絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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66.会ってみたかった

 

 

 

 

 

夜明けの光が、麦畑を薄く照らしていた。

 

槙島は足を止めた。

 

もう、遠くまでは行けない。

 

呼吸を整えようとしても、胸がうまく動かなかった。

背後から近づいてくる足音を聞きながら、ゆっくり振り返る。

 

狡噛が立っていた。

 

その手にある銃を見て、槙島は微かに笑った。

ここまで追ってきた男だった。

怒りも、執念も、誰かに決められたものではない。

 

その意志で、自分の前に立っている。

槙島は何か言おうとして、息を吐いた。

 

左手が視界に入る。

指輪に土がついていた。

 

親指で拭うと、傷のついた表面が朝日に光った。

 

聖護も同じの、つけてる。

 

沙代は何度も、嬉しそうに確かめた。

ふざけて妻と呼べば、照れながらも返事をした。

その顔を思い出して、槙島はしばらく黙っていた。

 

「……沙代を、覚えているかい」

 

狡噛の表情は変わらなかった。

 

「…覚えてる」

「そうか」

 

槙島は頷く。

 

本当は、何も言わずに終えるつもりだった。

彼女の名前を、ここへ持ち込みたくなかった。

あの部屋のことも、まだ生まれていない子どものことも、自分の中にしまったままで。

 

けれど、もう一度口にしたかった。

 

「妻と、息子がいるんだ」

「知ってる」

「まだ生まれていない。名前も、決めていなくてね」

 

言葉を続ける間に、息を継ぐ。

狡噛は銃を下ろさなかった。

槙島も、下ろすようには求めなかった。

 

「僕のことで、あの二人が困るようなら……」

 

そこで声が途切れた。

困ることばかりだろう。

自分がいなくなれば、沙代は一人で産み、育てていく。

 

子どもに尋ねられた時、何と答えるかまで考えなければならない。

そこまで分かっていながら、ここへ来た。

 

槙島は口元を緩めた。

 

「君に頼むのも、妙な話だね」

「お前の罪を、あいつらに背負わせるつもりはない」

 

狡噛の答えは短かった。

槙島は、その顔を見た。

 

慰めではない。

許しでもない。

 

この男が自分を殺すことと、沙代や子どもへ何をするかは別なのだ。

 

「……ありがとう」

 

言ってから、少し笑った。

狡噛へその言葉を向ける日が来るとは、思っていなかった。

 

風が吹いた。

 

麦の穂が揺れる音を聞いているうちに、槙島の頭へ、別の小さな音が浮かんだ。

沙代がめくる、紙の音。

 

最初に会った日、彼女は見つけた絵本の表紙を何度も撫でていた。

 

本当に欲しかったんです、と言っていた。

 

あの時は、まだ名前も知らなかった。

 

後ろへずらした予定のことも、グソンに呆れられたことも、今では随分遠い。

 

「会ってみたかったよ」

 

声は、思ったより静かに出た。

 

狡噛は答えなかった。

 

槙島は目を伏せる。

 

沙代に似ただろうか。

 

抱けば、どれくらいの重さがあっただろう。

 

泣いたら、自分にもあやせただろうか。

 

何一つ、確かめられない。

 

最後まで、自分で選んだ道だった。

 

それでも、惜しかった。

 

*

 

沙代は、玄関の音で目を覚ました。

 

鍵が回った気がした。

身体を起こし、寝室の扉を見る。

 

「……聖護?」

 

返事はなかった。

 

枕元の灯りは、まだついている。窓の外が明るくなり始めていた。

 

夢だったのかもしれない。

沙代はゆっくりベッドを降りた。

 

廊下を歩き、玄関まで行く。

 

靴は増えていなかった。鍵も、掛かったままだった。

しばらく立ってから、居間へ戻る。

 

テーブルの上には、昨夜閉じた名前のノートがある。

本棚には、二人の写真と健診の画像。

白いカップも、いつもの場所にあった。

 

全部、昨日と同じだった。

 

「……まだ早いもんね」

 

誰に言うでもなく呟いて、カーテンを開ける。

朝の光が、二人で選んだ家具に落ちた。

 

沙代はお湯を沸かした。

待っている間に、お腹が動く。

 

「あ、おはよう」

 

手を当てて、少し笑った。

その頃、遠く離れた麦畑に、一発の銃声が響いた。

 

 

 

 

*

 

朱は間に合わなかった。

 

辿り着いた時、槙島は動かなかった。

 

狡噛の姿を探す。

 

呼びかけようとしても、喉から声が出なかった。

 

間に合うつもりだった。

捕まえるつもりだった。

 

狡噛を止め、槙島を生かし、自分の選んだ方法で終わらせる。

 

そのために、ここまで来た。

朱は膝をついた。

 

槙島の左手が見えた。

 

指輪があった。

沙代の手にも、同じものがあった。

 

ーー生きて捕まえるために、動きます。

 

自分の声を思い出す。

あの言葉を聞いて、沙代は何度も頷いた。

 

朱は震える息を吐いた。

これから、伝えなければならない。

 

自分が間に合わなかったことを。

 

彼女が待っている男は、もう帰れないことを。

 

 

 

*

 

沙代は絵本を開いていた。

 

朝食のあと、少しだけ読むつもりだった。

間に挟んだ手紙を取り出す。

 

僕は生きているよ。

 

指で折り目をなぞる。

その裏には、自分の字で、子どもがよく動いたことが書いてある。

 

次は何を書こう。

 

そう考えたところで、端末が鳴った。

 

朱からだった。

 

沙代はすぐに応答した。

 

「朱ちゃん、おはよう」

 

向こうは静かだった。

かすかな呼吸だけが聞こえる。

 

「……朱ちゃん?」

「沙代さん」

 

名前を呼ばれた瞬間、手から力が抜けた。

手紙が膝へ落ちる。

 

「これから、そちらへ伺ってもいいですか」

 

いつもなら、いいよと答えた。

 

お茶を淹れて待ってるね、と。

 

けれど、その朝は言えなかった。

 

沙代は写真立てを見た。

笑っている聖護の顔を、じっと見た。

 

「……今、言わないで」

 

声が、ほとんど息になった。

朱は黙った。

 

「お願い。まだ、電話では……言わないで」

 

向こうで、朱が小さく息を吸う。

 

「……はい」

 

通話は、すぐには切れなかった。

沙代も朱も、次の言葉を探せずにいた。

 

お腹の中が動く。

沙代は片手を添え、もう片方の手で、膝の上の紙を握った。

 

まだ、聞いていない。

 

何も聞いていないから。

 

そう思いながら、涙が落ちた。

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