絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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63.生きている

 

 

 

 

槙島が逮捕された。

 

それで、すべてが終わるわけではなかった。

公安局へ戻った朱は、縢の消息を確かめようとしていた。地下へ向かったまま、連絡が途絶えている。

 

そこへ、彼を逃亡者として扱う指示が出た。

 

「……縢さんが、自分から逃げたということですか」

 

朱は聞き返した。

 

説明を聞いても、納得できなかった。

 

槙島を捕まえたのに。

自分たちが知らないところで、まだ何かが進んでいる。

 

狡噛も、同じ苛立ちを抱えていた。

 

追い続けてきた男は、今、確かに拘束されている。だが、自由に接触することも、思うように事情を聞くこともできない。

 

「何のために、ここまで追ったと思ってる」

 

その言葉を、朱は否定できなかった。

 

*

 

 

 

 

沙代は、病院へ行く支度をしていた。

 

街の混乱が落ち着いてから、予約を取り直した健診だった。

鞄に必要なものを入れ、玄関で鍵を持つ。

以前なら、この時間には聖護が声をかけた。

 

終わったら連絡して。

気分が悪くなったら、無理をしないで。

 

今は自分で、出発時刻と帰りの予定を確認した。

端末には、朱から短い返信が届いていた。

 

《外へ出る時は、まだ周囲に気をつけてください》

 

沙代は礼を返した。

 

聖護のことを尋ねる文は、書かなかった。

朱が彼を捕まえると言ったことを覚えている。

 

その人へ、夫の無事だけを教えてほしいとは、簡単に頼めなかった。

グソンからも、返事は来ていない。

 

沙代は端末を鞄へしまい、扉を開けた。

 

 

 

 

 

*

 

槙島は移送されることになった。

 

その途中、彼の前に現れた局長は、通常の取り調べとは違う話を始めた。

 

自分を知っているという、その語り方。

 

槙島は顔を上げた。

 

やがて明かされた名に、目が細くなる。

 

藤間幸三郎。

 

行方不明になったはずの男が、ここにいる。人間の身体ではなく、別の姿を通して話している。

 

藤間は、シビュラの実体を語った。

特異な人間たちの脳。

それらを繋ぎ、判断を行う集合。

 

槙島を裁けないのは、単なる不具合ではなかった。彼のような人間を、システムは別の価値として見ていた。

そして、彼にも加わることを求めた。

 

槙島は黙って聞いていた。

 

自分が知りたいと思っていたものの奥に、こういう人間たちがいた。

 

この国の暮らしを決めるもの。

沙代の親を潜在犯と判定したもの。

朱の目の前で、自分への執行を許さなかったもの。

 

それが、自分を迎え入れようとしている。

 

「……なるほど」

 

槙島は小さく笑った。

 

藤間の言葉には、取り込まれたあとの世界を肯定する響きがあった。

だが、槙島が欲しいのは、自分の身体を失って得る視野ではなかった。

 

自分で歩き、選び、相手を見ること。

 

狡噛と向き合うことも。

本を開くことも。

 

沙代の手を取ることも。

膝の上で、左手の指を動かした。

 

指輪がある。

 

シビュラへ加われば、彼女の存在を知ることはできるのかもしれない。その暮らしを、数値や記録を通して追うことも。

 

けれど、彼女が眠りかけて自分の名を呼ぶ時、隣にいる身体はなくなる。

 

槙島は藤間を見た。

 

沙代の名前は口にしなかった。

 

拒む理由は、彼女だけではない。

 

自分の生を、自分の手から渡すつもりがなかった。

 

 

 

*

 

健診を終えた沙代は、待合で画像を眺めていた。

順調だと言われた。

その言葉を、今日は一人で受け取った。

 

帰り道、何か買っていこうと思い、すぐにやめる。家にはまだ十分ある。今日は少し疲れた。

 

ベンチへ腰を下ろすと、お腹が動いた。

沙代は手を当てた。

 

「……うん。いるね」

 

少し待つと、もう一度、小さな感触が返ってきた。

聖護がお腹へ耳を寄せたことを思い出す。

 

彼は、まだ聞き分けられないと言った。

自分は笑った。

今なら、その手の下でも分かるかもしれない。

 

沙代は鞄から端末を出した。

送れないと分かっている会話を、また開く。

 

《今日も順調だって。この子、今も動いてるよ》

 

文字を打ってから、しばらく見つめた。

 

送信せず、そのまま閉じる。

それでも、書いておきたかった。

 

 

 

*

 

槙島は、シビュラへの参加を拒絶した。

 

言葉で説得しようとする藤間と、自分の意志でそこから出ようとする槙島。

 

やがて、その場は会話だけでは済まなくなった。

槙島は局長の身体を破壊し、拘束から逃れた。

自分を集め、組み込み、運用しようとするものへ従うつもりはない。

 

傷を負った身体を動かす。

 

外へ出なければならない。

 

その先で、また自分の望むことを選ぶために。

 

 

 

 

*

 

逃亡の報せが届いた時、朱は端末を見つめた。

 

「……槙島が?」

 

一度は捕まえた。

それなのに、今度は自分たちの手の届かないところから逃げたという。

狡噛は報告を聞いて、短く息を吐いた。

驚きより、確かめたいことが増えていた。

 

なぜ移送されたのか。

何があったのか。

誰が、何を決めたのか。

 

そして、槙島は次にどこへ向かう。

 

朱は、沙代の家を思い出した。

 

帰ってこないと言っていた。

連絡も取れないと。

 

今回の逃亡を知らせることが、彼女に何を与えるのか。

 

安心なのか。

新しい恐怖なのか。

 

朱はその場では連絡しなかった。

 

まず、分かっていることを確かめる必要があった。

 

 

 

*

 

 

 

 

槙島は、落ち着ける場所へ辿り着いてから、ようやく座った。

 

そばに、グソンはいなかった。

 

声をかければ返事が来る。

必要なことを聞けば、短く答えてくれる。

 

その気配がないことを、身体を休めた途端、はっきり感じた。

 

左手を見る。

指輪は残っていた。

彼はそれへ触れた。

 

ーー生きている。

 

沙代が願ったことを、今はまだ果たしている。

 

だが、彼女へ伝えることはできない。

 

槙島は椅子の背へ頭を預けた。

家へ帰る道を、頭の中で辿る。

 

鍵を開ける。

沙代が顔を上げる。

名前を呼ぶ。

 

そこまで思い浮かべて、目を開けた。

 

帰れば、彼女へ危険を持ち帰る。

 

その事実は、逃げたあとも変わらなかった。

 

 

 

*

 

沙代は帰宅すると、健診の画像を写真立ての隣へ置いた。

前の画像より、新しいものが少し手前になる。

 

聖護と撮った写真も、見えるように直した。

 

「ただいま」

 

静かな部屋へ言った。

彼女の知らない場所で、夫は生き延びていた。

同じ空の下に、まだいる。

 

そのことが、誰より聞きたい沙代には届かなかった。

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