絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

65 / 70
64.手紙

 

 

 

 

玄関の鍵を、まだ持っていた。

返す機会がなかった、というのは言い訳だ。手放そうと思えば、いつでもできた。

 

槙島はしばらく、掌の鍵を見ていた。

 

帰るつもりはない。

 

それでも、この鍵で扉が開くことを、確かめたかった。

 

 

 

 

部屋には誰もいなかった。

槙島は本棚の前で足を止めた。

 

写真立ての中で、沙代が笑っている。その隣の自分も、随分と楽しそうだった。

 

「……飾ったんだね」

 

そばには、見覚えのない白黒の画像があった。

手に取る。

日付を確かめ、それからしばらく眺めた。

 

沙代なら、どこが頭なのか教えてくれただろう。

 

説明を聞いてもよく分からないと言えば、呆れた顔で笑ったかもしれない。

槙島は画像を元の位置へ戻した。

椅子には、彼女のカーディガンが掛かっている。

 

触れかけた手を止め、代わりに机から紙を一枚借りた。

 

書き始めるまでに、少し時間がかかった。

 

 

 

 

〔沙代。

 

僕は生きているよ。

 

写真を見た。君に説明してもらわないと、まだよく分からないね。

でも、大きくなったんだろう。

 

君とこの子のことを、忘れた日はない。

 

返事はできない。会いに来る約束も、まだできない。

それでも、これだけは僕から伝えたかった。

 

君と出会えて、愛を知れて本当に幸せだった。

 

愛している。

 

聖護〕

 

読み返して、紙を折る。

 

いつも沙代が座っていた場所に置いたあと、槙島は玄関へ目を向けた。

 

今、鍵が回ったら。

 

ただいま、とあの声がしたら。

 

自分は本当に、会わずに帰れるだろうか。

 

「……帰れないだろうね」

 

小さく笑って、立ち上がる。

だから、彼女が帰る前に出ていった。

 

 

 

*

 

帰ってきた沙代は、最初、机の上の紙が何なのか分からなかった。

見覚えのある字を見つけて、買い物袋を床に置く。

 

「……聖護?」

 

一行目を読んだところで、口元を押さえた。

 

生きている。

 

その先を読むより先に、玄関を振り返ってしまった。

 

寝室を覗いて、浴室の扉も開けた。

どこにもいない。

分かっていたのに、探さずにはいられなかった。

 

机に戻って、今度は最後まで読む。

 

健診の画像を見たと書いてある。

 

ここに来たんだ。

この椅子に座って、これを書いたんだ。

 

「……待っててくれたら、よかったのに」

 

紙の端に、涙が落ちた。

 

会えば帰れなくなるから、いなかったのかもしれない。

そんなことまで分かってしまうのが、今は寂しかった。

それでも、最後の名前を指でそっとなぞる。

 

「私も、愛してるよ」

 

返事はできないと書かれた手紙に、何度も頷いた。

やがてお腹へ手を添えて、泣きながら少しだけ笑った。

 

「……お父さん、写真、見てくれたって」

 

説明してあげたかった。

 

ここが頭で、ここに小さな手があるんだよって。

 

沙代は手紙を胸に抱いたまま、彼が座った椅子へ、ゆっくり腰を下ろした。

 

 

手紙は、絵本の間に挟んだ。

 

何度も読むうちに、折り目が少し柔らかくなっていた。泣いて濡らしてしまった場所だけ、紙が波打っている。

 

翌朝、沙代はそれをもう一度開いた。

 

僕は生きているよ。

 

昨日と同じ文字だった。

それだけで、朝食を用意する気になれた。

棚からカップを取り出して、つい二つ並べる。

 

「……違った」

 

一つを戻そうとして、やめた。

聖護が使っていた白いカップにもお湯を注ぐ。

向かいの席に置いてから、自分の分を両手で包んだ。

 

来てくれたことは、誰にも話さない。

 

ここにいた痕跡を見つけた嬉しさと、それを隠す意思は、沙代の中で自然に並んでいた。

 

端末が短く鳴った。

 

朱からだった。

 

《体調はどうですか。必要なものがあれば、遠慮なく言ってください》

 

沙代は少し考えてから、返事を打った。

 

《大丈夫。今日はちゃんと朝ごはん食べてるよ。朱さんも食べてね》

 

送信すると、お腹の中が動いた。

 

「うん。食べるよ」

 

今度は、そこにいる小さな相手へ答えた。

 

 

 

 

*

 

公安局では、槙島の身柄を確保するための捜査が続いていた。

それでも、狡噛には、自分がその男へ近づく道を塞がれているように思えた。

 

捕まえたはずの男が逃げた。

縢は戻らない。

 

上から下りてくる説明だけでは、埋まらないものが多すぎた。

 

「狡噛さん」

 

呼び止めた朱へ、狡噛は顔を向けた。

 

「倉橋さんから、返事が来ました」

「……何か言っていたか」

「今日は、朝ごはんを食べてるって」

 

朱は端末を見たまま、微かに笑った。

 

「私にも、ちゃんと食べてって」

 

狡噛は黙っていた。

あの部屋にあった写真を思い出す。

笑っていた女と、その隣の男。

報告書の顔写真とは違う槙島の表情が、妙に記憶に残っていた。

 

「何か、分かったんでしょうか。槙島のこと」

「それだけじゃ分からない」

「そうですよね」

 

朱が端末をしまう。

狡噛はその手元から目を離した。

 

「気にかけてやれ」

「……狡噛さんは?」

「俺が行けば、聞きたいことばかりになる」

 

沙代が愛した男を、狡噛は追っている。

会えば、彼女の沈黙も、目線も、何気ない言葉まで拾おうとするだろう。

以前、そうしたように。

朱は何か言いかけたが、狡噛が歩き出すと、その背中を見送った。

 

 

 

*

 

 

 

 

槙島は、買ったばかりのシャツに袖を通した。

慣れない部屋だった。

 

窓の外を眺めても、そこに沙代の暮らしは見えない。

端末を開く。

グソンの声が返ってこないことに、まだ慣れなかった。

 

いつもなら、調べものを頼めば、軽口と一緒に答えが来た。

自分が何を言うか察して、先に話を進めていることもあった。

今は、自分で確かめるしかない。

 

槙島は端末を伏せた。

 

昨日、あの部屋に長居するべきではなかった。

 

手紙も残すべきではなかった。

 

分かっていて書いたのだから、判断を誤ったという言い方も正しくない。

 

「……君なら、なんて言うかな」

 

グソンの呆れた顔を思い浮かべ、ほんの少し笑った。

指輪を回す。

沙代はもう、読んだだろう。

 

自分が生きていると知って、少しは眠れただろうか。

それとも、来ていたと分かったせいで、余計に寂しい思いをさせただろうか。

確かめるための連絡はしなかった。

 

椅子に掛けた上着を取り、部屋を出る。

 

扉を閉める直前、あの家の玄関で聞いていた声が思い出された。

 

いってらっしゃい。

 

槙島は一度だけ振り返った。

 

誰もいない部屋へ、返事はしなかった。

 

 

*

 

 

 

朱が狡噛の残した手紙を読む頃には、彼はもう公安局にはいなかった。

紙を持つ指に力が入る。

追いかければ、まだ間に合うのではないか。

そう思って立ち上がり、それから手紙の続きに目を落とした。

 

狡噛は、朱が止めると分かっていた。

分かっていて、会わずに出ていった。

 

「……ずるいですよ」

 

声が震えた。

その日の夕方、沙代は朱へ短いメッセージを送った。

 

《忙しいかな。落ち着いたら、またお茶しようね》

 

返信は、しばらく来なかった。

 

 

 

 

*

 

沙代は端末を伏せ、絵本を開く。

挟んだ手紙をそっと取り出したあと、最初のページから、お腹の子へ読み始めた。

 

昔、祖母が読んでくれたように。

途中で声が詰まっても、その夜は最後まで読んだ。

 

 

午後、朱から連絡が来た。

 

《少しだけ、電話してもいいですか》

 

沙代は読んですぐ、通話を繋いだ。

 

「朱ちゃん?」

 

呼んでから、少しだけ照れた。

以前より近い呼び方が、今日は自然に出た。

 

『……こんにちは』

 

いつもの声だった。

 

けれど、挨拶のあとに続くはずの言葉が、なかなか聞こえてこなかった。

沙代はソファに座り直す。

 

「どうかした?」

『いえ。沙代さんの体調、どうかなって』

「元気だよ。今日は、この子もよく動いてる」

 

お腹へ手を添える。

 

「まだ、ちょっと変な感じ。自分のお腹なのに、私じゃない誰かがいるんだもんね」

 

向こうで、朱が小さく笑った。

 

『そうですよね』

 

その笑い方に、沙代は少し安心した。

 

「朱ちゃんは?」

『私は……』

 

言葉が途切れた。

 

沙代は急かさず待った。

窓際に落ちた陽が、床をゆっくり移動している。

 

『止めたい人が、いるんです』

 

やがて朱が言った。

 

『その人がどうしてそうするのか、分かるんです。でも、だからって、行かせたくなくて』

 

沙代の指が、膝の上で止まった。

誰の話なのかは分からない。

 

それでも、会って話したい相手が、もう自分の声の届くところにいない。

 

その苦しさには覚えがあった。

 

「……うん」

『私がもっと、何かできていたらって』

「朱ちゃん」

 

沙代は少しだけ身を起こした。

 

「まだ、止めようとしてるんでしょ?」

『はい』

「じゃあ、今から言えることも、あるんじゃないかな」

 

自分には、もう返事の来る連絡先がない。

それを口にはしなかった。

 

朱はしばらく黙って、それから息を吸った。

 

『……ありがとうございます』

「たいしたこと言えてないけどね。……私は、止められなかったから」

 

朱は何かを言いかけて、黙る。

それは沙代の切実な気持ちだった。

 

 

通話が終わったあと、沙代は端末を両手で持ったまま、画面を見つめていた。

 

朱の言う、止めたい人。

 

その人が聖護を追っているのだとしたら。

考えが浮かび、胸が冷えた。

けれど、聞き返すことはできなかった。

 

 

*

 

雑賀の部屋で、狡噛は槙島の音声を聞き直していた。

声は穏やかだった。

 

相手の返答を待つ間も、問いかける調子も、ひどく落ち着いている。

狡噛は、その声と、沙代の部屋にあった写真を結びつけた。

 

あの男は、彼女にも同じ声で話していたのだろう。

本の感想を聞き、茶を飲み、何でもない会話をする。

その生活が想像できることに、狡噛自身、苛立ちに近いものを感じた。

 

「何か引っかかるのか」

 

雑賀の問いに、狡噛は顔を上げた。

 

「こいつには、親しい女がいます」

「ほう」

「子どももいる。まだ腹の中ですが」

 

雑賀はすぐには答えなかった。

狡噛は続けた。

 

「帰る場所があるんです。それでも、やめない」

「君は、それがあればやめる男だと思ったのか?」

「……いや」

 

言ってから、狡噛は視線を落とした。

 

沙代の存在を知る前から、槙島がどういう男かは追い続けてきた。

誰かを愛していると分かっただけで、それまで見てきたものが変わるわけではない。

 

雑賀は椅子の背にもたれた。

 

「その女性を手掛かりにするつもりか」

「彼女は今の居場所を知らない。連絡が来ても、話すとは限らないでしょう」

「なら、彼女を頼りにしていても、先へは進めないな」

 

狡噛は音声を止めた。

ここへ来たのは、槙島を理解するためだ。

彼が大事にしているものを探して、脅すためではない。

 

「続きを聞かせてください」

 

再び、槙島の声が部屋に流れた。

 

 

 

*

 

槙島は、必要な資料を読み終えて本を閉じた。

 

空腹に気づいたのは、その時だった。

買ってきた食べ物の封を切る。

味を確かめる間もなく、二口、三口と口に運んだ。

 

沙代なら、そういう食べ方をすると眉を寄せた。

 

ちゃんと休憩して。

 

休憩しているよ。

 

本、閉じてないじゃん。

 

思い出して、槙島は手元を見た。

今は閉じている。

 

「これなら、文句はないだろう?」

 

返事はない。

 

食べ終わった容器を片づけ、机へ戻る。

次に何をするべきかは、すでに決めていた。

 

沙代の家へ置いてきた手紙にも、それを変えるとは書かなかった。

 

生きていると伝えた。

愛しているとも書いた。

 

どちらも本当だった。

 

ただ、その先に彼女が望む暮らしを差し出せなかった。

何が正解だったかは、自分でも分からない。

あの時出会わなければ、あの時殺していれば、あの時____

 

槙島は左手を見下ろした。

指輪を外す気にはならなかった。

 

 

 

*

 

 

その夜、沙代は小さな服を畳んでいた。

まだ数は少ない。

買うたびに、思っていたより小さいことに驚く。

袖へ指を入れてみる。

 

「聖護の手だったら、入らないね」

 

笑ってから、服を膝に置いた。

 

彼の手を思い出す。

 

本をめくる指。

カップの持ち方。

自分の手を包んだ時の温かさ。

 

会いたかった。

 

生きていると分かれば、それだけで十分だと思っていたのに、今度は声が聞きたかった。

顔を見て、触れて、この子が動くところを一緒に待ちたかった。

 

「欲張りだね、私」

 

お腹の中が、こつんと応じた。

沙代は慌てて手を当てる。

 

「今の、分かった?」

 

誰もいない隣へ、つい顔を向けた。

少し遅れて、笑みが消える。

それでも手は離さなかった。

 

もう一度動くのを、じっと待つ。

 

やがて小さな感触が返ってきて、沙代は目を伏せた。

 

「……うん。いるね」

 

畳んだ服をしまい、絵本から手紙を取り出す。

読み終えると、その裏側に鉛筆で一行だけ書いた。

 

《今日、すごくよく動いたよ。》

 

渡せるあてはなかった。

それでも、次に聖護が帰ってきたら、最初に見せようと思った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。