槙島が逮捕された。
それで、すべてが終わるわけではなかった。
公安局へ戻った朱は、縢の消息を確かめようとしていた。地下へ向かったまま、連絡が途絶えている。
そこへ、彼を逃亡者として扱う指示が出た。
「……縢さんが、自分から逃げたということですか」
朱は聞き返した。
説明を聞いても、納得できなかった。
槙島を捕まえたのに。
自分たちが知らないところで、まだ何かが進んでいる。
狡噛も、同じ苛立ちを抱えていた。
追い続けてきた男は、今、確かに拘束されている。だが、自由に接触することも、思うように事情を聞くこともできない。
「何のために、ここまで追ったと思ってる」
その言葉を、朱は否定できなかった。
*
沙代は、病院へ行く支度をしていた。
街の混乱が落ち着いてから、予約を取り直した健診だった。
鞄に必要なものを入れ、玄関で鍵を持つ。
以前なら、この時間には聖護が声をかけた。
終わったら連絡して。
気分が悪くなったら、無理をしないで。
今は自分で、出発時刻と帰りの予定を確認した。
端末には、朱から短い返信が届いていた。
《外へ出る時は、まだ周囲に気をつけてください》
沙代は礼を返した。
聖護のことを尋ねる文は、書かなかった。
朱が彼を捕まえると言ったことを覚えている。
その人へ、夫の無事だけを教えてほしいとは、簡単に頼めなかった。
グソンからも、返事は来ていない。
沙代は端末を鞄へしまい、扉を開けた。
*
槙島は移送されることになった。
その途中、彼の前に現れた局長は、通常の取り調べとは違う話を始めた。
自分を知っているという、その語り方。
槙島は顔を上げた。
やがて明かされた名に、目が細くなる。
藤間幸三郎。
行方不明になったはずの男が、ここにいる。人間の身体ではなく、別の姿を通して話している。
藤間は、シビュラの実体を語った。
特異な人間たちの脳。
それらを繋ぎ、判断を行う集合。
槙島を裁けないのは、単なる不具合ではなかった。彼のような人間を、システムは別の価値として見ていた。
そして、彼にも加わることを求めた。
槙島は黙って聞いていた。
自分が知りたいと思っていたものの奥に、こういう人間たちがいた。
この国の暮らしを決めるもの。
沙代の親を潜在犯と判定したもの。
朱の目の前で、自分への執行を許さなかったもの。
それが、自分を迎え入れようとしている。
「……なるほど」
槙島は小さく笑った。
藤間の言葉には、取り込まれたあとの世界を肯定する響きがあった。
だが、槙島が欲しいのは、自分の身体を失って得る視野ではなかった。
自分で歩き、選び、相手を見ること。
狡噛と向き合うことも。
本を開くことも。
沙代の手を取ることも。
膝の上で、左手の指を動かした。
指輪がある。
シビュラへ加われば、彼女の存在を知ることはできるのかもしれない。その暮らしを、数値や記録を通して追うことも。
けれど、彼女が眠りかけて自分の名を呼ぶ時、隣にいる身体はなくなる。
槙島は藤間を見た。
沙代の名前は口にしなかった。
拒む理由は、彼女だけではない。
自分の生を、自分の手から渡すつもりがなかった。
*
健診を終えた沙代は、待合で画像を眺めていた。
順調だと言われた。
その言葉を、今日は一人で受け取った。
帰り道、何か買っていこうと思い、すぐにやめる。家にはまだ十分ある。今日は少し疲れた。
ベンチへ腰を下ろすと、お腹が動いた。
沙代は手を当てた。
「……うん。いるね」
少し待つと、もう一度、小さな感触が返ってきた。
聖護がお腹へ耳を寄せたことを思い出す。
彼は、まだ聞き分けられないと言った。
自分は笑った。
今なら、その手の下でも分かるかもしれない。
沙代は鞄から端末を出した。
送れないと分かっている会話を、また開く。
《今日も順調だって。この子、今も動いてるよ》
文字を打ってから、しばらく見つめた。
送信せず、そのまま閉じる。
それでも、書いておきたかった。
*
槙島は、シビュラへの参加を拒絶した。
言葉で説得しようとする藤間と、自分の意志でそこから出ようとする槙島。
やがて、その場は会話だけでは済まなくなった。
槙島は局長の身体を破壊し、拘束から逃れた。
自分を集め、組み込み、運用しようとするものへ従うつもりはない。
傷を負った身体を動かす。
外へ出なければならない。
その先で、また自分の望むことを選ぶために。
*
逃亡の報せが届いた時、朱は端末を見つめた。
「……槙島が?」
一度は捕まえた。
それなのに、今度は自分たちの手の届かないところから逃げたという。
狡噛は報告を聞いて、短く息を吐いた。
驚きより、確かめたいことが増えていた。
なぜ移送されたのか。
何があったのか。
誰が、何を決めたのか。
そして、槙島は次にどこへ向かう。
朱は、沙代の家を思い出した。
帰ってこないと言っていた。
連絡も取れないと。
今回の逃亡を知らせることが、彼女に何を与えるのか。
安心なのか。
新しい恐怖なのか。
朱はその場では連絡しなかった。
まず、分かっていることを確かめる必要があった。
*
槙島は、落ち着ける場所へ辿り着いてから、ようやく座った。
そばに、グソンはいなかった。
声をかければ返事が来る。
必要なことを聞けば、短く答えてくれる。
その気配がないことを、身体を休めた途端、はっきり感じた。
左手を見る。
指輪は残っていた。
彼はそれへ触れた。
ーー生きている。
沙代が願ったことを、今はまだ果たしている。
だが、彼女へ伝えることはできない。
槙島は椅子の背へ頭を預けた。
家へ帰る道を、頭の中で辿る。
鍵を開ける。
沙代が顔を上げる。
名前を呼ぶ。
そこまで思い浮かべて、目を開けた。
帰れば、彼女へ危険を持ち帰る。
その事実は、逃げたあとも変わらなかった。
*
沙代は帰宅すると、健診の画像を写真立ての隣へ置いた。
前の画像より、新しいものが少し手前になる。
聖護と撮った写真も、見えるように直した。
「ただいま」
静かな部屋へ言った。
彼女の知らない場所で、夫は生き延びていた。
同じ空の下に、まだいる。
そのことが、誰より聞きたい沙代には届かなかった。