絵本のつづきを、君と。   作:小池蒼司

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6.ここから

翌朝、目が覚めると、端末にメッセージが届いていた。

 

『昨夜より、具合はどうかな』

 

沙代は身体を起こした。

まだ重いけれど、昨日のように天井が揺れることはない。

 

『少し楽になりました。今日は朝ご飯も食べられました』

 

送信して、ベッド脇の本を手に取る。しおりが挟まっていた。

自分では挟んでいない。

昨夜、槙島が読んでくれたところだった。

ページを開くと、主人公と老人が食事をしている。

ここまで聞いたのか、眠ってから読んでいたのかは、よく覚えていなかった。

 

しおりは、細い紙を折ったものだった。

本屋の袋の切れ端だろうか。印刷された文字が途中で切れている。

沙代はそれを抜きかけて、また戻した。

今日は、その先から読んでみよう。

 

 

 

*

 

 

二日後、沙代は自宅へ戻った。

玄関を開けると、出かける前のままの部屋があった。

脱いだ服。空のグラス。閉めきったカーテン。ただ、自分がここを出た時のことは曖昧だった。

まず窓を少し開けた。冷たい空気が入り、布団の端が揺れる。

片づけるのは、少し休んでからでいい。沙代は買ってきた水をテーブルに置き、端末を開いた。

 

『家に戻りました』

 

ほどなく、返信が来る。

 

『そうか。病院の椅子より、家の椅子のほうが落ち着くだろうね』

 

沙代は、あの椅子を思い出した。

背もたれが低くて、硬そうだった。

 

『槙島さんのほうが、座っている時間が長かったです』

『本があったからね』

 

その返事を見て、少し笑った。

本さえあれば、どこでも待てるのだろうか。

今度聞いてみようと思い、忘れないうちに紙へ書いた。

 

 

*

 

 

数日は、遠くへ出かけないことにした。洗濯をして、簡単なものを食べて、疲れたら横になる。本は二、三ページずつ読んだ。

 

ある午後、玄関の呼び鈴が鳴った。

 

画面には、槙島が映っている。沙代は慌てて端末を見た。

少し前に、『近くまで来たけれど、本を渡してもいいかな』と届いていた。

返事をする前に、もう着いてしまったらしい。

扉を開ける。

 

「こんにちは」

「……こんにちは」

 

沙代の視線が、彼の手元の袋へ落ちた。

 

「本、ですか?」

「この間、君に送ったものだよ。手元にあると伝えたままだったから」

 

差し出された袋を受け取る。

中には一冊の本と、小さな紙袋が入っていた。

 

「こっちは?」

「下の店で買った。何か食べられるようになったと聞いたのでね」

 

パンだった。

沙代は袋の中を見たまま、一瞬黙った。

 

「……お金、払います」

「本は貸すだけだよ。パンの代金なら…ーー次にお茶を飲む時にでも」

「分かりました」

 

顔を上げると、槙島は部屋の奥へ視線を向けていた。

扉の隙間から、窓際のソファと、テーブルの本が見える。

 

「もう読んでいたんだね」

「少しだけ。あの……」

 

沙代は身体を横へずらした。

 

「お茶、飲んでいきますか?」

 

槙島の視線が戻る。

 

「疲れない?」

「お湯を沸かすくらいなら、大丈夫です」

 

彼は少しの間、沙代を見た。

 

「では、少しだけ」

 

 

*

 

 

人を家に上げるのは、久しぶりだった。

どこへ座ってもらえばいいか迷い、ソファの上の膝掛けを畳む。

槙島はその横で、壁際の小さな棚を見ていた。

絵本と、緑色の短編集。それ以外には、まだほとんど本がない。

 

「これから増えるのかな」

「……気に入るものがあれば」

「いいね」

 

湯が沸く音がした。

 

沙代はカップを二つ用意した。

一つは普段使っているもの。もう一つは、棚の奥にあった白いカップだった。

 

「砂糖、いりますか?」

「そのままで」

 

紅茶を注ぎ、テーブルへ運ぶ。

槙島は沙代が座ってから、カップに手を伸ばした。

 

「ここで読んでいるんだね」

「はい。明るいので」

 

窓のそばへ目を向ける。

今日は日が差していて、テーブルの端まで温かかった。

 

「この前、声で読んでもらったところも読み直しました」

「覚えていた?」

「少しだけ。内容より、声のほうが」

 

言ってから、変な感想だろうかと思った。けれど槙島は、続きを待っていた。

 

「自分で読む時と違って、勝手に先へ行けないんですね」

「読んでいる人の速さになるからね」

「はい。いつもなら戻るところでも、そのまま聞いていて……あとから、あれは何だったんだろうって」

 

槙島はカップを置いた。

 

「不便だった?」

「いえ。知らないところへ連れていかれるみたいでした」

 

彼の視線が、沙代の顔に留まる。

 

「それは、怖くなかった?」

 

沙代は考えた。

聞いていた話は、知っているものだった。眠ってしまっても、困らなかった。

 

「どこまで行くか、知ってたので」

「初めての本だったら?」

「……少し、怖かったかもしれません」

 

槙島は頷いた。

何を思ったのかは、分からなかった。沙代は袋から、新しい本を取り出す。

 

「でも、これは自分で読みたいです」

「うん」

「手紙が間違って届くんですよね。誰に届いたのか、早く知りたいので」

「そこは、すぐ分かるよ」

「その後が困るんですか?」

 

彼はわずかに笑った。

 

「読んでみて」

 

沙代も笑い、本を膝に置いた。

テーブルの上には、二人分のカップがある。

いつもより置く場所が狭くなっていた。

でも、そのことを不便だとは思わなかった。

 

*

 

槙島は紅茶を飲みながら、窓際の棚へもう一度目を向けた。

火災の記録に書かれていた家とは違う。

彼女が一人で暮らしている、今の部屋だった。

ここで何を読み、どんなことを考えていたのか。

届いた短い感想の向こうに、ようやく場所ができた。

沙代が、本屋の袋からパンを取り出す。

 

「半分、食べますか?」

「君の分として買ったんだけれど」

「二つあるので」

 

槙島は差し出された皿を受け取った。

 

「では、一つ」

 

彼女はもう一つを自分の皿へ置いた。

その手つきを眺めてから、槙島はパンを小さくちぎった。

 

 

 

 

パンを半分ほど食べたところで、槙島が壁へ目を向けた。

 

「この部屋は、ホロを使っていないんだね」

 

沙代もつられて振り返る。

淡い色の壁に、窓から入った光が差していた。

 

「はい。前は、少し変えてみたんですけど」

「どんなふうに?」

「花柄にしたり、窓の外を海にしたり。きれいだったんですけど……消した時に、ほっとしたので」

 

槙島はカップを持ったまま、続きを待っていた。

 

「それから、使わなくなりました」

「何が違ったんだろうね」

 

沙代は部屋を見渡した。端の少し欠けたテーブル。

畳みきれていない膝掛け。棚には、まだ本が二冊しかない。

飾るなら、もっときれいに見せられる場所はいくつもあった。

 

「何がどこにあるか、そのまま見えるほうが落ち着くんだと思います」

「見えなくなるものがあった?」

「……傷とか。壁の色も、どれが本当だったか、たまに忘れちゃって」

 

大したことではない。

設定を戻せば、すぐに分かる。けれど、そのひと手間がなくなった時、思った以上に楽だった。

 

「ここ、少し色が違うんです」

 

窓の近くを指さす。

 

「夕方は、あそこだけ黄色くなるんですよ」

 

槙島が目を向けた。

今はまだ、薄い日差しが壁を明るくしているだけだった。

 

「毎日?」

「晴れてれば。最初は壁の色だと思ってました」

「時間が変わると、消えるんだね」

 

沙代は頷いた。

 

「同じ部屋でも、結構変わるので。今は、それでいいかなって」

 

彼は紅茶を一口飲んだ。

 

「なるほど」

 

それ以上、良いとも悪いとも言わなかった。沙代は少し気になって、尋ねる。

 

「槙島さんの部屋は、どんな感じですか?」

「本が多いよ」

「それは、なんとなく分かります」

 

彼の口元が緩んだ。

 

「ほかに知りたいことは?」

「……全部、読んでるんですか?」

「読んでいない本もある」

「買ったのに?」

「買った時と、読む時は別だからね」

 

今日借りた本も、いつ読み終わるかは分からない。

前なら、それを少し申し訳なく思っていた。

 

「本棚にあるだけでも、いいんですね」

「読むものが残っているのは、悪くないよ」

 

彼は壁際の棚を見た。

 

「君の棚にも、もう一冊増えるね」

「これは、借りてるだけです」

「置く場所は必要だろう?」

「……そうですね」

 

沙代は笑って、食べ終わった皿を重ねた。

立ち上がった時、足元がわずかに頼りなくなった。

ソファの背に手を置く。槙島はその動きを見ていた。

 

「片づけは、あとでもいいんじゃないかな」

「でも、お皿だけなので」

 

彼は自分の皿を、テーブルの奥へ寄せた。

 

「ここなら邪魔にはならないよ」

 

沙代は皿を持ったまま、少し迷った。

それから、彼の皿の隣へ置く。

座り直すと、思っていたより疲れていたことに気づいた。

 

「……まだ、いつもどおりにはいかないですね」

「退院したばかりだからね」

 

沙代は膝の上の本を見た。槙島はカップを置き、端末で時刻を確かめた。

 

「今日は、この辺にしておこう」

 

沙代は時計を見た。

引き止めるつもりはなかった。

ただ、まだ聞こうと思っていたことがあった。

 

「あの、一つだけ」

「何かな?」

「この間、病院の椅子でも、本があれば落ち着くのかなって思って」

 

彼はすぐには答えなかった。

沙代は膝の本を撫でる。

 

「私、知らない場所だったので。起きた時にこれがあって、ちょっと安心したんです」

「僕の場合は、場所を忘れることもあるかな」

「読むのに夢中になって?」

「ああ」

「……じゃあ、待ってた時間、長く感じませんでした?」

 

槙島は沙代を見た。

沙代は眉を少し下げて、返事を待った。

 

「君は、それが気になっていたんだね」

 

沙代は小さく頷いた。

 

「自分では、ほとんど寝てたので」

「途中で、君が起きたからね。ずっと同じ時間ではなかったよ」

 

長くなかった、と言い切られたわけではない。

でも、その答えは受け取れた。

 

「……そうですか」

 

彼は立ち上がった。

 

「本は、返すために急いで読まなくていい」

「はい」

「読みたくなくなったら、そのまま返しても構わないから」

 

沙代は表紙を見てから、顔を上げた。

 

「今は、読みたいです」

「では、そのつもりで」

 

 

*

 

 

玄関まで見送ると、槙島は靴を履いてから振り返った。

 

「次に会う時は、もう少し歩けるかな」

「たぶん。どこか行くんですか?」

「本屋でもいいけれど。君がよければ、別の店も見てみよう」

 

知らない本屋。

沙代は、最初にあの路地で迷った時のことを思い出した。

 

「今度は、道を教えてもらわなくて済みますね」

「一緒に行けばね」

 

彼は扉を開けた。

 

「はい。パンも、ありがとうございました」

 

槙島が頷き、廊下へ出る。

扉を閉じてから、沙代はソファへ戻った。テーブルには、二つのカップと皿が残っている。

少し休んでから片づけよう。

借りた本を棚へ置くと、三冊になった。

 

背表紙の高さも、色も揃っていない。

沙代はその並びを眺めてから、膝掛けを広げた。

 

 

*

 

 

 

建物を出た槙島は、歩きながら端末を開いた。

グソンから、戻る時刻を尋ねる連絡が来ていた。

 

『予定どおり戻るよ』

 

今回は、延ばさずに済んだ。

信号の前で足を止める。

窓際の壁が、夕方には黄色くなる。彼女はその変化を知っていた。

家の記録には書かれていなかったことだった。

信号が変わる。

 

槙島は端末をしまい、人の流れと一緒に歩き出した。

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