地下から戻ったあと、朱はしばらく、誰とも話すことができなかった。
人々の暮らしを支えているもの。
正しいと教わり、信じてきたもの。
その正体を見た。
吐き気に似た感覚が、まだ喉の奥に残っている。
けれど、街では今日も人が働き、食事をし、家族のもとへ帰っている。
シビュラの正体を知ったところで、その生活まで消えてしまったわけではない。
端末には、沙代から届いたメッセージが残っていた。
《落ち着いたら、またお茶しようね》
朱は画面を見つめた。
あの人のお腹の子も、この社会で生きていく。
何もかも間違っていると言って、投げ出すことはできなかった。
*
沙代は、健診の帰りに書店へ寄った。
育児の本が並ぶ棚の前で、一冊ずつ目次を確かめる。
授乳、沐浴、夜泣き。
どれも知らないことばかりだった。
聖護なら、読む前に著者の経歴まで確かめたかもしれない。
そう考えながら、一冊を選んだ。
会計を済ませたところで、端末が鳴った。
朱だった。
《今、おうちですか?》
《健診の帰り。もうすぐ帰るよ》
少し間があって、返信が来た。
《少しだけ、会えませんか》
沙代は立ち止まった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
それでも、断らなかった。
*
部屋に入った朱は、以前と同じ位置にある写真立てを見た。
槙島と沙代が笑っている。
地下で聞いた説明には、この男を生きたまま確保する理由があった。
朱は、その理由を沙代に伝えられない。
「お茶でいい?」
「はい。ありがとうございます」
沙代がカップを二つ運んでくる。
テーブルへ置く直前、朱は彼女の左手の指輪に目を留めた。
「……今日は、何か聞きに来たの?」
向かいに座った沙代が、静かに尋ねる。
朱は両手を膝に置いた。
「槙島聖護を、追っています」
沙代は頷いた。
「うん」
「生きたまま、捕まえたいんです」
その言葉に、沙代の目が上がった。
朱は続けた。
「罪を償わせなければいけない。殺して終わらせることを、私は認めたくありません」
沙代はすぐには答えなかった。
やがて、カップの取っ手に触れていた指を離す。
「……私、朱ちゃんに頼める立場じゃないのは分かってる」
声が少しだけ震えた。
「でも、生きててほしい」
「はい」
「この子に会えなくても、私のところへ帰ってこなくても……どこかで、生きててほしいんだ」
朱は、その願いを聞いた。
ゆきも、生きていてほしかった。
声になりかけた言葉を飲み込む。
沙代の願いを聞くことと、槙島を許すことは別だった。
朱自身、今はそれを確かめなければ、向かいに座っていられなかった。
「生きて捕まえるために、動きます」
今度は、沙代の目を見て言った。
「私は、そのためにここまで来ました」
沙代は目を伏せ、何度か頷いた。
「……ありがとう」
朱には、返事ができなかった。
*
帰り際、沙代が玄関まで送ってきた。
大きくなったお腹をかばいながら、ゆっくり歩く。
「朱ちゃん」
靴を履いた朱が振り返る。
「朱ちゃんも、ちゃんと帰ってきてね」
朱は息を止めた。
沙代は困ったように笑った。
「私、待つのしかできないから。待ってる人がいるって、覚えてて」
その言葉には、ほかの誰かへ言いたかった気持ちも混じっているようだった。
朱は頷いた。
「……はい」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、朱は端末を取り出した。
狡噛を止めなければならない。
槙島を捕まえなければならない。
シビュラに提示された条件のまま従うのではなく、自分からも条件を突きつける。
そのために、もう一度あの声と向き合う必要があった。
*
その頃、槙島は次の目的へ向かっていた。
街の灯りを離れるほど、窓の外は暗くなる。
これから自分が起こそうとしていることは、沙代の暮らしにも及ぶ。
彼女を計画から遠ざけたからといって、影響まで届かなくなるわけではない。
その程度のことは分かっていた。
それでも、引き返さなかった。
膝の上の左手へ、視線を落とす。
指輪はそのままだった。
沙代に、外してくれと言われたことはない。
むしろ、同じものを着けていることを、何度も嬉しそうに確かめていた。
聖護も、ちゃんと結婚してるみたい。
僕たちは、そういうつもりだろう?
あの時、彼女は照れて笑った。
槙島は指輪へ触れ、それから手を離した。
窓に映った自分の顔は、写真の中ほど楽しそうではなかった。
*
沙代は、朱が帰ったあとで絵本を開いた。
手紙を取り出し、しばらく眺める。
来てくれたことは、今日も話さなかった。
朱の願いを聞き、気遣いを受け取りながら、それでも聖護が来たことを隠した。
紙を折り直した時、お腹が動いた。
沙代は手紙を机へ置いて、両手をお腹に添えた。
「……今日ね、朱ちゃんが来てくれたよ」
小さな感触を待ちながら続ける。
「お父さんを、生きて捕まえたいって」
言ってから、唇を噛んだ。
聖護は、それを望まないかもしれない。
捕まるくらいなら、と考えてしまう人なのかもしれない。
今までの彼を思い返すほど、不安が強くなった。
「お願いだから」
沙代は俯いた。
「生きる方を、選んでよ」
返事の代わりに、お腹の中がもう一度動いた。
沙代はそこを、ゆっくり撫でた。
*
夕食を作りすぎた。
鍋の中を見て、沙代は小さく息をつく。
一人分に慣れたつもりでも、考えごとをしていると、二人で食べていた頃の量に戻ってしまう。
残りは明日に回せばいい。
そう思って器を出した時、棚の奥に聖護の皿が見えた。
「……よく食べてたなあ」
細いくせに、と笑う。
彼が来る日は、いつも少し多めに用意した。
本を読みながら待っているところへ食事を運ぶと、顔を上げて、ありがとうと言ってくれた。
何でもない夜だった。
その何でもなさを、今はどうしても取り戻せない。
沙代は一人分だけをテーブルへ運んだ。
*
穀倉地帯には、街とは違う静けさがあった。
槙島は建物の中を進みながら、足を止めた。
追う者が来ている。
ここまで来たのなら、狡噛も自分の目的に辿り着いたのだろう。
口元に微かな笑みが浮かぶ。
自分を追ってくる男がいることは、今も彼を昂らせた。
何を考え、どう動くか。
それを想像する時間には、ほかでは得られない楽しさがあった。
同時に、別の記憶が浮かんだ。
ソファの端で丸くなって、本を読む沙代。
ページをめくる音が止まると、たいてい眠っていた。
君は読書に向いていないんじゃないかな。
聖護がいると、眠くなるんだもん。
安心してるの、と付け加えた顔。
槙島は一度、目を伏せた。
こんな場所で思い出すとは思わなかった。
左手を握り、開く。
それから先へ進んだ。
*
朱は走っていた。
狡噛を止める。
槙島を生きたまま確保する。
それぞれを言葉にすると短いのに、実現するための道は、足元から次々に失われていくようだった。
通信へ耳を傾け、周囲を確かめる。
沙代の願いを思い出したのは、一瞬だった。
生きていてほしい。
朱自身にも、そう願う相手がいる。
狡噛を見つけた時、まず何を言うか。
それを考える余裕はなかった。
見つければ、きっと名前を呼ぶ。
振り返らせて、足を止めさせる。
そのために走った。
*
宜野座は、父の声を聞いた。
危険が迫る、そのわずかな間に。
いつもなら反発したかもしれない。
勝手に動くなと怒鳴ったかもしれない。
けれど、身体が動かなかった。
征陸がこちらへ来る。
何をするつもりなのか理解するより早く、庇われた。
衝撃と音が、辺りを埋めた。
そのあとで、宜野座は父を呼んだ。
何度も。
もう、監視官としての指示ではなかった。
*
沙代は食器を洗い終えた。
皿を拭き、棚へ戻す。
時計を見ると、まだ寝るには早かった。
端末を開いたけれど、新しい通知はない。
朱は忙しいのだろう。
今夜は連絡しないことにした。
代わりに、引き出しから小さなノートを出す。
子どもの名前を書こうと買ったものだった。
最初のページには、候補がいくつか並んでいる。
聖護がどう思うか気になって、どれにも丸をつけられないままだった。
「難しいね」
お腹へ話しかける。
「一生使うんだもんね。ちゃんと考えないと」
鉛筆を持つ。
一つ書いて、消した。
聖護なら、意味を尋ねるだろう。
響きが好きだから、と答えたら、それもいい理由だと言ってくれるかもしれない。
そこで沙代は手を止めた。
いない人の返事ばかり、上手に想像できるようになっていた。
ノートを閉じる。
今日はまだ、決めなくていい。
*
槙島は走った。
呼吸が速くなる。
思うように動かない箇所がある。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
背後から迫る気配を確かめながら、先を選ぶ。
追ってくるのは狡噛だ。
その事実には、不思議と驚きがなかった。
決着をつけようとする男と、それを止めようとする朱。
二人の意志が、ここまで届いている。
槙島は一瞬、左手を見た。
指輪はまだあった。
沙代が見れば、安心するだろうか。
それとも、こんなところまで来てしまったことを怒るだろうか。
君は、怒ってもいいんだよ。
そんな言葉を、以前の自分なら簡単に言えた。
今は、それを聞く場所に帰れるかどうかさえ分からない。
息を吸い、再び前を見る。
*
ベッドへ入った沙代は、しばらく眠れなかった。
隣には、畳んだ聖護の寝間着が置いてある。
洗ったあと、しまえずにいたものだった。
手を伸ばして、袖口へ触れる。
「……おやすみ」
返事はない。
お腹の中も、今は静かだった。
沙代は灯りを消しかけて、思い直した。
枕元の小さな灯りだけを残す。
二人で夜に本を読むために選んだ灯りだった。
そのまま横になり、目を閉じる。
遠く離れた場所では、まだ誰も夜を終えられずにいた。