玄関の鍵を、まだ持っていた。
返す機会がなかった、というのは言い訳だ。手放そうと思えば、いつでもできた。
槙島はしばらく、掌の鍵を見ていた。
帰るつもりはない。
それでも、この鍵で扉が開くことを、確かめたかった。
部屋には誰もいなかった。
槙島は本棚の前で足を止めた。
写真立ての中で、沙代が笑っている。その隣の自分も、随分と楽しそうだった。
「……飾ったんだね」
そばには、見覚えのない白黒の画像があった。
手に取る。
日付を確かめ、それからしばらく眺めた。
沙代なら、どこが頭なのか教えてくれただろう。
説明を聞いてもよく分からないと言えば、呆れた顔で笑ったかもしれない。
槙島は画像を元の位置へ戻した。
椅子には、彼女のカーディガンが掛かっている。
触れかけた手を止め、代わりに机から紙を一枚借りた。
書き始めるまでに、少し時間がかかった。
〔沙代。
僕は生きているよ。
写真を見た。君に説明してもらわないと、まだよく分からないね。
でも、大きくなったんだろう。
君とこの子のことを、忘れた日はない。
返事はできない。会いに来る約束も、まだできない。
それでも、これだけは僕から伝えたかった。
君と出会えて、愛を知れて本当に幸せだった。
愛している。
聖護〕
読み返して、紙を折る。
いつも沙代が座っていた場所に置いたあと、槙島は玄関へ目を向けた。
今、鍵が回ったら。
ただいま、とあの声がしたら。
自分は本当に、会わずに帰れるだろうか。
「……帰れないだろうね」
小さく笑って、立ち上がる。
だから、彼女が帰る前に出ていった。
*
帰ってきた沙代は、最初、机の上の紙が何なのか分からなかった。
見覚えのある字を見つけて、買い物袋を床に置く。
「……聖護?」
一行目を読んだところで、口元を押さえた。
生きている。
その先を読むより先に、玄関を振り返ってしまった。
寝室を覗いて、浴室の扉も開けた。
どこにもいない。
分かっていたのに、探さずにはいられなかった。
机に戻って、今度は最後まで読む。
健診の画像を見たと書いてある。
ここに来たんだ。
この椅子に座って、これを書いたんだ。
「……待っててくれたら、よかったのに」
紙の端に、涙が落ちた。
会えば帰れなくなるから、いなかったのかもしれない。
そんなことまで分かってしまうのが、今は寂しかった。
それでも、最後の名前を指でそっとなぞる。
「私も、愛してるよ」
返事はできないと書かれた手紙に、何度も頷いた。
やがてお腹へ手を添えて、泣きながら少しだけ笑った。
「……お父さん、写真、見てくれたって」
説明してあげたかった。
ここが頭で、ここに小さな手があるんだよって。
沙代は手紙を胸に抱いたまま、彼が座った椅子へ、ゆっくり腰を下ろした。
手紙は、絵本の間に挟んだ。
何度も読むうちに、折り目が少し柔らかくなっていた。泣いて濡らしてしまった場所だけ、紙が波打っている。
翌朝、沙代はそれをもう一度開いた。
僕は生きているよ。
昨日と同じ文字だった。
それだけで、朝食を用意する気になれた。
棚からカップを取り出して、つい二つ並べる。
「……違った」
一つを戻そうとして、やめた。
聖護が使っていた白いカップにもお湯を注ぐ。
向かいの席に置いてから、自分の分を両手で包んだ。
来てくれたことは、誰にも話さない。
ここにいた痕跡を見つけた嬉しさと、それを隠す意思は、沙代の中で自然に並んでいた。
端末が短く鳴った。
朱からだった。
《体調はどうですか。必要なものがあれば、遠慮なく言ってください》
沙代は少し考えてから、返事を打った。
《大丈夫。今日はちゃんと朝ごはん食べてるよ。朱さんも食べてね》
送信すると、お腹の中が動いた。
「うん。食べるよ」
今度は、そこにいる小さな相手へ答えた。
*
公安局では、槙島の身柄を確保するための捜査が続いていた。
それでも、狡噛には、自分がその男へ近づく道を塞がれているように思えた。
捕まえたはずの男が逃げた。
縢は戻らない。
上から下りてくる説明だけでは、埋まらないものが多すぎた。
「狡噛さん」
呼び止めた朱へ、狡噛は顔を向けた。
「倉橋さんから、返事が来ました」
「……何か言っていたか」
「今日は、朝ごはんを食べてるって」
朱は端末を見たまま、微かに笑った。
「私にも、ちゃんと食べてって」
狡噛は黙っていた。
あの部屋にあった写真を思い出す。
笑っていた女と、その隣の男。
報告書の顔写真とは違う槙島の表情が、妙に記憶に残っていた。
「何か、分かったんでしょうか。槙島のこと」
「それだけじゃ分からない」
「そうですよね」
朱が端末をしまう。
狡噛はその手元から目を離した。
「気にかけてやれ」
「……狡噛さんは?」
「俺が行けば、聞きたいことばかりになる」
沙代が愛した男を、狡噛は追っている。
会えば、彼女の沈黙も、目線も、何気ない言葉まで拾おうとするだろう。
以前、そうしたように。
朱は何か言いかけたが、狡噛が歩き出すと、その背中を見送った。
*
槙島は、買ったばかりのシャツに袖を通した。
慣れない部屋だった。
窓の外を眺めても、そこに沙代の暮らしは見えない。
端末を開く。
グソンの声が返ってこないことに、まだ慣れなかった。
いつもなら、調べものを頼めば、軽口と一緒に答えが来た。
自分が何を言うか察して、先に話を進めていることもあった。
今は、自分で確かめるしかない。
槙島は端末を伏せた。
昨日、あの部屋に長居するべきではなかった。
手紙も残すべきではなかった。
分かっていて書いたのだから、判断を誤ったという言い方も正しくない。
「……君なら、なんて言うかな」
グソンの呆れた顔を思い浮かべ、ほんの少し笑った。
指輪を回す。
沙代はもう、読んだだろう。
自分が生きていると知って、少しは眠れただろうか。
それとも、来ていたと分かったせいで、余計に寂しい思いをさせただろうか。
確かめるための連絡はしなかった。
椅子に掛けた上着を取り、部屋を出る。
扉を閉める直前、あの家の玄関で聞いていた声が思い出された。
いってらっしゃい。
槙島は一度だけ振り返った。
誰もいない部屋へ、返事はしなかった。
*
朱が狡噛の残した手紙を読む頃には、彼はもう公安局にはいなかった。
紙を持つ指に力が入る。
追いかければ、まだ間に合うのではないか。
そう思って立ち上がり、それから手紙の続きに目を落とした。
狡噛は、朱が止めると分かっていた。
分かっていて、会わずに出ていった。
「……ずるいですよ」
声が震えた。
その日の夕方、沙代は朱へ短いメッセージを送った。
《忙しいかな。落ち着いたら、またお茶しようね》
返信は、しばらく来なかった。
*
沙代は端末を伏せ、絵本を開く。
挟んだ手紙をそっと取り出したあと、最初のページから、お腹の子へ読み始めた。
昔、祖母が読んでくれたように。
途中で声が詰まっても、その夜は最後まで読んだ。
午後、朱から連絡が来た。
《少しだけ、電話してもいいですか》
沙代は読んですぐ、通話を繋いだ。
「朱ちゃん?」
呼んでから、少しだけ照れた。
以前より近い呼び方が、今日は自然に出た。
『……こんにちは』
いつもの声だった。
けれど、挨拶のあとに続くはずの言葉が、なかなか聞こえてこなかった。
沙代はソファに座り直す。
「どうかした?」
『いえ。沙代さんの体調、どうかなって』
「元気だよ。今日は、この子もよく動いてる」
お腹へ手を添える。
「まだ、ちょっと変な感じ。自分のお腹なのに、私じゃない誰かがいるんだもんね」
向こうで、朱が小さく笑った。
『そうですよね』
その笑い方に、沙代は少し安心した。
「朱ちゃんは?」
『私は……』
言葉が途切れた。
沙代は急かさず待った。
窓際に落ちた陽が、床をゆっくり移動している。
『止めたい人が、いるんです』
やがて朱が言った。
『その人がどうしてそうするのか、分かるんです。でも、だからって、行かせたくなくて』
沙代の指が、膝の上で止まった。
誰の話なのかは分からない。
それでも、会って話したい相手が、もう自分の声の届くところにいない。
その苦しさには覚えがあった。
「……うん」
『私がもっと、何かできていたらって』
「朱ちゃん」
沙代は少しだけ身を起こした。
「まだ、止めようとしてるんでしょ?」
『はい』
「じゃあ、今から言えることも、あるんじゃないかな」
自分には、もう返事の来る連絡先がない。
それを口にはしなかった。
朱はしばらく黙って、それから息を吸った。
『……ありがとうございます』
「たいしたこと言えてないけどね。……私は、止められなかったから」
朱は何かを言いかけて、黙る。
それは沙代の切実な気持ちだった。
通話が終わったあと、沙代は端末を両手で持ったまま、画面を見つめていた。
朱の言う、止めたい人。
その人が聖護を追っているのだとしたら。
考えが浮かび、胸が冷えた。
けれど、聞き返すことはできなかった。
*
雑賀の部屋で、狡噛は槙島の音声を聞き直していた。
声は穏やかだった。
相手の返答を待つ間も、問いかける調子も、ひどく落ち着いている。
狡噛は、その声と、沙代の部屋にあった写真を結びつけた。
あの男は、彼女にも同じ声で話していたのだろう。
本の感想を聞き、茶を飲み、何でもない会話をする。
その生活が想像できることに、狡噛自身、苛立ちに近いものを感じた。
「何か引っかかるのか」
雑賀の問いに、狡噛は顔を上げた。
「こいつには、親しい女がいます」
「ほう」
「子どももいる。まだ腹の中ですが」
雑賀はすぐには答えなかった。
狡噛は続けた。
「帰る場所があるんです。それでも、やめない」
「君は、それがあればやめる男だと思ったのか?」
「……いや」
言ってから、狡噛は視線を落とした。
沙代の存在を知る前から、槙島がどういう男かは追い続けてきた。
誰かを愛していると分かっただけで、それまで見てきたものが変わるわけではない。
雑賀は椅子の背にもたれた。
「その女性を手掛かりにするつもりか」
「彼女は今の居場所を知らない。連絡が来ても、話すとは限らないでしょう」
「なら、彼女を頼りにしていても、先へは進めないな」
狡噛は音声を止めた。
ここへ来たのは、槙島を理解するためだ。
彼が大事にしているものを探して、脅すためではない。
「続きを聞かせてください」
再び、槙島の声が部屋に流れた。
*
槙島は、必要な資料を読み終えて本を閉じた。
空腹に気づいたのは、その時だった。
買ってきた食べ物の封を切る。
味を確かめる間もなく、二口、三口と口に運んだ。
沙代なら、そういう食べ方をすると眉を寄せた。
ちゃんと休憩して。
休憩しているよ。
本、閉じてないじゃん。
思い出して、槙島は手元を見た。
今は閉じている。
「これなら、文句はないだろう?」
返事はない。
食べ終わった容器を片づけ、机へ戻る。
次に何をするべきかは、すでに決めていた。
沙代の家へ置いてきた手紙にも、それを変えるとは書かなかった。
生きていると伝えた。
愛しているとも書いた。
どちらも本当だった。
ただ、その先に彼女が望む暮らしを差し出せなかった。
何が正解だったかは、自分でも分からない。
あの時出会わなければ、あの時殺していれば、あの時____
槙島は左手を見下ろした。
指輪を外す気にはならなかった。
*
その夜、沙代は小さな服を畳んでいた。
まだ数は少ない。
買うたびに、思っていたより小さいことに驚く。
袖へ指を入れてみる。
「聖護の手だったら、入らないね」
笑ってから、服を膝に置いた。
彼の手を思い出す。
本をめくる指。
カップの持ち方。
自分の手を包んだ時の温かさ。
会いたかった。
生きていると分かれば、それだけで十分だと思っていたのに、今度は声が聞きたかった。
顔を見て、触れて、この子が動くところを一緒に待ちたかった。
「欲張りだね、私」
お腹の中が、こつんと応じた。
沙代は慌てて手を当てる。
「今の、分かった?」
誰もいない隣へ、つい顔を向けた。
少し遅れて、笑みが消える。
それでも手は離さなかった。
もう一度動くのを、じっと待つ。
やがて小さな感触が返ってきて、沙代は目を伏せた。
「……うん。いるね」
畳んだ服をしまい、絵本から手紙を取り出す。
読み終えると、その裏側に鉛筆で一行だけ書いた。
《今日、すごくよく動いたよ。》
渡せるあてはなかった。
それでも、次に聖護が帰ってきたら、最初に見せようと思った。