夜明けの光が、麦畑を薄く照らしていた。
槙島は足を止めた。
もう、遠くまでは行けない。
呼吸を整えようとしても、胸がうまく動かなかった。
背後から近づいてくる足音を聞きながら、ゆっくり振り返る。
狡噛が立っていた。
その手にある銃を見て、槙島は微かに笑った。
ここまで追ってきた男だった。
怒りも、執念も、誰かに決められたものではない。
その意志で、自分の前に立っている。
槙島は何か言おうとして、息を吐いた。
左手が視界に入る。
指輪に土がついていた。
親指で拭うと、傷のついた表面が朝日に光った。
聖護も同じの、つけてる。
沙代は何度も、嬉しそうに確かめた。
ふざけて妻と呼べば、照れながらも返事をした。
その顔を思い出して、槙島はしばらく黙っていた。
「……沙代を、覚えているかい」
狡噛の表情は変わらなかった。
「…覚えてる」
「そうか」
槙島は頷く。
本当は、何も言わずに終えるつもりだった。
彼女の名前を、ここへ持ち込みたくなかった。
あの部屋のことも、まだ生まれていない子どものことも、自分の中にしまったままで。
けれど、もう一度口にしたかった。
「妻と、息子がいるんだ」
「知ってる」
「まだ生まれていない。名前も、決めていなくてね」
言葉を続ける間に、息を継ぐ。
狡噛は銃を下ろさなかった。
槙島も、下ろすようには求めなかった。
「僕のことで、あの二人が困るようなら……」
そこで声が途切れた。
困ることばかりだろう。
自分がいなくなれば、沙代は一人で産み、育てていく。
子どもに尋ねられた時、何と答えるかまで考えなければならない。
そこまで分かっていながら、ここへ来た。
槙島は口元を緩めた。
「君に頼むのも、妙な話だね」
「お前の罪を、あいつらに背負わせるつもりはない」
狡噛の答えは短かった。
槙島は、その顔を見た。
慰めではない。
許しでもない。
この男が自分を殺すことと、沙代や子どもへ何をするかは別なのだ。
「……ありがとう」
言ってから、少し笑った。
狡噛へその言葉を向ける日が来るとは、思っていなかった。
風が吹いた。
麦の穂が揺れる音を聞いているうちに、槙島の頭へ、別の小さな音が浮かんだ。
沙代がめくる、紙の音。
最初に会った日、彼女は見つけた絵本の表紙を何度も撫でていた。
本当に欲しかったんです、と言っていた。
あの時は、まだ名前も知らなかった。
後ろへずらした予定のことも、グソンに呆れられたことも、今では随分遠い。
「会ってみたかったよ」
声は、思ったより静かに出た。
狡噛は答えなかった。
槙島は目を伏せる。
沙代に似ただろうか。
抱けば、どれくらいの重さがあっただろう。
泣いたら、自分にもあやせただろうか。
何一つ、確かめられない。
最後まで、自分で選んだ道だった。
それでも、惜しかった。
*
沙代は、玄関の音で目を覚ました。
鍵が回った気がした。
身体を起こし、寝室の扉を見る。
「……聖護?」
返事はなかった。
枕元の灯りは、まだついている。窓の外が明るくなり始めていた。
夢だったのかもしれない。
沙代はゆっくりベッドを降りた。
廊下を歩き、玄関まで行く。
靴は増えていなかった。鍵も、掛かったままだった。
しばらく立ってから、居間へ戻る。
テーブルの上には、昨夜閉じた名前のノートがある。
本棚には、二人の写真と健診の画像。
白いカップも、いつもの場所にあった。
全部、昨日と同じだった。
「……まだ早いもんね」
誰に言うでもなく呟いて、カーテンを開ける。
朝の光が、二人で選んだ家具に落ちた。
沙代はお湯を沸かした。
待っている間に、お腹が動く。
「あ、おはよう」
手を当てて、少し笑った。
その頃、遠く離れた麦畑に、一発の銃声が響いた。
*
朱は間に合わなかった。
辿り着いた時、槙島は動かなかった。
狡噛の姿を探す。
呼びかけようとしても、喉から声が出なかった。
間に合うつもりだった。
捕まえるつもりだった。
狡噛を止め、槙島を生かし、自分の選んだ方法で終わらせる。
そのために、ここまで来た。
朱は膝をついた。
槙島の左手が見えた。
指輪があった。
沙代の手にも、同じものがあった。
ーー生きて捕まえるために、動きます。
自分の声を思い出す。
あの言葉を聞いて、沙代は何度も頷いた。
朱は震える息を吐いた。
これから、伝えなければならない。
自分が間に合わなかったことを。
彼女が待っている男は、もう帰れないことを。
*
沙代は絵本を開いていた。
朝食のあと、少しだけ読むつもりだった。
間に挟んだ手紙を取り出す。
僕は生きているよ。
指で折り目をなぞる。
その裏には、自分の字で、子どもがよく動いたことが書いてある。
次は何を書こう。
そう考えたところで、端末が鳴った。
朱からだった。
沙代はすぐに応答した。
「朱ちゃん、おはよう」
向こうは静かだった。
かすかな呼吸だけが聞こえる。
「……朱ちゃん?」
「沙代さん」
名前を呼ばれた瞬間、手から力が抜けた。
手紙が膝へ落ちる。
「これから、そちらへ伺ってもいいですか」
いつもなら、いいよと答えた。
お茶を淹れて待ってるね、と。
けれど、その朝は言えなかった。
沙代は写真立てを見た。
笑っている聖護の顔を、じっと見た。
「……今、言わないで」
声が、ほとんど息になった。
朱は黙った。
「お願い。まだ、電話では……言わないで」
向こうで、朱が小さく息を吸う。
「……はい」
通話は、すぐには切れなかった。
沙代も朱も、次の言葉を探せずにいた。
お腹の中が動く。
沙代は片手を添え、もう片方の手で、膝の上の紙を握った。
まだ、聞いていない。
何も聞いていないから。
そう思いながら、涙が落ちた。