。

 

それでも、計画を止める言葉は出なかった。

 

「外出する必要がある日も、あるだろうね」

 

グソンが頷く。

 

「健診もありますから」

 

槙島は左手の指輪へ目を落とした。

 

自分が隣にいれば安心する。

そのことを知っていて、彼女から離れた。

 

今は、離れた先から街の安全を揺さぶっている。

 

「……続けよう」

 

彼は顔を上げた。

 

グソンは短く応じ、次の情報を表示した。

 

*

 

翌日、朱から沙代へ連絡が来た。

 

《ニュースを見ましたか。外出の予定があるなら、気をつけてください》

 

沙代は文面を読んだ。

以前も、聖護に同じようなことを言われた。

 

不用意に外へ出てはいけないよ。

 

その声を思い出しながら、返事を打つ。

 

《見たよ。今日は家にいる》

 

少し迷って、続けた。

 

《朱さんも、気をつけてね》

 

返事は短かった。

 

《ありがとうございます》

 

二人の間で、槙島の名前は出なかった。

 

沙代が何を知っているか。

何を話さないと決めているか。

 

それを忘れたわけではない。

 

それでも朱は、彼女が無事か気にかけていた。

 

沙代は端末を置き、食料の残りを確かめた。

数日は、出なくても過ごせそうだった。

 

明日、様子を見よう。

 

そう思って、カーテンを閉じた。

 

 

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