翌朝、目が覚めると、端末にメッセージが届いていた。
『昨夜より、具合はどうかな』
沙代は身体を起こした。
まだ重いけれど、昨日のように天井が揺れることはない。
『少し楽になりました。今日は朝ご飯も食べられました』
送信して、ベッド脇の本を手に取る。しおりが挟まっていた。
自分では挟んでいない。
昨夜、槙島が読んでくれたところだった。
ページを開くと、主人公と老人が食事をしている。
ここまで聞いたのか、眠ってから読んでいたのかは、よく覚えていなかった。
しおりは、細い紙を折ったものだった。
本屋の袋の切れ端だろうか。印刷された文字が途中で切れている。
沙代はそれを抜きかけて、また戻した。
今日は、その先から読んでみよう。
*
二日後、沙代は自宅へ戻った。
玄関を開けると、出かける前のままの部屋があった。
脱いだ服。空のグラス。閉めきったカーテン。ただ、自分がここを出た時のことは曖昧だった。
まず窓を少し開けた。冷たい空気が入り、布団の端が揺れる。
片づけるのは、少し休んでからでいい。沙代は買ってきた水をテーブルに置き、端末を開いた。
『家に戻りました』
ほどなく、返信が来る。
『そうか。病院の椅子より、家の椅子のほうが落ち着くだろうね』
沙代は、あの椅子を思い出した。
背もたれが低くて、硬そうだった。
『槙島さんのほうが、座っている時間が長かったです』
『本があったからね』
その返事を見て、少し笑った。
本さえあれば、どこでも待てるのだろうか。
今度聞いてみようと思い、忘れないうちに紙へ書いた。
*
数日は、遠くへ出かけないことにした。洗濯をして、簡単なものを食べて、疲れたら横になる。本は二、三ページずつ読んだ。
ある午後、玄関の呼び鈴が鳴った。
画面には、槙島が映っている。沙代は慌てて端末を見た。
少し前に、『近くまで来たけれど、本を渡してもいいかな』と届いていた。
返事をする前に、もう着いてしまったらしい。
扉を開ける。
「こんにちは」
「……こんにちは」
沙代の視線が、彼の手元の袋へ落ちた。
「本、ですか?」
「この間、君に送ったものだよ。手元にあると伝えたままだったから」
差し出された袋を受け取る。
中には一冊の本と、小さな紙袋が入っていた。
「こっちは?」
「下の店で買った。何か食べられるようになったと聞いたのでね」
パンだった。
沙代は袋の中を見たまま、一瞬黙った。
「……お金、払います」
「本は貸すだけだよ。パンの代金なら…ーー次にお茶を飲む時にでも」
「分かりました」
顔を上げると、槙島は部屋の奥へ視線を向けていた。
扉の隙間から、窓際のソファと、テーブルの本が見える。
「もう読んでいたんだね」
「少しだけ。あの……」
沙代は身体を横へずらした。
「お茶、飲んでいきますか?」
槙島の視線が戻る。
「疲れない?」
「お湯を沸かすくらいなら、大丈夫です」
彼は少しの間、沙代を見た。
「では、少しだけ」
*
人を家に上げるのは、久しぶりだった。
どこへ座ってもらえばいいか迷い、ソファの上の膝掛けを畳む。
槙島はその横で、壁際の小さな棚を見ていた。
絵本と、緑色の短編集。それ以外には、まだほとんど本がない。
「これから増えるのかな」
「……気に入るものがあれば」
「いいね」
湯が沸く音がした。
沙代はカップを二つ用意した。
一つは普段使っているもの。もう一つは、棚の奥にあった白いカップだった。
「砂糖、いりますか?」
「そのままで」
紅茶を注ぎ、テーブルへ運ぶ。
槙島は沙代が座ってから、カップに手を伸ばした。
「ここで読んでいるんだね」
「はい。明るいので」
窓のそばへ目を向ける。
今日は日が差していて、テーブルの端まで温かかった。
「この前、声で読んでもらったところも読み直しました」
「覚えていた?」
「少しだけ。内容より、声のほうが」
言ってから、変な感想だろうかと思った。けれど槙島は、続きを待っていた。
「自分で読む時と違って、勝手に先へ行けないんですね」
「読んでいる人の速さになるからね」
「はい。いつもなら戻るところでも、そのまま聞いていて……あとから、あれは何だったんだろうって」
槙島はカップを置いた。
「不便だった?」
「いえ。知らないところへ連れていかれるみたいでした」
彼の視線が、沙代の顔に留まる。
「それは、怖くなかった?」
沙代は考えた。
聞いていた話は、知っているものだった。眠ってしまっても、困らなかった。
「どこまで行くか、知ってたので」
「初めての本だったら?」
「……少し、怖かったかもしれません」
槙島は頷いた。
何を思ったのかは、分からなかった。沙代は袋から、新しい本を取り出す。
「でも、これは自分で読みたいです」
「うん」
「手紙が間違って届くんですよね。誰に届いたのか、早く知りたいので」
「そこは、すぐ分かるよ」
「その後が困るんですか?」
彼はわずかに笑った。
「読んでみて」
沙代も笑い、本を膝に置いた。
テーブルの上には、二人分のカップがある。
いつもより置く場所が狭くなっていた。
でも、そのことを不便だとは思わなかった。
*
槙島は紅茶を飲みながら、窓際の棚へもう一度目を向けた。
火災の記録に書かれていた家とは違う。
彼女が一人で暮らしている、今の部屋だった。
ここで何を読み、どんなことを考えていたのか。
届いた短い感想の向こうに、ようやく場所ができた。
沙代が、本屋の袋からパンを取り出す。
「半分、食べますか?」
「君の分として買ったんだけれど」
「二つあるので」
槙島は差し出された皿を受け取った。
「では、一つ」
彼女はもう一つを自分の皿へ置いた。
その手つきを眺めてから、槙島はパンを小さくちぎった。
パンを半分ほど食べたところで、槙島が壁へ目を向けた。
「この部屋は、ホロを使っていないんだね」
沙代もつられて振り返る。
淡い色の壁に、窓から入った光が差していた。
「はい。前は、少し変えてみたんですけど」
「どんなふうに?」
「花柄にしたり、窓の外を海にしたり。きれいだったんですけど……消した時に、ほっとしたので」
槙島はカップを持ったまま、続きを待っていた。
「それから、使わなくなりました」
「何が違ったんだろうね」
沙代は部屋を見渡した。端の少し欠けたテーブル。
畳みきれていない膝掛け。棚には、まだ本が二冊しかない。
飾るなら、もっときれいに見せられる場所はいくつもあった。
「何がどこにあるか、そのまま見えるほうが落ち着くんだと思います」
「見えなくなるものがあった?」
「……傷とか。壁の色も、どれが本当だったか、たまに忘れちゃって」
大したことではない。
設定を戻せば、すぐに分かる。けれど、そのひと手間がなくなった時、思った以上に楽だった。
「ここ、少し色が違うんです」
窓の近くを指さす。
「夕方は、あそこだけ黄色くなるんですよ」
槙島が目を向けた。
今はまだ、薄い日差しが壁を明るくしているだけだった。
「毎日?」
「晴れてれば。最初は壁の色だと思ってました」
「時間が変わると、消えるんだね」
沙代は頷いた。
「同じ部屋でも、結構変わるので。今は、それでいいかなって」
彼は紅茶を一口飲んだ。
「なるほど」
それ以上、良いとも悪いとも言わなかった。沙代は少し気になって、尋ねる。
「槙島さんの部屋は、どんな感じですか?」
「本が多いよ」
「それは、なんとなく分かります」
彼の口元が緩んだ。
「ほかに知りたいことは?」
「……全部、読んでるんですか?」
「読んでいない本もある」
「買ったのに?」
「買った時と、読む時は別だからね」
今日借りた本も、いつ読み終わるかは分からない。
前なら、それを少し申し訳なく思っていた。
「本棚にあるだけでも、いいんですね」
「読むものが残っているのは、悪くないよ」
彼は壁際の棚を見た。
「君の棚にも、もう一冊増えるね」
「これは、借りてるだけです」
「置く場所は必要だろう?」
「……そうですね」
沙代は笑って、食べ終わった皿を重ねた。
立ち上がった時、足元がわずかに頼りなくなった。
ソファの背に手を置く。槙島はその動きを見ていた。
「片づけは、あとでもいいんじゃないかな」
「でも、お皿だけなので」
彼は自分の皿を、テーブルの奥へ寄せた。
「ここなら邪魔にはならないよ」
沙代は皿を持ったまま、少し迷った。
それから、彼の皿の隣へ置く。
座り直すと、思っていたより疲れていたことに気づいた。
「……まだ、いつもどおりにはいかないですね」
「退院したばかりだからね」
沙代は膝の上の本を見た。槙島はカップを置き、端末で時刻を確かめた。
「今日は、この辺にしておこう」
沙代は時計を見た。
引き止めるつもりはなかった。
ただ、まだ聞こうと思っていたことがあった。
「あの、一つだけ」
「何かな?」
「この間、病院の椅子でも、本があれば落ち着くのかなって思って」
彼はすぐには答えなかった。
沙代は膝の本を撫でる。
「私、知らない場所だったので。起きた時にこれがあって、ちょっと安心したんです」
「僕の場合は、場所を忘れることもあるかな」
「読むのに夢中になって?」
「ああ」
「……じゃあ、待ってた時間、長く感じませんでした?」
槙島は沙代を見た。
沙代は眉を少し下げて、返事を待った。
「君は、それが気になっていたんだね」
沙代は小さく頷いた。
「自分では、ほとんど寝てたので」
「途中で、君が起きたからね。ずっと同じ時間ではなかったよ」
長くなかった、と言い切られたわけではない。
でも、その答えは受け取れた。
「……そうですか」
彼は立ち上がった。
「本は、返すために急いで読まなくていい」
「はい」
「読みたくなくなったら、そのまま返しても構わないから」
沙代は表紙を見てから、顔を上げた。
「今は、読みたいです」
「では、そのつもりで」
*
玄関まで見送ると、槙島は靴を履いてから振り返った。
「次に会う時は、もう少し歩けるかな」
「たぶん。どこか行くんですか?」
「本屋でもいいけれど。君がよければ、別の店も見てみよう」
知らない本屋。
沙代は、最初にあの路地で迷った時のことを思い出した。
「今度は、道を教えてもらわなくて済みますね」
「一緒に行けばね」
彼は扉を開けた。
「はい。パンも、ありがとうございました」
槙島が頷き、廊下へ出る。
扉を閉じてから、沙代はソファへ戻った。テーブルには、二つのカップと皿が残っている。
少し休んでから片づけよう。
借りた本を棚へ置くと、三冊になった。
背表紙の高さも、色も揃っていない。
沙代はその並びを眺めてから、膝掛けを広げた。
*
建物を出た槙島は、歩きながら端末を開いた。
グソンから、戻る時刻を尋ねる連絡が来ていた。
『予定どおり戻るよ』
今回は、延ばさずに済んだ。
信号の前で足を止める。
窓際の壁が、夕方には黄色くなる。彼女はその変化を知っていた。
家の記録には書かれていなかったことだった。
信号が変わる。
槙島は端末をしまい、人の流れと一緒に歩き出した。