二月五日。
朝から、街の音が違った。
窓を閉めていても、遠くの叫び声が聞こえる。
ニュースでは事件が増えていた。
ヘルメットを被った集団の暴力。
恐怖に駆られた市民の反撃。
誰が襲う側で、誰が逃げる側なのか。
画面が切り替わるたび、分からなくなる。
沙代は食卓に座った。
怖い。
その一言を、送る相手を探してしまう。
聖護との履歴を開きかけ、閉じた。
朱は仕事中だろう。
狡噛も、宜野座も、この街のどこかで動いている。
グソンへ聞けば、聖護は無事だと教えてもらえるかもしれない。
けれど今、伝えたかったのは、自分が怖いということだった。
沙代は窓から離れた場所へ座り直した。
お腹へ手を置く。
最近は、日々の中で動きを感じるようになっていた。
今日も分かるかと、静かに待ってみる。
少しして、手の下で小さく動いた。
外の音へばかり向いていた意識が、戻ってくる。
「……ここにいようね」
小さく言った。
写真立ては棚の上にある。
その隣には、健診の画像が置かれていた。
*
公安局へは、次々に通報が届いていた。
一つの現場を収めても、別の場所で暴力が起きる。
人々は自分を守ろうとしていた。
けれど、その行動が別の人の恐怖を増やし、さらに大きな混乱を呼ぶ。
朱は移動の合間、街の状況を確認した。
狡噛は、槙島がこの混乱だけを目的にしているとは考えていなかった。
「これだけの騒ぎを起こせば、こちらの手は取られる」
「その間に、別のことを?」
「ああ。あいつは、何を見ている」
朱は画面へ目を戻した。
街が荒れている。
沙代のいる家も、その中にある。
だが今、自分が向かわなければならない現場には、もっと切迫した人々がいた。
彼女は端末を握り直し、次の指示を確認した。
*
槙島は、混乱する街の映像を見ていた。
計画は進んでいる。
人々が信じていた安全は崩れ、自分の判断で動く必要に迫られている。
その光景に、彼は確かな手応えを感じた。
同時に、グソンへ尋ねる。
「沙代の近くは?」
「今のところ、大きな騒ぎは出ていません」
「そう」
「家からも、動いていないようです」
槙島は頷いた。
安心した。
その安心を得たあとで、また街の映像へ目を戻した。
沙代に会いに行くことはしない。
直接、連絡も取らない。
彼女を守るために離れたという判断と、彼女のいる街を混乱させる計画は、今も彼の中で並んでいた。
グソンが次の予定を確認する。
槙島は席を立った。
これから向かうのは、かつて帰る場所と決めた家ではない。
混乱の中で、目的の場所へ進む準備が整いつつあった。
*
夕方、沙代は灯りをつけた。
いつもの時刻だった。
聖護が帰る日は、先に灯りをつけておいた。
玄関から入った時、部屋が暗くないように。
もう、そのためではない。
沙代は自分のカップを持ち、ソファへ座った。
外では、まだ声がしている。
写真の中の彼を見る。
「……聖護がいる時は、ここ、静かだったね」
今も、家具は動いていない。
彼の本も、カップもある。
変わったのは、隣に誰もいないことと、窓の向こうの街だった。
沙代は毛布を引き寄せた。
その夜、彼女はいつもより長く灯りをつけていた。
*
街の騒ぎは、夜になっても収まらなかった。
沙代は窓から離れた場所で、端末の速報を見ていた。
同じ道でも、時間が変わると通れなくなる。
建物の前に人が集まり、しばらくすると別の場所で声が上がる。
玄関の鍵は確かめた。
充電も済ませた。
水も、食べられるものもある。
それでも、何か忘れているような気がした。
以前なら、聖護に聞けた。
今は、自分で決めなければならない。
沙代は本棚の写真を見た。
「今日は、出ないよ」
返事のない相手へ、外出の予定を伝える。
それから、カップを両手で包んだ。
*
「この混乱に、何の意味がある?」
狡噛は街の状況を見ながら言った。
公安は各地へ散っている。
一つの現場を収めるために、別の場所の人員を減らさなければならない。
槙島がそれを望んでいるのなら、この街の騒ぎは終点ではない。
朱は彼の視線を追った。
「警備が薄くなる場所……」
狡噛が頷く。
二人の思考が、同じ建物へ向かった。
厚生省。
ノナタワー。
「街全体を使って、そこへ入ろうとしている」
朱は息を吸った。
事件を追うつもりで動いていた。
けれど、その事件自体が、自分たちを別の場所へ留めるためのものかもしれなかった。
「向かいましょう」
*
準備を終えたグソンが、槙島へ声をかけた。
「行けます」
槙島は頷き、コートを取った。
机の上には端末がある。
画面には、一周年の写真。
出発前に、もう一度見た。
沙代はケーキを作って待っていた。
自分は、来年の話をした。
そのあと、本当にあの家で暮らすようになった。
写真を閉じ、端末をしまう。
「ダンナ」
グソンが彼の左手へ目を向けた。
槙島も、その視線に気づく。
指輪はつけたままだった。
「外していくんです?」
「いや」
返事は短かった。
グソンは頷き、それ以上聞かなかった。
*
ノナタワーの中には、外の街とは違う静けさがあった。
槙島とグソンは、目的へ向かって進んでいく。
ーーシビュラシステム。
この国の人々が判断を委ねるもの。その実体へ近づくために、ここまで来た。
槙島は静かな高揚を感じていた。
どれほどの人間が、その仕組みを知らないまま従っているのか。
自分を裁けないものが、ほかの人々の生き方を決めている。
その奥を見たかった。
グソンと別れてから、彼はさらに歩いた。
足音が壁に反響する。
そして、追ってきた男と向き合った。
狡噛慎也。
槙島は、その姿を見て微笑んだ。
「ここまで来たんだね」
狡噛は彼を見据えた。
今度は、目の前にいる。
三年前から追ってきた相手が、自分の足で届く場所に立っている。
言葉を交わす時間は、長くは続かなかった。
*
沙代の端末が震えた。
朱からだった。
《外へ出ないでください。何かあったら、連絡を》
短い文面を読み返す。
朱も、どこかへ向かっているのかもしれない。
《家にいるよ。朱さんも、気をつけて》
送信した。
今夜、彼女が誰を追っているのか、沙代には尋ねられなかった。
聖護がどこにいるかは知らない。
でも、この混乱と無関係ではないと思っている。
朱の無事を願った。
聖護にも、無事でいてほしかった。
端末を置くと、沙代はお腹へ手を添えた。
どちらか一つだけを願うことは、できなかった。
*
狡噛と槙島は、互いの動きを読みながら戦っていた。
狡噛は彼を止めるために。
槙島は、その執念を真正面から受けるように。
拳が届く。
息が乱れる。
床を踏み直す。
槙島にとって、狡噛は退屈しない相手だった。
自分を追い続け、今ここへ来た人間。
その判断と身体が、どこまで自分へ届くのか。
だが、狡噛が求めているのは、互いを知るための時間ではない。
止めることだった。
死んだ佐々山の顔が、忘れられない。
守れなかったゆきもいる。
その思いを、槙島は自分へ挑む力として見ていた。
戦いの中で、指輪のある手が床へ触れた。
槙島はすぐに身体を起こす。
遠くの家に、同じものをつけた人がいる。
そのことを思い出す暇もないほど、狡噛が迫ってきた。
*
朱が二人へ辿り着いた時、状況は一瞬で判断しなければならなかった。
狡噛がいる。
槙島もいる。
ドミネーターでは止められない男。
朱は、あの夜のように銃の返答を待たなかった。
目の前のものを見て、動いた。
槙島を倒し、拘束へ繋げる。
その顔を見た時、記憶の中のゆきと、本棚にあった沙代の写真が、同時に浮かんだ。
それでも、手を止めなかった。
彼を捕まえる。
そのために、ここまで来たのだから
*
地下へ向かったグソンと、それを追った縢からの連絡は戻らなかった。
朱たちはまだ、その奥で何が起きたのかを知らない。
槙島の拘束が進む。
狡噛は、目の前の男から視線を外せなかった。
ついに届いた。
けれど、自分が望んだ形で終わったわけではない。
朱は連絡を入れ、必要な確認を続けた。
槙島の左手に、指輪がある。
沙代の手で見たものと、同じだった。
彼女に知らせなければならない。
そう思った。
けれど、拘束した男から目を離すわけにはいかない。周囲の安全も、仲間の状況も、まだ確かめなければならなかった。
朱は指輪から視線を戻し、次の指示を聞いた。
*
拘束された槙島は、天井の灯りを見ていた。
身体に痛みがある。
指を少し動かすと、指輪の感触があった。
沙代は、今夜も眠れていないかもしれない。
外の騒ぎを聞き、窓を確かめ、端末を見ているのだろう。
自分が捕まったことを、彼女はまだ知らない。
槙島は目を閉じた。
戻らないと告げた夜、沙代は泣いた。
最後までそばにいたがった。
それでも、帰れないという自分の言葉を聞いて、離してくれた。
その手へ、もう一度触れたいと思った。
今、連絡することはできない。
グソンがどうなったのかも、分からなかった。
彼を通して沙代の様子を知ることにも、いつの間にか頼っていた。
声は聞けなくても、家にいると分かれば安心できた。
今は、その知らせもなかった。
槙島は指を止めた。
天井の灯りは変わらない。
ここには、彼の帰りを待つカップも、読みかけの本もなかった。
*
沙代は明け方に少し眠った。
目が覚めると、灯りはついたままだった。
毛布を掛け直し、端末を手に取る。
街の混乱が収まりつつあるという報道が出ていた。
ほっとして、肩を落とす。
聖護については、まだ何も分からない。
沙代はグソンとの画面を開いた。
《聖護は、無事ですか》
送信する。
端末を手元に置き、写真立ての隣にある健診の画像を整えた。
「……少し、静かになったね」
お腹へ話しかける。
しばらくして、もう一度画面を見た。
返事はなかった。
忙しいのかもしれない。
そう考えて、沙代はお湯を沸かしに立った。
同じ朝、彼女が待つ男は、公安の拘束下にいた。
その無事を尋ねていた相手からも、もう返事が届くことはなかった。