玄関のチャイムが鳴った。
沙代はソファに座ったまま、顔を上げた。
いつか聖護が帰ってくるなら、きっと鍵を使う。
そう思ってから、膝の上の手紙を畳んだ。
立ち上がり、玄関へ向かう。
短い廊下なのに、途中で一度足が止まった。
扉を開けると、朱がいた。
疲れた顔をしていた。
服を整えてきたことも、それでも隠せなかったことも、沙代には分かった。
「……上がって」
声は普通に出た。
それが少し、不思議だった。
*
朱は、勧められた椅子に座った。
沙代は台所へ行き、カップを出す。
「お茶、でいい?」
「沙代さん。お構いなく」
「うん。でも、お湯、あるから」
何かをしていたかった。
お茶を注ぎ、持ち上げようとした時、受け皿がかたかたと鳴った。
沙代は手を止めた。
朱がそばへ来て、静かに盆を持つ。
「私が運びます」
「……ありがとう」
テーブルに向かい合って座った。
朱は、本棚の写真へ一度目を向けた。
それから、沙代を見る。
「槙島聖護の死亡を、確認しました」
沙代は頷いた。
一度だけ。
そのあと、何も動かなかった。
「……そう」
カップから湯気が上がっている。
沙代はそれを見ていた。
「間違い、ない?」
「……はい」
「そっか」
今度は頷けなかった。
お腹に添えた手を、少しだけ動かす。
「苦しかったかな」
朱の唇が開き、閉じた。
「最期の瞬間には、間に合いませんでした。だから……分からないんです」
沙代は目を伏せた。
朱が知らないことを、答えられるはずがない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「一人だった?」
「……一人では、ありませんでした」
誰といたのか。
何が起きたのか。
聞けば、朱は答えられることを答えてくれるのだろう。
けれど、沙代は聞かなかった。
今は、聖護がもういないという一つのことだけで、いっぱいだった。
「ごめんなさい」
朱が言った。
沙代は顔を上げる。
「生きて捕まえるために動くと、伝えたのに。間に合いませんでした」
声が震えていた。
沙代はしばらく朱を見つめ、それから首を横に振った。
「……そうしようとしてくれたんでしょ」
朱は答えなかった。
「ありがとう」
その言葉を最後まで言った途端、沙代の顔が歪んだ。
口元を押さえる。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
「でも」
朱が椅子を立った。
「でも、私……」
沙代は写真の方へ手を伸ばした。
朱が写真立てを運んでくると、両手でそれを持つ。
「ずっと、待てると思ってた」
涙がガラスに落ちた。
「会えなくても、生きてたら……いつか、って」
一緒に名前を決める日。
子どもの顔を見せられる日。
もう少し歳を取って、くだらないことで笑い合う日。
口には出さなくても、どこかに残していた。
「もう、待ってても……」
続きが言えなかった。
朱は沙代の隣に膝をついた。
肩へ手を添えると、沙代がその袖を掴んだ。
「帰って、こないんだ」
朱は目を伏せた。
沙代の手を振りほどかず、そこにいた。
*
泣き声が落ち着くまで、随分かかった。
沙代は写真立てを抱いたまま、ソファにもたれていた。
朱が差し出したお茶を、少し飲む。
窓の外は明るい。
こんな日にも昼になる。
お腹は空くし、喉も渇く。
そのことが、沙代にはまだよく分からなかった。
「指輪は」
不意に尋ねた。
「つけてた?」
朱はすぐに頷いた。
「はい。左手に」
沙代は自分の薬指を見た。
「……そっか」
指輪を覆うように、右手を重ねる。
「外して、なかったんだ」
初めて、ほんの少しだけ表情が緩んだ。
その直後、また涙が溢れる。
「私、会えるかな?」
朱は顔を上げた。
「聖護に。最後に……会える?」
「確認します。できることを、調べます」
「うん」
沙代は目を閉じた。
「お願い」
*
しばらくして、お腹が動いた。
沙代の手が反射的にそこへ行く。
朱も気づき、視線を落とした。
「……動きました?」
「うん」
沙代は頷いた。
そのまま、お腹を見つめる。
聖護が耳を当てていた場所だった。
まだ聞き分けられないと言いながら、なかなか離れなかった。
沙代が髪を撫でると、そのまま目を閉じていた。
この子の父親だった。
もう、会えない。
沙代は唇を噛み、ゆっくり手を動かす。
「ごめんね」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
朱が、そっと声をかける。
「沙代さん」
けれど、その先は言わなかった。
今、何を言っても、失った人の代わりにはならない。
沙代はお腹を撫で続けた。
「……会いたかったって」
小さく呟く。
「お父さんね、あなたに会いたがってたんだよ」
それだけは、自分が覚えている。
聖護がまだここにいた頃の声も、表情も。
忘れてしまわないうちに、何度でも話そうと思った。
*
朱は、その日はすぐに帰らなかった。
沙代が立つ時にはそばにいて、お茶を替え、冷めたカップを片づけた。
部屋に残された聖護のものには、触れなかった。
夕方になって、沙代は絵本を開いた。
挟まれていた手紙を取り出し、朱からは文字が見えないように、胸元へ寄せる。
これを見つけた日、嬉しかった。
生きていると知って、泣いた。
まだ、紙はこんなに新しい。
沙代は最後の名前を指でなぞった。
「……嘘になっちゃったね」
責めるつもりで言ったのに、声は寂しく響いた。
手紙を元のページへ戻す。
閉じた絵本の表紙を、何度も撫でた。
あの日、古書店でそうしたように。
朱は隣に座ったまま、沙代が本から手を離せるまで待っていた。