絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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68.おやすみ

 

 

 

 

最後に会えたのは、朱から知らせを受けて数日後だった。

建物へ入る前、沙代は左手の指輪を確かめた。

 

何度もそうした。

 

家を出る時も、車の中でも。

隣にいた朱は急がせなかった。

 

「……行けるよ」

 

沙代が言うと、静かに頷いた。

 

*

 

聖護は、目を閉じていた。

沙代は入口で足を止めた。

眠っている時の顔を知っている。

 

自分より遅く寝た朝。

 

先に起きて本を読んでいたくせに、沙代が隣へ座ると、肩に頭を預けてまた眠ってしまった午後。

けれど、目の前の顔は、そのどれとも違った。

 

「……聖護」

 

返事がない。

近づけば起きるような気がして、一歩ずつ、ゆっくり歩いた。

すぐそばまで来ても、瞼は動かなかった。

 

沙代は傍らの椅子に座った。

 

話すことを考えてきたはずだった。

責めたいことも、伝えたいことも、途中までは覚えていた。

 

全部、出てこなくなった。

 

許可を得て、そっと手に触れる。

冷たかった。

 

その瞬間、顔が歪んだ。

 

「……ほんとなんだね」

 

朱は少し離れたところで、目を伏せた。

沙代はその手を両手で包む。

 

温めればどうにかなりそうな気がして、指先を撫でた。

いつも自分がそうしてもらったように、掌を重ねた。

 

「私、待ってたよ」

 

涙が落ちる。

 

「もう帰れないって言われたけど……帰ってきたら、怒ってやろうと思ってた」

 

どうして連絡をくれなかったの。

ちゃんと食べてたの。

また痩せたんじゃない。

 

そう言ったら、聖護はきっと笑った。

 

君は質問が多いね、と。

 

沙代は俯く。

 

「言いたかったこと、いっぱいあるのに」

 

息を整えて、お腹へ片手を移した。

 

「この子ね、よく動くんだよ」

 

今日は静かだった。

 

「本当に男の子だった。……名前は、まだ決めてない」

 

返事を待ってしまう。

少し待ってから、沙代は首を横に振った。

 

「私が、決めるね」

 

聖護の手を握り直す。

 

「ちゃんと考える。あなたも好きそうな名前にするから」

 

言い終える頃には、声が震えていた。

 

「会ってほしかった」

 

それだけは、うまく隠せなかった。

 

「抱っこしてほしかった。あなたがどんな顔するのか……見たかったよ」

 

泣きながら、お腹を撫でる。

聖護がそこへ耳を当てていた日を思い出した

 

「楽しみにしてたこと、この子には話すね」

 

その手へ、額を寄せる。

 

「大好きだったよ」

 

少し間を置いて、言い直した。

 

「……今も、大好き」

 

*

 

指輪は、ほかの遺品とともに渡された。

沙代は受け取る前に、一度、朱の顔を見た。

 

朱が頷く。

 

小さな袋から取り出すと、見慣れた形が掌に落ちた。

細かな傷がついていた。

 

買った日のものとは、もう違う。

 

沙代は自分の指輪を外し、隣へ並べた。

 

聖護の方が大きい。

 

その大きさを見ただけで、また涙が出た。

 

「……ちゃんと、つけてたんだね」

 

本を渡してくれた時。

お腹を撫でてくれた時。

最後に抱きしめてくれた時。

 

どれも、この指輪があった。

 

沙代は自分の分を左手へ戻す。

聖護のものは、掌の中へ握り込んだ。

 

「これは、私が持って帰るね」

 

最後にもう一度、顔を見た。

 

長く見ていた。

 

朱が声をかける前に、沙代は立ち上がる。

扉へ向かい、途中で振り返った。

 

「……おやすみ、聖護」

 

いつもの言葉で別れてから、部屋を出た。

 

 

 

 

*

 

帰宅した沙代は、玄関で靴を脱いだ。

 

誰も先に待っていない。

それでも、小さく言った。

 

「ただいま」

 

握っていた指輪を、テーブルへ置く。

その夜は、寝室へ持っていった。

翌日も、その次の日も、部屋を移るたびに持って歩いた。

 

どこかへ置いておくと、またいなくなるような気がした。

 

数日後、沙代は細いチェーンを買った。

 

指輪を通して、首へかける。

 

胸元へ落ちた重さを、服の上から確かめた。

 

「……今度は、私と一緒に帰ろう」

 

鏡の中の自分は、ひどく疲れた顔をしていた。

 

それでも、指輪はそこにあった。

 

 

 

*

 

 

 

 

季節が進んだ。

 

刑事課一係の景色も、変わった。

朱は仕事へ戻り、変わってしまった日々の中で、監視官として立ち続けた。

 

狡噛は戻らなかった。

 

沙代も、彼が最後に聖護と何を話したのかは知らなかった。

知っているのは、朱が時々連絡をくれること。

 

一人では運びにくい買い物を手伝ってくれること。

忙しい日に返事が遅れても、あとから必ず届くことだった。

沙代は、聖護の服をすぐには片づけなかった。

 

泣いて食べられない日もあった。

 

何も考えずに笑って、その直後、もうその話を伝えられないと気づく日もあった。

 

健診へ行き、必要なものを揃えた。

大きくなったお腹へ手を添えて、絵本を読んだ。

名前のノートを開くたびに、少しずつ候補を減らした。

 

そうして、四月が来た。

 

 

 

*

 

生まれた息子を初めて胸へ抱いた時、沙代は何も言えなかった。

 

小さな顔だった。

 

頬へ触れると、温かかった。

聖護にも触ってほしかった。

その気持ちが、喜びと一緒に込み上げてきた。

 

「……会いたかったよ」

 

誰に向けた言葉なのか、途中で分からなくなった。

涙を拭いて、もう一度息子を見る。

 

「お母さんだよ」

 

ぎこちなく話しかけた。

 

「あなたの名前、決めたんだ」

 

一人で何度も口にして、ようやく選べた名前だった。

声に出すと、息子の指が動いた。

 

沙代は笑う。

 

「……うん。それで、いい?」

 

左手の薬指に、自分の指輪。

聖護の指輪は、胸元にあった。

 

 

 

 

*

 

退院して家へ戻った日、沙代は玄関で一度立ち止まった。

 

腕の中に、息子がいる。

 

家へ連れて帰る家族がいた。

 

「ただいま」

 

少し迷ってから、付け加える。

 

「帰ってきたよ。二人で」

 

部屋へ入る。

写真立ての前で、息子の顔が見えるように、そっと身体をずらした。

 

「……似てるかな」

 

写真の聖護は笑っていた。

沙代はしばらくそこに立っていたが、息子がむずかると、慌てて抱き直した。

 

「はいはい。ごめんね」

 

まだ、何もかも下手だった。

抱き方も、泣き方の違いも、分からないことばかり。

それでも、その日は息子のために動いているうちに、夕方になった。

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