絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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65.生きてればそれでいい

 

 

 

地下から戻ったあと、朱はしばらく、誰とも話すことができなかった。

 

人々の暮らしを支えているもの。

正しいと教わり、信じてきたもの。

 

その正体を見た。

 

吐き気に似た感覚が、まだ喉の奥に残っている。

 

けれど、街では今日も人が働き、食事をし、家族のもとへ帰っている。

 

シビュラの正体を知ったところで、その生活まで消えてしまったわけではない。

 

端末には、沙代から届いたメッセージが残っていた。

 

《落ち着いたら、またお茶しようね》

 

朱は画面を見つめた。

 

あの人のお腹の子も、この社会で生きていく。

 

何もかも間違っていると言って、投げ出すことはできなかった。

 

 

 

 

 

*

 

 

沙代は、健診の帰りに書店へ寄った。

 

育児の本が並ぶ棚の前で、一冊ずつ目次を確かめる。

 

授乳、沐浴、夜泣き。

 

どれも知らないことばかりだった。

 

聖護なら、読む前に著者の経歴まで確かめたかもしれない。

そう考えながら、一冊を選んだ。

会計を済ませたところで、端末が鳴った。

 

朱だった。

 

《今、おうちですか?》

《健診の帰り。もうすぐ帰るよ》

 

少し間があって、返信が来た。

 

《少しだけ、会えませんか》

 

沙代は立ち止まった。

胸の奥が、きゅっと縮む。

それでも、断らなかった。

 

 

 

*

 

部屋に入った朱は、以前と同じ位置にある写真立てを見た。

 

槙島と沙代が笑っている。

地下で聞いた説明には、この男を生きたまま確保する理由があった。

 

朱は、その理由を沙代に伝えられない。

 

「お茶でいい?」

「はい。ありがとうございます」

 

沙代がカップを二つ運んでくる。

テーブルへ置く直前、朱は彼女の左手の指輪に目を留めた。

 

「……今日は、何か聞きに来たの?」

 

向かいに座った沙代が、静かに尋ねる。

朱は両手を膝に置いた。

 

「槙島聖護を、追っています」

 

沙代は頷いた。

 

「うん」

「生きたまま、捕まえたいんです」

 

その言葉に、沙代の目が上がった。

 

朱は続けた。

 

「罪を償わせなければいけない。殺して終わらせることを、私は認めたくありません」

 

沙代はすぐには答えなかった。

やがて、カップの取っ手に触れていた指を離す。

 

「……私、朱ちゃんに頼める立場じゃないのは分かってる」

 

声が少しだけ震えた。

 

「でも、生きててほしい」

「はい」

「この子に会えなくても、私のところへ帰ってこなくても……どこかで、生きててほしいんだ」

 

朱は、その願いを聞いた。

 

ゆきも、生きていてほしかった。

 

声になりかけた言葉を飲み込む。

沙代の願いを聞くことと、槙島を許すことは別だった。

朱自身、今はそれを確かめなければ、向かいに座っていられなかった。

 

「生きて捕まえるために、動きます」

 

今度は、沙代の目を見て言った。

 

「私は、そのためにここまで来ました」

 

沙代は目を伏せ、何度か頷いた。

 

「……ありがとう」

 

朱には、返事ができなかった。

 

*

 

帰り際、沙代が玄関まで送ってきた。

 

大きくなったお腹をかばいながら、ゆっくり歩く。

 

「朱ちゃん」

 

靴を履いた朱が振り返る。

 

「朱ちゃんも、ちゃんと帰ってきてね」

 

朱は息を止めた。

沙代は困ったように笑った。

 

「私、待つのしかできないから。待ってる人がいるって、覚えてて」

 

その言葉には、ほかの誰かへ言いたかった気持ちも混じっているようだった。

朱は頷いた。

 

「……はい」

 

扉が閉まる。

廊下を歩きながら、朱は端末を取り出した。

 

狡噛を止めなければならない。

槙島を捕まえなければならない。

 

シビュラに提示された条件のまま従うのではなく、自分からも条件を突きつける。

 

そのために、もう一度あの声と向き合う必要があった。

 

 

*

 

その頃、槙島は次の目的へ向かっていた。

街の灯りを離れるほど、窓の外は暗くなる。

これから自分が起こそうとしていることは、沙代の暮らしにも及ぶ。

 

彼女を計画から遠ざけたからといって、影響まで届かなくなるわけではない。

その程度のことは分かっていた。

それでも、引き返さなかった。

膝の上の左手へ、視線を落とす。

 

指輪はそのままだった。

 

沙代に、外してくれと言われたことはない。

むしろ、同じものを着けていることを、何度も嬉しそうに確かめていた。

 

聖護も、ちゃんと結婚してるみたい。

 

僕たちは、そういうつもりだろう?

 

あの時、彼女は照れて笑った。

槙島は指輪へ触れ、それから手を離した。

 

窓に映った自分の顔は、写真の中ほど楽しそうではなかった。

 

 

*

 

沙代は、朱が帰ったあとで絵本を開いた。

手紙を取り出し、しばらく眺める。

来てくれたことは、今日も話さなかった。

 

朱の願いを聞き、気遣いを受け取りながら、それでも聖護が来たことを隠した。

 

紙を折り直した時、お腹が動いた。

沙代は手紙を机へ置いて、両手をお腹に添えた。

 

「……今日ね、朱ちゃんが来てくれたよ」

 

小さな感触を待ちながら続ける。

 

「お父さんを、生きて捕まえたいって」

 

言ってから、唇を噛んだ。

聖護は、それを望まないかもしれない。

捕まるくらいなら、と考えてしまう人なのかもしれない。

 

今までの彼を思い返すほど、不安が強くなった。

 

「お願いだから」

 

沙代は俯いた。

 

「生きる方を、選んでよ」

 

返事の代わりに、お腹の中がもう一度動いた。

 

沙代はそこを、ゆっくり撫でた。

 

 

 

*

 

夕食を作りすぎた。

 

鍋の中を見て、沙代は小さく息をつく。

 

一人分に慣れたつもりでも、考えごとをしていると、二人で食べていた頃の量に戻ってしまう。

 

残りは明日に回せばいい。

そう思って器を出した時、棚の奥に聖護の皿が見えた。

 

「……よく食べてたなあ」

 

細いくせに、と笑う。

彼が来る日は、いつも少し多めに用意した。

本を読みながら待っているところへ食事を運ぶと、顔を上げて、ありがとうと言ってくれた。

 

何でもない夜だった。

 

その何でもなさを、今はどうしても取り戻せない。

沙代は一人分だけをテーブルへ運んだ。

 

 

 

 

 

 

 

*

 

穀倉地帯には、街とは違う静けさがあった。

槙島は建物の中を進みながら、足を止めた。

追う者が来ている。

 

ここまで来たのなら、狡噛も自分の目的に辿り着いたのだろう。

口元に微かな笑みが浮かぶ。

 

自分を追ってくる男がいることは、今も彼を昂らせた。

何を考え、どう動くか。

 

それを想像する時間には、ほかでは得られない楽しさがあった。

 

同時に、別の記憶が浮かんだ。

 

ソファの端で丸くなって、本を読む沙代。

ページをめくる音が止まると、たいてい眠っていた。

 

君は読書に向いていないんじゃないかな。

 

聖護がいると、眠くなるんだもん。

 

安心してるの、と付け加えた顔。

 

槙島は一度、目を伏せた。

こんな場所で思い出すとは思わなかった。

 

左手を握り、開く。

 

それから先へ進んだ。

 

 

 

 

*

 

朱は走っていた。

 

狡噛を止める。

槙島を生きたまま確保する。

 

それぞれを言葉にすると短いのに、実現するための道は、足元から次々に失われていくようだった。

 

通信へ耳を傾け、周囲を確かめる。

沙代の願いを思い出したのは、一瞬だった。

 

生きていてほしい。

 

朱自身にも、そう願う相手がいる。

狡噛を見つけた時、まず何を言うか。

 

それを考える余裕はなかった。

 

見つければ、きっと名前を呼ぶ。

 

振り返らせて、足を止めさせる。

そのために走った。

 

 

 

*

 

宜野座は、父の声を聞いた。

 

危険が迫る、そのわずかな間に。

 

いつもなら反発したかもしれない。

勝手に動くなと怒鳴ったかもしれない。

 

けれど、身体が動かなかった。

 

征陸がこちらへ来る。

 

何をするつもりなのか理解するより早く、庇われた。

 

衝撃と音が、辺りを埋めた。

 

そのあとで、宜野座は父を呼んだ。

 

何度も。

 

もう、監視官としての指示ではなかった。

 

 

 

 

 

*

 

沙代は食器を洗い終えた。

 

皿を拭き、棚へ戻す。

 

時計を見ると、まだ寝るには早かった。

端末を開いたけれど、新しい通知はない。

 

朱は忙しいのだろう。

 

今夜は連絡しないことにした。

代わりに、引き出しから小さなノートを出す。

 

子どもの名前を書こうと買ったものだった。

 

最初のページには、候補がいくつか並んでいる。

聖護がどう思うか気になって、どれにも丸をつけられないままだった。

 

「難しいね」

 

お腹へ話しかける。

 

「一生使うんだもんね。ちゃんと考えないと」

 

鉛筆を持つ。

 

一つ書いて、消した。

 

聖護なら、意味を尋ねるだろう。

響きが好きだから、と答えたら、それもいい理由だと言ってくれるかもしれない。

 

そこで沙代は手を止めた。

 

いない人の返事ばかり、上手に想像できるようになっていた。

 

ノートを閉じる。

 

今日はまだ、決めなくていい。

 

 

 

*

 

槙島は走った。

 

呼吸が速くなる。

 

思うように動かない箇所がある。

それでも、足を止めるわけにはいかなかった。

 

背後から迫る気配を確かめながら、先を選ぶ。

追ってくるのは狡噛だ。

その事実には、不思議と驚きがなかった。

 

決着をつけようとする男と、それを止めようとする朱。

 

二人の意志が、ここまで届いている。

 

槙島は一瞬、左手を見た。

 

指輪はまだあった。

 

沙代が見れば、安心するだろうか。

それとも、こんなところまで来てしまったことを怒るだろうか。

 

君は、怒ってもいいんだよ。

 

そんな言葉を、以前の自分なら簡単に言えた。

 

今は、それを聞く場所に帰れるかどうかさえ分からない。

 

息を吸い、再び前を見る。

 

 

 

*

 

 

 

ベッドへ入った沙代は、しばらく眠れなかった。

隣には、畳んだ聖護の寝間着が置いてある。

洗ったあと、しまえずにいたものだった。

 

手を伸ばして、袖口へ触れる。

 

「……おやすみ」

 

返事はない。

お腹の中も、今は静かだった。

 

沙代は灯りを消しかけて、思い直した。

枕元の小さな灯りだけを残す。

 

二人で夜に本を読むために選んだ灯りだった。

そのまま横になり、目を閉じる。

 

遠く離れた場所では、まだ誰も夜を終えられずにいた。

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