「今日は、ここまでにしましょう」
朱が言った。
沙代の顔色が、来た時より悪くなっていた。膝の上で握った手にも、力が入り続けている。
「体調は大丈夫ですか」
「……少し、疲れただけ」
「お水、飲めますか?」
沙代は頷いた。
立ち上がろうとすると、朱も腰を浮かせた。
「私が――」
言いかけて、止まる。
以前なら、自然に手伝えたことだった。
今は、この家でどこまで動いていいのか、朱自身にも分からなかった。
沙代は台所へ行き、水を注いで戻った。
三人とも、しばらく話さなかった。
*
狡噛が先に口を開いた。
「改めて、槙島と知り合ってからのことを聞かせてもらう。連絡の記録や、ここに残っているものについてもだ」
沙代はカップを置いた。
「……本も?」
「本人が触れたものや、持ち込んだものが手掛かりになることはある」
彼女の視線が本棚へ向く。
一冊ずつ、いつ持ってきたか覚えている。
読み終えたら話そうと預かったものも、彼が読みかけで置いたものもあった。
それらが、調べる対象になる。
沙代は小さく頷いた。
「勝手に、持っていかないでね」
狡噛が彼女を見る。
「必要なことは説明する」
「……うん」
朱はそのやり取りを聞いていた。
本棚の写真に目が向く。
沙代の言葉は、捜査を拒むだけのものではなかった。何が失われるのか分からず、手元にあるものを確かめているようにも見えた。
「倉橋さん。今、槙島はここに住んでいないんですね」
沙代は少し黙った。
「……帰ってこないよ」
「いつからですか」
彼女は日付を答えた。
公安が顔を特定した直後だった。
狡噛と朱が、短く視線を交わす。
「本人から、そう言われた?」
狡噛が尋ねた。
「もう、ここには帰ってこられないって」
「その後、会っていない?」
「会ってない」
「連絡も?」
「最初は送れた。でも、届かなくなった」
沙代は端末を取った。
画面を開き、二人へ向ける。
残っている会話には、帰宅を告げる言葉や、本、お茶、体調についての短い文が並んでいた。
朱はその文字を見た。
ゆきを殺した男が、この人には、帰る時刻を知らせていた。
これから帰るよ。
あの夜にも、そう送ったのだろうか。
胸の奥が痛んだ。
沙代は少しして、端末を膝へ戻した。
「消してないよ」
狡噛は頷く。
「そのまま残しておいてくれ」
「……消せないから」
声が小さくなった。
朱は顔を上げた。
沙代は画面を見ていた。
二人に記録を見せたというより、もう届かないことを、自分でも確かめ直しているようだった。
*
帰る前、朱は玄関で足を止めた。
「一人で、休めそうですか」
沙代が頷く。
「うん」
「体調が悪くなったら、病院へ連絡してください。次にお話を聞く時も、具合がよくなければ教えてください」
「分かった」
朱は少し迷ってから続けた。
「……私への連絡も、して構いません」
沙代は彼女を見た。
「いいの?」
朱はすぐには答えなかった。
友人を殺した男を、沙代は庇っていた。
そのことを、平気だとは思えない。
けれど、目の前の彼女が具合を悪くしても、助けを求めてはいけない理由にはならなかった。
「はい」
沙代の目が潤む。
「朱さん」
「……はい」
「心配してたのは、本当だよ」
朱は彼女を見つめた。
「でも、聖護のことを話さなかった。それも本当」
沙代は唇を結んだ。
謝れば済むことではない。
許してほしいとも、今は言えなかった。
朱はゆっくり頷いた。
「私も、倉橋さんのことを心配しています」
少し間を置く。
「でも、捜査で聞かなければならないことは、聞きます」
「……うん」
二人は、以前のようには笑えなかった。
それでも朱は、最後にもう一度、休んでくださいねと声をかけた。
*
建物を出ると、狡噛が言った。
「つらかったな」
朱は歩きながら首を振った。
「……何を聞いても、別のことを思い出してしまって」
彼女の隣で、狡噛は黙っていた。
「靴下を選んでいた時、本当に嬉しそうだったんです」
「そうだろうな」
「槙島も、嬉しかったんでしょうか」
狡噛は写真を思い出した。
沙代の肩へ回された腕。
笑っている、あの男の顔。
「本人に聞くしかない」
朱が頷く。
狡噛は続けた。
「ただ、あいつがここでどう暮らしていても、したことは変わらない」
「……はい」
朱は一度だけ、建物を振り返った。
「倉橋さんも、それを分かっているんですね」
「ああ。分かったうえで、話さないことを選んでる」
狡噛は前へ向き直った。
「だから、次はその選択も含めて聞く」
*
扉を閉めたあと、沙代は写真立ての前へ行った。
二人は、それを持っていかなかった。
少し傾いていた枠を、指で直す。
もう、この部屋だけの秘密ではない。
朱も狡噛も、聖護がここで笑っていたことを知った。
沙代は椅子へ座り、端末を開いた。
知らせたかった。
今日、二人が来たよ。
写真を見たよ。
私たちのこと、話したよ。
指を動かしかけて、止める。
グソンに伝えることはできるかもしれない。
けれど、聖護本人へ送ることはできなかった。
送った時、どんな顔で読んでくれるのかも分からない。
沙代は端末を伏せ、お腹へ手を置いた。
「……守るって、言ったのにね」
知られてしまった。
けれど、彼の居場所を話したわけではない。
彼が自分へ戻る道を閉じた理由を、今日、また少し理解した。
それでも寂しかった。
沙代は写真へ顔を向けた。
「聖護、今どこにいるの」
返事がないことは、分かっていた。
聞きたいことだけが、部屋に増えていった
*
二月三日。
沙代は健診でもらった画像を机へ並べていた。
前よりも身体の形が分かる。
男の子だと、改めて教えてもらった。
写真立ての隣へ置いてみる。
聖護がいたら、まず何と言っただろう。
そう考える癖は、まだ抜けなかった。
「……ちゃんと、男の子だったよ」
写真へ話しかけた時、つけていたニュースの声が変わった。
市街地で起きた殺人事件。
犯人はヘルメットを着用。
監視システムが、犯行を止められなかったという。
沙代は画面へ顔を向けた。
人がいる。
誰もいない場所ではない。
それでも、助けが来るまでに起きてしまうことがある。
銀行で聞いた怒鳴り声を思い出し、音量を下げた。
本棚の写真を見る。
聖護が、この事件に関わっているのかは知らない。
でも、知らないから無関係だと思うことは、もうできなかった。
*
「周囲の人間のサイコパスを、利用しているんですね」
朱は現場の映像と計測結果を見比べていた。
ヘルメットを被った犯人自身の状態と、システムへ送られている数値が一致していない。
目の前で起きている行為を見れば、止めなければならない。
けれど、数値だけを頼りにすれば、判断を誤る。
あの夜と似ていた。
ただし今回は、槙島と同じ体質の人間が増えたわけではない。
「仕組みを悪用できる道具が、出回ってる」
狡噛が言った。
朱は頷いた。
「槙島が、用意したんでしょうか」
「この規模で何を起こしたいのか。それを考える必要がある」
彼は地図へ目を向けた。
点在する事件。
それを見た人々が、何を信じられなくなるのか。
朱の端末に、新しい現場情報が届く。
確認するために画面を切り替えた時、沙代との会話が一瞬目に入った。
あの部屋も、街の中にある。
槙島を庇うと決めた人が、彼の引き起こす危険から必ず守られるわけではなかった。
*
「予想以上に、映像が広がっています」
グソンの報告を聞き、槙島は画面を見た。
シビュラの監視があるから安全なのだと、人々は信じていた。
その前提が、目の前の暴力と食い違う。
恐怖が生まれる。
自分を守るために、何をすればいいのか考え始める。
槙島はその変化を見ていた。
「これまで任せていたことを、自分で引き受ける必要が出てくるね」
グソンは別の画面を開いた。
「彼女の方も、確認しています」
槙島の視線が移る。
「……どうしている?」
「今日は家にいるようです。公安との接点は、もうできています。今はこちらから連絡していません」
「うん」
彼はしばらく黙っていた。
沙代はこのニュースを見ただろうか。
玄関の鍵を確かめ、一人で部屋へ戻っただろうか。
自分が何を起こそうとしているかを知れば、また悲しくなるかもしれない。
それでも、計画を止める言葉は出なかった。
「外出する必要がある日も、あるだろうね」
グソンが頷く。
「健診もありますから」
槙島は左手の指輪へ目を落とした。
自分が隣にいれば安心する。
そのことを知っていて、彼女から離れた。
今は、離れた先から街の安全を揺さぶっている。
「……続けよう」
彼は顔を上げた。
グソンは短く応じ、次の情報を表示した。
*
翌日、朱から沙代へ連絡が来た。
《ニュースを見ましたか。外出の予定があるなら、気をつけてください》
沙代は文面を読んだ。
以前も、聖護に同じようなことを言われた。
不用意に外へ出てはいけないよ。
その声を思い出しながら、返事を打つ。
《見たよ。今日は家にいる》
少し迷って、続けた。
《朱さんも、気をつけてね》
返事は短かった。
《ありがとうございます》
二人の間で、槙島の名前は出なかった。
沙代が何を知っているか。
何を話さないと決めているか。
それを忘れたわけではない。
それでも朱は、彼女が無事か気にかけていた。
沙代は端末を置き、食料の残りを確かめた。
数日は、出なくても過ごせそうだった。
明日、様子を見よう。
そう思って、カーテンを閉じた。