最後に会えたのは、朱から知らせを受けて数日後だった。
建物へ入る前、沙代は左手の指輪を確かめた。
何度もそうした。
家を出る時も、車の中でも。
隣にいた朱は急がせなかった。
「……行けるよ」
沙代が言うと、静かに頷いた。
*
聖護は、目を閉じていた。
沙代は入口で足を止めた。
眠っている時の顔を知っている。
自分より遅く寝た朝。
先に起きて本を読んでいたくせに、沙代が隣へ座ると、肩に頭を預けてまた眠ってしまった午後。
けれど、目の前の顔は、そのどれとも違った。
「……聖護」
返事がない。
近づけば起きるような気がして、一歩ずつ、ゆっくり歩いた。
すぐそばまで来ても、瞼は動かなかった。
沙代は傍らの椅子に座った。
話すことを考えてきたはずだった。
責めたいことも、伝えたいことも、途中までは覚えていた。
全部、出てこなくなった。
許可を得て、そっと手に触れる。
冷たかった。
その瞬間、顔が歪んだ。
「……ほんとなんだね」
朱は少し離れたところで、目を伏せた。
沙代はその手を両手で包む。
温めればどうにかなりそうな気がして、指先を撫でた。
いつも自分がそうしてもらったように、掌を重ねた。
「私、待ってたよ」
涙が落ちる。
「もう帰れないって言われたけど……帰ってきたら、怒ってやろうと思ってた」
どうして連絡をくれなかったの。
ちゃんと食べてたの。
また痩せたんじゃない。
そう言ったら、聖護はきっと笑った。
君は質問が多いね、と。
沙代は俯く。
「言いたかったこと、いっぱいあるのに」
息を整えて、お腹へ片手を移した。
「この子ね、よく動くんだよ」
今日は静かだった。
「本当に男の子だった。……名前は、まだ決めてない」
返事を待ってしまう。
少し待ってから、沙代は首を横に振った。
「私が、決めるね」
聖護の手を握り直す。
「ちゃんと考える。あなたも好きそうな名前にするから」
言い終える頃には、声が震えていた。
「会ってほしかった」
それだけは、うまく隠せなかった。
「抱っこしてほしかった。あなたがどんな顔するのか……見たかったよ」
泣きながら、お腹を撫でる。
聖護がそこへ耳を当てていた日を思い出した
「楽しみにしてたこと、この子には話すね」
その手へ、額を寄せる。
「大好きだったよ」
少し間を置いて、言い直した。
「……今も、大好き」
*
指輪は、ほかの遺品とともに渡された。
沙代は受け取る前に、一度、朱の顔を見た。
朱が頷く。
小さな袋から取り出すと、見慣れた形が掌に落ちた。
細かな傷がついていた。
買った日のものとは、もう違う。
沙代は自分の指輪を外し、隣へ並べた。
聖護の方が大きい。
その大きさを見ただけで、また涙が出た。
「……ちゃんと、つけてたんだね」
本を渡してくれた時。
お腹を撫でてくれた時。
最後に抱きしめてくれた時。
どれも、この指輪があった。
沙代は自分の分を左手へ戻す。
聖護のものは、掌の中へ握り込んだ。
「これは、私が持って帰るね」
最後にもう一度、顔を見た。
長く見ていた。
朱が声をかける前に、沙代は立ち上がる。
扉へ向かい、途中で振り返った。
「……おやすみ、聖護」
いつもの言葉で別れてから、部屋を出た。
*
帰宅した沙代は、玄関で靴を脱いだ。
誰も先に待っていない。
それでも、小さく言った。
「ただいま」
握っていた指輪を、テーブルへ置く。
その夜は、寝室へ持っていった。
翌日も、その次の日も、部屋を移るたびに持って歩いた。
どこかへ置いておくと、またいなくなるような気がした。
数日後、沙代は細いチェーンを買った。
指輪を通して、首へかける。
胸元へ落ちた重さを、服の上から確かめた。
「……今度は、私と一緒に帰ろう」
鏡の中の自分は、ひどく疲れた顔をしていた。
それでも、指輪はそこにあった。
*
季節が進んだ。
刑事課一係の景色も、変わった。
朱は仕事へ戻り、変わってしまった日々の中で、監視官として立ち続けた。
狡噛は戻らなかった。
沙代も、彼が最後に聖護と何を話したのかは知らなかった。
知っているのは、朱が時々連絡をくれること。
一人では運びにくい買い物を手伝ってくれること。
忙しい日に返事が遅れても、あとから必ず届くことだった。
沙代は、聖護の服をすぐには片づけなかった。
泣いて食べられない日もあった。
何も考えずに笑って、その直後、もうその話を伝えられないと気づく日もあった。
健診へ行き、必要なものを揃えた。
大きくなったお腹へ手を添えて、絵本を読んだ。
名前のノートを開くたびに、少しずつ候補を減らした。
そうして、四月が来た。
*
生まれた息子を初めて胸へ抱いた時、沙代は何も言えなかった。
小さな顔だった。
頬へ触れると、温かかった。
聖護にも触ってほしかった。
その気持ちが、喜びと一緒に込み上げてきた。
「……会いたかったよ」
誰に向けた言葉なのか、途中で分からなくなった。
涙を拭いて、もう一度息子を見る。
「お母さんだよ」
ぎこちなく話しかけた。
「あなたの名前、決めたんだ」
一人で何度も口にして、ようやく選べた名前だった。
声に出すと、息子の指が動いた。
沙代は笑う。
「……うん。それで、いい?」
左手の薬指に、自分の指輪。
聖護の指輪は、胸元にあった。
*
退院して家へ戻った日、沙代は玄関で一度立ち止まった。
腕の中に、息子がいる。
家へ連れて帰る家族がいた。
「ただいま」
少し迷ってから、付け加える。
「帰ってきたよ。二人で」
部屋へ入る。
写真立ての前で、息子の顔が見えるように、そっと身体をずらした。
「……似てるかな」
写真の聖護は笑っていた。
沙代はしばらくそこに立っていたが、息子がむずかると、慌てて抱き直した。
「はいはい。ごめんね」
まだ、何もかも下手だった。
抱き方も、泣き方の違いも、分からないことばかり。
それでも、その日は息子のために動いているうちに、夕方になった。