絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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62.灯りをつけて

 

 

 

二月五日。

 

朝から、街の音が違った。

窓を閉めていても、遠くの叫び声が聞こえる。

ニュースでは事件が増えていた。

 

ヘルメットを被った集団の暴力。

恐怖に駆られた市民の反撃。

 

誰が襲う側で、誰が逃げる側なのか。

画面が切り替わるたび、分からなくなる。

 

沙代は食卓に座った。

 

怖い。

 

その一言を、送る相手を探してしまう。

 

聖護との履歴を開きかけ、閉じた。

朱は仕事中だろう。

狡噛も、宜野座も、この街のどこかで動いている。

 

グソンへ聞けば、聖護は無事だと教えてもらえるかもしれない。

 

けれど今、伝えたかったのは、自分が怖いということだった。

 

沙代は窓から離れた場所へ座り直した。

 

お腹へ手を置く。

 

最近は、日々の中で動きを感じるようになっていた。

今日も分かるかと、静かに待ってみる。

 

少しして、手の下で小さく動いた。

外の音へばかり向いていた意識が、戻ってくる。

 

「……ここにいようね」

 

小さく言った。

 

写真立ては棚の上にある。

 

その隣には、健診の画像が置かれていた。

 

 

 

*

 

公安局へは、次々に通報が届いていた。

 

一つの現場を収めても、別の場所で暴力が起きる。

 

人々は自分を守ろうとしていた。

 

けれど、その行動が別の人の恐怖を増やし、さらに大きな混乱を呼ぶ。

朱は移動の合間、街の状況を確認した。

 

狡噛は、槙島がこの混乱だけを目的にしているとは考えていなかった。

 

「これだけの騒ぎを起こせば、こちらの手は取られる」

「その間に、別のことを?」

「ああ。あいつは、何を見ている」

 

朱は画面へ目を戻した。

 

街が荒れている。

沙代のいる家も、その中にある。

 

だが今、自分が向かわなければならない現場には、もっと切迫した人々がいた。

彼女は端末を握り直し、次の指示を確認した。

 

 

 

*

 

槙島は、混乱する街の映像を見ていた。

 

計画は進んでいる。

 

人々が信じていた安全は崩れ、自分の判断で動く必要に迫られている。

その光景に、彼は確かな手応えを感じた。

 

同時に、グソンへ尋ねる。

 

「沙代の近くは?」

「今のところ、大きな騒ぎは出ていません」

「そう」

「家からも、動いていないようです」

 

槙島は頷いた。

 

安心した。

 

その安心を得たあとで、また街の映像へ目を戻した。

沙代に会いに行くことはしない。

直接、連絡も取らない。

 

彼女を守るために離れたという判断と、彼女のいる街を混乱させる計画は、今も彼の中で並んでいた。

 

グソンが次の予定を確認する。

 

槙島は席を立った。

これから向かうのは、かつて帰る場所と決めた家ではない。

混乱の中で、目的の場所へ進む準備が整いつつあった。

 

*

 

夕方、沙代は灯りをつけた。

 

いつもの時刻だった。

 

聖護が帰る日は、先に灯りをつけておいた。

玄関から入った時、部屋が暗くないように。

 

もう、そのためではない。

 

沙代は自分のカップを持ち、ソファへ座った。

 

外では、まだ声がしている。

 

写真の中の彼を見る。

 

「……聖護がいる時は、ここ、静かだったね」

 

今も、家具は動いていない。

彼の本も、カップもある。

 

変わったのは、隣に誰もいないことと、窓の向こうの街だった。

 

沙代は毛布を引き寄せた。

 

その夜、彼女はいつもより長く灯りをつけていた。

 

 

 

*

 

街の騒ぎは、夜になっても収まらなかった。

沙代は窓から離れた場所で、端末の速報を見ていた。

 

同じ道でも、時間が変わると通れなくなる。

建物の前に人が集まり、しばらくすると別の場所で声が上がる。

 

玄関の鍵は確かめた。

充電も済ませた。

水も、食べられるものもある。

 

それでも、何か忘れているような気がした。

以前なら、聖護に聞けた。

今は、自分で決めなければならない。

 

沙代は本棚の写真を見た。

 

「今日は、出ないよ」

 

返事のない相手へ、外出の予定を伝える。

 

それから、カップを両手で包んだ。

 

*

 

「この混乱に、何の意味がある?」

 

狡噛は街の状況を見ながら言った。

公安は各地へ散っている。

 

一つの現場を収めるために、別の場所の人員を減らさなければならない。

槙島がそれを望んでいるのなら、この街の騒ぎは終点ではない。

 

朱は彼の視線を追った。

 

「警備が薄くなる場所……」

 

狡噛が頷く。

 

二人の思考が、同じ建物へ向かった。

 

厚生省。

ノナタワー。

 

「街全体を使って、そこへ入ろうとしている」

 

朱は息を吸った。

 

事件を追うつもりで動いていた。

けれど、その事件自体が、自分たちを別の場所へ留めるためのものかもしれなかった。

 

「向かいましょう」

 

 

*

 

準備を終えたグソンが、槙島へ声をかけた。

 

「行けます」

 

槙島は頷き、コートを取った。

机の上には端末がある。

 

画面には、一周年の写真。

 

出発前に、もう一度見た。

 

沙代はケーキを作って待っていた。

自分は、来年の話をした。

 

そのあと、本当にあの家で暮らすようになった。

 

写真を閉じ、端末をしまう。

 

「ダンナ」

 

グソンが彼の左手へ目を向けた。

槙島も、その視線に気づく。

 

指輪はつけたままだった。

 

「外していくんです?」

「いや」

 

返事は短かった。

 

グソンは頷き、それ以上聞かなかった。

 

*

 

ノナタワーの中には、外の街とは違う静けさがあった。

 

槙島とグソンは、目的へ向かって進んでいく。

 

ーーシビュラシステム。

 

この国の人々が判断を委ねるもの。その実体へ近づくために、ここまで来た。

 

槙島は静かな高揚を感じていた。

 

どれほどの人間が、その仕組みを知らないまま従っているのか。

自分を裁けないものが、ほかの人々の生き方を決めている。

その奥を見たかった。

 

グソンと別れてから、彼はさらに歩いた。

 

足音が壁に反響する。

そして、追ってきた男と向き合った。

 

狡噛慎也。

 

槙島は、その姿を見て微笑んだ。

 

「ここまで来たんだね」

 

狡噛は彼を見据えた。

今度は、目の前にいる。

 

三年前から追ってきた相手が、自分の足で届く場所に立っている。

言葉を交わす時間は、長くは続かなかった。

 

*

 

沙代の端末が震えた。

 

朱からだった。

 

《外へ出ないでください。何かあったら、連絡を》

 

短い文面を読み返す。

朱も、どこかへ向かっているのかもしれない。

 

《家にいるよ。朱さんも、気をつけて》

 

送信した。

 

今夜、彼女が誰を追っているのか、沙代には尋ねられなかった。

聖護がどこにいるかは知らない。

 

でも、この混乱と無関係ではないと思っている。

 

朱の無事を願った。

聖護にも、無事でいてほしかった。

 

端末を置くと、沙代はお腹へ手を添えた。

 

どちらか一つだけを願うことは、できなかった。

 

*

 

狡噛と槙島は、互いの動きを読みながら戦っていた。

 

狡噛は彼を止めるために。

槙島は、その執念を真正面から受けるように。

 

拳が届く。

息が乱れる。

床を踏み直す。

 

槙島にとって、狡噛は退屈しない相手だった。

 

自分を追い続け、今ここへ来た人間。

その判断と身体が、どこまで自分へ届くのか。

だが、狡噛が求めているのは、互いを知るための時間ではない。

 

止めることだった。

 

死んだ佐々山の顔が、忘れられない。

守れなかったゆきもいる。

 

その思いを、槙島は自分へ挑む力として見ていた。

戦いの中で、指輪のある手が床へ触れた。

槙島はすぐに身体を起こす。

 

遠くの家に、同じものをつけた人がいる。

 

そのことを思い出す暇もないほど、狡噛が迫ってきた。

 

*

 

朱が二人へ辿り着いた時、状況は一瞬で判断しなければならなかった。

 

狡噛がいる。

槙島もいる。

 

ドミネーターでは止められない男。

 

朱は、あの夜のように銃の返答を待たなかった。

 

目の前のものを見て、動いた。

 

槙島を倒し、拘束へ繋げる。

 

その顔を見た時、記憶の中のゆきと、本棚にあった沙代の写真が、同時に浮かんだ。

 

それでも、手を止めなかった。

 

彼を捕まえる。

 

そのために、ここまで来たのだから

 

*

 

 

地下へ向かったグソンと、それを追った縢からの連絡は戻らなかった。

朱たちはまだ、その奥で何が起きたのかを知らない。

 

槙島の拘束が進む。

 

狡噛は、目の前の男から視線を外せなかった。

ついに届いた。

 

けれど、自分が望んだ形で終わったわけではない。

朱は連絡を入れ、必要な確認を続けた。

 

槙島の左手に、指輪がある。

沙代の手で見たものと、同じだった。

彼女に知らせなければならない。

 

そう思った。

 

けれど、拘束した男から目を離すわけにはいかない。周囲の安全も、仲間の状況も、まだ確かめなければならなかった。

 

朱は指輪から視線を戻し、次の指示を聞いた。

 

 

*

 

拘束された槙島は、天井の灯りを見ていた。

 

身体に痛みがある。

指を少し動かすと、指輪の感触があった。

 

沙代は、今夜も眠れていないかもしれない。

外の騒ぎを聞き、窓を確かめ、端末を見ているのだろう。

自分が捕まったことを、彼女はまだ知らない。

 

槙島は目を閉じた。

 

戻らないと告げた夜、沙代は泣いた。

 

最後までそばにいたがった。

それでも、帰れないという自分の言葉を聞いて、離してくれた。

その手へ、もう一度触れたいと思った。

 

今、連絡することはできない。

グソンがどうなったのかも、分からなかった。

彼を通して沙代の様子を知ることにも、いつの間にか頼っていた。

 

声は聞けなくても、家にいると分かれば安心できた。

今は、その知らせもなかった。

 

槙島は指を止めた。

 

天井の灯りは変わらない。

 

ここには、彼の帰りを待つカップも、読みかけの本もなかった。

 

 

*

 

沙代は明け方に少し眠った。

目が覚めると、灯りはついたままだった。

毛布を掛け直し、端末を手に取る。

街の混乱が収まりつつあるという報道が出ていた。

 

ほっとして、肩を落とす。

 

聖護については、まだ何も分からない。

沙代はグソンとの画面を開いた。

 

《聖護は、無事ですか》

 

送信する。

 

端末を手元に置き、写真立ての隣にある健診の画像を整えた。

 

「……少し、静かになったね」

 

お腹へ話しかける。

しばらくして、もう一度画面を見た。

 

返事はなかった。

 

忙しいのかもしれない。

そう考えて、沙代はお湯を沸かしに立った。

 

同じ朝、彼女が待つ男は、公安の拘束下にいた。

その無事を尋ねていた相手からも、もう返事が届くことはなかった。

 

 

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