絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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67.さよなら愛しいあなた

 

 

 

玄関のチャイムが鳴った。

 

沙代はソファに座ったまま、顔を上げた。

いつか聖護が帰ってくるなら、きっと鍵を使う。

そう思ってから、膝の上の手紙を畳んだ。

 

立ち上がり、玄関へ向かう。

短い廊下なのに、途中で一度足が止まった。

 

扉を開けると、朱がいた。

 

疲れた顔をしていた。

服を整えてきたことも、それでも隠せなかったことも、沙代には分かった。

 

「……上がって」

 

声は普通に出た。

 

それが少し、不思議だった。

 

 

*

 

朱は、勧められた椅子に座った。

 

沙代は台所へ行き、カップを出す。

 

「お茶、でいい?」

「沙代さん。お構いなく」

「うん。でも、お湯、あるから」

 

何かをしていたかった。

お茶を注ぎ、持ち上げようとした時、受け皿がかたかたと鳴った。

 

沙代は手を止めた。

朱がそばへ来て、静かに盆を持つ。

 

「私が運びます」

「……ありがとう」

 

テーブルに向かい合って座った。

 

朱は、本棚の写真へ一度目を向けた。

 

それから、沙代を見る。

 

「槙島聖護の死亡を、確認しました」

 

沙代は頷いた。

 

一度だけ。

 

そのあと、何も動かなかった。

 

「……そう」

 

カップから湯気が上がっている。

沙代はそれを見ていた。

 

「間違い、ない?」

「……はい」

「そっか」

 

今度は頷けなかった。

お腹に添えた手を、少しだけ動かす。

 

「苦しかったかな」

 

朱の唇が開き、閉じた。

 

「最期の瞬間には、間に合いませんでした。だから……分からないんです」

 

沙代は目を伏せた。

朱が知らないことを、答えられるはずがない。

それでも、聞かずにはいられなかった。

 

「一人だった?」

「……一人では、ありませんでした」

 

誰といたのか。

何が起きたのか。

 

聞けば、朱は答えられることを答えてくれるのだろう。

けれど、沙代は聞かなかった。

 

今は、聖護がもういないという一つのことだけで、いっぱいだった。

 

 

「ごめんなさい」

 

朱が言った。

沙代は顔を上げる。

 

「生きて捕まえるために動くと、伝えたのに。間に合いませんでした」

 

声が震えていた。

 

沙代はしばらく朱を見つめ、それから首を横に振った。

 

「……そうしようとしてくれたんでしょ」

 

朱は答えなかった。

 

「ありがとう」

 

その言葉を最後まで言った途端、沙代の顔が歪んだ。

 

口元を押さえる。

息を吸おうとして、うまく吸えなかった。

 

「でも」

 

朱が椅子を立った。

 

「でも、私……」

 

沙代は写真の方へ手を伸ばした。

朱が写真立てを運んでくると、両手でそれを持つ。

 

「ずっと、待てると思ってた」

 

涙がガラスに落ちた。

 

「会えなくても、生きてたら……いつか、って」

 

一緒に名前を決める日。

 

子どもの顔を見せられる日。

 

もう少し歳を取って、くだらないことで笑い合う日。

 

口には出さなくても、どこかに残していた。

 

「もう、待ってても……」

 

続きが言えなかった。

朱は沙代の隣に膝をついた。

肩へ手を添えると、沙代がその袖を掴んだ。

 

「帰って、こないんだ」

 

朱は目を伏せた。

沙代の手を振りほどかず、そこにいた。

 

 

 

*

 

泣き声が落ち着くまで、随分かかった。

沙代は写真立てを抱いたまま、ソファにもたれていた。

 

朱が差し出したお茶を、少し飲む。

窓の外は明るい。

 

こんな日にも昼になる。

お腹は空くし、喉も渇く。

そのことが、沙代にはまだよく分からなかった。

 

「指輪は」

 

不意に尋ねた。

 

「つけてた?」

 

朱はすぐに頷いた。

 

「はい。左手に」

 

沙代は自分の薬指を見た。

 

「……そっか」

 

指輪を覆うように、右手を重ねる。

 

「外して、なかったんだ」

 

初めて、ほんの少しだけ表情が緩んだ。

その直後、また涙が溢れる。

 

「私、会えるかな?」

 

朱は顔を上げた。

 

「聖護に。最後に……会える?」

「確認します。できることを、調べます」

「うん」

 

沙代は目を閉じた。

 

「お願い」

 

 

 

*

 

しばらくして、お腹が動いた。

沙代の手が反射的にそこへ行く。

朱も気づき、視線を落とした。

 

「……動きました?」

「うん」

 

沙代は頷いた。

 

そのまま、お腹を見つめる。

聖護が耳を当てていた場所だった。

 

まだ聞き分けられないと言いながら、なかなか離れなかった。

沙代が髪を撫でると、そのまま目を閉じていた。

 

この子の父親だった。

 

もう、会えない。

 

沙代は唇を噛み、ゆっくり手を動かす。

 

「ごめんね」

 

誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

朱が、そっと声をかける。

 

「沙代さん」

 

けれど、その先は言わなかった。

 

今、何を言っても、失った人の代わりにはならない。

沙代はお腹を撫で続けた。

 

「……会いたかったって」

 

小さく呟く。

 

「お父さんね、あなたに会いたがってたんだよ」

 

それだけは、自分が覚えている。

聖護がまだここにいた頃の声も、表情も。

 

忘れてしまわないうちに、何度でも話そうと思った。

 

*

 

 

 

朱は、その日はすぐに帰らなかった。

 

沙代が立つ時にはそばにいて、お茶を替え、冷めたカップを片づけた。

部屋に残された聖護のものには、触れなかった。

 

夕方になって、沙代は絵本を開いた。

 

挟まれていた手紙を取り出し、朱からは文字が見えないように、胸元へ寄せる。

 

これを見つけた日、嬉しかった。

 

生きていると知って、泣いた。

 

まだ、紙はこんなに新しい。

 

沙代は最後の名前を指でなぞった。

 

「……嘘になっちゃったね」

 

責めるつもりで言ったのに、声は寂しく響いた。

 

手紙を元のページへ戻す。

 

閉じた絵本の表紙を、何度も撫でた。

 

あの日、古書店でそうしたように。

 

朱は隣に座ったまま、沙代が本から手を離せるまで待っていた。

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